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準決勝戦【屋上】その2「火神薄命」




【前語】


 ウィキペディア三大文学。
 ネット上の百科事典にて、堂に入った執筆によって生み出される傑作選。
 中でも、殊にその完成度を評価される、三つの記事がある。

 ひとつ、『日本住血吸虫』。

 特定の地域に伝わる奇病の正体が、寄生虫による感染症である、と。
 皮膚より体内に侵入した虫が、血管に大量の卵を産み付けて閉塞させ。
 それによって生じる多臓器不全だと解き明かした、学者たちの物語。

 ふたつ、『八甲田山雪中行軍遭難事故』。

 青森の冬山に臨んだ、旧日本陸軍の連隊。
 いずれも為す術なく猛吹雪に飲まれ、生きたまま氷漬けとなり。
 今でも、軍靴を踏み鳴らす亡霊の行進、その目撃情報が絶えぬという。

 そして、

 北海道開拓時代。
 現在の苫前町に現れた一体のヒグマが、開拓民の集落を半壊せしめた獣害。
 後に、事件を題材とした出版物の名にあやかって、羆嵐とも呼ばれている。

『三毛別ヒグマ事件』。

 それは、「穴持たず」と呼ばれるヒグマによってもたらされた。
 冬眠に失敗し、獲物のいない雪山を彷徨い、人里に下ったのだ。

 鉄や煉瓦も碌にない木家の時代。
 女子供を執拗に狙う、300kgを優に超える“災害”。
 力なき開拓民は、次々と渦中に呑み込まれた。


 だが、

 有識者をして、奥州以北に熊害の恐怖を知らしめた事件は、これではないという。


 三毛別の熊害が取り沙汰されるようになったのは。
 先述の一作、『羆嵐』の功績によるところが大きい。

 それ以前は、北海道の熊害として真っ先に名を挙げられるのは、


 札幌丘珠事件。


 これをおいて、他にはなかった。


 被害規模は、日本史上の熊害史において、四番目に位置づけている。
 三毛別の一件にも遥かに劣る、この事件が。
 人口に膾炙するに至った理由は、事件の「その後」にあった。

 明治11年。

 欧米の先進的な学問を導入すべく、政府や自治体が国外から技術者・専門家を招聘し、「お雇い外国人」として指導を任せた全盛の時代。特に名を知られている人物といえば、ウィリアム・クラーク氏だろう。現在の北海道大学の前身にあたる札幌農学校、北の大地を開墾する人材を育成すべく作られた学び舎の、初代教頭である。

 さて、札幌丘珠事件で獣害を起こした熊の射殺死体は、
 解剖の教材として、当時の札幌農学校に運び込まれることになった。

 まだ温もりさえ残る貴重な資料。
 好奇心の旺盛な学生たちは、一様に湧き上がった。

 なにせ、アイヌの猟師によれば、
 熊の赤身は、脂身の強い牛肉のような味わいがあるという。

 やがて、解剖が始まると、
 赤々とした新鮮な肉に、誰ともなく生唾を飲み込んだ。

 そして、
 悪知恵の働く一部の学生たちが、
 指導教授の目を盗み、ひと塊の肉片を、懐に仕舞い込んだ。

 咎める者など、いるはずもない。
 誰もが、その蛮行のお零れにあやかる心算だ。

 正午、

 休憩の合図と共に、廊下に飛び出た学生たちは、一斉に小使い部屋に駆け込んだ。
 狙いはもちろん、赤熱した暖炉の炭火だ。
 網をかざして、くすねた熊肉を放り投げる。

 ちり、ちり、と、肉を焦がす音、芳しさ。

 芯まで火を通す必要はない。
 知る人ぞ知る、アメリカンスタイルのミディアムレアステーキ。

 頃合いを見計らって、刃を入れる。
 ほとばしる肉汁。不味いはずがあろうか。

 銘々に、醤油や味噌麹といった調味料を付け、口に放り込んだ。


「……硬ってェ」


 みな、一様に顔を顰める。


「ぐにぐにしているな。噛み切れない」
「冬眠中だったらしい」
「それに、なんというか……ひどく臭いな」
「腐臭や獣臭さとは、また違うな」
「蝦夷マタギめ、な〜にが、脂身の強い牛肉だ」
「よせ、牛肉を食ったことがないんだよ」


