ここではだが氏の言う「浅井は信長が家臣扱いしてきた事に怒って離反した」という説について考察する。
322 : ななしのよっしん:2012/11/05(月) 09:02:50 ID: 96muxpUGdz
321
織田信行に関しては上記のとおりですし
織田信友に関しては殺した下手人がそのまま信長に仕え続けてる状態ですし
本願寺顕如に関しては「織田が難題言ってきてもう我慢の限界」といって
挙兵に踏み切ってますし、
浅井長政に関しては同盟結んでから信長上洛までずっと信長を援護してきたのに、信長上洛後にいきなり家臣扱いされた事で離反してます
朝倉義景に関しては信長からいきなり上洛と服従を要求されて
「どうせ信長の事だから散々こき使われて使い捨てにされる、それどころか今回の義景様が上洛したら謀殺する気かもしれない。それよりは
戦った方がいい。」という意見が主流を占めた関係で戦いになってますし
武田信玄に関しては信玄が進めていた勝頼への官位叙任と
将軍からの一字拝領運動を信長に潰されたのと東美濃の帰属問題で敵対に
つながってます
上杉謙信に関しても途中までは丁重にしてましたが、長篠勝利の後から
謙信を無視して関東の豪族たちと連絡を取り合うようになり、
関係がこじれていってます。
以上のように、信長と敵対した大名は大抵の場合、
信長の行動を原因として離反に至ってます。
これは単なる史実ですが、これがどうかしましたか?
345 : ななしのよっしん:2012/11/15(木) 06:09:20 ID: 96muxpUGdz
337
北陸一向宗と謙信は昔からの敵同士で積極的に戦ってますよ
そんで、謙信のおかげで長篠では武田は兵力一万以上を本国に残して
織田徳川は兵力で大きく優位にたてたのに何をいってんですか
もともと長篠終了後は謙信無視して関東衆と直接交渉初めて
ないがしろにしたの信長ですし
それは貴方でしょ
遠山直廉はおろか、
岩村遠山はれっきとした武田に属して長い歴史もってますよ
飯狭間の遠山は勝頼に攻略されちゃいましたね
唯一どころか、信長の名分なんて真っ黒だらけですよ
浅井家臣化に関しては、信長が上洛後に出した触れ状ですね
この中では、徳川は織田と対等の大名と扱われてますが
{浅井は「浅井備前」と呼び捨てで、しかも織田に従う豪族と同格位置です
信長書状でも家臣にしてやったのに、といってますしね
この考えは「織田と浅井の同盟関係は対等だった」という考えに基づいていることは言うまでもないだろう。
しかし、それは事実なのだろうか?
志賀の陣における和睦交渉から両者の関係を考えてみよう。
10月20日 朝倉義景→織田信長 朝倉が「無事」を提案。信長は「御一戦の上にて~」と拒絶 (信長公記)
10月21日 浅井長政→織田信長 長政が「詫言」。信長は「同心なし」 (尋憲記)
11月28日 織田信長→ ? 「勅宣により和談」。五ヵ条 (奥野高広「血は水より濃し」、日本歴史524号所収)
12月2日 二条晴良→朝倉・延暦寺 北近江の所領分割と人質交換に合意。延暦寺は不同意。 (尋憲記)
12月9日 天皇→延暦寺 山門領を安堵 (伏見宮記録)
12月10日頃 足利義昭→延暦寺 義昭の御内書・天皇の綸旨・信長の起請文に延暦寺が同意 (尋憲記)
12月12日 織田信長→足利義昭 延暦寺との「無事」を約束 (伏見宮記録)
12月13日? 織田信長→朝倉義景 ※
12月13日 朝倉義景→織田信長 「上位」により「別心疎略」なし (尋憲記)
同上 織田信長→朝倉義景 お互いの重臣の子弟を人質にして、15日に退陣のこと(尋憲記)
12月15日 朝倉義景→延暦寺 勅命・上意と信長誓約に対し、疎略なし (伏見宮記録)
(歴史読本2011年7月号 桐野作人氏の研究をもとに作成)
問題は※の、12月13日のものと推定される信長の起請文の内容である。
元亀元年十二月、於坂本、義景・織田入魂之聨盟
零社起請文前書之事
一、山門之儀、同寺務など可為如佐々木定頼之時事、
一、対浅井備前守非分之儀一際不可有之候、就其卒尓之事相定上者、聊不可有相違候様、横山 肥田十日内可有破城、
并佐和山表陣取同前可引払之事、
一、江州中、義景 長政 味方軍、身上 領地不可有相違事、
一、対小坂不可有遺恨事、
一、対義景自今已後、深重可申談事、
右、為 上意申談上者、条々表裡 抜公事毛頭不可有之候、万一於相違者、零社起請文
御罰深厚可蒙罷者也、仍前書如件、
元亀元年午庚十二月 信長
朝倉左衛門督殿
大事な点だけ解説しよう。
まず2条目、浅井との和睦はここに書いてあるのみで、署名しているのは朝倉だけである。
浅井と朝倉が対等だというなら、両者が連署で署名していなければならないはずだ。
次に3条目。近江には義景の領地もあったというのである。
朝倉の本拠地・越前との位置関係、信長がこの戦いで領地を失っていないことを考えれば、この朝倉領は北近江にあったと考えるしかない。
「尋憲記」の12月22日条では、交渉中に浅井の領地が北近江のうち3分の1ほど、信長が3分の2ほどに決まったとある。
北近江は伊香・浅井・坂田の3つの郡で成り立っており、長政はこのうち約3分の1、さらにそこに朝倉領もあったとなると浅井氏の力は非常に弱いものだったと推定される。
さらに、志賀の陣で長政が出した禁制には「仍執達如件(よってしったつくだんのごとし)」という普通、家臣が書く文言があり、長政は義景の奉行的立場だったのではないかと推測されている。(小泉義博「朝倉義景と景鏡の感状」、『武生市史編さんだより』26号)
少なくとも朝倉に比べて浅井の立場がかなり低いものだったことは間違いないだろう。
こうなると自然、織田との関係も対等だったのかという疑問が出てくる。
実はそうでなかったという史料は存在する。
浅井三代記には「信長卿の御妹おいち殿を娘分(養女)になされ~」とあり、
織田系図では信長のいとこの娘としている。
つまり信長が長政を家臣扱いしているのは実際そういう関係だったからで、浅井は朝倉・織田の両属的状態にあったと考えられるのである。
最後に、なぜ浅井が朝倉についたかについてだが、「安土創業録」には長政の嫡子・万福丸が越前に人質として送られた、とある。
信長としては格下の相手に一門の娘を嫁がせてやったのに、生まれた息子を朝倉に送られてしまったわけである。
その上、姻戚関係を破って浅井が敵対したものだから、信長は周囲にしめしをつけるためにも浅井家を滅ぼさざるをえず、(平清盛の先例からして)万福丸も殺さざるを得なかった。
2度も謀反を起こした信行(信勝)の息子・津田信澄を重用した信長である。
長政の行為がいかに信長を怒らせたか、想像に難くない。
髑髏をはくだみにする事にどういった意味があるのかはともかく、信長が彼らに怒りを持っていたことは間違いないだろう。
最終更新:2012年11月16日 23:20