トリステイン魔法学院が日輪に照らされる。心地よい日の光が人々に起床を促す。
まぶたに光を感じたラーハルトは、おぼろげな意識を覚醒させてゆく。
釣られて目を開けるのは逡巡する。床に敷いてある板の感触を確かめる。就寝時と同じ感触。
あきらめて瞼を上げる。高級さが感じられるクローゼットが目に映った。
右手を握り締め、胸をたたく。そこから伝わる痛みが、ここが夢の中でないことを物語る。自分が異世界にいると確かに認識する。
体にだるさがあるが、無視して起き上がる。窓から差し込む日を受けて、鈍く光を反射する机が目に入った。机の上には黒光りする本が置いてある。
ラーハルトは机に近づき、その本を手に取る。パラパラとページをめくって、ため息と共に本を閉じた。
読めるわけがない。当たり前のことだ。
この世界の文字を習得するほど長居はしたくない。書籍の分析はコルベールたちに任せる他ないようだ。
自身の立場を理解して協力してくれるありがたい存在だ。無論、それだけの存在であり、全幅の信頼を寄せているわけでもない。
まだ、あらゆる可能性を排除していないからだ。だからほとんどの情報は隠したままだ。
そこで思い立つ。ルイズにはある程度の情報を話しておくべきか、だ。
異世界から召喚されたと言っても信じてもらえる可能性は薄い。ラーハルト自身も、俺はこの世界の人間じゃないんだよ、などと告げられても、証拠なしには信じられない。
ラーハルトは証拠になるものなど持ち合わせていない。
ならばダイ様の行方を捜していることだけでも伝えるのはどうか。
ダイ様の母上は一国の王女だ。自身はその方に仕える騎士と説明すれば、嘘にはならない。ルイズは貴族、それも公爵家の人間だ。王女のご子息を探すために隠密行動を取っている、といえば信じてもらえるかもしれない。
証拠はない。しかし、それを見せられないことが証拠とすることもできる。
なかなかの案だと、ラーハルトは手ごたえを感じた。しかし、本当に実行に移すかどうかは踏ん切りが付かなかった。
その原因は、ルイズにこの事実を信じさせる自信がないからではない。ルイズがそれでも使い魔になれと要求する可能性についてだ。
こうなった時、もし、ルイズがダイ様を侮辱するような発言をしたら……自分を制御できる自信はラーハルトにはない。
ルイズは二度と、太陽が天高く上る光景を見ることはないだろう。
現状を動かすには大きすぎるリスクだ。ラーハルトは様子を窺う以外の選択肢を持つことが叶わないのだ。
目を落とすと、自身をこんな場所に閉じ込めた原因がスヤスヤと寝息を立てて眠っていた。
ルイズは、カーテンの隙間か見える太陽に照らされているが、一向に起きる気配はない。
起こす義理もないか、と考えたラーハルトだが、昨日のように怒らせたらまた面倒なのでベッドのほうに体を向ける。
完全に熟睡しているルイズに視線を落とす。その寝顔は、年相応のあどけなさが見て取れる。昨日、あれだけ暴れたとは思えない顔だ。
「ルイズ、朝だ。起きろ」
声を掛けるが、まったく反応しない。もっとでかい声を出そうとして…寸でのところで止める。隣室の住人に迷惑だ。
よって毛布を引っぺがした。これなら迷惑はかからない。寝ている当人以外は。
「な、なによ!なにごと!」
ルイズは突然の出来事に体を跳ね起こした。きょろきょろ首を振ると、寝ぼけた頭では記憶に浮かばない人物が立っていた。
「だ、誰よ、あんた!」
ルイズは枕を胸に引き寄せて、身を守る体制に入った。
枕をギュー、と抱きしめた格好とふにゃふにゃした顔のせいで何かいけない雰囲気を放ってる。
無論、ラーハルトがそれを意識することはない。それよりも、自分の認識の低さ加減にムカつきを覚えている。
「ラーハルトだ。忘れたか?」
ルイズは、一時、記憶を探る仕草になる。召喚した責任を感じていない少女に、ラーハルトは気が滅入りそうになる。
「ああ、使い魔ね。き、昨日召喚したんだっけ」
「そうだ…」
相手のことなど意に介しない言い方に、拳を握り締めるが、それだけにしておく。
そこに、イラついた心を少し和らげるものが見えた。ルイズの瞳が、昨日のように漆黒ではなくなっていたのだ。とりあえず、危険は去った。
もっとも、その時間はすぐにでも儚く散ってしまうかもしれないが。
