第三回戦SS・駅その1

月の無い夜であった。

街灯の無機質な光が、肩を並べてその下を行く二人の少女を照らしている。
奇妙な事に、その外見と同じく作られる筈の大小の影が、舗装路には一人分……
長身の少女の分しか浮かんでいなかった。

「いい夜ですねーアリア様! 夜風も気持ち良いし!」

影のある方――巡夜未来は快活に言った。
対する影の無い方――吸血鬼たるアリア・B・ラッドノートは憮然とした様子である。

「ちっともそうは思えないわね。月が出てないから微妙に力は出ないし、隣の変態は煩いし気持ち悪い」
「ああん、夜中に二人きりのシチュエーションで聞くアリア様の流れるような罵倒……! なんてスウィーティー!」

アリアは溜息を吐いた。変態の変態らしいリアクションはともかく、
この逢瀬(と呼ぶのも癪だが)が気の向かないものである事は確かだ。
今夜は新月。吸血鬼にとっては最も力を発揮しにくい日。
つまりは既にアリアが吸血鬼であると世間に知れ渡った現在、
最も奇襲を受け易いタイミングであった。

当然ながら、二人で駅前の蕎麦を食べに行こうと言い出したのは未来である。
上記の理由からアリアは渋ったが、未来は寄りにも寄って二回戦の折に約束した
『なんでも言う事聞く券』の行使を要求してきたのだ。
アリアとて誇り高き吸血鬼一族の末裔である。
いかに不本意と言えど一度した約束を反故には出来ない。

結果として、アリアは渋々ながらこの提案を受け入れた。
考えようによってはパンツを寄越せだの胸を触らせろだのというお願いを
強要されるよりはマシである。
表向きには、アリアはそのような態度で下僕に接していた。

「(分かってるわよ、私にだって)」

心中で呟く。未来の提案は、明らかにアリアを慮っての事だった。
C2バトルが始まってからというもの、心休まる時間が減った事は確かである。
アリア様と二人きりでイチャイチャラブラブペロペロヌチョヌチョしたいという下心以外にも、
張り詰めた主人の心を一時でも解したいという下僕らしい心遣いが“お願い”の裏にはあった。
多分恐らくあった。
きっとあったと思う。
あったらいいな。

「アリア様?どうしたんですか難しい顔して……ハッ!? まさか今夜のデートの締めにと
 近隣ホテルの脳内検索を!? やん、そんなまだ心の準備が……でもアリア様となら私、
 いつでもヤバい扉を開ける覚悟は出来てますから!ノッキンオンヘヴンズドアー!」
「ごめん、ちょっとマジで黙ってくれる?」

ないかもしれない。

それはともかく。
アリアとしては、むしろ未来のリフレッシュが目的であった。
未来は吸血鬼では無い。魔人でも無い。ただの人間の女子高生である。
彼女はアリア様の為ならなんでも出来ると言って憚らない。事実その通りだと思う。
しかし優秀な運営スタッフの看護を受けている肉体はともかく、精神面の疲労は確実に蓄積しているだろう。
我が主に指の一本すら触れさせぬという覚悟は、他ならぬアリアが一番感じている。
いかに明るく振舞っていても、人の身には限界がある。
疲弊の度合いで言えば、アリアなどとは比べ物にならぬ程消耗している筈だった。

「……ん」
「アリア様?」

不意に差し伸べられた手を、未来は不思議そうに見つめた。
アリアは正面を向いたまま、むすりとした表情でその姿勢を維持している。未来は小首を傾げた。
それはアリアが示した精一杯の気遣いであったが、普段邪険に扱われている未来は行動の意図を読み取る事が出来ないのであった。

「どうしたんですか?暗い夜道で心細くなっちゃいました?」
「そんな訳あるか!吸血鬼だぞ私は!……だから、その……あれよ。バトルが始まる前に言ったでしょ」

アリアはもじもじしながら言葉尻を濁した。忠実な下僕は主人のその様をじっと見つめている。
鼻から赤いものが垂れてきているのはこの際無視する。
おそらく、脳内ではハリウッド並の豪華演出による妄想が展開されているのだろう。
だが、突っ込んでたら話が進まない。

「勝てたからワンタッチよ。ほら、早くしなさい」
「……っ、はい!」

未来の声は上擦っていた。正直ここまで喜ばれると本気で気持ち悪いが、約束は約束だ。
約束なんだから仕方ないのである。

きゅっと、未来の手がアリアの手を包んだ。優しくて柔らかい、配慮に満ちた手繋ぎだった。
未来の顔が一層だらしなく蕩ける。

「えへへ、アリア様のおてて、冷たくて気持ちいいなりィ……」
「ごめんもう放していい?」
「あっすいませんすいません!自重しますからもうちょっとだけ!」

本気で嫌そうな顔をする主人に謝り倒す下僕の図である。

そうこうしている内に、目的の蕎麦屋が道路を挟んだ向かい側に見えてきた。
二人は手を繋いだままゆっくりと横断歩道を渡る。この時間を惜しむように。

「ね、アリア様」
「何?未来」
「勝ちましょうね。勝って優勝して、アリア様が大手を振って生きていける世の中を作りましょう。
 その為なら私、何だって」

未来の言葉は途中で遮られた。
アリアは吸血鬼の視覚でそれを見た。
黒塗りの乗用車――世界最高峰の静粛性を誇る国産高級車、トヨタ・センチュリーの2920kgに及ぶ車体が、時速60kmを超えるスピードで未来の身体を跳ね飛ばすのを。
車体のフロントが腰の辺りに激突し、その勢いで折れ曲がった未来の頭がフロントガラスに罅を作る。
斜め前方に浮き上がった未来はまるで人形のように力の抜けた姿勢のまま、無防備に舗装路へ叩き付けられた。

