準決勝戦【屋上】その2「火神薄命」
【前語】
ウィキペディア三大文学。
ネット上の百科事典にて、堂に入った執筆によって生み出される傑作選。
中でも、殊にその完成度を評価される、三つの記事がある。
ひとつ、『日本住血吸虫』。
特定の地域に伝わる奇病の正体が、寄生虫による感染症である、と。
皮膚より体内に侵入した虫が、血管に大量の卵を産み付けて閉塞させ。
それによって生じる多臓器不全だと解き明かした、学者たちの物語。
ふたつ、『八甲田山雪中行軍遭難事故』。
青森の冬山に臨んだ、旧日本陸軍の連隊。
いずれも為す術なく猛吹雪に飲まれ、生きたまま氷漬けとなり。
今でも、軍靴を踏み鳴らす亡霊の行進、その目撃情報が絶えぬという。
そして、
北海道開拓時代。
現在の苫前町に現れた一体のヒグマが、開拓民の集落を半壊せしめた獣害。
後に、事件を題材とした出版物の名にあやかって、羆嵐とも呼ばれている。
『三毛別ヒグマ事件』。
それは、「穴持たず」と呼ばれるヒグマによってもたらされた。
冬眠に失敗し、獲物のいない雪山を彷徨い、人里に下ったのだ。
鉄や煉瓦も碌にない木家の時代。
女子供を執拗に狙う、300kgを優に超える“災害”。
力なき開拓民は、次々と渦中に呑み込まれた。
だが、
有識者をして、奥州以北に熊害の恐怖を知らしめた事件は、これではないという。
三毛別の熊害が取り沙汰されるようになったのは。
先述の一作、『羆嵐』の功績によるところが大きい。
それ以前は、北海道の熊害として真っ先に名を挙げられるのは、
札幌丘珠事件。
これをおいて、他にはなかった。
被害規模は、日本史上の熊害史において、四番目に位置づけている。
三毛別の一件にも遥かに劣る、この事件が。
人口に膾炙するに至った理由は、事件の「その後」にあった。
明治11年。
欧米の先進的な学問を導入すべく、政府や自治体が国外から技術者・専門家を招聘し、「お雇い外国人」として指導を任せた全盛の時代。特に名を知られている人物といえば、ウィリアム・クラーク氏だろう。現在の北海道大学の前身にあたる札幌農学校、北の大地を開墾する人材を育成すべく作られた学び舎の、初代教頭である。
さて、札幌丘珠事件で獣害を起こした熊の射殺死体は、
解剖の教材として、当時の札幌農学校に運び込まれることになった。
まだ温もりさえ残る貴重な資料。
好奇心の旺盛な学生たちは、一様に湧き上がった。
なにせ、アイヌの猟師によれば、
熊の赤身は、脂身の強い牛肉のような味わいがあるという。
やがて、解剖が始まると、
赤々とした新鮮な肉に、誰ともなく生唾を飲み込んだ。
そして、
悪知恵の働く一部の学生たちが、
指導教授の目を盗み、ひと塊の肉片を、懐に仕舞い込んだ。
咎める者など、いるはずもない。
誰もが、その蛮行のお零れにあやかる心算だ。
正午、
休憩の合図と共に、廊下に飛び出た学生たちは、一斉に小使い部屋に駆け込んだ。
狙いはもちろん、赤熱した暖炉の炭火だ。
網をかざして、くすねた熊肉を放り投げる。
ちり、ちり、と、肉を焦がす音、芳しさ。
芯まで火を通す必要はない。
知る人ぞ知る、アメリカンスタイルのミディアムレアステーキ。
頃合いを見計らって、刃を入れる。
ほとばしる肉汁。不味いはずがあろうか。
銘々に、醤油や味噌麹といった調味料を付け、口に放り込んだ。
「……硬ってェ」
みな、一様に顔を顰める。
「ぐにぐにしているな。噛み切れない」
「冬眠中だったらしい」
「それに、なんというか……ひどく臭いな」
「腐臭や獣臭さとは、また違うな」
「蝦夷マタギめ、な〜にが、脂身の強い牛肉だ」
「よせ、牛肉を食ったことがないんだよ」
