【宿直室】その1「問竜尋火」



 本来、東洋における蛇とは、水と交わりの深い生き物だ。

 もとは、野鼠を捕食する“田を守る益獣”であったこと、或いは形状が男根に似ていることから種神、すなわち穀物の豊穣を司る神と同一視されたことが、その根底にあったとされている。やがて、雨乞いの儀などに益神として祀られると、彼らは水神としての信仰を受けるようにもなった。

 対して、火と交わるのは西洋の蛇だ。或いは、ドラゴンと呼ぶべきか。

 毒、炎、汚物を撒き散らすモンスター。東洋の竜が翼も持たずに天を翔けるのに対して、こちらは翼竜、もしくは愚鈍そうな姿で地を這うワームだ。前者が超自然的な存在であるのに対して、こちらはその見た目にも、脅威としての物理的な説得力を求められた。

 何故なら、かの高き耶蘇教にとって。
 夷狄とは、言葉の通じない怪物だったからだ。

 相互理解の及ばぬ蛮人、人に化けた怪異。
 それが、異教の悪徒を駆逐する大義名分として、都合が良かった。
 後に、聖人と語られる西洋の諸人に、怪物退治の逸話が多いのはこのためだ。

 さて、“大蛇の舌”と語られる遠上の巫女の特徴を見るに……

 君たちは、むしろ後者。西洋の竜に近い存在だね。




 ああ、そうだ、遠上多月

 私は、君に話しかけているよ。




 話を戻そう。

 なぜ、日本の辺境の一族である遠上氏に、西洋の竜の特徴が交わったのか、だ。




 君は、蛇婿入りと呼ばれる民話の類型を知っているかな?
 その名の通り、蛇が人間の男に化けて、娘を娶ろうとするお話だ。

 私は、常々疑問だった。

 なぜ、動物である彼らが、人間の雌を嫁に欲しがるのか。
 だって、おかしいだろう。逆はまったくありえない。

 …いや、それは特殊性癖だから、考慮に入れないよ。
 なんでそんなマイナーな性癖に造詣が深いのさ。


 ごほん。


 ともかく、おかしいと思っていたんだ。
 話によっては、蛇の子どもを身籠ることさえあるんだよ。

 これは、絶対にありえない。

 百歩譲って、人間に異様に懐く蛇がいたとしよう。
 発情期を迎えて、その人間を孕ませようとアプローチをかけるのも…
 まあ珍しいけど、実例がないわけじゃない。

 だが、子どもを身籠る、というのはおかしい。

 同じ哺乳類でさえ、異種間の子どもを作るのは難しいんだ。
 私も詳しくはないけれどね。

 それでね、この蛇婿入りの妊娠で、殊更に興味深いのは…


 実際に、娘が蛇の子どもを産むことは、ないんだ。


 親類縁者か、地方の有力者か。
 いずれかの入れ知恵で、出産前に堕胎させられる。

 異種間交配によって生まれた赤子は、それだけ禁忌だ、ということかな。



 そろそろ、どうして君をこの部屋に監禁しているのか、想像がついた?

 ふふ、ふふふ。



 どこまで話したっけ。あ、そうそう。
 蛇婿入りで、娘が妊娠するのは何故か、だったね。

 結論から言うとね、私は…

 その答えが、遠上の巫女なんじゃないか、と思ったんだ。

 君たちのご先祖、ええと、始祖の巫女様っていうんだっけ。
 まつろわぬ民の扇動者として、朝廷によって征伐されたっていう。


 なんで?


