6 メイドと獣王
学院付きのメイド、シエスタの朝は早い。
より正確に言えば、学院付きのメイド全員の朝は早い。
空が白み始める頃に起き、身支度を整え、彼女たちは日常という名の戦場へ向かわなければならないのだ。
ある者は食堂を清掃し、テーブルと椅子を整え、食器類を準備する。
ある者は厨房に入り、洗い物用の水を汲み、野菜や果物の下拵えをする。
ある者は就寝前に出された洗濯物を全て回収し、分別し、洗い、干す。
トリステイン魔法学院で生活する300名以上の貴族たちを支えている存在。それが彼女たちメイドというわけだ。
今朝のシエスタは洗濯の当番であった。
ただ一口に洗濯と言っても、ただ洗って干すだけでは終わらない。
なんせ相手は貴族である。
着ている服は平民の手が届かない高級品で、当然の事ながら洗濯するには手間が掛かる。しかも量が多い。
さらに注文や文句も多い。男物と女物は別々に洗えだの(知りません)、縮まない生地なのに縮んでいるだの(太っただけでは)、なんか色移りしているだの(気のせいです)。
服が乾いたら今度は持ち主ごとにまとめ、丁寧にたたみ、返却する。うっかり間違えて返却した日にはエラい事になるので注意が必要だ。大きく名前でも書いといてくれないものか。
極端な話、汚れが落ちていないだけで魔法が飛んできてもおかしくない職場なのだ。一瞬たりとも気は抜けない。
まあそんな事を言いつつも仕事の中に楽しみを見出していくのが人間というもので、シエスタもその例に洩れなかった。
季節は春、早起きすると朝の空気が新鮮で、水も温かくなってきたから洗濯するのもそれほど辛くはない。
洗濯場は日当たりの良い広場に設けられていて、草が芽吹くこの季節は故郷のタルブを思い出させた。
(今月のお給金が出たら帰省用のお土産を買いに行こう。弟妹たちはなに買っていったら喜ぶかなぁ)
(8人兄弟の長女がそれなりに給金の良い職場で働けるのだから、わたしは運がいいよね。寒村だったら家族の誰かが口減らしの対象になっていたかもしれないし)
タルブでは良質なブドウが採れる。この地のワインは好事家の間で評価が非常に高く、村の収入が安定している為シエスタの家の様な大家族でも無理なく生活する事が出来ていた。
では何故シエスタが働きに出ているのかと言うと、嫁入りの時に割と箔が付くだろうと両親が勧めたからである。
難しいお年頃の貴族が沢山いる学院でメイドを勤め上げたんだからいいお嬢さんに違いない、というわけだ。
その話が出た時は今から結婚の心配をしてもなあとシエスタは思ったものだが、今は両親に感謝していた。
ここに来たおかげで料理や掃除、洗濯に関する家庭では教わらない類の知識を学ぶ事ができた。さぞかし嫁入り先では重宝されるだろう。
あと同室の仲間に勧められた本も田舎にいては手に入らなかった。ビバ都会。家庭では教わらない類の知識を学ぶ事ができた。さぞかし嫁入り先では重宝されるだろう。
(それにしても第二章はすごいなー)
なにがすごいのだろうか。ツッコミ不在のまま、彼女は集めた洗濯物を手に洗濯場へ向かうのだった。
洗濯場には先客がいた。
同僚ではない。あんな大きな同僚はいない。というか同僚の中に尻尾が生えている者はいない、多分。
昨日学生寮で遭遇しているので正体は既に判っている。シエスタは笑顔で話しかけた。
「おはようございます。こんな処でどうなさったんですか?使い魔さん」
「おはよう。少しこの辺りの散歩をしていたんだが……あー……」
「シエスタ、です。お見知り置きを」
「クロコダインだ」
クロコダインは、シエスタが先客の存在に気づく前から誰かがこちらに向かっているのが判っていたようだが、やけに物怖じしないこのメイドに戸惑ってもいた。
「お散歩ですかー、この季節は早起きすると気持ちいいですからねー。あ、ミス・ヴァリエールはまだ寝ておられると思いますけど」
シエスタは話しかけながらも洗濯の準備をしていた。そろそろ同僚たちもここに集合してくるだろう。
「主どのはまだ寝ているのか」
「ミス・ヴァリエールだけじゃなくて、殆どの方は寝ておられると思いますよ」