昼食を終えた教授が、実習再開の合図をする。
彼らはいそいそと痕跡を消して、解剖室へと戻っていった。
午後の予定は、内臓の解剖だ。
さて、生徒たちが熊の腹膜を割り開くと、
ずるん、と、
裂け目から押し出るようにして、
膨らんだ胃袋が、零れ落ちた。
……珍しいことではない。
胃の内容物を消化する前に死んだ動物においては。
消化機能が停止しており、獲物が体内で発酵しているのだ。
メスを刺し込めば、古びたゴムボールのように、腐敗したガスが勢いよく漏れる。
解剖担当は、はっきり言って貧乏くじだった。
ややもすると、
勇敢な、或いは虚勢を張った学生が、その貧乏くじを買って出た。
わっ、と湧いた解剖室。臓腑を刺し貫く感覚など、誰も知りたくはない。
ぷつ、
ばふぅ、
間抜けな破裂音。
消化液の飛沫が飛び散った。
まもなく、不出来で悪趣味な爆弾の中身が、排便の如く飛び出てくる。
眼球。体毛。融けた内臓。白い骨。
おえ、と、吐瀉の真似をするお調子者。
口には出せないが、「肉を食った後で良かった」と誰もが思った。
直後、
彼らの顔色が変わったのは、
手製と思しき刺繍の入った、赤子用の頭巾と、
それを必死に握りしめている、
人間の拳が、胃の中から出てきたためだった。
はた、と気づく。
獣の体毛、と思っていたはずの繊維。
やけに黒くて、長くはないか。
眼球にへばり付いた、目蓋の切れ端。
己の肌の色と、同じではないか。
当然だ。
獣を食らうだけの獣を、わざわざ軍や警察が、処分に出向くはずがあるか。
俺が殺されたのは、貴様ら人間を食ったからだ。
愚かなり、愚かなり。
獣の住処を奪い、敬意を忘るる、その厚顔。
殺戮と簒奪を、開拓と言い張る、その蛮行。
思い上がりの猿共よ。
同胞の血肉の入り混じった、俺の味はどうだった?
忘れるな。その味、生涯をかけて。
獣の肉を食らうたび、何度でも思い出せ。
札幌丘珠事件のヒグマの胃に残されていた、未消化の内容物は。
現在も、北海道大学附属植物園にて、アルコール漬けで展示されている。
参考:Wikipedia-『札幌丘珠事件』(一部、誇張表現を含む)
◆◇◆◇
【屋上・破】
ぐちゅり、と、
肚の奥に突っ込まれた黒い鼻梁が、血肉を掻き分けて内臓を漁る。
獲物を長期保存する習性の肉食獣は、腐りやすい腹から食らうという。
凌辱とは、必ずしも性的な要素を含まない。
その語源は、辱めを凌ぐ。
すなわち、過度に尊厳を貶める行為を表している。
己の肢体を貪り食らう、黒いけだものと。
もはや抗うことを諦めた、どこか冷静な自分自身。
冬の屋上。
粘つく水音。
立ち上る蒸気。
感覚を失った下半身が、びぐん、と律儀に跳ねている。
まるで、無理やり犯されているようだな、と、
■■■■は、“他人事のように”、そう思っていた。
……■■■■とは、誰だったのか。
思い出せない。
名前がない。記憶がない。
だから、いつまで待っても走馬灯が始まらない。
楽しいばかりの人生ではなかったが。
せめて終わる前に、振り返ることは許されないだろうか。
屋上でただ一人、
獣に陵辱されながら、寂しく逝くというのに。
ゴリ、と、
骨を砕く振動が、身体のうちを伝達する。
おそらくは血の一滴、毛の一片も残らずに、
■■■■は、この獣に食い尽くされるのだろう。
もはや、なぜこの獣を追っていたのか、
どうして、為すすべもなく喰らわれたのか、
自分でも、思い出せなかった。
そして、誰からも忘れ去られる。
名もなき被害者たちと、同じように。
およそ自分がこの世にいたという、その証明が、すべて消えるというのなら、
とても、■■■。
?
