ゼロの影~The Other Story~-19 c

完結編 心を一つに 後編~太陽を背にして~

 太陽の下、竜と魔族と人間が向かい合っていた。
 大魔王は古よりの宿敵に挑発するような笑みを浮かべた。
「三対一になってしまうな」
「力が落ちたのを狙ったオレが、文句を言うとでも?」
 都合の悪い時だけ“正々堂々”を要求するつもりは無い。不敵な笑みを浮かべ三人を眺める。
「脆弱な小娘に魔力の回復していない魔族。部下も消耗し、全員くたばりぞこないではないか」
 ルイズは精神的にも身体的にも疲労が激しく、怒りを力の源にするといっても限界だ。
 大魔王は力を分身体に預けたため魔力と叡智を残した状態だが、肝心の魔力がほとんど残っていない。
 ミストも消耗が激しく、器の力をどこまで引き出せるか分からない。
 疲労困憊、満身創痍。
 彼らの状態を表現するならばそれだけの語で事足りる。
 それでもルイズに恐怖は無かった。魔界に君臨する最強の主従と共に闘うのだから。
 尾が振り回されるのをミストバーンが両腕を交差させて受け止め、炎の息吹を掌圧で払いのける。大魔王も飛翔し攻撃を仕掛ける。
 顔立ちは同じだが片方は双眸を閉ざし、片方は眼を鋭く光らせている。白い衣と血に染まった装束が翻り、それに対する黒竜の攻撃が空を裂く。
 光と影が交差し、おおぞらに戦う。
 まるで神話がそのまま現実となったかのような光景だった。
 だが、長引けば長引くほどこちらに不利になる。
 このまま戦っていては大魔王の魔力も体力も底をついてしまう。傷は塞がっても、最も疲弊しているのは彼なのだ。
 ほとんど魔法を放たず、魔力を温存しているとわかる。
 万全の状態であれば魔法をミストバーンが掌圧で弾いて叩きこんだり、暗黒闘気を込めた攻撃と部下の拳撃を組み合わせたり様々な連係攻撃ができるだろうが、今の状態では難しい。
 ミストは自身の消耗を省みず器の限界に近い力を引き出している。普通ならば肉体が耐えきれず壊れてしまうが、凍れる時の秘法がかかっているためその心配は無い。
 だが、先ほどまで存在を維持するだけでやっとだったのだ。そんな動きができる時間は残りわずかだろう。
 その先に待つものは――。
 一度着地し、再び攻撃するため地を蹴ろうとしたミストバーンが膝をついた。戸惑ったように己の体を眺め、呆然と呟く。
「……? 何故、立てない?」
 まだ戦いは終わっていないというのに。
 極度の怒りによって莫大な力を引き出していたが、もう時間が無い。
 動きが完全に止まった彼に太い尾が振り下ろされ、体が地面に打ち付けられた。秘法のおかげで器が傷つくことは無いが、内側の本体がボロボロだ。
「ミストバーン!」
 叫んだルイズにも金色の闘気の矢が放たれた。ほぼ闘気を使い果たしているため本数は前回より少ない。それでも、彼女が一本でも食らえば死んでしまう。
 地に刺さった矢が破裂し、爆風が細い体をあっけなく吹き飛ばした。
「ううっ……!」
 荒れた地面に叩きつけられ呻く彼女へ、さらに数本が飛来する。
 ――動けない。

