「――かつて、聖徳太子は。聖獣である蘇我イルカを討伐した際、
その血を全身に浴びて、いかなる刃も受け付けない鋼の肉体を得た」
網戸から吹き込んだ夜の涼風が那由他の頬を撫でる。
五色流に伝わりし歴史書を音読する父の声は渋みを帯び、
昼間の稽古の烈しさとは打って変わって、鼓膜に染み入るようだった。
日中、くたくたになるまで絞られた後は、決まって聖徳太子の逸話を教えられた。
五色流の宿敵たるその存在が残した伝説はどれも波乱と驚異に満ち、
幼き那由他の胸を躍らせた。
「ただし、背中に菩提樹の葉が貼りついていたため、その一点だけが弱点となった。
これを利用した技が五色流に伝わるキドニーブローだ」
ほう、と、那由他は熱を帯びた溜息を漏らした。まるで神話だ。
しかしこれらの聖徳太子談は、かつて実際に起きた出来事なのだ。
その事実が那由他をお気持ちを奮わせていた。
いつかは俺も、と。
まだ決定的な絶望を突きつけられる前の、
夢に想いを馳せる事が許されていた頃の思い出。
「父さん、おれまだ眠くないよ。もっと聞きたい」
「ん……じゃあ次は、聖徳太子が地中海に浮かぶクレタ島に立ち寄った時の話だ」
珍しく微笑する父の顔が、今も瞳の奥に影を残している。
――――――――――――――――――――
麗らかな秋の午後、晴天に恵まれた休日。
雲は高くからりとした陽気で、正に絶好の買い物日和である。
二人の戦闘型魔人が、血みどろの戦いを繰り広げていなければの話だが。
――がぢゅっ!
鈍く湿った音が爆ぜ、晴天の下に響く。
五色那由他は悲鳴をあげなかった。それが好機だと知っていたからだ。
右腿を、噛み裂かれた。
その事実を痛みとして受け止めはしたが、動揺はない。
そういう風に、心を作っている。
悲鳴をあげる代わりに、五色那由他は無傷の左脚で跳んだ。
ブーツに仕込んだスプリングが弾け、自壊しながらも役目を全うした。
もともと、この一度だけの離脱を許すために仕込んだものだ。
五色那由他は十メートルを越える距離を跳び、間合いを離す。
再び仕切り直しだ。
五色那由他は息を吐き、己の負傷具合を確認した。
右手首、右肩、左肘、左脇腹、右腿に咬傷。その内左肘は骨を砕かれたか。
動脈は損傷していないようだが、このまま動き続ければ僅かな出血が命取りになる可能性もある。
何より、蟹原和泉の能力が見えないのが問題だった。
(考えろ)
いまは、それだけが五色那由他の武器だった。
ひとつずつ、事実を分析していくしかない。
一回戦、大原に辛くも勝利した那由他はライヒのお気持ち点滴を受けつつ
参加者の映像を確認した。
勝者はいずれ劣らぬ兵揃い。だが唯一蟹原和泉だけは、その実力を推し量る事が出来なかった。
大食いバトルから何を察しろと言うのか。
「この体の一体何処に入ってるんだ」
顔色一つ変えぬまま十三杯目のドラゴンステーキ丼を要求する和泉を見て、
思わず那由他は呻いた。
対戦相手のグロットという男は既にグロッキーで、
今にも胃の内容物を噴射せんという様子だった。
「胃下垂というレベルじゃあ無いな、この大食いぶりは。
奴の魔人能力に関連してるのかもしれない」
ライヒが呆れたように言う。那由他も同感であった。
大人の顔面が隠れるほどのドラゴンステーキ丼をあれだけの量平らげるというのは、
到底人の業ではない。これではまるで聖徳太子だ。
あるいは、彼が知る『神に選ばれた男』ならば――しかし、これは単なる技術ではないだろう。
那由他が沈黙している間も、ライヒは喋り続けている。
「例えば、食べた物を何処か別の場所へ転送するとかだな。
あるいは嚥下した食物の量を圧縮する……なんだ、その目は」
「いや、なんでも」
不思議そうな視線を向ける那由他に、ライヒが眉をつり上げた。
「勘違いするなよ、これは医者としての性分だ。治療以外の事柄に協力する気は無いからな」
「わかってるよ」
うるさそうにカルテを振るライヒに対し、那由他は少し肩を竦めて理解を示した。
そう、これは自分の戦いだ。
自分で考え、自分で分析し、自分で勝たなくてはならない。
点滴されたお気持ちが、那由他の脳を回した。
(考えろ。俺は何故咬み傷を負った)
思考が廻る。身体に残されているのは明らかに歯型だ。
確実に当てたと思われた拳打と肘撃ち。それから蟹原の攻撃を防御した箇所の負傷。
黒のパンツとタートルネック、それに手袋で全身を覆った蟹原に対し、
まず思いつくのは暗器。
現に彼女の服の腹や拳、パンツの脛の部分などには生々しい血痕が付着している。
服の下に刃物か何かを仕込んでいるのか。
ならばどうする。どうする五色那由他!
