2011.9.14B
人物のえり好み
朱華のメンバーは戦闘したい人が集まった部局でもあって、動き自体は各人が動けた。
ただ、各部局から一方的に抜けた人の集まり、でもあって内心不満を抱いていた人も多いのではないか。
筆者も交流部曲戦近辺の事があって多少はおいおいと思う事もあったのだが、
ほとんど気にしないでいた。
指揮を務めていたカリンマンは頑固な部分があった(まぁ一兵隊から正面衝突しあったほうがいいんじゃね?なんていわれたらむっとして当然だがw)
但し、思考は柔軟で、視点は抜群であったので何が効率いいか分かるだろうと感じた。
効率が良くなりすぎて作業に近くなっていたのが移籍の原因でもあるみたいだがw
移る時は非常にがっくりきたが、同時にそれでもなお、魏が勝つだろうという分析していた。
(負けると思ったらもっと強引に止めていたw)
最大の理由は本体と遊撃の関連、その強度と動きからである。
朱華が好むのは遊撃っぽい動きであったのだが、本体が弱い呉では立ち行かず。
かつ人気の面で遊撃部隊が人数を確保してしまって本体が余計に細くなるだろうとも予想していた。
連合で言えば、野良や志在が好みだった。
彼らはどんな連合でも支援して、連続突撃をあわせてくれるのだ。
有効度では本体といわれるおでん連合もそうだったが、
彼らは自分達の考えが合わない所にはあわせる必要がないという空気があり、
なんとなく苦手であった。
全く参加していない訳ではない。何度か参加した事がある。
動きは明らかに動ける人物である盟主がありえないぐらい前方を突っ走ってその後ろに連合員が続く。
出足が遅いため、十分な戦果を上げる前に引く。
本体は壊滅したらだめという事をいっていたが、はっきりいうと出足が遅いだけでチャンスを逃しているだけに見えた。
我々が参加したときは我々と盟主だけが先頭を突っ走って敵とじゃれあって引く。
もうちょっとで倒しきれそうで回復される。その後味方が来るまで頑張って死ぬと死んだらダメと言われる。
出足が早けりゃ先に倒して即引くだけだって言うのに。
そんな場面ばかりが数度あって、こりゃストレス溜まるなと思った。
黄河鯖でロザン魏の宣伝を少しやって、
泰山にもキャラを作って宣伝しようとしたら、泰山に
突撃連合のなんたるかを教えるとかのレスがあって大量にロザン民がいたので
そこの部局に入る。まぁ人数多い方が連合として動けるし。
泰山の人は非常に熱心な人が多く、るうみんが連合の説明をしていた時は、
パンダ園のまわりをずらーーーっと囲むほどの人がいたのが印象的だ。
泰山蜀は人数が多い割りに弱く、同じく勝利に飢えていたともいえる。
この後、泰山蜀は猛烈に成長して勝ち始めるのだが、教えに来てやったという雰囲気への反発とか
突撃連合長が中心になって全体指揮を取る事への不満(それは自分の好き勝手できないという凄い理由ではあるのだが)
からかぎくしゃくしはじめることとなる。
それと前後して十分に強くなったと次はメンバーの大半が呉にいき、
呉も突撃連合を採用していくにあたり、勝ち負けの想定が難しくなった事もあるだろうか。
話は変わってメンバーはおでん組が多かったのでやはり不満が残り、
結局として筆者は蜀に戻った。
蜀での連合は馬さんの連合がほとんどだった。この連合は大部隊で奥地まで押し込んで押す場面を作る部隊であったが、
盟主の馬さんは相手の攻勢をみて城を超えて逆方向から奇襲をきめるほど戦場の空気を読める人であった。
同時に連合員がトドメをさすのが好きな人が多いようで、出足もするどく、筆者が慣れ親しんだロザンの時と同じ感覚で動けた。
筆者にとってはストレスレスな部隊であった。
ロザンに戻ると
野良の方は安定していて、予想がしやすい反撃、それも大抵大規模になるのだが、
それに激突してつぶしあうスタイルが多かった。
野良しか出来なかったともいう。
一度夏休みに解体したのだが、いないと話にならないほど押されて負けた。