 どうして、遠上氏は言葉の通じない蛮人と定められた?
 どうして、遠上家の異貌は東洋の大蛇ではなく、西洋の竜に近い?
 どうして、蛇婿入りという歪な異類婚の民話が生まれた?
 どうして、蛇の子どもを身籠って、その後に堕胎するような…


 君の瞳の色、近づいてよく見ると、灰色のようで少しだけ、青いんだね。


 うん、もう分かったね。

 私の見立てでは、君のご先祖は、異邦人だったんじゃないかなって。


 厳密に言うなら、始祖の巫女様が外国生まれだったか…
 もしくは、外国人と交わったのか、そのどちらかだ。

 巫女ってね、西洋古代史では『神聖娼婦』と言ったりもするんだよ。
 宗教上の儀式として、売春も認められていた。
 性行為によるエクスタシーは、神秘的なものとされていたんだ。

 日本でも、よくあるよね。
 話の通じないバケモノに、人柱として村娘が捧げられるようなお話。
 あれ、基本は未通の生娘だよね。結構直接的な描写だと思わない?

 つまりね、蛇婿入りってのは、当時の禁忌中の禁忌…

 招かれざる異邦人との性交渉を描いた比喩表現、ってわけだ。

 だから、娘は妊娠した。本当は、相手は人間だったから。
 だから、堕胎がハッピーエンドだった。異邦の血が交じってはいけないから。
 だから、西洋の竜の要素が混入した。水を司る神聖な蛇神ではなく。
 だから、禁忌を冒した遠上の巫女は、人に化ける異形の怪物ということに…


 でね、気になったんだよ。どっちなのかなって。

 つまり、君のご先祖が異邦人だったのか…
 それとも、異邦人に捧げられた生贄の少女だったのか。


 もしも後者だとしたら…
 遠上の本来の魔人能力って、やっぱり煽動ではないんじゃないかな。

 自説を翻すようだけど、西洋人と交わっただけでドラゴン化って…
 無理筋ではないけど、論理の飛躍がないでもない。

 けどね、もし遠上の本来の能力系統が、今の君の能力…
 つまり、現実改変の方にあるのなら、そこまで不自然じゃないんだ。
 認知改変はそれが発芽する前のつぼみ、不完全な顕現ってことになる。

 君のご先祖、始祖の巫女様の能力は…

 男とまぐわうことで、相手の特徴を食らう能力だったんじゃない?
 それならさ、売春行為ってむしろ都合がいいじゃない。

 自分の因子を書き換える… 私の能力と、ちょっと似てるよね。


 ま、これは監禁の理由とは、あんまり関係がないんだけど。

 というか、この宿直室に連れ込んだ時点で、私の目的はほとんど達成してるんだ。
 今話して聞かせたのは、なんというか… 好奇心?


 宿直室にはね、バケモノがいるんだよ。


 いや、違うよ。外見のことじゃないよ。
 確かに、好ましい容姿とは思わないけど。
 君、結構失礼だね。私が言われたら泣くよ、それ。

 ともかく、混乱を避けるために、表沙汰にはなってないんだけど…
 姫城学園では、何度も性被害が起きている。

 しかも、被害者の殆どは、被害を受けた自覚がない。
 盗撮だったとか、マッサージみたいなグレーゾーンだとか、そういうんじゃないよ。

 十人が十人、口を揃えて「性的被害」と証言するほどの惨状。
 にも関わらず、本人だけが、それを理解していなかった。

 もしかしたら、今もたぶん…
 自分が被害者だと知らずに学園生活を送っている生徒が、何人もいるのかも。


 種付豚男、って知ってる?