この負傷と、生来の虚弱体質。
恐らく、戦闘可能時間は残り一分とあるまい。
接近戦を挑んだのが失敗だったか。否。
五色那由他にとって、勝つとは暗殺することではない。
だから相手に自らの身分を明かし、あくまでも『立ち合い』として戦いを挑む。
常にそうだ。
いままでも、そしてこれからも。
(体が保つか。いや、保たせる)
再び息を吐く。お気持ちが籠っている吐息は、ひどく熱い。
体内で、お気持ちが燃えていた。
一方の蟹原は、大胆に間合いを詰めてくる。
長い肢体。ただ歩くだけでそれと悟らせるしなやかな筋肉と一級のバランス感覚。
身体能力の差は歴然。長身の彼女は那由他を見下ろし、ゆったりと構えを取る。
彼女には彼女の戦う理由がある。
生来穏やかな性格である蟹原が、この凄惨な戦いに身を投じるだけの理由が。
故に彼女は非情に徹する。全霊をもって敵を叩く。
二年分の食費を支払い、素敵なお婿さんを見つけ出すために!!
それと、目の前の「美味しい料理」をごちそうさまするために!!!
一度食べ始めたからには、フードファイターたるもの、逃れることのできない掟がある。
かつて最強と呼ばれたフードファイター、「ジロリアン」康太は、
1年間毎日「ラーメン二郎」と呼ばれる魔食を食べ続け、毎日完食完飲し続けたという。
その高みに立つには、目の前に出された料理――
ごはん一粒、汁一滴たりとも残すわけにはいかないのだ。
そして迅速に食さなければならない。
もしも残したり、食べるのが遅れたりすれば、それはフードファイターにとって「ギルティ」――
フードファイター失格を意味する。
「お残しのクズ」「ロット乱し」「背徳者」「サタンに魂を売った魔女」などの誹りは免れまい。
それだけは、受け入れるわけにはいかなかった。
だから一層、蟹原はこの戦いに対するお気持ちの炎を燃やす。
この料理――五色那由他は活きがいい。
よって、全身全霊をもってカニバる!
両者の距離は約三メートル。魔人同士なら無いも同然の間合い。
蟹原が踏み込む――その直前を見計らい、那由他は跳んだ。
初動作の看破は武の領域である。いかに才能が乏しけれど、
力自慢を出し抜く程度の事はできる。
左脚が悲鳴をあげる。
殆ど呟くような小声でリミッターを解除した那由他が零秒で接敵する。
猿臂……左肘の振り上げ。目くらましだ。肘から鮮血が散り、蟹原の視界を遮る。
片目が眼帯で塞がっている分、視界を奪うのは容易であった。
「完飲……!」
蟹原がかすかに呟くのが聞こえたかもしれない。
脳内物質の増加によって精度を増した那由他の目が、
己の首に向かって伸びる黒手袋を認める。好機。
那由他は闇雲に繰り出された腕にカウンターを合わせる形で右拳を繰り出した。
狙いは心臓、直撃すれば心臓震盪によるお気持ち停止失神は免れぬ。
その右拳に、激痛が走った。
殆ど視界を奪われた中で、気配だけを頼りに□(マウス)――
魔人能力によって作り出された口によって、那由他の拳を食い千切ったのだ。
フィニッシュブローのお気持ちで放った一打は深く、容易には引き戻せない。
逆に那由他がカウンターを喰らう形となった。
「……完食!」
蟹原和泉が決意とともに宣言する。
彼女の胸に去来したのは、執念。食欲。誇り。
そのいずれのお気持ちであったか。
蟹原の脳内を、今晩ブログにアップロードすべきお食事レビューの内容がよぎる。
それがさらなる戦意を呼び覚ます。
完飲、完食せずしてブログは更新できない! それこそが料理への礼儀!
すべて飲み干してからの「ごっそさん」、その一言なくしては、偉大なる先達に申訳が立たぬ!