「ルイズ……!」
 ミストバーンが前に飛び込み、かろうじて防いだ。再び膝をつき、倒れそうになるのをこらえている。
 身体がうまく動かないとルイズにも分かるほど動きがぎこちなく、未熟な傀儡師が無理に人形を操っている様を思わせる。
「ミ、ミスト――」
 声を震わせるルイズに背を向けたまま淡々と呟く。
「バーン様は言われた。お前を守り抜けと」
 かつて激しく憎悪し、殺してやりたいとさえ思った相手。
 同時に、羨望とともに敬意を抱いた。逆境に負けず努力を続け、強大な力を手に入れたのだから。
 そして、誰も為しえなかったことに挑み、主の大望を成就させるために力を尽くした。
 さらに、彼に再び戦う機会を与えた。
 以前は主に命じられたから協力していた。守れと言われたからそうしていた。
 今もその命令に従っているのは変わらないが、果たしてそれだけだろうか。
 反撃の糸口になり得るという計算だけではなく、守らねばならないという義務だけではなく――。
 ミストにはよく分からなかった。
 今まで主以外の誰かと共に強大な敵に立ち向かうことなどなかったのだから。
(ほんの一瞬だけでいい……暗黒闘気よ湧きあがれっ! 今こそ――バーン様をお守りするために!)
 主に認められるまで忌避し続けていた力を、彼は今心の底から求めていた。
 ふと、脳裏にルイズの言葉がよぎる。
 炎ではなく暗黒闘気こそが破壊のためだけの力だと告げた彼に対し、こう言っていた。
『あんたの能力でウェールズ様を救ったんでしょ。だったら破壊以外にも使える立派な力だわ。先生も言ったばかりじゃない、使いようだって』
 そう言った彼女自身も建設的な使い方を考えようとして諦めていた。
 戦うための力であり、破壊をもたらすことに変わりはない。どす黒い感情を糧とすることも。
 だが同時に、主を守るためのものでもある。太陽が魔界を照らす鍵ともなった。
 拳を握りしめる彼の背後から声が上がった。
「大魔王の信頼する部下ならまだ戦える。……そうでしょ? ミスト!」
 今こそ――言葉ではなく力で覚悟を示す時だ。
 ミストバーンは何も言わぬまま、声に背を押されるようにして立ち上がった。

 地を蹴って虚空を駆ける彼の後姿を目に焼きつけ、ルイズは瞼を閉ざした。
 水のルビーにそっと触れ、ハルケギニアに帰る理由に思いを馳せる。
『いっつもイノシシみたいなあんたらしくないわね、ヴァリエール。できるかどうかじゃない。“やる”のよ』
(ツェルプストー)
 顔を合わせれば喧嘩ばかりする仲だが、喝を入れられた。炎の心を持つ情熱的なライバル。
『どんな闇の中にも光はある』
(タバサ)
 今なら彼女の言葉の意味が分かる気がする。物静かだが力づけてくれた友人。
 炎のように激しく、氷のように静かに、対極に位置する力を合わせて対象を消し飛ばす様を思い浮かべる。
 そして――
『ここで何もせずにいては、僕が僕でいられなくなる』
 誇り高く、勇敢な貴族。ルイズもミストバーンも彼の名を忘れることは無いだろう。
(ウェールズ様。あいつは怖いし、冷酷だし、ツッコみたくなるし、腹が立ちます)
 歩んできた道や価値観が全く違うことも、数え切れぬ戦いと屍の上に立っていることも知っている。
 ほんの少し距離が近づいたと思っても決して越えられない淵が広がっていた。
 だが、彼の手をとった時何かが変わった。
(扱い良くしなさいよって思うし、もっと認めさせたいし……だから、お願いです)
 ひとかけらの勇気と力を。
 “ルイズ”として初めて認めてくれた相手の力になるために。
 共に闘い、彼女が彼女であり続けるために。
 彼女は目を開いてミストバーンの背中を見つめた。ある時は恐怖を掃い、ある時は絶対的なそれをもたらした背を。
「あいつの姿を見ておきながら、うずくまったままでいるわけにはいかないもの」
 ルイズは悟った。
 彼の背こそが、今まで自分を駆り立ててきたことを。