 昼食を終えた教授が、実習再開の合図をする。
 彼らはいそいそと痕跡を消して、解剖室へと戻っていった。
 午後の予定は、内臓の解剖だ。

 さて、生徒たちが熊の腹膜を割り開くと、

 ずるん、と、
 裂け目から押し出るようにして、
 膨らんだ胃袋が、零れ落ちた。

 ……珍しいことではない。
 胃の内容物を消化する前に死んだ動物においては。
 消化機能が停止しており、獲物が体内で発酵しているのだ。

 メスを刺し込めば、古びたゴムボールのように、腐敗したガスが勢いよく漏れる。
 解剖担当は、はっきり言って貧乏くじだった。

 ややもすると、
 勇敢な、或いは虚勢を張った学生が、その貧乏くじを買って出た。
 わっ、と湧いた解剖室。臓腑を刺し貫く感覚など、誰も知りたくはない。



 ぷつ、


 ばふぅ、



 間抜けな破裂音。
 消化液の飛沫が飛び散った。
 まもなく、不出来で悪趣味な爆弾の中身が、排便の如く飛び出てくる。

 眼球。体毛。融けた内臓。白い骨。

 おえ、と、吐瀉の真似をするお調子者。
 口には出せないが、「肉を食った後で良かった」と誰もが思った。



 直後、

 彼らの顔色が変わったのは、



 手製と思しき刺繍の入った、赤子用の頭巾と、

 それを必死に握りしめている、

 人間の拳が、胃の中から出てきたためだった。



 はた、と気づく。

 獣の体毛、と思っていたはずの繊維。
 やけに黒くて、長くはないか。

 眼球にへばり付いた、目蓋の切れ端。
 己の肌の色と、同じではないか。


 当然だ。


 獣を食らうだけの獣を、わざわざ軍や警察が、処分に出向くはずがあるか。
 俺が殺されたのは、貴様ら人間を食ったからだ。

 愚かなり、愚かなり。

 獣の住処を奪い、敬意を忘るる、その厚顔。
 殺戮と簒奪を、開拓と言い張る、その蛮行。

 思い上がりの猿共よ。
 同胞の血肉の入り混じった、俺の味はどうだった?

 忘れるな。その味、生涯をかけて。

 獣の肉を食らうたび、何度でも思い出せ。




   札幌丘珠事件のヒグマの胃に残されていた、未消化の内容物は。
   現在も、北海道大学附属植物園にて、アルコール漬けで展示されている。



            参考:Wikipedia-『札幌丘珠事件』(一部、誇張表現を含む)



◆◇◆◇


【屋上・破】


 ぐちゅり、と、


 肚の奥に突っ込まれた黒い鼻梁が、血肉を掻き分けて内臓を漁る。
 獲物を長期保存する習性の肉食獣は、腐りやすい腹から食らうという。

 凌辱とは、必ずしも性的な要素を含まない。
 その語源は、辱めを凌ぐ。
 すなわち、過度に尊厳を貶める行為を表している。

 己の肢体を貪り食らう、黒いけだものと。
 もはや抗うことを諦めた、どこか冷静な自分自身。

 冬の屋上。
 粘つく水音。
 立ち上る蒸気。
 感覚を失った下半身が、びぐん、と律儀に跳ねている。

 まるで、無理やり犯されているようだな、と、
 ■■■■は、“他人事のように”、そう思っていた。


 ……■■■■とは、誰だったのか。


 思い出せない。
 名前がない。記憶がない。
 だから、いつまで待っても走馬灯が始まらない。

 楽しいばかりの人生ではなかったが。
 せめて終わる前に、振り返ることは許されないだろうか。

 屋上でただ一人、
 獣に陵辱されながら、寂しく逝くというのに。


 ゴリ、と、


 骨を砕く振動が、身体のうちを伝達する。
 おそらくは血の一滴、毛の一片も残らずに、
 ■■■■は、この獣に食い尽くされるのだろう。

 もはや、なぜこの獣を追っていたのか、
 どうして、為すすべもなく喰らわれたのか、
 自分でも、思い出せなかった。

 そして、誰からも忘れ去られる。
 名もなき被害者たちと、同じように。
 およそ自分がこの世にいたという、その証明が、すべて消えるというのなら、

 とても、■■■。


 ?