(天才――)
苦々しくも、その二文字が那由他の脳裏を過ぎった。
明らかに素人の動きでありながら、その実武の才において
明確に己を上回るであろう蟹原和泉。
だからこそ、この一連の動きは、まったく那由他の予想通りであった。
強引に右拳を引き抜く。ぶちぶちと音を立て、指の第一関節から先が虚無の闇に飲まれた。
痛みを意に介さず、那由他は即座に蟹原の左側面へと回り込む。
真なるフィニッシュブローを放つために。
「(――かつて聖徳太子は、聖獣蘇我イルカを討伐した際、
その血を全身に浴びていかなる刃も受け付けない鋼の肉体を得た)」
蘇る父の声。あの苛烈にして平穏な日常は、もう二度と戻っては来まいが。
「(ただし、背中に菩提樹の葉が貼りついていたため、その一点だけが弱点となった。
これを利用した技が五色流に伝わるキドニーブローだ)」
左腕を振りかぶる。 壊れた肘にお気持ちを込める。
狙いは無論、腎臓――五色流の秘伝キドニーブローが、フードファイターに突き刺さった。
絞り出す様な呻き声が、蒼天に響いた。
フードファイターにとって、腎臓は胃袋の次に重要な器官である。
この臓器が故障すれば塩分の排出に支障を来たし、タンパク質の摂取も制限される。
それは即ちフードファイターにおける死刑宣告にも等しい。
フードファイターの中でも最強の名を冠する精鋭・ラーメン二郎を主戦場とする「ジロリアン」たちも、
食後のウーロン茶によって腎臓を守り抜いたという。
なればこそ、一流のフードファイターなら例外なく、腎臓を守る術を持っている。
五色那由他がその可能性を見落としたのは、
偏に蟹原を武道家ならぬ素人と断じた奢りであろう。
その代償として、彼は左手から先を消失した。
みしり、と体の中から嫌な音が聞こえた。
蟹原の後ろ蹴りが脇腹を捉えていた。
カモシカを思わせるしなやかで長い足がバネのように縮み、強烈な速度で解放された。
那由他の体がくの字になって吹き飛ばされる。
たっぷり十五メートルは飛ばされた後、
大通りから狭い路地裏のゴミ捨て場へ強かに叩きつけられた。
那由他は盛大に喀血した。溢れる血で呼吸がままならない。
なんとか体を回してうつ伏せになり、口内の血を吐き出す。
ただそれだけの動作で意識が切断されそうな程の痛みが走った。
(肋骨がやられた。折れた骨が肺や肝臓に食い込んでる)
いかなる状況でも負傷を確認する方法は父から徹底的に叩き込まれた。
それが出来なければ、戦いの場に立つという前提すら許されなかったのである。
彼は路地の奥へ、蟹原から距離を取るように這った。
事前にお気持ち点滴を受けていなければこの時点で
意識を失っていたかもしれない。
「ねえ、降参する?」
背後から声。想像していたよりも柔らかくて高い。
客観的に見て、その勧告は妥当である。
最早五色那由他はまともな戦闘能力を有しておらず、蟹原は殆ど無傷だ。
それでも彼女に油断は無い。一定の感覚で響く足音がそれを示している。
返答次第で、蟹原は即座に止めを刺すだろう。那由他はそれを悟った。
ならば。
いまここで。
動かなくてはならない。
「俺は」
次々と溢れる血が呼吸を阻害し、発声を妨げる。それでも那由他は言った。
ゴミにまみれ、鮮血を吐き、肋骨を砕かれ、両手の指を失い、
地を這う蛞蝓のように無様な姿となっても、それでも。
「俺は最強だ」
「そう」
蟹原の声には僅かな、しかし確かに隠し切れない悲哀が滲んでいた。
元来戦いには向かない性格なのだろう。那由他はそう思った。
やはり蟹原の本分は、フードファイトにある。
だからといって蟹原は、やるべき事を躊躇するような半端な覚悟で
戦いに赴いた訳では無い。それは無論、那由他も同じく。
彼は這う。その先に希望があるかのように。
その先の勝利を求めるように。手を伸ばす。
蟹原が右手を振りかぶる。狙いは首筋、延髄を一噛み。
その、歩みが止まった。
否、止められた。
首をかみ切るための、あと一歩を踏み出すことができなかった。
何かが背中を引っ張っていた。
蟹原はそれを見る。
背中につながる、黒く塗られた鋼線を。
(背中に――これは、ワイヤー?)