 大きく息を吸い込み詠唱を開始する。

 ――エオルー・スーヌ・フィル・ヤルンサクサ

 わずかに湧き上がった力をかき集め高めていくと、ヴェルザーの眼がちらりとルイズに向いた。
 前回と違い、自由に天を翔ける竜に魔法を当てることなどできない。そう語る視線に対し、泥で汚れた顔に笑みを浮かべる。
(わたしを誰だと思ってるの? 十数年爆発を起こし続けたルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールよ?)
『爆発に関しては我ながら芸術的だと思うわ』
 彼を召喚するまではゼロの証だと忌避し続け、彼と出会ってからは力の証として練習してきた爆発。
 最初に身につけた、“初歩の初歩の初歩”の呪文。
 上昇したものは、射程距離、命中率、調節の緻密さ、そして――威力。

 ――オス・スーヌ・ウリュ・ル・ラド

『わたし、爆発だけは誰にも負けないって思っていますわ』
 先ほど見た大魔王の爆裂呪文(イオラ)。それを超える爆発を思い描く。

 ――ベオーズス・ユル・スヴュエル・カノ・オシェラ

 ミストバーンがルイズへの攻撃を全て盾として食い止めているのが視界に映った。
 彼女一人でドラゴンに立ち向かうことはできない。爪がかすっただけでもあっけなく死んでしまうし、詠唱する時間を稼ぐことも難しい。
 だが、彼がいる。
 彼が守ると言ったのだから、それを信じて力を高めておくだけだ。

 ――ジェラ・イサ・ウンジュー・ハガル・ベオークン・イル…

 ミストバーンが炎の息吹の中へ振り払おうともしないまま飛び込む。突破と同時に、渾身の力で顔面に拳を叩きこみ殴り飛ばした。
 高度が下がった竜が範囲内に入り、再び動き出すまでのわずかな隙をルイズは見逃さなかった。
 杖が振り下ろされ、左腕が吹き飛ぶ。
「人間なめんじゃないわよ、ドラゴン」
 その言葉を最後にルイズはぱたりと倒れた。

 片腕を失ってもヴェルザーの戦意に陰りは無い。
 大魔王に向かって腕を振るうと、ミストバーンが庇い、押しのけるようにして代わりに殴り飛ばされた。
 ヴェルザーは彼を尾で地面に叩きつけ、急降下して踏みつけた。そのまま体重をかけて踏みにじる。地面は凄まじい衝撃にぐちゃぐちゃに裂け、抉れ、無残な姿を晒している。
 殺すことはできずとも動きを封じることは可能だ。主さえ殺せば闘志は完全に折れるという確信があった。
「う、あ……!」
 抜け出そうとするが、敵わない。人形のように手足は力無く投げ出されたままだ。痛みを感じることも傷つくこともない体が思うように動かない。
 整った相貌も白銀の髪も泥にまみれ、白い衣はズタズタになっている。
 凶暴な笑みを浮かべたヴェルザーが爪に闘気を込める。金色の軌道を描きながら一閃されたそれは大魔王の胸から腹部にかけて切り裂いた。
 鮮血が飛び散ったのも一瞬、傷口が炎で焙られるような熱を帯び、煙が上がった。闘気が傷を焼く音が響く。
「焼き加減はどうだ?」
 さすがによろめいた大魔王に楽しそうな声が降り注ぐ。
「少々……足りんようだ」
 気負いのない口調だが、服は元の色が判らぬほど変色している。
(動け……動け!)
 ミストバーンが力を振り絞るが、四肢は動かず、重圧を払いのけることができない。
 心が闇に塗りつぶされそうになった彼の目に飛び込んできたのは眩い火の鳥の姿だった。
 ヴェルザーが炎を吐き出して迎え撃つと大魔王はもう片方の手から即座に二発目を放った。一撃目と合わさって巨大化した不死鳥が息吹とぶつかり合い、高熱の激突に光が弾ける。
 ミストバーンは食い入るように凝視した。
 太陽と、不死鳥と、彼を何度でも立ち上がらせる存在が織りなす景色を。
 その時風が吹き、この丘に眠る青年の言葉を鮮明に呼び起こした。まるでたった今告げたかのように。
『守るべきもののために全力で戦う――それは君も同じだろう? ならば、君もまた尊敬に値する』
 陽光が煌めき金髪の若者の姿を一瞬だけはっきりと映し出す。
「……ウェールズ?」
 幻か、ルイズが無意識に何らかの『虚無』の力を発動させたのか、それとも――。
 彼は勇敢に戦い、最後に大切なものを守り切った。
 全ての力を使い果たし倒れているルイズに視線を動かす。彼女の表情は安らかで、満足そうな笑みさえ浮かんでいた。
 その理由は単純だ。
 己の為すべきことを為したため。
 そして――彼を信じているため。
 今まで主以外の存在から信頼されたことなどなかった。誰かから敬意を向けられたこともなかった。
 主に視線を戻すとヴェルザーの手に掴まれている。先ほど爪を回避しきれなかったのも、掴まれたのも、深刻な消耗が原因だ。
 それでも、炎のごとき眼光は揺らがない。
 竜族を統べる冥竜王に向かって傲岸な言葉を吐いたのは、勝利を確信しているため。
 ――もう二度と、主の信頼を裏切らないと誓ったはずだった。
 ここで諦めては、絶対に譲れぬものを自ら“ゼロ”にしてしまうことになる。
『もし、もう一度守る機会が与えられたならば――』
 彼が彼であるために、立ち上がり戦う。
 それが彼の答えだった。
「バーン様をお守りするのは……この私だ!」
 大魔王最強の武器は、己の肉体。
 足を無理矢理持ち上げ、どける。
 そして、魔界最強の剣は大魔王の手刀。
 精神を極限まで集中させ、単純な――それゆえに強力な一撃を、繰り出された尾にカウンターで叩き込む。最強の斬撃に、太い尾が半ばから切断され落下した。
 主を捕らえる竜の右手に接近し、最後の力で閃光のごとき一撃を加える。