それほどに相手の大部隊と激突しあって引かない部隊というのは重要なのだ。
志在は11月ごろは安定しだしていたが、それ以前は我々試行錯誤を思い出させるような動きをしていた。
各員は部局戦最強と呼ばれるほどに優れたメンツにもかかわらず、どこか轢いて轢かれるという感じか。
後詰として敵の大反撃と激突する可能性が高ければ高いほど、その火力とチームワークが生きた感じがした。
さて筆者は空気が合わなかったおでんだが、
非常にしぶとく、潰れないので戦線がそこを中心に構築される。
敵も味方もその辺に集まるのだ。
大体奇襲がまずヒットする。勿論その間に潰れない本体があるからこそ奇襲が出来、生きるのである。
逆に言うと、おでんの優れた所は奇襲を受けない所である。
少しずつ位置を替え、同数以上の相手と激戦を繰り返しているのに潰れず戦い続けている。
それがあるからこそ、遊撃で大戦果も上がるのであって、
本体が脆けりゃ、相手も好き勝手に動いて奇襲などなりたたない。
いつだったかな、渓谷で6000Pほど稼ぐ奇襲を決めた事がある。
呉の人が自戒の意味をかねて残していた動画だ。
これも野良を含めおでんが正面方向でずっと戦っていたからで、その重要性を忘れてはいけない。
遊撃をするなら本体が強固、メンツの大半がよどみなく動け、盟主の意図を感じ取れる。
盟主が抜群。全体的に動きが機敏で、何度も奇襲できるようでないとやるべきではない。
本体の方は、動きより数が勝負。そのため出足が遅くなるのは仕方ない。
そして死なずに戦線を構築し続けられる。
そう判断すると理にかなう。
面白いのは遊撃であるが、遊撃はよほどでないと不要。
文字通り圧倒的な戦火を稼がないと反論にはならないだろう
2011.9.14
人数の確保、やる気
当時のロザン魏の人口はダントツの最下位だった。
ロザン 魏400、呉600、蜀700
泰山 魏500、呉700、蜀900
このぐらいの差があった。そして戦争は500人制限であった為、500に足りないと単純に戦力不足と言う事になる。
これは運営側もよく把握していて最初は300人だけ入れるとか、時間差合戦にするとか色々調整をしていたようだ。
三国志で一番難しいなと思ったのは○○のファンだからとか○○の武将が好きだからというのが大半な事だ。
つまり開戦時には人口が決まっており、移籍もまず考えられない固定観念が非常に強すぎた。
今でこそ魏や呉の人物を主人公にした物語や書物が多いものの当時の三国志とは三国志演義しかなく
蜀最高、魏死ねというのが普通であった。
悪の軍団の宗主曹操死ぬべしと言うのが流れている動画すらあって、思っていた以上に蜀派が多かった。
想像でしかないが、三国無双と言うゲームで各国の人物を魅力ある人と表現できたのではないかと考えていた運営にとっても
誤算だったのではないか。
結局の所、3陣分散すると150VS250が3つ出来るだけという状態でもあり、
1陣集中で戦おうじゃないかと言う話になっていた。
ただ三onは合戦ゲームであり、敵が居ないとやる意味がなくなる。当たり前の話だが1陣集中するとして相手もそこに来たがるのである。
やる気のある敵に限って、情報を収集したりスパイを送りこんだりしていた。
このスパイが見かけ上、魏もそれなりの人数が居るように見せる事となっていて凄い弊害があった。
何しろ場内のスポットで突っ立ちっぱなしの兵隊が50人もいたりするのだw
それが居場所を知らせているのだから勝てるものも勝てない。
狙い目を報告すると敵の方が既にそこに集合していると言う悪夢ばかりであった。
人数が多いと当然ゲームに関しても上手い下手が出る。
やる気のある奴ほど上手いというか熱心でもあって、上手いも下手も全部集めて戦うとなるとやはり差はあった。
また蜀ではGB。呉ではコウキンという25人突撃を早々に達成できた部隊があり烏合の衆では文字通り轢かれるだけの世界だった。
魏でも連合を組むと言う話は色々あり、
部曲戦を頻繁に行っていた所同士で合流したりしていた事もあった。