意識がはっきりしてきたルイズは起き上がると、ベッドの上に仁王立ちした。偉そうに腕も組んでいる。
「あんたに命令。服を用意して、私に着させなさい」
人に服を着せるなど、下僕と同等の扱いである。ラーハルトは眉間にしわを寄せる。危険はないが、イラつきに耐える必要はあるらしい。
「そのくらい自分でやれ」
「ダメよ。貴族に下僕がいる時は自分で服なんか着ないのよ」
ラーハルトの眉毛が小刻みに振動する。
「どうしたの?早くしなさい」
ルイズはずいっと体を前に出して己が強いと言わんばかりにラーハルトを見下ろした。
ルイズに譲歩の意思がないことは、昨日のことで脳味噌に染み込んでいる。ラーハルトはため息をついて、クローゼットに足を向けた。
「わかった……どこに何があるか指示を出してくれ」
ラーハルトがクローゼットから服を出して振り返ると、両腕を胸の前で振っているルイズが見えた。どうやらガッツポーズらしい。
ラーハルトはこの場に武器がなくてよかったと思った。あったらルイズの体が中心から二つに分離している。
ルイズとラーハルトが部屋を出ると、同時に隣室の扉も開いた。中から出てきたのは、燃えるような赤い髪の女性、昨晩部屋に怒鳴り込んできた人物である。
褐色の肌と男ほどもありそうな背丈。たいていの男にとって、魅惑の光線を放つ大きなバスト。服装からも、その物腰からも、艶かしい魅力が見て取れる。
女は、ルイズがいるのを見ると、わざとらしいほどに大きなあくびをした。
「ふあぁぁ~~~~。誰かさんのせいで眠いわ」
そう言われても仕方がない、と思ったのはラーハルトだけだった。
「睡眠妨害はあんたでしょ。いつも男連れ込んでいちゃいちゃして」
ルイズは平気で地雷を踏んだ。キュルケは勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「それもそうね。毎日大変なのよ。男が寄ってこないヴァリエール家がうらやましいわ~」
ルイズにとっては忌まわしき、ヴァリエール家の歴史を皮肉られて、顔が真赤に染まる。
「うるさいわね!色ボケのキュルケ!」
「どうしたの?そんなに怒っちゃって。ゼロのルイズ~」
ルイズは両拳を、手が真っ白になるほど握り締めている。ルイズが手に力を入れれば入れるほど、言い返すことができなくなってゆく。
ルイズの姿を楽しそうに見ている女性、キュルケはルイズの傍らにいる亜人に目を向けた。
「あんたがこの娘の使い魔?亜人なんて珍しいじゃない」
「らしいな」
キュルケはラーハルトの言葉を聞き流し、スッと人差し指を唇につけた。
「そういえば、ルイズ。あんたこいつと契約できたの?なんか揉めてたみたいだけど。ず~~と」
ルイズの顔が苦々しくなる。ラーハルトと同じ部屋にいたのだから契約は済ませたと思われてる、なんてことは楽観論だと思い知らされる。
「で、できたわよ。こいつは私に忠誠を誓っているわ」
ルイズ自身、嘘はつきたくなかった。でも、ばれたら終わりだ。最悪退学になる。それだけは絶対回避しなければならない。
だから、偽りの関係を認めるしかないのだ。
当然、釈然としない気持ちは残る。それが表に出てしまった。
胸を張って、堂々とした格好だけでは人を信じさせるには至らない。
そのため、キュルケは使い魔の証明を確認しなければならなくなったのだ。
「なら、使い魔のルーン見せてよ」
ルイズの体が石化する。最もまずいことを問われたからだ。何も知らないラーハルトは静観しているだけである。
「どうしたの?契約したなら、使い魔の体のどこかにルーンが刻まれるでしょう?」
ラーハルトの額に冷や汗が流れているのが見えた。どうやらあっちも話を理解したらしい。
石化したルイズが首を回す。錆びた歯車の音でも聞こえそうなくらい滑らかさがない。
「あああああああるわよ。あるあるある。ね、あああ、あんた」
「ああ、あるぞ」
ラーハルトの表情に変化はない。冷や汗も、もう流れていない。見事なポーカーフェイスだ。一方、ルイズは内心がそのまま表に出ている。
「ほ・ん・と~?」
完全に疑われている。このままでは、ばれるのは時間の問題だ。妙案が出てこない。その場の機転もゼロかと、意識が底なし沼に沈んでいく。
「見せてよ~。ルイズ~。つ・か・い・ま・の・ル~ン~」