 ■■■、とは、■だったか。

 まさか、そんな、

 ■■を司る能力、とは■っていたが、
 感情さえも、■■てしまうのか。
 ■■■■が損なわれていく様を、■■ことさえ、できないのか。

 いやだ、

 なにか、なにか、■い出せることは、ないか。
 ■■の際に、■■■■の■■したことを、ただ■■するだけなんて、
 あまりに、■■すぎる。

 虫食いの如く、■だらけの■■を必死に漁る。
 まだ■■の損なわれていない、薄ぼんやりと■■する面影に、




―――自分のために、能力を使ったのかい




 ……いやチョット待って。

 そりゃ、なんでもいいとは言ったものの。
 今際の際にあの性悪ババァを思い出しながら逝くのはちょっと、



◆◇◆◇


【幕間、或いは遠上多月の回想】



 巫女の本来の御役は、降霊術にある。


 憑依、口寄せ、かんなぎと言い換えてもいい。
 西洋では、シャーマニズム、或いはチャネリングか。
 要するに、自我を希釈したトランス状態の肉体を……

 ま、口でどうこう言うのは簡単さ。
 だが、結局のところ、感覚で覚えるしかない。

 遠上家の女が、巫女と呼ばれるのはね。
 怪異を食らうために、まず怪異を呼び出す儀式から始めるからだ。

 で、降霊術ってのは、単に幽霊を呼び出す術じゃない。
 自分の魂を薄めることで、中身を空にした肉体の器を差し出す行為だ。

 それが、
 どれほど危険で、
 どれほど難しいことか、

 わからないとは、言わないだろうね。
 ……結構。


 いいかい、多月、

 こっくりさんというのはね、
 狐、狗、狸のそれぞれの漢字を、音読みで並べた異称なのさ。


 本来、野生に生きる動物たちに、名前はない。
 それは、死んだ後も同じことだ。
 名を与えるというのは、個としての力を与えるのに等しい。
 しかも、複数の霊魂をひとまとめに束ねて、縛っちまっているわけだ。

 この儀式を、最初に考えついたやつはね。
 天才的な心霊センスを持った致命的なバカ野郎か、

 さもなくば、
 わざと事故が起きるように手順を組んだ、悪意の愉快犯だよ。

 ……降霊術の興りは、神様のご機嫌取りに巫女の身命を捧げる儀式だった。
 だが、神様ってのは、人間の命を奪って生きているわけじゃない。
 むしろ、人間のもたらす信仰を糧にするもんだ。

 だから、供物や儀式を経て得られる信仰の糧に、対価を与えた。
 治水、豊穣。富と繁栄。健康良縁、家内安全。

 もちろん、「利益だけ受け取ってハイさよなら」なんて、罰当たりを懲らしめることはある。
 そりゃあ、当然の権利だろ?
 それでもね、理不尽に苦しめるようなことは、ほとんどしないのさ。

 つまりね、神様や精霊と交信するのは、
 実は、あんたが思っているより危険ではないわけだ。
 難易度は高いけどねぇ。


 じゃあ、

 人間を恨んでいるとしたら、神様じゃなくて、なんだと思う?