 名前じゃ分からないか。用務員さん、の方が伝わるかな。
 彼はおそらく、かなり限定的で強力な、現実改変の能力者だ。

 …具体的に、どんな能力かって?
 あのね、私にも羞恥心ってあるからね。察してよ。
 いや、うん、まあ… そうだね、そういうこと。

 で、さっきここは宿直室って言ったけど…

 私にとっては、焼却炉なんだ。邪魔なゴミを燃やすための。

 君も、今日、実感したでしょ?
 自分以外にも現実改変能力者がいると、ややこしいことが起きるって。

 この旧校舎の宿直室は、用務員さんの宝物庫だ。
 彼しか鍵を持っていないから、都合が良いんだね。

 棚の裏やベッドの下に、色んなものが隠されてる。


 …何って? いや、だから察してよ。

 うん、まあ、そうね。
 被害者を脅すための、そういう写真とか。
 後は、アダルトグッズ、ってやつなのかな。

 えっ、いや、名称までは… ちょっと待って。やめよっか、この話。

 お互いに未成年でしょ。
 そこまで知ってるのはマズいって。聞かなかったことにするから。


 で、金曜日の放課後、生徒が校舎からいなくなると…
 必ず、この部屋にやってくる。なんのために、というのは分からない。

 さて、両手足を縛られた美少女が、自分の秘密の部屋に転がっていたら…

 用務員さん、どうすると思う?
 私だったら、無事では帰さないなぁ。二つの意味で。

 大衆扇動、現実改変。どっちもおっかない能力だけど。
 独りぼっちで身動きも取れなきゃ、何も出来ないね。


 それでさ、さっきの好奇心の話に戻るんだけど。


 もしも、始祖の巫女様が、まぐわった男の特徴を食らう能力者だったなら…


 始祖の巫女様を超える、とまで言われた最高傑作の女の子が、


 バケモノに犯されたら、いったいどうなるのか。




 ちょっと、見ものだよね。




◆◇◆◇




 鮫氷しゃちが登校してきたのは、遠上多月がチェーンメールを受信した、その翌日のことだった。


「ちょっと、しゃち〜! 昨日、既読無視したでしょ」
「ごめん、美化委員の手伝いが…」
「また後輩ちゃん?」
「もー、汚れちゃってたいへんだったよ」
「返事できないくらい忙しい仕事ってなに?」
「ん? うーん、そうね…ちょっとよく覚えてなくて」
「うぉい、言い訳下手くそ! やっぱ既読無視じゃん!」

 教室の隅、お決まりの場所で盛り上がる五人組。

 遠上多月は、その一団を呆然と眺めている。
 やがて、視線に気付いたグループの一人が、申し訳無さそうに手を合わせた。

「ごめん、遠上さん…うちら、うるさかった?」
「あ… い、いや、すまん」

 一言詫びて、席に戻る。

 頭の中では、疑問符が飛び交っていた。
 その一つ一つを、努めて冷静に、冷静に整理する。


 鮫氷しゃちは、交通事故に遭って入院しているはずだ。


 生半な怪我ではない。麻酔で強制昏睡させるほどの重傷だ。
 アスファルトに顔面を削り取られ、まるで犬のように口が裂けていたという。

 これは、遠上多月の過失によるものだった。
 自身の不名誉な噂を払拭するために、“竜言火語”による改変を行った。
 その結果、気付かぬうちに成長を迎えていた能力が暴発して、歪な現実を引き寄せた。

 すなわち、姫城学区の口裂け女の正体は、鮫氷しゃちであるという現実を。

 彼女が重傷を負い、不名誉な噂で囁かれているのは、紛れもなく己の過失である。
 先々代の巫女である祖母からも、お叱りを受けた。

 つまり、彼女が当たり前のように登校して、クラスメイトたちにも普通に迎えられているというこの現状は、明らかな異常事態である。

 また、鮫氷しゃちを巡っては、もうひとつの謎があった。
 昨日、自身のもとに届いた『まどかさん』を名乗るチェーンメール。

 鮫氷しゃちが事故に遭ったのは、彼女が『まどかさん』を名乗る愉快犯だったから。
 事故によって昏睡状態にあるならば、メールを送信できるはずがない。

 しかも、その内容は。

 遠上多月の正体も、事故の真相も、すべてお見通しだと言わんばかりの語りだった。



(……待てよ、チェーンメール、 )



 はた、と思い至り、懐からスマホを取り出す。

 最後の履歴は、祖母との通話だ。
 以降、通知はない。


 チェーンメールが、消えている。


 教室に、視線を巡らせる。

 事故による重傷、昏睡状態、からの即復学。
 本来ここにいるはずのない生徒が、日常として受け入れられている。

 事故そのものが、なかったことになっているかのようだ。


(……だとすれば、おかしいのは……)




