武田氏滅亡の原因は浅間山の噴火による被害なのか?
さて、最近だが氏が持ち出しているこの件だが、まずどこから情報を持ってきたのだろうか?
筆者はそれはウィキペディアであると確信する。
だが氏がこの問題を言うようになった時期は、僭越ながら筆者がウィキペディアの「武田勝頼」にこの情報を書き込んだ時期より後だからである。
筆者がこの件について知ったのは、平山優の「天正壬午の乱」を読んだ時である。
この本の初版は2011年3月1日。
筆者がウィキに書き込んだのが2011年7月28日。
そしてだが氏の初・浅間山ネタはおそらく、2011年11月23日のこれ。
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな
594 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/23(水) 13:03:18.10 ID:9vNRn5sQ
浅間山噴火で甲斐や北信濃が混乱して
木曾攻め中止し勝頼が本国に帰らなければ
織田なんて粉砕してた。
いつの時代も天変地異で弱体化したら脆い。
早雲の伊豆侵攻も東海大地震で大津波が伊豆を襲い、
余震が続き混乱していた隙を突いたもの。
実はこれ以前にも浅間山に関するレスはあるのだが、内容からして、明らかにだが氏とは別人だろう。
天正10年の武田攻めを語るスレ 3
240 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/26(日) 18:17:37.50 ID:gaC6JBbb
どちらにしても武田は詰みだな
・北条との手切れ
・北条への対応で高天神への後詰もできず
・朝敵指定
・浅間山の大爆発
すべてがからんで滅ぶべくして滅んだ
243 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/26(日) 19:09:08.11 ID:gaC6JBbb
浅間山の噴火と凶事を結びつけ、武田家の命運もこれまで
と誰もが思っていたみたいな状況だったとのこと
一応、だが氏もこの本を購入して読んだのだ、という線も考えられるが、これまでの行動からして
その確率は低いだろう。
さて、ここからが本番、噴火の規模についてである。
だが氏は「武田は噴火の被害を処理するのに忙しくて何もできなかった」「信長公記はこの事実を隠蔽している」
などと主張しているわけだが、これは事実なのだろうか?
まずは前述の平山氏の本から引用してみよう。
いっぽう、武田攻略の主将を命じられた織田信忠は、2月11日に岐阜城を出陣し、14日に岩村城に入って滝川一益ら諸将の集結を待った。
そのうえで、信濃侵攻の先陣として滝川・河尻・毛利長秀・水野監物・水野忠重らを指名した。
ところがこの日、小笠原信嶺が織田方に降伏することを表明した。
信嶺は、武田逍遥軒信綱の息女を正室としており、武田氏の有力国衆であった。
信嶺の寝返りは伊那の武田方に深刻な動揺を与えた。
怒った勝頼は、人質としていた信嶺の祖母を交付で処刑したが(『開善寺過去帳』)、動揺は収まらず、飯田城に籠城していた坂西織部亮・保科正直・小幡因幡守らも夜に入って逃亡した。
『甲乱記』によると、逃亡のきっかけは自焼きした城下の余燼を織田軍の鉄砲の火縄の小火(ぼや)と誤認したためと記録されているが、この日の晩、浅間山も大噴火を起こしている(『多聞院日記』『晴豊公記』『立入左京亮入道隆佐記』<『立入宗継記』>、フロイス『日本史』等)。
この噴火は天空を紅く染め、京都や奈良でもそれが観測された。
そして平山氏は噴火の心理的影響についてこう分析する。
当時の人々の間では、甲斐・信濃などの東国で異変が起こる時には、東国では浅間山が噴火すると信じられていた。
またこの前後に観測されていた大風や風雨、霰(あられ)を始め、空に火が飛ぶ現象はすべて浅間山噴火と結び付けられて解釈され、これらは天皇の祈祷により、信長に敵対する勝頼を守護する神々がすべて払われてしまった結果であって、さらにこの噴火は一天一円が信長に随(したが)うようになる前兆だと噂された(『多聞院日記』)。
甲斐・信濃の異変と、東国の政変を告げる浅間山の噴火は、まさに武田勝頼没落と信長の勝利を告げる天変地異と受け止められた。
当時の人々に、浅間山噴火は東国異変の象徴との認識が浸透していたとしたら、武田氏の家臣たちはもはや天に見放された勝頼を支えようとはしなかったであろう。
火山の噴火は自然現象であるとはいえ、それは織田軍が本格的に信濃に足を踏み入れたまさにその日に起こったのであり、それはあまりにもタイミングが良すぎた。
すでに、前年の高天神城陥落の余波で勝頼の求心力は低下しており、さらに織田氏から武田方諸将への調略が開始されていたところへ、木曾氏の謀反と織田軍の侵攻が開始され、また天皇をはじめとする皇族や貴族たちも、勝頼を「東夷」「朝敵」と指弾して「御敵退散」の祈祷を行っていたため、武田方は動揺していた。そこに加えて、実にタイミングよく浅間山が噴火したのであれば、もはや家臣や領民が勝頼を支えようとはしなかったのも肯(うなず)けよう。
勝頼は天運にも見放されたのである。
つまり、これ以前に武田氏は、武田家臣や領民が「このままいくと武田は滅亡かも」と思ってしまうほどに追い詰められており、そこへ浅間山噴火の心理的影響が追い討ちをかけた、というわけである。
一方、平山氏は噴火の物理的な被害については何ひとつ書いていない。
おそらくそういった事が書いてある史料はなかったのだろう。
結論は出てしまったが、もう少し話を続けてみたい。
平山氏が挙げた史料のうち、ルイス・フロイスは実に参考になることを書いてくれている。
以下、『フロイス日本史』からの引用である。
※日付が違うのは使用している暦が違うためである
この1582年の3月8日の夜の10時に、東方から空が非常に明るくなり、信長の最高の塔(安土城天守閣)の上方では
恐ろしいばかり赤く染まり、朝方までそれが続いた。
この明るさも赤さも、はなはだ低そうに見えたので、同所から20里はなれたところでは見られなかったであろうが、後になり、
豊後国でも同様の兆候が見受けられたことが判明した。
我らは、信長がこの恐るべき徴候をなんら意に介さずに出陣するのに接して驚愕したが、かの地でその軍勢は順調な成果を上げるを得た。
すなわち彼は甲斐の領主親子を討伐し(以下省略)
ポイントを挙げてみよう。
1、「火山が噴火した」とは一言も書いていない。
フロイスは火山の噴火を見たことがなかったために噴火だと認識できなかった、という事も考えられるが、それでも
「火が上に向けて飛び散った」といった記述もない。
ただ「空が赤くなった」というのみである。
2、「この明るさも赤さも、はなはだ低そうに見えた」。
3、しかし「豊後国でも見えた」(豊後には教会があり、宣教師と大勢の日本人キリシタンがいた。後で彼らから聞いたのだろう)
1、2の点からは、噴火の規模が小さかったように思える。
しかし3では、九州の豊後からも見えたという。
どちらなのか?