■■■、とは、■だったか。
まさか、そんな、
■■を司る能力、とは■っていたが、
感情さえも、■■てしまうのか。
■■■■が損なわれていく様を、■■ことさえ、できないのか。
いやだ、
なにか、なにか、■い出せることは、ないか。
■■の際に、■■■■の■■したことを、ただ■■するだけなんて、
あまりに、■■すぎる。
虫食いの如く、■だらけの■■を必死に漁る。
まだ■■の損なわれていない、薄ぼんやりと■■する面影に、
―――自分のために、能力を使ったのかい
……いやチョット待って。
そりゃ、なんでもいいとは言ったものの。
今際の際にあの性悪ババァを思い出しながら逝くのはちょっと、
◆◇◆◇
巫女の本来の御役は、降霊術にある。
憑依、口寄せ、かんなぎと言い換えてもいい。
西洋では、シャーマニズム、或いはチャネリングか。
要するに、自我を希釈したトランス状態の肉体を……
ま、口でどうこう言うのは簡単さ。
だが、結局のところ、感覚で覚えるしかない。
遠上家の女が、巫女と呼ばれるのはね。
怪異を食らうために、まず怪異を呼び出す儀式から始めるからだ。
で、降霊術ってのは、単に幽霊を呼び出す術じゃない。
自分の魂を薄めることで、中身を空にした肉体の器を差し出す行為だ。
それが、
どれほど危険で、
どれほど難しいことか、
わからないとは、言わないだろうね。
……結構。
いいかい、多月、
こっくりさんというのはね、
狐、狗、狸のそれぞれの漢字を、音読みで並べた異称なのさ。
本来、野生に生きる動物たちに、名前はない。
それは、死んだ後も同じことだ。
名を与えるというのは、個としての力を与えるのに等しい。
しかも、複数の霊魂をひとまとめに束ねて、縛っちまっているわけだ。
この儀式を、最初に考えついたやつはね。
天才的な心霊センスを持った致命的なバカ野郎か、
さもなくば、
わざと事故が起きるように手順を組んだ、悪意の愉快犯だよ。
……降霊術の興りは、神様のご機嫌取りに巫女の身命を捧げる儀式だった。
だが、神様ってのは、人間の命を奪って生きているわけじゃない。
むしろ、人間のもたらす信仰を糧にするもんだ。
だから、供物や儀式を経て得られる信仰の糧に、対価を与えた。
治水、豊穣。富と繁栄。健康良縁、家内安全。
もちろん、「利益だけ受け取ってハイさよなら」なんて、罰当たりを懲らしめることはある。
そりゃあ、当然の権利だろ?
それでもね、理不尽に苦しめるようなことは、ほとんどしないのさ。
つまりね、神様や精霊と交信するのは、
実は、あんたが思っているより危険ではないわけだ。
難易度は高いけどねぇ。
じゃあ、
人間を恨んでいるとしたら、神様じゃなくて、なんだと思う?
……良い機会だ。
このままお勉強と行こうじゃないか。
あんた、確か、犬が好きだったね。
せっかくだ、犬を使った呪術を教えてやる。
難しくはないよ、「犬神」ってもんだ。
まず、犬を一匹、捕まえてくる。
できるだけ、人懐っこいやつがいいね。
そいつを首から上だけ出して、穴に埋めるのさ。
もちろん、自力で這い出ることはできない。
前肢の筋肉が、十分に発達していないからね。
で、この埋め犬の目の前に、餌をおいて放置する。
当然、手も足も出ないね。
目と鼻の先にあるのに、犬はそのまま餓死することになる。
その、死の間際に、首を斬って落とすんだ。
すると、不思議なことに、
斬り落とされた頭は、餌の方に飛んでいって、食らいつく。
この首を媒介とするのが、犬神の術ってわけさ。
……ひっひっひ、ひどい顔だね。
だが、分かっただろう。
益をもたらすのではなく、他者を損ねるための呪法。
それに使われるのは、いつだって動物たちだ。
住処を奪い。
生糧を奪い。
敬意を忘れ、見下して。
人間を憎まないわけ、ないだろう。
挙げ句、その憎悪さえも利用するってんだから、つくづく人の業は深い。
動物たちの死を、ひとつの名によって束ねて。
契約も縛りも設けずに、先んじて利益を得る。
その対価に、向こうが何を要求してこようと拒めない。
用が済んだら「お帰り下さい」だって?