腕が立ち熱心であるもの同士ゆえに意見の衝突があったらしく早々に分かれたようだが・・・
まぁそれはうわさの域を出ないし、結局の所、彼らが戦果を稼いでもそれに数倍する雑兵が戦果を上げられていたら意味が無い。
腕が立つ奴が下手糞を率いて戦えるようにしなければならない。
一つの案がありマラソン作戦と城門突破作戦が5.3~5の黄金週間で実践された。
城門突破は奇襲成功したが、指導したほうも奇襲であるとよく認めていて別の方向を模索していたのは優れたメンツが揃っていた。
マラソンは賛否両論があった。筆者自身は下手なメンツを動かそうと努力していたのは評価したい。
とにかくまとまって何か行動をする。単純なようでこれが出来ない。
連合を組むにしても向き不向きがあり、追尾に猛烈な拒否感を示す人もいる。
満足に動けない人もいる。
1陣集中で色々やろうとしてはいたが、それぞれの拒否感からか別陣に参加する人も増えていた。
それを強制するのは簡単だが反発させると余計に人が減る。
もう勝手にやろうやないか、その一言の難しさがあったなぁとおもう。
結局ばらばらに自分達の連合を育てる所から始まったか。
参加してくれる人は自分にあった、考えも賛同してくれる人が集まるわけで、それぞれの特色の下に成長していけたと思う。
一言の重さ、難しさは泰山蜀でよく知った。
最初は一ブログで指揮の硬直の懸念などを上げただけだったが、揚げ足取りが、それは上から目線とか連合に入っていない奴はPPとかいうのが
某掲示板で流れ出してからぎくしゃくしだした。現実的な話をすれば本当にPP以外の何者でもなく笑い話でしかないのだが、
そういう揚げ足取りが居る可能性があったのは確かだ。
同時に敵国も突撃連合を採用し始めたわけで、油断すれば負けるという状態になっていた。
ロザン魏が特殊すぎたのは残った面子、新たにやってきてくれた面子がほとんどが突撃連合への拒否感が少なかった事だろう。
そしてこれもありがたい事だが、拒否感があったけど反論できずに不満が出来るのを後方支援隊が引き受けていた事だろう。
採集、罠、やぐら、砦。兵器の足が遅すぎて役に立たなかった事もあり、まさに突撃連合以外はゴミでしかなかったのだが、
それ以外のことをこういう目的でこなしますという発信源になり、直接的な不満がはかれにくい環境を作った。
具体的にいうとやぐらも罠もぽつっと作るだけでは微妙すぎて役に立たず、採集など不要と言う声が確かにあったのだ。
その反論を封じるにあたり、大量に採集して大量に罠作って足止めさせるなどは地味ではあったがうざい働きをしていた。
大体押される事になるのだが、押されて戦う所にやぐらが大量にたっていて吹いたりした事も合った。
役割としては本当に地味なのだが、精神的に壮観で、敵もなかなか突っ込みにくいようであり、罠も見渡す限り罠だと流石に色々考えるみたいであったw
呉でも同様の事をやったようだが、一番効果的だったのは、うまく作るではなく、人に仕事を与える環境を作ったことだろう。
この役割宣言はとても貴重なもので、関の戦いには大きな影響があった。
関は序盤に中央を取って門に押さえ込めばかなりの確率で圧勝になると同時に死んだ時の復帰が問題でもあった。
相手も中央を取りに来る以上乱戦が起こりやすかったのだ。
砦を作って距離を短くしておくのは一つの必須だった。
一番最初は全員でこれを造りにいって中央をおさえられ苦戦した。次は大半は中央に行こうということになったが、
じゃぁ砦は誰が作る?と言う時、魏の場合は後方支援隊に任せた、この一言で全てが解決したのだ。
誰も居ないようなので我々が造りますとかお前らいけよみたいな曖昧な状態ではなく、本当に任せたで解決できたわけで
これは地味だけど大きな役割もったなぁと実感した。
ここはそれ以外にもやりたい事を分散して仕事化させ、意図を明確にしていた。
あまり必要と感じられなかった事として伏兵、採集、建設などがあったわけだが、