「てかさ、遠上さんって」


 名を呼ぶ声に、顔を上げる。

 と、先ほど手を合わせて詫びた女子生徒が、こちらを向いていた。


「口裂け女って言われてるけど、あれマジなの?」




 ぐゎん、と、脳が揺れる。




「ごめんね、流石にネタだと思ってるんだけど…聞かなきゃいけなくて」

 浮遊感に眩んだ己を他所に、その女子生徒は言葉を続ける。

 教室の隅、いつもの仲良しグループにいる一人。
 鮫氷しゃちを入れた五人組の、



 いや、違う。


 こんなクラスメイト、自分は知らない。



 鮫氷しゃち、彼女を中心とする女子生徒の屯。
 鴉鳥するめ、鯛釣えびな、貝割しゃこ。
 それぞれ顔も名前も一致するが、残りの一人、目の前のこいつを、自分は知らない。

 制服の裾色、言葉遣いからも、同学年の生徒ではあるのだろう。
 クラスメイトではなくとも、三年も同じ学び舎に通った同士。
 見覚えはあってもいいはずだ。

 しかし、知らない。顔も名前も覚えがない。
 だが、鮫氷しゃちの友人であるという認識だけは、残っている。

「ちょっ、どうした…?」

 横合いから、鮫氷しゃちがツッコミを入れた。
 他の友人たちも、それに続く。

「いきなり失礼でしょ!」
「てか、口裂け女ってなに?」

「いやいや、昨日までみんな…」

「滑ってんぞ」
「遠上さんに変な絡みすんなって…」

「いやいや、いやいや。ギャグじゃなくて。昨日、小テストで最下位のやつが、罰ゲームで聞くって話、したよね…?」


 不思議そうに首を傾げる少女を、遠上多月はじっくりと観察する。


 カットワークレースをあしらったナポレオンジャケット。
 高一、といっても差し支えない平坦な体型。
 自作と思しき、可憐なアクセサリー。

 特徴的な風貌だが、やはり覚えはない。
 だが、その存在に違和感を感じているのは、どうやら自分だけらしい。

 鮫氷しゃちと、同じだ。


「……ちょっと、付いてこい」

 遠上多月は、徐ろに席を立つと、見覚えのない少女の手を引っ掴んだ。

「え」
「話がある」

 有無を言わさぬ声、手首を締める強い力。
 名無しの少女は、抵抗を愚策と判断したようで、言われるがままに頷いた。

 教室の戸を後ろ手に締める際、「遠上さんマジギレじゃね…?」という声が聞こえたが、聞かなかったことにした。



◆◇◆◇



「……貴様じゃな」

 ぐぱぁ、と、大蛇の異形も隠さずに、遠上多月は牙を剥いた。

「は? は??」
「惚けるな、この姿を見ても動じぬのが、何よりの証左よ」

 姫城学園、旧校舎。
 戦時中に建てられた木造の小さな屋舎は、老朽化と生徒数の増加に伴って、学び舎の要件を満たさなくなった。現在は、グラウンドの隅に寂しく佇むのみで、古びた学習機材の保管場、不良の溜まり場、そして心霊スポットとしての役割以外、無用の建物となっている。

「……私の正体が、まつろわぬ民の巫女の末裔である、と」

 つまり、朝の始業前にわざわざ訪れる物好きはいない。
 余人に見られる心配はない、ということだ。

 感情が昂ると、己の異形を隠せなくなる。
 不都合な生態だが、脅し詰め寄る際には便利だった。

「それを見抜いて、あのようなメールを送ってきた、性悪の愉快犯。『まどかさん』を騙るチェーンメール、鮫氷しゃちに干渉した現実改変… その諸々が、貴様の仕業じゃな、と問うている」