完全に追い詰められたルイズは生まれたての小鹿のようにぷるぷる体を小刻みに振動させている。
どうにか誤魔化さないといけない。でもそんなものは…その時、あるものが目に入った。
それが脳に伝わった瞬間、ルイズに頭に閃光が走った。閃光はルイズの嵌った泥沼を吹き飛ばす。
目が覚めたように思考がぐるぐる回転する。回転が激しくなるにつれ、パズルのように打開策が組み立てられてゆく。
しかしここで待ったをかけるものがあった。
私は王家とも繋がりのある名高きヴァリエール家の三女。こんな卑猥なことを口にしていいのか。
ここで組立作業がストップした、に思われたが、すぐさまリスタートしろと、津波のように誰かが叫んだ。
ここで止まったら必ず嘘が暴露される。そうなったら、馬鹿にされ、教師呼ばれて落第確定、そして退学である。
ルイズにとって死ぬより恐ろしい三連コンボ。そうなったら名誉もへったくれもない。
ルイズの中で天秤が揺れる。
あきらめて、正直者として死ぬか、嘘をついてでも貴族の体面を守るか。
ルイズはトリステインの貴族、嘘をつくなど心が許さない。それもゲルマニアの、因縁深いツェルプストー家の人間には。
でも、真実を明かしたら、ルイズの貴族としての生活は終わる。あの家は、退学をした恥さらしを迎えることはない。
貴族は貴族の地位にあってこそ貴族。それを捨てることはできなかった。
最後のワンピースが嵌る。ルイズは意を決して、自分は貴族だ、と誇らんばかりに胸を張った。
「キュルケ!使い魔のルーンはあるわ!ここにね!!」
左手で、ビシィィッ、と指したその先にあったのは……
「…おい…」
ラーハルトの口から愚痴がこぼれる。ルイズの指の先にあったのは、ラーハルトの股間だ。
「ここよ!ここに使い魔のルーンが刻まれたの!」
天高らかに大変いかがわしいことを叫んだ。
ラーハルトの眉毛がひくついている。キュルケに至っては顔が埴輪のようになっている。開いた穴から感情がすっ飛んでいったかのようだ。
「キュルケ!使い魔のルーン見たいんでしょ。なら見せてあげるわ!!」
埴輪に人間らしい顔のパーツが戻った。この場を犯罪現場にすると同義の発言が、キュルケの理性を復活させた。
「いいいいい、いいわ!うん。ご、ごめんね、変なこと聞いちゃって」
常に余裕の衣をまとっているキュルケの呂律が回っていない。額から大量の脂汗が流れている。
「見せろって言ったのはあんたでしょ!逃げることは許されないわよ!」
実際に逃げている、ルイズの目は本気だ。このままではこの場にいる全員が登ってはいけない階段に足を踏み入れることになる。
ルイズがラーハルトの下腹部に手を伸ばしたのと、キュルケが逃げの体制に入ったのは同時だった。
「あ、あ、そうだ。も、もうすぐ朝食よね~。はは、早く行かなきゃ~」
「なによ!逃げる気ね」
「フ、フレイム~。行くわよ。早く出て来なさ~い。うん、早く、早く!」
キュルケの部屋の扉から、真っ赤な体と尾に炎を宿す大きな火トカゲが現れる。
キュルケは使い魔と共に一目散に逃げていった。
「ふん。せ、折角ルーンを見せてあげようと思ったのに。何よ、あの女」
ルイズに悪びれた様子はない。むしろしてやったりと思っていそうだ。
「他にやりようはなかったのか…」
表情こそ崩していないものの、発している殺気は竜をも殺せる。へたな侮辱よりよっぽど失礼なことをしたのだから当然である。
「うっさいわね!これはあんたのせいなんだから!」
ルイズに人の怒りを感じる神経はない。ラーハルトがそう判断するほど、ルイズは見事に逆切れした。
今までルイズの傍若無人な振る舞いに耐えてきたラーハルト。その我慢もそろそろ限界だ。
ラーハルトが右手を振り上げる。ルイズに平手打ちをかまして、自身の行いを省みさせるために説教をしてやろう。
ルイズの性格なら、手を上げたことに激怒するだろう。
それも喧しいカラスの程度だ。女一人黙らすことは造作もない。
「ルイズ……」
子供を諭すような、叱るような、暗い響き。
ルイズはまだ何か叫んでいる。ラーハルトの耳には入らない声。彼は右腕を振った。
「よくも私に嘘なんかつかせたわね!絶対許さないんだからぁ……」
ルイズの金切り声に似た叫び声が響き渡る。叫んだ拍子に、ルイズに瞳から何かが飛んだ。それが、ラーハルトが振り下ろす腕をせき止めた。