あんた、好きでもない飯屋に連れ込まれて、
料理も出されず、金だけ毟り取られて、
お出口はあちらです、と、言われて素直に帰るのかい?
それが、こっくりさん、って儀式の正体さ。
降霊術としては、タブーだらけだ。
儀式の順序もめちゃくちゃだが、最悪なのは「成立はしている」ってとこだ。
低級の動物霊は扱いやすいからね。
呼び出すだけなら、誰でもできる。
参加人数が多ければ、霊媒になりやすい子がいても不思議じゃない。
つまり、こいつは、降霊術を失敗させるための儀式なのさ。
それを、多月、あんたね。
曲がりなりにも、由緒ある霊能者の家系の娘が。
ガキの遊びの一環だとしても。
その儀式に、どれほど影響を及ぼしてしまうか、
ちっとは考えなかったのかい。
止めようとした? バカタレ、なお悪い。
火事を防ぐために、全身ガソリンまみれで突撃するのと同じだ。
何度も言うが、あんたの素質“だけ”は神代級なんだよ。
自分でどうにかするんじゃなくて、大人を呼んで……
……誰だい、まこちゃんって。友達かい? ……そうかい。
莫迦だね。
他所の心配をしている場合か。
ま、無事だよ。
熱を出して寝込んでいるが、その程度だ。
ところで、多月。
教えた話し方は、どうしたんだい。
男子にバカにされた?
ああ、そういう年頃か。
気にするなってのは、師の言葉としては、ちょいと無責任だね。
だが、あれは巫女の修行の一環だ。
笑われようと、嫌われようと、続けなくてはならないよ。
降霊術ってのは、自我の希釈……自分を忘れるところから始まるんだ。
あんたは特別、我の強い子だからね。
だから、自分を騙さないといけないんだよ。
老いた男の話し方を真似て、「幼い女の子」という自分自身を忘れるんだ。
いいかい、多月。
私たち、遠上の巫女はね、降ろすための器になるんだよ。
何をって?
時が来れば、分かるさ。
ともかく、だ。
もう二度と、こんなバカな真似はするんじゃないよ。
分かったね。
分かったなら、この扉を開けておくれ。
多月?
おばあちゃん、もう、怒ってないよ?
おーい?
おーーーーい?
開けておくれよ。
ドンドンドン、
おーーーーーーーーい。
ドンドンドンドン、
おい。
ガン、ガン、
開けろ。
ガンガンガン!!!
どうした、なぜ。
おまヱが、オレお俺を、呼んだのだろう。
ガンガン、ガンガンガン!
買ってに、真似いておいて、
勝手に変えれナドと、
ガシャン、ガシャン!!!!
「……結界を張ってある。あんたが根負けしない限り、あいつは入ってこない」
ガンガン! ガンガンガン!!!