 完全に力が抜けた彼の体が落ちていくのと対照的に、まるで太陽を掴み取るかのように大魔王の手が掲げられた。
 握りこまれた拳に紅蓮の火炎が宿り、優雅なる不死鳥の姿を形成した。部下が攻撃を食らわせた箇所を正確に狙い、掴む手に叩きつける。
 視界を赤と黒が塗りつぶしていく。その色は今までの魔界の姿を思わせた。
 しかし、魔界の空を見上げると、そこには数千年の間渇望し続けたものがあった。思い描いてきた光景があった。
 希望の象徴たる太陽と、どこまでも広がる青空が。
 脱出した彼は天空へと駆け上がり、向きを変えて冥竜王へと真っ直ぐに飛んだ。大魔王の名にかけて、その腕で勝利を掴むために。
 迎撃しようとした竜の動きが一瞬止まる。
 大魔王の姿が太陽と重なり、目が眩んだためだ。
 再び動き出すが左腕は千切られ、右手は焼かれ、尾も切られている。阻もうとする動きが遅れた隙に、彼は炎を吐き出そうとする顎の中に腕を突っ込んだ。
 そして、軽く指を弾く。
 ただ一言の呟きとともに。
 凄まじい熱が口内だけでなく喉の奥深くまで弾けた。
 炎を吐き出す寸前だったところに大魔王渾身の火球呪文が放たれたのだ。
 自身の炎と小さな火球が触れあった瞬間、爆発的な勢いで膨れ上がり荒れ狂う。
 熱に強い竜といえども体内で限界を超える熱量が炸裂しては――文字通り痛恨の一撃となる。