「…………あーーー、うん。そうだよ」
「やはりか、痴れ者め!」



 遠上多月は、見知らぬ少女を痛罵しながらも、どこかで安堵していた。

 祖母から言付かった使命、姫城学園を巡る一連の怪異、その解決。
 目の前の少女は、その発端か、或いは手がかりを握っているに違いない。

 途方もない作業になることは請け合いだったが、これほど早く見つかるとは。
 願わくば、諸々の真犯人であれ、と口には出さずとも。

「お主は、 …いや、意味はないな。その正体も、動機も、どうでもよいこと」

 威容を崩さぬよう、厳かに問う。
 本心としては、頼むからさっさと応じてくれ、と縋り付きたいところだった。

「まずは、元の世界に戻せ。積もる話はそれからじゃ」
「元の世界って?」
「鮫氷しゃちが、私のせいで事故に遭った……昨日までの世界のことじゃ」
「……ふーん。ま、出来ないことはないけど」
「否が応でも。さもなくば、 」
「いやいや、やるよ、やるって。ただ、うーん… 」

 煮えきらない様子に、遠上多月は苛立ちを隠さない。

「なんじゃ、懸念か」
「私の能力、ちょっと複雑でね」
「話してみよ」
「説明しても、理解できるかどうか」
「侮るな、こちとら期末で学年三位じゃぞ」

「……分かったよ。ま、実際に見てもらうのが早いかな。えーっと、どこのポケットに入れたっけ……これはスマホ、チャリ鍵、飴玉、消しゴムの予備……」

「ドラえもんかお主は」
「ちょっとこれ、持ってて」
「ん?」
「黒糖キャンディ。あ、食べてもいいよ」
「いらん、その手の甘味は苦手じゃ」
「まあそう言わず。友好の証ってことで、受け取ってよ」
「……ったく」







「受け取ったね」


「は?」








◆◇◆◇



 姫城学園高等部一年、榑橿の魔人能力。

 その名は、詳述片某(トゥ・トゥ・パ・メ・シェリィ)。
 現実改変、或いは自己改変の能力である。

 対象の記憶、印象に基づいて、自分自身のキャラクターを変更する。
 その後、彼女の新たなキャラクターに合わせて、矛盾のないように世界が改変される。

 能力発動のトリガーは、対象にプレゼントを贈ることである。



◆◇◆◇



 つまり、この状況はね。

 二人が矛盾する内容の現実改変を行ったことで、バグが生まれてるってわけ。


 だから、周囲の記憶と私の記憶に、ズレが生じている。
 だから、鮫氷しゃちは事故に遭わず、普通に登校している。
 だから、遠上多月の正体に関する噂も、チェーンメールも消えてなくなった。

 …ま、メールが消えたからって、呪いまでなかったことになるのかは知らないけどね。

 ちなみに、前々回の世界で君にチェーンメールを送った犯人、私じゃないと思うよ。
 覚えてないから、保証は出来ないけど。
 そう、都合の良い印象を与えるためにウソをついた。
 私に代わってお詫びするよ。


 うん? ああ、そうだよ。


 今の、この私はね、君がそういう印象を抱いた通り…

 遠上多月に悪意を持つ、諸々の事件の真犯人、ということになっている。


 もちろん、君の正体や能力も、事故を起こしたことも知っている。
 だって、君がそう思ったからね。
 だからこそ、こうして君を監禁してるってわけ。

 改変前の私が、どうしてこんな悪い奴になろうとしたのか…
 忘れちゃったけど、大方の予想は付くよ。

 たぶん、こう思ったんだ。


 “厄介だな”


 同系統の能力者がいる。
 いつまたバグが起きるか分からない。
 でも、私はこの能力を好きに使って、楽しく生きていたい。

 なのに、

 どうやら遠上さんは、そうじゃない。
 何かやらかして、ひどく焦っている。

 どころか、世界を元に戻せ、なんて脅してきた。
 友好的な話し合いは難しそうだ。


 じゃあさ、先手必勝だよね。


 君を学園から排除するために、「遠上多月の正体と能力を知っている悪意の真犯人」ってキャラクターは、都合がよかった。能力を知っていれば、いくらでも対策できるでしょ? 現にほら、今の君は身動きが取れないから、噂を広められない。