「まこちゃんとやらは、無事だよ。厄介なのは、あんたがみぃんな、連れて帰ってきたからね。追っ払うのは難しいことじゃないが……それじゃあ、ただ呼ばれただけの動物たちが、あまりに報われない」
がり、
ガリガリガリ、ガリガリ、
「あんたの躾けと、せめてもの手向けだ。向こうが諦めるまで、ここで待つんだね」
◆◇◆◇
【屋上・急】
なんだ、貴様は。
イオマンテは、たった今、食らっていたはずの女肉に問うた。
「……そうさの」
腸をぶら下げながら、つまらなそうに応じる。
首を折った。
顔を剥いだ。
腰をひしゃげ、足を奪い、腹を割って、臓腑を食った。
にも関わらず、その雌は悠然と立ち上がった。
鴉の濡羽を思わせる、黒黒とした長髪を、稲穂の如く金色に光らせながら。
「依代となった、この娘の忌み名を名乗ってもよいのじゃがな。“炎上”の“竜姫”とは、気が利いていると思わんか?」
だが、答えが返る前に、
イオマンテはその正体に察しがついていた。
己と同じだ。
名を忘れられた、山の神(キムンカムイ)の代行者。
奇形の生殖器を持つ、汚らしい人の雄。
おそらく、あれが群れを統べる長だったのだろう。
数多の若い雌々が、それを守るように立ちはだかった。
半刻ほど前、チャペルの惨劇。
この娘も、群れを構成する一人に過ぎなかった。
柔かな肉を実らせた群れに、貧相な肢体では見劣りがすると思っていた。
まさか、有象無象の中に、神の器が混じっていようとは。
生命力の強さにも、得心がいく。
「素材としてはピカイチじゃったんじゃがな。同じ口調、同じ容姿、同じ能力。波長の合わぬ方がおかしい。しかし、自我が強すぎる。稀代の巫女といえど、輪郭を失わぬものを器には出来ぬ。獣に襲われ、臨死の忘我に臨んで、ようやく身体を明け渡しおったか……?」
その雌は、興味深そうな視線を、イオマンテに向けて、
「……いや、なるほど。そうか、貴様の力か。道理でこの器の中に、ここ数時間の記憶が見つからんはずじゃ。己が何者かすら、見失うたか。よい、よい。都合がよい。何者か、と問うたな。その功績を以て、我が真名の拝聴を許す」
と、誇らしげに、薄っぺらい胸を反り返らせた。
すう、と、日の暮れた西の空を、幼い指が指している。
「天香香背男(アメノカガセオ)」
ゔおお、お、おお。
蒸気機関の如く、ヒグマが唸り声を上げた。
巫山戯るな。
それは、星辰の民の信仰する神の名だ。
太陽に従わぬ、宵の明星。
貴様は、その代行者に過ぎん。
たかが人間、命ある有限の存在で、神を名乗るなど。
烏滸がましいとは、思わんのか。
「思わん」
吠えたな。
「中身は本人……つーか、本神じゃもの」
何を、言っている。
「フン、獣に理解を求めようとは思わん。それはそれとして、忘れられた獣か。親近感がないでもない……どうじゃ。一献、付き合わんか」
■■■■が、その細い腕を振るうと、
しゃん、と鈴が鳴るような音がして、屋上の景色が塗り替わった。
「貴様とて、永遠に人を食らうて在り続けるわけにもいかんじゃろ」
「……」
「蝦夷刀、神送りの弓矢、鎧、儀礼用の行器。肴には、クルミの団子を拵えた」
「ふん、心得ているな」
「聞きかじりじゃがな。ほれ、実家がご近所じゃから」
……イオマンテとは。
本来、アイヌ民族に伝わる自然崇拝の儀礼のひとつ。
その言葉は、神の葬儀を意味するもの。
儀礼用の祭器を並べ、酒食を捧ぐことは、すなわち霊に対する敬意である。
無碍に扱えば、此方の格が下がるというもの。
とはいえ、もちろんその招待に応じる道理は、彼にはなかったが、
「いまさら、このような待遇を受けたとて」
不思議と、イオマンテは■■■■をすぐに害そうとは思わなかった。
神を名乗る不敬は許しがたい。