 ……良い機会だ。
 このままお勉強と行こうじゃないか。

 あんた、確か、犬が好きだったね。
 せっかくだ、犬を使った呪術を教えてやる。
 難しくはないよ、「犬神」ってもんだ。

 まず、犬を一匹、捕まえてくる。
 できるだけ、人懐っこいやつがいいね。

 そいつを首から上だけ出して、穴に埋めるのさ。

 もちろん、自力で這い出ることはできない。
 前肢の筋肉が、十分に発達していないからね。

 で、この埋め犬の目の前に、餌をおいて放置する。

 当然、手も足も出ないね。
 目と鼻の先にあるのに、犬はそのまま餓死することになる。

 その、死の間際に、首を斬って落とすんだ。

 すると、不思議なことに、
 斬り落とされた頭は、餌の方に飛んでいって、食らいつく。
 この首を媒介とするのが、犬神の術ってわけさ。


 ……ひっひっひ、ひどい顔だね。


 だが、分かっただろう。
 益をもたらすのではなく、他者を損ねるための呪法。
 それに使われるのは、いつだって動物たちだ。

 住処を奪い。
 生糧を奪い。
 敬意を忘れ、見下して。

 人間を憎まないわけ、ないだろう。

 挙げ句、その憎悪さえも利用するってんだから、つくづく人の業は深い。

 動物たちの死を、ひとつの名によって束ねて。
 契約も縛りも設けずに、先んじて利益を得る。
 その対価に、向こうが何を要求してこようと拒めない。

 用が済んだら「お帰り下さい」だって?

 あんた、好きでもない飯屋に連れ込まれて、
 料理も出されず、金だけ毟り取られて、
 お出口はあちらです、と、言われて素直に帰るのかい?

 それが、こっくりさん、って儀式の正体さ。

 降霊術としては、タブーだらけだ。
 儀式の順序もめちゃくちゃだが、最悪なのは「成立はしている」ってとこだ。

 低級の動物霊は扱いやすいからね。
 呼び出すだけなら、誰でもできる。
 参加人数が多ければ、霊媒になりやすい子がいても不思議じゃない。

 つまり、こいつは、降霊術を失敗させるための儀式なのさ。

 それを、多月、あんたね。

 曲がりなりにも、由緒ある霊能者の家系の娘が。
 ガキの遊びの一環だとしても。
 その儀式に、どれほど影響を及ぼしてしまうか、

 ちっとは考えなかったのかい。


 止めようとした? バカタレ、なお悪い。


 火事を防ぐために、全身ガソリンまみれで突撃するのと同じだ。
 何度も言うが、あんたの素質“だけ”は神代級なんだよ。
 自分でどうにかするんじゃなくて、大人を呼んで……


 ……誰だい、まこちゃんって。友達かい? ……そうかい。


 莫迦だね。
 他所の心配をしている場合か。
 ま、無事だよ。
 熱を出して寝込んでいるが、その程度だ。

 ところで、多月。
 教えた話し方は、どうしたんだい。


 男子にバカにされた?


 ああ、そういう年頃か。
 気にするなってのは、師の言葉としては、ちょいと無責任だね。
 だが、あれは巫女の修行の一環だ。
 笑われようと、嫌われようと、続けなくてはならないよ。

 降霊術ってのは、自我の希釈……自分を忘れるところから始まるんだ。
 あんたは特別、我の強い子だからね。

 だから、自分を騙さないといけないんだよ。
 老いた男の話し方を真似て、「幼い女の子」という自分自身を忘れるんだ。

 いいかい、多月。

 私たち、遠上の巫女はね、降ろすための器になるんだよ。

 何をって?
 時が来れば、分かるさ。

 ともかく、だ。
 もう二度と、こんなバカな真似はするんじゃないよ。







 分かったね。






 分かったなら、この扉を開けておくれ。






 多月?






 おばあちゃん、もう、怒ってないよ?







 おーい?






 おーーーーい?






 開けておくれよ。






 ドンドンドン、






 おーーーーーーーーい。






 ドンドンドンドン、










 おい。









 ガン、ガン、





 開けろ。




 ガンガンガン!!!




 どうした、なぜ。



 おまヱが、オレお俺を、呼んだのだろう。




 ガンガン、ガンガンガン!



 買ってに、真似いておいて、



 勝手に変えれナドと、



 ガシャン、ガシャン!!!!




「……結界を張ってある。あんたが根負けしない限り、あいつは入ってこない」




 ガンガン! ガンガンガン!!!




