桶狭間の戦いは今川の勝利
395 :人間七七四年[sage]:2011/12/15(木) 17:37:07.28 ID:dRX6uR2j
桶狭間の戦い直後から翌年にかけて
今川が家臣にかなり感状を出してる。
あきらかに桶狭間の戦いは今川の勝利。
織田はまったく感状を出していない。
義元が病かなにかで死去して撤退しただけ。


影武者 織田信長
393 名前:名無し曰く、 [sage] :2013/01/25(金) 18:38:47.21 ID:FajTfCBr
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。

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最終更新:2013年02月06日 12:49