しかし、己の眼前にいるこの娘は、憎むべき人類ではなく。
忘れられた山の神の代行者、相憐れむ同類だ。
爪と牙の前に、言葉を交わしてみるのも、悪くはない。
殺すのは、後でもよい。
なにより、復讐に費やした日々。
浮かぶのは、獲物の怯える面ばかり。
いささか飽きを感じていたのも事実ではある。
そも、獣とは好奇心の強いものだ。
儀式に捧げられる成獣の雄となれば、なおさら。
「この怒りは、消えぬぞ」
「よい、怒れ。それは、貴様の特恵じゃ」
どこからか取り出したか、朱塗りの大器に、とぷり、と酒が注がれる。
黒い鼻梁が、おそるおそる、匂いを嗅ぐ。
ああ、これは、懐かしい、
「毒はないぞ」
「……効くか、そんなもの」
蝦夷に伝わる、稗を煮て作る麹酒(トノト)だ。
ぺろり、と、舌を這わせる。
途端、雑味の強い酒精が、喉を焼いた。
「なんじゃ、下戸か」
くつくつと、■■■■が肩を揺らしている。
唸りをあげたが、実のところ、不快には感じなかった。
「団子も食え」
「貴様が拵えたのか」
「いや、どうやって作ったのかは知らぬ。そう“塗り替えた”だけじゃ」
「……? よく分からんが、それでなぜ、毒がないと言い切れる」
「汝、意外と細かいところを気にするのう」
小枝のような指が、ひょい、と団子をつまんで、己の口に放り込んだ。
毒味、ということだろう。
「……ま、妾の舌に合わせたもんじゃないからの。特に旨くはないが」
「こういうものだろう、これは」
そうは言ったものの、自然の滋味は久方ぶりだ。
血と肉の味に、慣れすぎていた。
本来、イオマンテの儀式ならば、この後にヒグマを送り出す行程がある。
神の化身が、宴のもてなしの礼として毛皮や肉を授ける……と、人間が都合よく解釈した、屠殺と解剖。
イオマンテは、わずかに身構えたが、
■■■■は、いっそ毒気を抜かれるほどに気を抜いている。
白い肌がほんのりと紅色に蒸気して、まるで隙だらけだ。
意図が読めぬ。
しかし、少なくとも敵意は感じない。
「こちらは、もてなしたぞ」
少女が、にやり、と笑んでみせた。
「神の使いともなれば、作法は心得ていような」
それは、古来の朝貢貿易にも似た、面子の張り合いだ。
獣の習わしでいうならば、毛づくろいのお返しか。
「……良いだろう。俺は、俺を粗末に扱わぬものを、粗末には扱わぬ」
「道理じゃな。お里が知れる、というものよ」
毛皮や肉を授けるというのは、人間の勝手な解釈だ。
とはいえ、もてなされてばかりでは、此方の神が侮られる。
支払われた敬意に対しては、それ以上の対価を返すのが通例だ。
「だが、人間のもてなし方を知らぬ」
「まあぶっちゃけ、天敵か獲物の関係じゃもんな」
「何が欲しい。言ってみろ」
「ふむ、そうさな」
■■■■は、考え込む素振りを見せて、
「獣のもてなしといえば、あれじゃろ。芸のひとつでも見せてみよ」
……同類でなければ、その首を撥ねていたところだ。
だが、ここで暴力に訴えれば、狭量の誹りは免れない。
神の使いであるからこそ、神の面子は立てねばならぬ。
ぐ、と、苛立ちを堪えて、
イオマンテは、威嚇の如く、両腕を目一杯に広げて見せた。
途端、分厚い黒の毛皮が、ざわり、と波打つ。
ざわざわと、波打つそばから、白い羽毛に生え変わる。
骨は縮み、肉は削ぎ、双眸は黄金。
「シェイプシフター、というやつか」
まるで余興を楽しむように、少女は己の酒盃を傾けた。
そうするうちにも、イオマンテの姿は、
あっというまに、村を守る神(コタンコロカムイ)に変じていた。
「どうだ」
「うむ、見事。クルミ団子の1個分にはなろうな」
チッ、と、細長い舌を打つ。
敬意を示したのは、少女の方だ。
応える側のイオマンテは、度量を見せねばならぬ。