「まこちゃんとやらは、無事だよ。厄介なのは、あんたがみぃんな、連れて帰ってきたからね。追っ払うのは難しいことじゃないが……それじゃあ、ただ呼ばれただけの動物たちが、あまりに報われない」



 がり、



 ガリガリガリ、ガリガリ、



「あんたの躾けと、せめてもの手向けだ。向こうが諦めるまで、ここで待つんだね」






◆◇◆◇


【屋上・急】



 なんだ、貴様は。

 イオマンテは、たった今、食らっていたはずの女肉に問うた。



「……そうさの」

 腸をぶら下げながら、つまらなそうに応じる。

 首を折った。
 顔を剥いだ。
 腰をひしゃげ、足を奪い、腹を割って、臓腑を食った。

 にも関わらず、その雌は悠然と立ち上がった。
 鴉の濡羽を思わせる、黒黒とした長髪を、稲穂の如く金色に光らせながら。

「依代となった、この娘の忌み名を名乗ってもよいのじゃがな。“炎上”の“竜姫”とは、気が利いていると思わんか?」

 だが、答えが返る前に、
 イオマンテはその正体に察しがついていた。

 己と同じだ。
 名を忘れられた、山の神(キムンカムイ)の代行者。

 奇形の生殖器を持つ、汚らしい人の雄。
 おそらく、あれが群れを統べる長だったのだろう。
 数多の若い雌々が、それを守るように立ちはだかった。

 半刻ほど前、チャペルの惨劇。

 この娘も、群れを構成する一人に過ぎなかった。

 柔かな肉を実らせた群れに、貧相な肢体では見劣りがすると思っていた。
 まさか、有象無象の中に、神の器が混じっていようとは。
 生命力の強さにも、得心がいく。

「素材としてはピカイチじゃったんじゃがな。同じ口調、同じ容姿、同じ能力。波長の合わぬ方がおかしい。しかし、自我が強すぎる。稀代の巫女といえど、輪郭を失わぬものを器には出来ぬ。獣に襲われ、臨死の忘我に臨んで、ようやく身体を明け渡しおったか……?」


 その雌は、興味深そうな視線を、イオマンテに向けて、


「……いや、なるほど。そうか、貴様の力か。道理でこの器の中に、ここ数時間の記憶が見つからんはずじゃ。己が何者かすら、見失うたか。よい、よい。都合がよい。何者か、と問うたな。その功績を以て、我が真名の拝聴を許す」


 と、誇らしげに、薄っぺらい胸を反り返らせた。
 すう、と、日の暮れた西の空を、幼い指が指している。


「天香香背男(アメノカガセオ)」


 ゔおお、お、おお。

 蒸気機関の如く、ヒグマが唸り声を上げた。


 巫山戯るな。
 それは、星辰の民の信仰する神の名だ。
 太陽に従わぬ、宵の明星。

 貴様は、その代行者に過ぎん。
 たかが人間、命ある有限の存在で、神を名乗るなど。
 烏滸がましいとは、思わんのか。


「思わん」


 吠えたな。


「中身は本人……つーか、本神じゃもの」


 何を、言っている。


「フン、獣に理解を求めようとは思わん。それはそれとして、忘れられた獣か。親近感がないでもない……どうじゃ。一献、付き合わんか」


 ■■■■が、その細い腕を振るうと、

 しゃん、と鈴が鳴るような音がして、屋上の景色が塗り替わった。


「貴様とて、永遠に人を食らうて在り続けるわけにもいかんじゃろ」
「……」
「蝦夷刀、神送りの弓矢、鎧、儀礼用の行器。肴には、クルミの団子を拵えた」
「ふん、心得ているな」
「聞きかじりじゃがな。ほれ、実家がご近所じゃから」