それを考察する前にもう一つだけ、やや曖昧な話だが別の証拠を提出したい。
私の戦争体験
http://www.kodairatoumonkai.com/nazca/watashi_nosensoutaiken.html
>大空襲の日、私は佐久の疎開先にいました。
>この夜のことは、毎年「陸軍記念日」のイベントとして行われていた群馬・長野県境の
夜行行軍に参加した友達の中学生から
「東京の方向の空が真っ赤になっていた」と聞きました。
>佐久にいた私自身、東京方向の夜空が紅色に染まっていたのを憶えています。
東京大空襲の炎は長野県の佐久からでも見えたというのだ。
ちなみに筆者の祖母もこれに近い話をしてくれたことがある。
祖母の家は栃木にあるのだが、以前筆者に「東京大空襲の日、ここからでも東京の方の空が 赤くなっているのが見えた」と
語ってくれたことがある。
次に炎の高さについてだが、当時の東京は高層建築などほとんどなく、平屋建てばかりだ。
ウィキペディアの「東京大空襲」のページによれば、煙は高度15000mまで立ち上ったというが、炎の高さは数十メートルがせいぜいであろう。
それでも100km離れている長野・栃木からは空が赤くなって見えたのだ。
しかるに、浅間山の標高は2568m。
そして気象庁のサイトによれば、有史後の活動はすべて山頂噴火だという。
つまり武田攻めの時も約2500mの山頂付近から噴火したはずなのだ。
気象庁の浅間山のページ
http://www.seisvol.kishou.go.jp/tokyo/306_Asamayama/306_index.html
東京大空襲の炎をかなり大きく見積もって、仮に地上300mまで上がっていたとしよう。
浅間山の噴火は2500m以上だから、「赤い光」はその8倍以上遠くから観測できるということになる。
東京~佐久の100kmの8倍、800kmの地点からも見えるということだ。
ならば浅間山から700km離れた豊後国で、「赤い光」が見えてもおかしくない。
結論:浅間山噴火による直接被害は、おそらくほぼ無かった。
最後に、太田牛一はなぜ噴火の事を書かなかったのかについて考えてみたい。
これはもう推測するしかないのだが、フロイスの以下の話がヒントになりそうである。
彼は前述の「空が赤くなった」話の少し後にこう書いている。
5月14日、月曜日の夜9時に一つの彗星が空に現れたが、はなはだ長い尾を引き、数日にわたって運行したので、
人々に深刻な恐怖心を惹起せしめた。
その数日後の正午に、我らの修道院の7、8名の者は、彗星とも花火とも思えるような物体が、空から安土に落下するのを見、この新しい出来事に驚愕した。
ところでこれらの徴候を熟慮する者ならば、それらが驚嘆すべきもので、別の出来事の前兆として恐れずにはおれぬはずであった。
だが日本人の間では、こうした吉凶占いはあまり行われておらず、それらが本来何を意味するか気づきも考えもしないようであった。
が、信長公記では4月11日に信長が安土に帰還した後、5月11日まで飛んでしまい、4月22日の記述はない。
彗星の話も出てこない。
信長と同じく、太田も気にしなかったのだろうか?
しかしこれ以前、太田は彗星について書いたことがある。
天正5年(1577年)9月29日、「戌の刻、西に当りて希にあるの客星、ほうき星、出来なり」
そして太田は松永久秀が自害したこととこれを関連づけ、
「客星出来、鹿ノ角の御立物にて責めさせられ、大仏殿炎焼の月日時刻易らざる事、偏に春日明神の所為なりと、諾人舌を巻く事」
と書いている。
という事は、おそらく天正5年の太田はこういう事を気にしていたが、天正10年の時点では信長にならい、気にしなくなっていたのだろう。
ここまで読んでくれた人、ありがとうございました。
最終更新:2012年05月18日 00:55