違う――「背中」ではない。そこにある「口」だ。
先ほど那由他の左手首を捕食したときに、開けた口。
その背中の口の「歯」に、ワイヤーが絡みついている。
それがどこに繋がっており、蟹原和泉の歩みを阻害した。
五色那由他。
左手の指の中に、ワイヤーを仕込んでいたのか。
だが、何のために?
この背中のワイヤーはどこに繋がっているのだろう?
蟹原が疑問に思うのと、那由他が中空に腕を伸ばしたのはほぼ同時だった。
ばちん、と異音が響いた。
蟹原の上体が仰け反る。殆ど反射的な回避行動。
鼻先すれすれを何かが高速で通り過ぎた。
彼女が事態を把握したのは1,5秒後で、その時には全てが終わっていた。
蟹原は振り返ろうとしたが、体がまったく動かないことに気付いた。
全身に、黒く塗られたワイヤーが絡みついている。
那由他は路地裏に仕掛けていたトラップを作動させた。
肉眼で見えない程細く、かつ強靭な糸で構成された罠。
これをオフィス街を含めた蟹原の行動範囲の目立たぬ地点全てに仕掛けるため、
那由他は一回戦で獲得した賞金の殆どを使い果たした。
トラップの起動と同時に、那由他は勢い良く反転しつつ立ち上がって走り出した。
痛覚神経が爆発しそうなほど痛かったが、最強ならば動ける。
痛いだけならば動けるのだ。
その姿はまるでスポーツマンNo.1決定戦におけるビーチフラッグス決勝で
ケイン・コスギと競り合いを演じた聖徳太子の如く、
旋風を伴って蟹原の頭上を飛び越えた。
(Perfect.)
ケインの弾けるような笑顔が蟹原の脳裏に浮かんだ。
「(聖徳太子が地中海に浮かぶクレタ島に立ち寄った時の話だ)」
父から聞いた、聖徳太子の伝説。
そのひとつひとつが、五色流の技となった。
そうでなければ五色流は戦えなかった。
人と聖徳太子は、それほどまでに隔絶した存在だった。
――五色那由他と「天才」がそうであるように。
かつて聖徳太子は地中海のクレタ島で、
ラビュリントス迷宮に挑み、そこに潜む魔獣――蘇我タウロスを
毛糸玉ひとつで討伐せしめた。
このワイヤーの結界は、その技を再現したものだった。
「う」
蟹原は叫んだ。
「ああああああああああああああっ!」
全身に口が開き、雄たけびを合唱する。
ワイヤーを食らうことで、飲み込み、消滅させる。
この罠から逃れるにはそれしかない。
「伝われ」
五色那由他が呟く。
ワイヤーがしなり、彼の体が加速する。
空中から空中へ、ワイヤーを跳び渡り、束の間、蟹原和泉の視界から消える。
そして、束の間で充分であった。
「俺の――お気持ち!」
五色那由他は、自らの血をほとばしらせ、最後に残ったお気持ちに火をつけた。
全身が発熱し、瞳にお気持ちの光が宿る。輝く。
ワイヤーの一本を強く引く。
どこをどう絞れば、どのワイヤーがどう動くか。
五色那由他は理解している。
かつて蘇我タウロスを毛糸玉一本で仕留めた英雄、聖徳太子のように!
瞬時に、無数のワイヤーが蟹原の体をからめとった。
十七条どころではない。
そのワイヤーの数、794条。
十七条拳法とともに伝えられる五色流の秘技――
「哭鶯平安京」
がぢゅっ、と、再び肉の爆ぜる音が聞こえた。
その音は、今度は蟹原のものであった。
(ああ――)
――蟹原和泉は、ワイヤーの大部分を体中に展開した「口」によってかみちぎっていた。
その口内に入ったものは消滅する。
そういう能力だ。
だが一か所だけ、口を開けることのできない個所もあった。
(なんて、きれいな)
左手の薬指に、ワイヤーが巻き付いていた。
(まるで――)
ワイヤーが薬指を引き抜いた。
そこから始まった肉の亀裂は、腕を這いあがり、肩――首筋まで届いた。
複雑に絡み合うワイヤーの張力は、相乗効果により人体に対して破壊的に作用していた。
蟹原和泉は恋に夢見る少女のように、あるいは最強に焦がれる少年のように、
澄んだ瞳を湛えたまま息絶えた。
五色那由他はその首が路地に落ちて、鈍い音を立てると同時に、
その意識を手放した。