 ……イオマンテとは。

 本来、アイヌ民族に伝わる自然崇拝の儀礼のひとつ。
 その言葉は、神の葬儀を意味するもの。
 儀礼用の祭器を並べ、酒食を捧ぐことは、すなわち霊に対する敬意である。

 無碍に扱えば、此方の格が下がるというもの。
 とはいえ、もちろんその招待に応じる道理は、彼にはなかったが、


「いまさら、このような待遇を受けたとて」


 不思議と、イオマンテは■■■■をすぐに害そうとは思わなかった。

 神を名乗る不敬は許しがたい。
 しかし、己の眼前にいるこの娘は、憎むべき人類ではなく。
 忘れられた山の神の代行者、相憐れむ同類だ。

 爪と牙の前に、言葉を交わしてみるのも、悪くはない。
 殺すのは、後でもよい。

 なにより、復讐に費やした日々。
 浮かぶのは、獲物の怯える面ばかり。
 いささか飽きを感じていたのも事実ではある。

 そも、獣とは好奇心の強いものだ。
 儀式に捧げられる成獣の雄となれば、なおさら。

「この怒りは、消えぬぞ」
「よい、怒れ。それは、貴様の特恵じゃ」

 どこからか取り出したか、朱塗りの大器に、とぷり、と酒が注がれる。
 黒い鼻梁が、おそるおそる、匂いを嗅ぐ。


 ああ、これは、懐かしい、


「毒はないぞ」
「……効くか、そんなもの」

 蝦夷に伝わる、稗を煮て作る麹酒(トノト)だ。
 ぺろり、と、舌を這わせる。
 途端、雑味の強い酒精が、喉を焼いた。

「なんじゃ、下戸か」

 くつくつと、■■■■が肩を揺らしている。
 唸りをあげたが、実のところ、不快には感じなかった。

「団子も食え」
「貴様が拵えたのか」
「いや、どうやって作ったのかは知らぬ。そう“塗り替えた”だけじゃ」
「……? よく分からんが、それでなぜ、毒がないと言い切れる」
「汝、意外と細かいところを気にするのう」

 小枝のような指が、ひょい、と団子をつまんで、己の口に放り込んだ。
 毒味、ということだろう。

「……ま、妾の舌に合わせたもんじゃないからの。特に旨くはないが」
「こういうものだろう、これは」

 そうは言ったものの、自然の滋味は久方ぶりだ。
 血と肉の味に、慣れすぎていた。

 本来、イオマンテの儀式ならば、この後にヒグマを送り出す行程がある。
 神の化身が、宴のもてなしの礼として毛皮や肉を授ける……と、人間が都合よく解釈した、屠殺と解剖。

 イオマンテは、わずかに身構えたが、

 ■■■■は、いっそ毒気を抜かれるほどに気を抜いている。
 白い肌がほんのりと紅色に蒸気して、まるで隙だらけだ。

 意図が読めぬ。
 しかし、少なくとも敵意は感じない。

「こちらは、もてなしたぞ」

 少女が、にやり、と笑んでみせた。

「神の使いともなれば、作法は心得ていような」

 それは、古来の朝貢貿易にも似た、面子の張り合いだ。
 獣の習わしでいうならば、毛づくろいのお返しか。

「……良いだろう。俺は、俺を粗末に扱わぬものを、粗末には扱わぬ」
「道理じゃな。お里が知れる、というものよ」

 毛皮や肉を授けるというのは、人間の勝手な解釈だ。
 とはいえ、もてなされてばかりでは、此方の神が侮られる。
 支払われた敬意に対しては、それ以上の対価を返すのが通例だ。

「だが、人間のもてなし方を知らぬ」
「まあぶっちゃけ、天敵か獲物の関係じゃもんな」
「何が欲しい。言ってみろ」
「ふむ、そうさな」

 ■■■■は、考え込む素振りを見せて、


「獣のもてなしといえば、あれじゃろ。芸のひとつでも見せてみよ」


 ……同類でなければ、その首を撥ねていたところだ。

 だが、ここで暴力に訴えれば、狭量の誹りは免れない。
 神の使いであるからこそ、神の面子は立てねばならぬ。

 ぐ、と、苛立ちを堪えて、

 イオマンテは、威嚇の如く、両腕を目一杯に広げて見せた。

 途端、分厚い黒の毛皮が、ざわり、と波打つ。
 ざわざわと、波打つそばから、白い羽毛に生え変わる。
 骨は縮み、肉は削ぎ、双眸は黄金。

「シェイプシフター、というやつか」

 まるで余興を楽しむように、少女は己の酒盃を傾けた。

 そうするうちにも、イオマンテの姿は、
 あっというまに、村を守る神(コタンコロカムイ)に変じていた。

「どうだ」
「うむ、見事。クルミ団子の1個分にはなろうな」

 チッ、と、細長い舌を打つ。

 敬意を示したのは、少女の方だ。
 応える側のイオマンテは、度量を見せねばならぬ。
 フクロウの翼を丸め、身を包むようにして翻すと、

 ぐ、と、風船のように、少しずつその体を膨らませる。

 美しき白い羽根が抜け落ち、艶めいた黒の肌へ。
 翼は縮んで胸鰭となり、嘴には鋭い牙が並ぶ。

 海洋のアイヌに伝わる沖の神(レプンカムイ)、サカマタのシャチだ。
 山の獣ばかりが、イオマンテの対象ではない。

「ほほう?」
「まだまだ」

 言うが早いが、今度はぐるん、と宙返りして、
 大きな口の狩りをする神(ホロケウカムイ)、エゾオオカミ。更に、間髪を入れず、危険を告げる黒狐(シトゥンペカムイ)、老大な大鷲(オンネウ)……