 巨躯がぐらりと揺れ地に落ちた。かろうじて体勢を立て直したものの、しばらくは戦闘不能だ。「白炎」の二つ名を持つ者が喜びそうな匂いが漂っている。
「貴……様……ッ!」
「退け、ヴェルザー」
 威厳に満ちた声が響き、苛烈な眼光が竜を射抜く。
「お前には配下の竜を統制してもらわねばならん」
 生きているならば、竜族が分裂し、勝手な行動をとることを防ぐため役に立ってもらう。
 為すべきことは山積みなのだから煩雑な要素は少しでも減らしたい。
 このまま無理に続けた場合、魔族と竜族の全面的な対決や、種族に関わりない混沌とした闘争状態に発展しかねない。
「魔界に太陽がもたらされたというのに、今までと変わらんではないか」
 力こそ正義という信念に揺るぎは無い。己が君臨するという前提も変わらない。
 ただ、世界の姿が変われば力や秩序の在り方も変わる。
 強者が上に立つ世界を地獄と呼ぶ者もいるかもしれないが、同じ地獄でもマシな地獄になるはずだ。
 故郷である魔界を豊かにするのは何千年かかるか分からないが、永遠の命を持つ彼ならば不可能に近いことを成し遂げることができる。
 ヴェルザーはしばらく沈黙していたが、ゆっくりと告げた。
「……フン。万全の貴様を叩き潰すこととしよう」
「その時は、受けて立ってやる」
 不敵な笑みで答えたバーンに鼻を鳴らし、ヴェルザーはミストバーンへ視線を向けた。主を守るため必死で身を起こそうとする様を見て呟く。
「オレにもあんな部下が欲しいものだ」
「数千年の間忠誠を尽くし、秘密を預かり、戦い続け、給仕までする、生涯を共にする存在……お前にはおらんのか?」
「いるわけなかろうが! 自慢かそれは?」
 両者の殺気はすでにおさまり、直前まで己の全てをかけて殺し合いをしていたとは思えぬ空気が流れている。
 それほどの戦いを繰り広げたからこそ認めることとなったのかもしれない。力という則の支配する魔界の流儀に従って。
 その一方で、ヴェルザーは次の皆既日食の日に秘法を妨害する手段を、バーンは『虚無』を利用し魂を完全に消滅させる方法を考えていた。
 内心を窺わせぬままヴェルザーは倒れ伏すルイズに視線を移す。
「あの小娘……ルイズといったか。協力者でしかないくせに何故――何を求めて戦った。地位か? 権力か?」
 こちらの問いには大魔王も明確な答えを見つけられなかったようだ。
「……わからん。おそらく、もっと単純なものだろう」
 大魔王バーンは微笑を口元に刻み、空を見上げて眩しそうに目を細めた。
 太陽は、新たなる時代の幕開けを告げるように天高く輝いていた。