フクロウの翼を丸め、身を包むようにして翻すと、
ぐ、と、風船のように、少しずつその体を膨らませる。
美しき白い羽根が抜け落ち、艶めいた黒の肌へ。
翼は縮んで胸鰭となり、嘴には鋭い牙が並ぶ。
海洋のアイヌに伝わる沖の神(レプンカムイ)、サカマタのシャチだ。
山の獣ばかりが、イオマンテの対象ではない。
「ほほう?」
「まだまだ」
言うが早いが、今度はぐるん、と宙返りして、
大きな口の狩りをする神(ホロケウカムイ)、エゾオオカミ。更に、間髪を入れず、危険を告げる黒狐(シトゥンペカムイ)、老大な大鷲(オンネウ)……
ぐるぐると、目まぐるしく変身する。
これほどに興じたのは、初めてのことかもしれない。
どうにか、この生意気な少女を、感心させてやりたかった。
しかし、
「……おそろしき威容の動物ばかりじゃのう」
少女は、ぷは、と酒杯から唇を離すと、退屈そうに眦を下げた。
子どもを揶揄うような、馬鹿にした笑みだ。
これにはイオマンテも、溜息を溢すしかない。
変身だって、カロリーを消費する。
もはや、捧げられた酒と団子には見合わないのは、互いに承知のはずだ。
にも関わらず、意固地になっているのは、やはり酒が入ったからだろう。
「なんだ、もう、なにが不満なのだ」
「こちとら女子高生じゃぞ。ガワだけじゃが」
「は?」
「小学生男子の考えるかっこいい動物のオンパレード、ってのはなぁ」
「ああ、じゃあもう、分かった。お前、好きな動物はなんだ」
「ほう、リクエストか」
「それを一回、やって終わりだ。絶対に満足しろ」
「そういうの、妾が決めるんじゃないか?」
「いいから、言え」
「……ネズミじゃな」
「……ネズミ?」
「いやな、亜米利加のな、ミッ」
「いや、構わん。詳しく言わなくていい」
厄介な相手につかまったものだ、と、嘆息を溢しつつ。
イオマンテは、何度目か、宙に翻った。
猛禽の足が、風船のように萎んでいく。
鋭い嘴は抜け落ちて、控えめな鼻梁が伸び、細長いひげが生え揃う。
「……うむ。やはり、蝦夷の神とやらも、捨てたもんじゃあないの」
くるくると舞う宙返りの最中、
耳に届いた賛辞に、イオマンテは誇らしさよりも、安堵を感じていた。
ようやっと、少女の口から、その言葉を引き出した。
これで、山の神にも面目が立つ。
それにしても、神を自称する不遜な娘め。
愉快な餌と思って近づいたのが間違いだった。
この学園が、この星の御使いの縄張りならば、もう二度とは近づくまい。
面倒な馬鹿試合、いやさ化かし合いも、これにて落着。
「いやいや、ほんに見事な」
少女が、嗤う。
いや、嗤うというよりは、
耳まで裂けた、大きな唇を、ぐわり、と開かせたのだった。
「見事な、阿呆よな。蛇の前で、ネズミに化けるとは」
ぶちゅり、
そこで、イオマンテの意識は途切れた。
「知らなんだか。蛇が水神と祀られるのはな、田を荒らす害獣を食らうからじゃ」
口端から溢れた尻尾が、びちびちと、陸の魚のように跳ねていた。
「己より強き者に挑む場合、懐柔策は基本じゃぞ。日本神話、ちゃんと読んだか?」
野鼠の姿となったイオマンテが、宙返りを経て着地する瞬間。
大蛇の異形に変じた■■■■が、あっというまに首を伸ばして。
自由落下、逃げ場のないちいさな生き物を、その口腔に迎え入れたのだった。
「知能は所詮、獣じゃのう。ところで、ここまで丁寧に、もてなして見送ってやったんじゃ。まさか、二度とは化けて出るまいな?」
ぽんぽん、と、孕んだ赤子に語りかけるように、己の腹を叩いて呼びかける。
いつのまにか、裂かれた傷は塞がっていた。
ちろり、と、蛇の舌が頬の血を拭う。
「……さぁて。今代の朝廷は、どうなっておる……?」
最終更新:2022年11月13日 20:56