やれるやれないはともかくとして伏兵は偵察もかねますとか、採集は門まで押された時門の修理に凄いやくだったり(門から出れなくなるので)。
突撃連合に不満を感じる人がいなくなって人口不足にならないよう色々と地味な工夫があった。
内政というと何が内政と疑問が沸く人もあるが、こういう地味だけどきちんと組織だてて人を上手く配置していたことこそが内政であったのではないか。
後方支援隊とは文字通りの後方支援として人を減らすのを防いでいたように思う。
(飽きて止めると言う事は除く。嫌気がさしてこなくなるみたいなことぉ防ぐみたいな)
突撃連合同士は仲が良い所もあれば中が悪い所もある。
日中の関係と同じだが、相手が文句言ってくる所は好きになったりしないものだ。
我々が野良と同じ所に居るのが多かったのもそういう部分があると思っている。
魏では戦争後に反省会をやっていたわけだが、突撃連合だけだと最後には言い合いになるのは否めない。
点数稼げよとか好き勝手しやがってとか。どの国でもそういうのは確かにあった。
大抵の場合は連合と入っていない人が主観になってお互いにはけ口にしていたみたいだが。
魏の場合は衛生兵自身が自分の活動を公表する為に動画を取って有効なんだぜと説明していた。
最初は本当かと言う人もいたが、動画をみるにつれ、明らかに役にたっていると分かって評価がよくなっていった。
それが徐々に突撃連合にくっついて動くようになり動画をとる人も増えて、
それぞれの連合の動きも良く分かっていくようになった。
追尾オンラインというが、出来る人と出来ない人がいるのは確かで、
その中で指揮できるとか適切に動けるとかいうのも色々ある。個人で動けても連合で動けないこともある。
るうみんが優れた指揮官だったのは自分がそれを出来るのとは同時に、難しさもしっており、
個別の衛生兵を組織して突撃連合にくっつけていた方が動ける人の1人が増えるのを理解していた事であろう。
本来、突撃連合がいやで衛生兵になった人もいたりするわけだが、
突撃連合にくっついている衛生兵というのは、
突撃連合員となんらかわらず、自由に動けないという制約もないため、連合員以上に連合員っぽく動けていたように思う。
最後まで居残るみたいな無茶も出来るわけで。
連合面からしてもありがたい補強であった。
25人連合なら30人になり、相手の25人連合と激突しても有利になる。大抵の場合数人の被害だけで相手を潰す感じに出来た。
この地味底上げは他の国であれば連合に入っていない人にくっついてきてもらおう、PPのままじゃ被害でかいしな的視点でしかなったのだが、
これもまたやる気をもたせたまま補強している形になっていた。
やるべき事をやらせる事は同じでもそれを直線的にやらせるか、
回りくどいが、反発を受けずに何故か自然にやる気満々にさせているか、
最初にやったものの特権というのでしょうか、
全てがいい方向に回転していた。
指示する人も色々でされる方もそれに合う合わないが出る。
いくら優秀でも一個人だけを評価するのはよろしくない。
ここでいうなら突撃連合至上主義の頃は連合長が神だった。
後方支援隊の隊長さんといえば単騎特攻してしんでるだけだったw 言ってしまえば発言権は最底辺だったw
知ってか知らずか地味にいい仕事をしている感じになったのだが、
それはそういう考え方、指示の仕方もあるのだという側面を見る事ができたということで評価したい。
呉や蜀でもそういう後方支援隊ができたという話は聞いたことがあるが、
目的にとらわれすぎていて役にたっていないという意見ばかりが出ていたように思う。
それはそれにかかわっていた人20人ぐらいを即座に、評価していた人のやる気を失わせ人口を減らす要因となる。
元々は人口を減らしたいくないから正々堂々と自分の思うことをやりたいというのとは違った意図で造られたからこそに原因があったのではないか。
後方支援隊は本当に優れた内政部隊、内政連合であった事をここに記す。
最終更新:2011年09月14日 17:04