 宮殿の一室にてルイズはベッドに寝そべり休息を貪っていた。疲れきっているためずっとベッドから出たくない気分だ。
 誰が運んだのかはっきりとは知らないが、抱えた手が力強かったことは覚えている。
 近くの豪奢な椅子に大魔王は腕を組んで座り、窓の外に広がる光景を眺めている。
 傷はほぼ塞がり衣も替えているため激闘を連想させる姿ではないが、疲労も傷も最も深刻だったのだ。
 体は休息を欲しているのに、この瞬間こそが何物にも代えがたい極上の美酒だと言うように陽光に照らされた魔界の姿を見つめている。
 優雅な仕草でグラスを傾ける傍らでは、ミストバーンが回復呪文の効かない主の手当てや給仕のために働いていた。
 限界まで消耗しきっているはずだが、酒を嗜む主の姿を見て常より目を輝かせ、嬉しそうにしている。
「代わりをもて」
「はっ!」
 嫉妬もする気も起きないような心和むオーラを放出する姿に、ルイズは
(喜んでる喜んでる)
 と、こっそり心の中で呟いていた。
「これほど美味い酒を飲んだのは……初めてだ……!」
 充実感の溢れる大魔王の声は、宝物を手に入れた少年を連想させた。
 やがて自室で休息を取るため立ち上がり、扉まで歩いて行く。そこで足をピタリと止め、振り返った。
「何故、そなたは怒った?」
「成功した直後にあんなことされたら腹立つじゃない」
 大魔王の質問はそういう意味ではなかった。
 何故異世界の異種族のために涙し、怒れるのか。
 最初に極大天候呪文を唱えた時に尽力した青年の顔が浮かぶ。
 彼もルイズと同じように、越えられない淵の向こうにいた相手のために命をかけた。
 人間は異質な存在を受け入れないと思っていたが、彼らが例外なのか否か。
 強大な敵を前に団結するのは理解できる。仮に世界滅亡の危機を迎えれば善良とはいえない者達も手を組むだろう。
 だが、ルイズが危険を顧みず力を尽くした理由を説明するにはやや弱い。
 部下ではなく協力者なのだから最後まで戦い抜く必要は無かった。彼女一人ならば助かる可能性も十分にあったというのに。
『敵に後ろを見せない者を、貴族と呼ぶのよ!』
(逃げ出すのは誇りが許さんということもあるだろうが……)
 ミストもルイズも互いに力を引き出すかのように限界を超えて戦った。その源は一体何なのか。
 ルーンの力か。一体化したためか。それとも――。
 考え込む彼にルイズは声をかけた。
「数千年の夢が実現したんでしょ? すごいわ」
 普段ならば素直に言わなかったかもしれないが、彼女なりに感慨がある。
 それが伝わったのか、大魔王は彼女が今まで見た中で一番穏やかな笑みを浮かべ、静かに告げた。
「……ありがとう」
 ルイズはうろたえて口ごもってしまった。大魔王の肩書を持つ者が率直に礼を述べるなど考えられなかったためだ。
 慌てる彼女に背を向け、彼は姿を消した。

 ミストバーンは命じられたためルイズの元に残ったが、彼もまた不思議そうに訊ねた。
「何故……何がお前をそこまで駆り立てた?」
「あんたの――」
 そこから先は恥ずかしさを覚えて言えなかった。必死で他の言葉を探してぶつける。
「あ、あんたの作るクックベリーパイをまだ食べてないもの! 少しは感謝なさいよね!」
 素直にこくりと頷かれ、言い出した彼女の方が戸惑ってしまった。
 しばし逡巡した後に言いにくそうに呟く。
「そ、その……守ってくれてありがと」
 貴重な戦力を失うわけにはいかないため――利用するためとは考えなかったのか。そう言いたげにじっと見つめると睨み返される。
「何よ。助けてくれたことに変わりは無いじゃない」
 それに、義務感以外の何かも確かに伝わった。
 慈愛や正義に目覚めたわけではないと知っているが、魔界に君臨する大魔王の部下にそこまで要求するのは酷だろう。
 彼はルイズを真っ直ぐ見つめた。
 もしルイズがいなければ、太陽が魔界を照らすことは無く、大魔王が美酒を味わうことも無かった。
“ミスト”として彼自身の魂を認め、主から守り抜けと命じられた――ただ守られているばかりではなく共に闘った相手。
 己の力が、この手が在る理由を改めて教えた存在。
 かつて戦いの場に送り出した尊敬する相手と、偉大なる主を心に思い描きながら口を開く。

 ルイズの耳にかすかな声が聞こえた。
 ほとんど聞き取れないほど小さな声で、ある言葉を告げたのだ。
(あ――)
 ルイズは心に残っていた黒雲が全て吹き飛ばされるのを感じた。陽光に照らされたように胸がじんわり暖かくなる。
 思わず肩を震わせながら俯く。
 頬に熱い滴が流れているのがわかるが止められない。
『ずっと前から決まってた――特別な意味を持った出会いってあると思う?』
 以前彼に尋ねた時は期待を裏切られたが、今再び訊けばもう少し違う答えが返ってくるかもしれない。
 胸を躍らせた彼女の耳に聞こえてきたのは、何かが床に倒れこむ鈍く重い音だった。
「え? ちょっと」
 苦しそうに眼光を明滅させている。主のために激闘の後から今まで働いていたが、限界に達したようだ。
 呪文と違い直接体を削ったわけではないため消滅はしないが、休息を必要としているのは主と同じ。
 慌ててベッドに引きずり上げて休ませようとするが、睡眠の必要が無い体なので寝て回復する類の疲労ではないようだ。
「そんなにボロボロだったのに給仕まで……! あんた絶対過労死するわよ」
 結局ベッドの縁に腰かけた彼を見てルイズは額を押さえ、盛大に溜息を吐いた。