 で、具体的に、どうやって学園からいなくなってもらうか、なんだけど。

 姫城学園の百余ある七不思議の七不思議、そのひとつに… え? いや、私もよく知らないけど、たくさんあるんだって。知らないよ、私が作ったんじゃないから。少なくとも、今の私じゃないね。

 ともかく、その中に『旧校舎のうめき声』ってのがある。

 放課後に忍び込んだ不良生徒が、啜り泣く女の声を聞いたんだって。
 ま、十中八九、用務員さんの仕業だろうけど。

 そうそう、察しが良いね。

 自分の秘密の部屋に忍び込んだ、身動きの取れない美少女を…
 無事な状態で帰すわけ、ないよね。

 君がどんな酷い目にあって、助けを求めて叫んでも…
 それはきっと、幽霊か何かの仕業になる。

 用務員さんなら、証拠隠滅や認知改変もお手のものだろうし…






 ところで、ひとつ聞きたいんだけど。



 どうして、君が、私の身体を縛っているの?






「そりゃあ、【『旧校舎のうめき声』の正体が、夜な夜な忍び込んで緊縛放置プレイに勤しむ不埒な変態女子生徒の声だったから】じゃな」



 あれ、そうだっけ。そうか… ちょっと待って、それ、私のこと?



「他におらんじゃろ。あ、ちょっと肘曲げて。そうそう」


 いや、ちょっと待っ… 私が、君を、縄で… あれ? 、??


「えーっと、股縄をこうして……こうか。いやすまんの、先手は打たれてしもうたが、私の能力ってば後出し有利じゃから」


 待って、待って、ストップ。

 君、縄で縛られていたよね?

 どうやって縛ったのかは覚えてないけど、そういう世界になったはずだ。


「ああ、そうじゃの。ところで、口裂け女が刃物を隠し持っていて、なにか不自然なことってあるか?」


 は? 口裂け……


「どうやら、改変前と改変後の世界で矛盾のない設定は、そのまま引き継がれるらしい。いや、この女と同じにされるのはまことに、まことに業腹なんじゃが……今回ばかりは、貴様の失言で助かった。火のない所に煙は立たぬ、と言うてな。火種になる噂がなければ、炎上させることもできん」



 い、意味が、分から……もごっ。



「ああ、もう喋らんでよいぞ。ここからは、私がネタバラシするからの。

 遠上多月は大蛇の異形を持つ、怪異殺しの怪異である。
 つまり、己自身にまつわる怪談もまた、炎上の対象ということじゃ。

 貴様が、私を口裂け女と呼んだことで…
 うちのクラスにも、噂の火種が生まれてしまった。

 後は、学園の裏サイトに、それを助長する内容を書き込むだけでいい。
 もともと口は裂けておるから、見た目はほとんど変わらんがの。
 口裂け女として語られる怪異、凶器の刃物を隠し持っていても不都合はなく。
 麻縄を断ち切る程度、わけもなし。

 で、お主がその麻縄を物欲しそうに見ているから、こうして緊縛プレイを手伝ってやっているというわけじゃ。

 まあ、問答無用で拘束されるのは想定外じゃったが…
 最近のスマホは便利じゃ、アプリで予約投稿ってのができる。

 まさか、期末で学年三位の私が、無策で真犯人に挑むと思うたか?

 あ、いや、さっきまでは真犯人ではなかったのか。
 ええい、どっちでもよい。

 ともかく、貴様が要求に応じれば、予約を取り消すつもりではあった。
 万が一、こちらの動きが封じられたり、意識を奪われたり…


 …まだ、訳が分からんと言った顔じゃな。


 ああ、いや、そうか。
 今の貴様は、私の能力を知っている。

 もしも、「噂の内容に現実を引き寄せる」のなら…

 なぜ、先んじて縛られていた遠上多月ではなく、自分が緊縛趣味の変態になるのか。
 と、いうことじゃな。


 ま、種を明かせばつまらんものよ。


 真犯人を問い詰める前に、私が書き込んだ噂は、三つ。


 ひとつは、【旧校舎のうめき声の正体】じゃな。これは、貴様をとっちめる用じゃ。

 もうひとつは、【遠上多月の正体は口裂け女】という説。敢えて自分自身を怪異と騙ることで、噂の導火線にしたわけじゃな。刃物を仕込めたのは、ぶっちゃけ計算外の幸運じゃ。