 ぐるぐると、目まぐるしく変身する。
 これほどに興じたのは、初めてのことかもしれない。

 どうにか、この生意気な少女を、感心させてやりたかった。


 しかし、


「……おそろしき威容の動物ばかりじゃのう」


 少女は、ぷは、と酒杯から唇を離すと、退屈そうに眦を下げた。
 子どもを揶揄うような、馬鹿にした笑みだ。

 これにはイオマンテも、溜息を溢すしかない。

 変身だって、カロリーを消費する。
 もはや、捧げられた酒と団子には見合わないのは、互いに承知のはずだ。
 にも関わらず、意固地になっているのは、やはり酒が入ったからだろう。


「なんだ、もう、なにが不満なのだ」
「こちとら女子高生じゃぞ。ガワだけじゃが」
「は?」
「小学生男子の考えるかっこいい動物のオンパレード、ってのはなぁ」
「ああ、じゃあもう、分かった。お前、好きな動物はなんだ」
「ほう、リクエストか」
「それを一回、やって終わりだ。絶対に満足しろ」
「そういうの、妾が決めるんじゃないか?」
「いいから、言え」

「……ネズミじゃな」

「……ネズミ?」
「いやな、亜米利加のな、ミッ」
「いや、構わん。詳しく言わなくていい」

 厄介な相手につかまったものだ、と、嘆息を溢しつつ。
 イオマンテは、何度目か、宙に翻った。

 猛禽の足が、風船のように萎んでいく。
 鋭い嘴は抜け落ちて、控えめな鼻梁が伸び、細長いひげが生え揃う。

「……うむ。やはり、蝦夷の神とやらも、捨てたもんじゃあないの」

 くるくると舞う宙返りの最中、

 耳に届いた賛辞に、イオマンテは誇らしさよりも、安堵を感じていた。

 ようやっと、少女の口から、その言葉を引き出した。
 これで、山の神にも面目が立つ。

 それにしても、神を自称する不遜な娘め。

 愉快な餌と思って近づいたのが間違いだった。
 この学園が、この星の御使いの縄張りならば、もう二度とは近づくまい。

 面倒な馬鹿試合、いやさ化かし合いも、これにて落着。






「いやいや、ほんに見事な」





 少女が、嗤う。


 いや、嗤うというよりは、




 耳まで裂けた、大きな唇を、ぐわり、と開かせたのだった。







「見事な、阿呆よな。蛇の前で、ネズミに化けるとは」






 ぶちゅり、





 そこで、イオマンテの意識は途切れた。







「知らなんだか。蛇が水神と祀られるのはな、田を荒らす害獣を食らうからじゃ」



 口端から溢れた尻尾が、びちびちと、陸の魚のように跳ねていた。



「己より強き者に挑む場合、懐柔策は基本じゃぞ。日本神話、ちゃんと読んだか?」



 野鼠の姿となったイオマンテが、宙返りを経て着地する瞬間。

 大蛇の異形に変じた■■■■が、あっというまに首を伸ばして。

 自由落下、逃げ場のないちいさな生き物を、その口腔に迎え入れたのだった。



「知能は所詮、獣じゃのう。ところで、ここまで丁寧に、もてなして見送ってやったんじゃ。まさか、二度とは化けて出るまいな?」



 ぽんぽん、と、孕んだ赤子に語りかけるように、己の腹を叩いて呼びかける。
 いつのまにか、裂かれた傷は塞がっていた。

 ちろり、と、蛇の舌が頬の血を拭う。



「……さぁて。今代の朝廷は、どうなっておる……?」



最終更新:2022年11月13日 20:56