 少し時間がたって落ち着いたのか、ミストバーンは普段どおりの冷静な声で静かに告げた。
「お前は部下ではないのだから功績への対価を支払わねばなるまい。何か望みがあれば大魔王様にお伝えする」
「うーん……」
 以前の彼女ならば無茶な要求を突きつけたかもしれないが、今となってはためらわれた。
 あまり即物的なことを求めると、彼との関係を自ら否定してしまう気がする。
 “自分を守れ”“共に闘え”といった内容はすでに大魔王の命令の範囲内に含まれている。
 自分なりの形で認めさせたいと思っているため無理矢理“主人として崇め敬え”と言う気は無い。
(かといって、何も無いのも立場が――そうだわ)
 想いのこもらぬ物品ではなく、彼の意に反することもなく、自分の心を満たすようなもの。
「こ、これからずっと、わたしのためにクックベリーパイを作りなさいよね」
「えっ?」
 ミストはキョトンとして目を瞬かせた。
 貴重書や宝物の譲渡など他にいくらでも選択肢があるというのに、それだけで済ませるのは予想外だった。
 相手の反応が鈍いためルイズは苛立ち、うっかり口を滑らせてしまった。
「だから! わたしのためだけに作ったあんたの手料理が食べたいって言ってんの!」
 叫んだ直後にルイズは湯気が出そうな勢いで赤面した。
 とてつもなく恥ずかしいことを言ってしまった気がするが、もう遅い。
 態度を繕って本心を隠そうとした分のエネルギーが暴走し、とんでもない言葉を吐き出してしまった。
「……わかった。バーン様にお伝えしよう。“これからずっとお前のためだけに私が料理を作る”ことが望みだと」
 どこまでも真面目に答えたミストバーンはルイズの顔色が凄まじいことになっているので首をかしげた。
「あんたのせいよ、ばかっ!」
 ぼふっと枕を投げつけたルイズの顔は真っ赤で今にも泣きそうだ。
(“これからずっとお前のためだけに私が料理を作る”って――! 何で喋るの!? しかも報告まで!!)
 却下するかと思いきや真剣そのものの態度で主に報告すると言い、あまつさえ復唱するとは思わなかった。
 本人から改めて堂々と口にされると破壊力の桁が違う。
 まさに痛恨の一撃だ。
 よく考えると“これからずっと”はまずい。“お前のためだけに料理を”はさらに重大な問題がある気がする。
 訂正するより先にミストバーンは報告するため行ってしまった。
 一人残されたルイズは、恥ずかしさのあまり腕に顔を埋めた。
「あいつ絶対そのまま伝えるわ……!」
 足をバタバタさせながら大魔王の反応を予想する。
 きっと愉快そうに笑うだろう。こちらに楽しげに告げる様が目に浮かぶ。
『あ奴を“修行”させるのも一興かもしれんな。魔界に永住するならば余の部下にならんか?』
「何の修業よ!? それに永住ってそんなつもりじゃなくてハルケギニアに戻るまでって意味でああもうイヤあの馬鹿主従ーっ!!」
 頭を抱えベッドの上でのたうち回る彼女を、窓から差し込む美しき陽光が照らしていた。


 太陽は昇る。
 心が一つになった者達を照らすために。


ゼロの影~The Other Story~完結編 完



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最終更新:2008年10月26日 13:06
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