ルイズの鳶色の瞳が震えている。瞳が震えるたびに、涙があふれ出てくる。瞳は涙で満ち、今にもそれはあふれそうだ。
「あんた最低よ!使い魔のくせに自分のことばっかぁ……」
ルイズの声が震えている。何を言っているのか判別できないほどに。
ルイズの言葉が、振り乱した桃色がかったブロンド髪が、そして、悲しみで歪んだ顔がラーハルトの胸を突く。
自分のことばかり考えている。
この世界に飛ばされてからの自身の言動を思い返す。
なぜ、ルイズと契約を結ばない。なぜ、他者を欺くことを許容した。
それは自分が本来いるべきに世界に脱出するためだ。それが竜騎衆の使命だからだ。そのために多少の犠牲も厭わない。
それで心を痛める人間がいても、やむを得ないことだ。運が悪かった、と諦めてもらうしかない。
だが、ラーハルトの腕は動かない。
自分のことばかり考えているのは、むしろルイズのほうだ。それでもラーハルトは体が言うことを聞かない。
ルイズの何かに気圧されたのか、自身の中に枷を掛けるものがあるのか、ラーハルトにはわからない。
ラーハルトの右腕が力なく落ちてゆく。
ルイズはラーハルトの視界の中にはすでにいなかった。
辺りを見渡すと、廊下の遥か先をルイズが歩いているのが見えた。
ラーハルトは行き足の鈍い体にに活を入れる。ルイズを追いかけるために力を込めて歩き始めた。
ルイズの露出魔的な凶行から逃げ出したキュルケは、疲れを和らげるため壁にもたれ掛っていた。
キュルケの額から大量の、一種類ではない汗が流れ続けている。それに、動悸が早くなって、体が火照っている。心配そうに近付くフレイムの熱気が鬱陶しい。
キュルケは体温を冷やすために、ブラウスにボタンを外す。一度でいいから顔をうずめてパフパフしたい、キュルケの胸の谷間があらわになる。
流れる汗と少し湿気を帯びて肢体に張り付くシャツがなんとも扇情的だ。
キュルケはボリューム満点の胸に手のひらを合わせ、呼吸を整えた。
頭の熱も取れてきた。冷静になったので、キュルケは先ほどの出来事を思い返す。
数秒もしないうちに、今度は別の熱がキュルケを沸騰させた。
「何が使い魔のルーンはここよ!あんなの嘘に決まっているじゃない!」
キュルケの怒りの炎はフレイムまで焼き尽くさんばかりに猛っている。
ルイズに騙されたこともそうだが、ヴァリエール家の人間相手に退却したなど、キュルケのプライドが許すはずもない。
「やってくれたわね、ヴァリエール。この借りはきっちり返すわよ……」
微熱が激しい情熱に変わる。キュルケの目が狩人のそれに変貌した。
ルイズは大扉の前で足を止めた。そこが目的地のようだ。
ここの到着するまで、ルイズとラーハルトは一切の会話どころか、顔を合わせることすらなかった。
ルイズは扉の脇でだんまり。ラーハルトはルイズに近づくことすらできないでいる。
ただならぬ様子を感じたのか、何人かの貴族が様子を窺っている。
「何をしている。朝食の時間だぞ」
扉から姿を現したのは黒いローブで身を包んだ若い男だ。年齢はルイズたちよりずっと高く見える。ここは学校なのだから教師なのだろう。
催促された貴族たちは、次々と扉の中に消えていった。男の発言から推測するに、この部屋は食堂らしい。
廊下にいる人間がまばらになる。それでもルイズは凍りついたように動かない。
ルイズはその場に誰もいなくなっても佇んだままだ。
ラーハルトは、さすがにまずいと思い、横たわる壁をこじ開けるように声を掛けようとした。
「ラーハルト……」
その気配を察知したのか、ルイズが口を開く。その声は、昨日の夜のように暗く沈んでいる。
「なんだ……」
つられるようにラーハルトも応対する。
「あんた、私と契約する気ある……」
ラーハルトの答えは決まっている。できるわけがない。なのに、彼は口を閉ざしてしまった。
「何よ、黙っちゃて。悪いことしたとでも思ってるの。今さら遅いのよ」
ラーハルトは言われるがままだ。いまだに感じる妙な圧迫感が、彼の反論を奥底に閉じ込める。
「何か言ったらどうなの。都合が悪くなると口も利かないのね。あんたって本当に勝手だわ」
ルイズはラーハルトの食事を抜くことを告げた
食事を抜かれたラーハルトは外にいた。食堂で食べれないのなら、自ら調達するまでの話。