こんな時間に起きているのは使用人だけです、と笑う。
「シエスタは主どのとは仲が良いのか?」
クロコダインがそんな質問をしたのは、おそらく昨日ルイズの部屋の前で見たシエスタの喜びっぷりが印象的だったからであろう。
「仲が良いというか、わたしが一方的に尊敬しているというか、そんな感じなんですけど」
「尊敬?」
「ええ、あの方はわたしを名前で呼んで下さるんです」
よくわからん、という表情のクロコダインに、シエスタは仕事の手を休めて言った。
「ここで暮らす貴族の方々は使用人の名前など決して覚えたりはしません。名前を覚えなくとも問題はないんです。用がある時は『おい、そこのメイド』とでも言えばいいんですから。
きっと貴族様にとって平民は名前を覚えるまでもないモノなんでしょう。
だけど、ミス・ヴァリエールは違うんです。なにか申し付けられる時も、必ずわたしの名前を呼ばれます。『平民のメイド』ではなく、『タルブ村のシエスタ』として」
一度シエスタは言葉を区切る。そして、慈しむような、包み込むような笑みを浮かべ、続けた。
「ミス・ヴァリエールはわたしだけでなく、この学院で働く全てのメイドの名前を諳んじておられます。何故そんな事をするのか尋ねたらこう仰られました。
貴族は平民を守り、平民は貴族を支える。支えてくれる者の名を覚えるのは当然だとご両親に教わったから、この学院に来るまで他の貴族も自分と同じ様にしていると思い込んでいたそうです」
その時のやり取りを思い出したのかクスクスと笑うシエスタであったが、不意に真面目な表情でクロコダインに頭を下げた。
「正直な所、全ての使用人がわたしのようにミス・ヴァリエールを尊敬しているわけではありません。魔法が使えないからそんなポーズをしているんだという人もいます。
同級生の方々にもいろんな事を言われているのか、ここ最近は笑顔を見せられるのも少なくなっていました。
ですから、どうかミス・ヴァリエールの事を、守ってあげて下さらないでしょうか。
今回召喚の魔法を成功されて、しかもクロコダインさんの様な立派な使い魔と契約できた事で、そんな風当たりも少しは弱くなると思うんですけど……」
語尾がどんどん小さくなっていったのは、自分が凄く僭越な事をしているような気がしたからだ。
一介のメイドが公爵家の人間を心配するなど、昨日のルイズのセリフではないが、それこそ不遜なのではないか。
慈母の様な笑みを見せ、少女らしくコロコロと笑い、大人びた真剣な表情をしたかと思うと、今はなにか落ち込んでいる。
くるくると万華鏡のようにその表情を見せるシエスタに、クロコダインは太い笑みを見せた。
「人間というのは、やはりいいものだな」
「え?」
「使い魔というものは、主人の目となり、手と足となり、そして盾となるのが役目なんだそうだ。オレのようなものにはうってつけの役目だとは思わんか?」
シエスタは、輝くような笑顔で「はい!」と答えた。
遠くから同僚がやってくるのが見える。軽く手を上げ立ち去る大きな背中に、シエスタは言った。
「洗濯が終わったら厩舎まで行きますので、待っていて下さい!ミス・ヴァリエールのお部屋までご案内しますから!」
2人が部屋まで赴くと、ルイズはまだ夢の中にいた。案の定である。
ノックをしても返事はない。不用心な事に鍵はかかっていなかったので、ドアを通れないクロコダインには待っていて貰い、シエスタは部屋の主を起こしにかかった。
「ミス・ヴァリエール。起きて下さい。もう朝ですよー」
「うー……もうちょっと……」
「ダメですよ。遅刻しちゃいますよー」
「だいじょうぶー……あと一週間くらいー……」
「どれだけ寝るんですか!寝る子は育つってレベルを通り越してます!クロコダインさんも待ってるんですからー!」
途端、ルイズは跳ね起きた。使い魔との約束を思い出したらしい。
これからは起こすのが楽になるかな、とシエスタは思った。
本人はまるで気が付いていないが、それは公爵家令嬢に対するメイドの感想ではなく、弟妹に対する長女のそれであった。
最終更新:2008年07月07日 16:05