 そして、最後のひとつは、【姫城学区の口裂け女は、金曜日の夕方に市街地に出没する】。

 つまり、私は今日の放課後に、市街地に現れると決まっている。
 だから、旧校舎で緊縛放置プレイはできん。

 必定、次選の対象は、その場にいる私以外の生徒である。

 いや、しかし、噂に沿って現実を改変するとはいえ…
 まさか、他人の性癖をここまで歪めてしまうとは。
 マジで一切抵抗せんかったな。視線が麻縄に釘付けすぎるじゃろ。
 我ながらちょっと怖いわ。



 で、なんじゃったか。


 旧校舎の宿直室には、バケモノがいる、だったの。




 ふふ、ふふふ。無事で済むとよいな。

 両手足を縛られて、口まで塞がれては、能力は使えまい。

 蛇ってのは、執念深いからの。やられたことはやり返す、覚えとけよ。



 それじゃ、私、これから市街地に出没しなきゃいかんから。




◆◇◆◇






 それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。



 窓からは、夕日が差し込んでいる。

 本校舎から、何度目かのチャイムが鳴る。


 私は、足の付け根に食い込んだ麻縄のポジションをずらすのに必死で、時刻を数えることを止めてしまった。


 遠上多月によって捻じ曲げられた性癖は、かなりのものらしい。

 いや、改変されたのではなく、もともとその気があったのでは、とすら思えてきた。


 しかし、性癖を捻じ曲げられたといっても、

 種付豚男という汚物に陵辱されるのは、やはり耐え難い。


 世界を改変してしまえば、なかったことにはなるだろう。

 だが、例えば、ゴキブリを足の裏で踏み潰したとして。

 風呂で洗い流せば、嫌悪感は拭えるだろうか。





 かつん、かつん。





 響いた足音に、心臓が跳ね上がる。

 種付豚男か、不良生徒か。


 願わくば後者であってほしいが、どちらにしてもマズい。

 この姿を見られたら、私という女の、尊厳が終わってしまう。




 かつん、かつん。




 近づいてくる。

 身動きは取れない。どころか、動くほどに縄が食い込んでくる。

 いや、嫌だ。緊縛趣味はあっても、他人に見られるのは、



 かつん、かつん。



 やばい、やばいやばい、終わる終わるおわるオワル…………



 かつん、かつん。





 がちゃり。





 がらがらがら、ぴしゃん。










 種付豚男、ではない。







 不良生徒でもない。学園の指定服ではないからだ。





 宿直室に踏み入った、その女は。





 血で染めたような、真っ赤なコート。





 乱れた黒の長髪。





 そして、






 耳の根本まで覆い隠す、不自然な大きさのマスクで、口を覆っていた。







 私は、すぐその正体に気がついた。

 遠上多月だ。彼女が、私を怖がらせようと、





 そんなわけない、と、冷静な思考が否定する。




 彼女は今、市街地に出没しているはずだ。

 “竜言火語”に定められた現実改変の強制力。

 その恐ろしさは、我が身をもって体験している。



 そして、ふと思った。



 もしも、遠上多月の正体が、口裂け女ではなかったのならば。


 噂の発端は、どこにあったのだろう。


 つまり、彼女ではない、本物の口裂け女がいたからこそ、


 その正体を巡る噂が、流布されたのではないか。








 気付いた。気付いてしまった。私は、ここで、



 だって、どう言い返せばいいのかは知っているけれど、



 今の私は、言葉を発することが、できない。



 震える喉、せり上がってきた悲鳴は、猿轡によって押し留められる。



 女は、若そうな見た目には想像もつかない嗄れ声で、私に問うた。






「ワタシ、キレイ…?」









最終更新:2022年10月16日 20:40