歩調がやや速いことに気づき、歩みを止めて顔を上げる。顔にかかる光が眩しい。
太陽が照らしてくれるのは目に見えるものだけ。暗く霧の掛かった心は晴れることはない。
どこの世界でも太陽は同じだ。
前を見据えてまた歩き出す。食料は学院の外で調達する。土地勘は、あるわけないので遠出はしない。
出入り口を探すのは面倒なので、そびえ立つ石造りの塀を飛び越えることにした。
そろそろ助走を付けようと、歩みを速めようとしたら背後に人の気配を感じた。
振り返って視線に入ってきたのは、少女だった。
「どうなさいました?」
ラーハルトの後ろに立っていたのは、ルイズより幾分年が上に見える女だった。
黒髪をカチューシャで纏めている。服装からして、位の高い家で働く、メイドと呼ばれる使用人だ。
「主人に飯を抜かれてな。食料調達だ」
「主人?あなた、もしかしてミス・ヴァリエールの使い魔になったていう……」
「らしいな」
「やはりそうでしたか。召喚の魔法で亜人を呼んだって。噂になってますわ」
女はにっこりと笑った。それが一歩引いた笑顔であることをラーハルトは見逃さない。
異世界から召喚されたのだから、珍しいのは当たり前だ。そもそも自分は招かれざる客なのだ。
「それで、何か用か?」
「い、いえ。亜人の方が学院にいるので気になって……」
「そうか。邪魔をしたな」
用もなさそうなので、ラーハルトは踵を返して脚部に力を溜めた。
「あ、ま、待ってください」
女が再び呼びかけてきた
「なんだ」
「あの、これからお食事なんですよね?」
「そうだ」
食料を探すのを手伝うというつもりなのだろうか。ラーハルトにとってはありがた迷惑である。人間の力を借りたとしても、足枷になるだけだ。
「なら、厨房で召し上がりませんか?私が頼めば聞いてくれるはずですから」
シエスタの申し出は、ラーハルトにとっては嬉しい期待外れだった。
なんと食事を振舞ってくれるらしい。ありがたい話なので、ラーハルトは好意に沿うことにした。
「なら、案内してくれ」
「はい!」
女は元気良く返事をして、ラーハルトを厨房へ連れて行った。
「旨いな」
ラーハルトが食べているのは、パンと冷たいスープだ。どちらも余り物らしい。
「よかった。お代わりもありますから。ごゆっくり」
女の名前はシエスタという。トリステイン南部の村出身で、この学院で貴族の奉公をしていると言った。
「ご飯、貰えなかったんですか?」
「主人の機嫌を損ねたようでな」
「まあ!貴族を怒らせたら大変ですわ!」
大変だからここにいる、とラーハルトは口には出さない。
先ほどと違い、シエスタはずいぶん親しくラーハルトに接している。脅威でないとわかれば、余り細かいことは気にしない性格なのかもしれない。
完食したラーハルトは空の皿をシエスタに返した。
「旨かったぞ。感謝する」
「よかった。お腹が空いたら、いつでも来てくださいな。私たちが食べてるものでよかったら、お出ししますから」
この先、食糧事情に困るラーハルトには都合のよい話だ。よって、二つ返事で願い出ることにした。
食器を洗い終わったシエスタは、片づけがあると言って厨房を後にした。
ラーハルトも後を付いて行き、食堂へと続く扉の前で別れた。
シエスタの話によると、貴族は朝食後、教室に移動して魔法の授業を受けることになっている。その際、可能ならば使い魔も同席するようだ。
教室がどこかわからないので、ラーハルトはルイズの下へと歩いてゆく。
ラーハルトは先ほどの出来事を思い出していた。
事実無根のデマを言わざるを得なかったルイズは泣いていた。自分勝手だと、ひたすら自分を非難した。
ラーハルトからすれば、ルイズも相当利己的なことをしている。
しかし、ルイズにそう指摘することはできなかった。今も、ルイズに何か言う気にはなれない。
自分勝手。
そうだ。ルイズはなにも知らないのだ。俺は一切の情報を与えていない。ならば、ルイズから見れば……
ラーハルトは思索に耽るのをやめた。それを認めたら、自分の心を支えているものに傷かつくと思えたからだ。
俺にはやらねばならぬことがある。そう、心に強く刻み込んだ。
それでも、ラーハルトの心は霧で包まれている。
最終更新:2008年08月29日 03:13