トヨタ・センチュリーのクラシックな車体には、
トヨタ社が誇る何千・何万人もの従業員の技術と知恵とお気持ちがこめられている。
「パパ、お仕事がんばってね」「お前ならやれるさ」「いつもどおりに、最高の仕事をするだけ」――
そうした数々の熱いお気持ちがこめられた車体は、未来とアリアの絆を、この一瞬だけ凌駕した。
確かな仕事と、半世紀を超えるたゆまぬ努力。トヨタ社そのものの魂の咆哮。
その結晶が、二人の美少女のお気持ちに対して、真正面からぶつかったのだ。

そして未来は吸血鬼では無い。魔人でも無い。ただの人間の女子高生である。
絆VS絆。
軍配は、このときばかりは美少女ではなく、トヨタ社に上がった。

「――未来?」

その一瞬に何が起こったのか、アリアの視覚は全てを捉えていた。
捉えてはいたが、理解が出来なかった。

「未来」

ふらふらと、夢遊病者めいた足取りで地面に横たわる未来に近付く。
アスファルトには夜闇の中でもそれと分かる程はっきりと、赤黒い染みが広がっていた。
仰向けに倒れた未来の手足は不自然な方向に曲がっている。
アリアはその場に跪くと、未来の頭を抱え、そっと起こした。
下僕の目から、鼻から、耳から、口から血の筋が垂れている。馬鹿な奴だ、とアリアは思った。あんまり興奮しすぎるから、こんなにも血が出ている。
アリアのゴシックロリータ調の一張羅に、鮮血が染み込む。

「ねえ、起きなさいよ。お――お蕎麦、食べるんでしょう。人間のあ、あなたが、こんな所で寝たら、風邪も引いちゃうじゃない」

未来は何も応えない。半開きの目は何も見てはいない。

アリアが更に声をかけようとした時、カッ――と、その体が光に包まれた。
同時に感じる、焼け付くような痛み。まるで真夏の太陽の下に裸で引きずり出されたような――。

「お前の不覚だ、アリア・B・ラッドノート」

光の側から声が聞こえた。低く掠れた声だった。





――――――――――――――――――――





奇襲は予定通りに成功した。
五色那由他は二回戦終了時から目を付けていた標的――アリア・B・ラッドノートに対し、完全なアドバンテージを先取した。
彼女とその従僕は、あまりにもスムーズに勝ち過ぎていた。
状態の復元が約束されたアリアはともかく、主に戦いの場に出る巡夜未来が無傷である事は重大な懸念事項であった。

那由他はすぐに準備にかかった。
腕利きの監視要員の確保。対吸血鬼用の装備獲得。トヨタ・センチュリーの購入。
それは五色流としてのプライドを捨てる事を意味していた。
那由他は二回戦においてワイヤーを用いたトラップを使用したが、これは元を辿れば聖徳太子の技術を転用したもので、正統なる五色流の技術である。
だが、例えば今使用しているセンチュリーの後部座席に積んだ有強化紫外線十字型投光器は五色流には存在しない。

「お前が警戒してさえいれば、巡夜未来が倒れる事は無かった」

喋りながら間合いを詰める。アリアは未来を庇うように蹲ったまま動かない。
紫外線はアリアの皮膚を、少しずつ、着実に焼いている。
ここで仕留める。罪悪感を煽る言葉を吐きながら、那由他は拳を握り締める。

「もう一度言う。その様は、お前の不覚だ」

――何故五色那由他はプライドを捨てなければならなかったのか。
相互の距離が二メートルまで詰まったその時、彼は改めてその理由を思い知った。

アリアが音も無く立ち上がった。腕には瀕死の未来。
光の中に溶け込んだ那由他の姿を、赤い瞳が凝視している。
肌を焼く痛みなど意に介さぬ――痛みなどどうでも良いという程の憎悪と憤怒が、その視線には込められていた。

夜の主は飛んだ。未来を抱えたまま、背中に生えた黒い翼を一打ちして十字の光を逃れ、
後方へ。そこには、地下鉄へと続く下り階段があった。

那由他は即座に追撃のお気持ちを固めた。
いかに幼かろうと敵は吸血鬼。不死者。伝説の怪物。
全てを捨ててかからねば、勝ちの目どころか戦いにすらならぬ。
そのお気持ちが、那由他を五色流の外へと促した。

「逃がすか」

いま与えた負傷と、未来という重傷者の存在は、アリアの戦闘力を大幅に削っているだろう。
この機会を逃せば、回復されて勝機が消える。
懐中電灯ほどに小型化した紫外線照射装置は、すでに片手に握っていた。
走り出す。

紫外線照射装置を下方に向けながら、階段を駆け下りる。
駅の改札は思ったよりも近く、何人もの利用客がこちらを振り返った。
飛ぶように階段を駆け、地下通路に降り立つ。

「――五色、那由他」

十二分に警戒はしていた。それでも尚。
瞬間、那由他は左方向から強烈な衝撃を受けた。
改札のストッパーを破壊し、ホームへと吹き飛ばされる。利用客の悲鳴があがった。
今度は那由他の体が、人形のように簡単にタイルの上を跳ねた。

衝撃はあったが、痛みは消せる。すでに脳内麻薬の分泌は始まっている。
那由他が即座に起き上がると、そこには憎悪と決意のお気持ちに輝く、アリアの瞳があった。
片腕に、未来を抱えたまま。

「お前を許さない」

アリアのお気持ちが燃え上がるのを、五色那由他はたしかに見た。
彼は無言で立ち上がる。あのようなお気持ちを固めた者に挑発は無意味だ。
反射的に滑り込ませた左腕は砕けた。だがアリアの右拳からも煙が立ち上っている。
負傷した上に再生していない。あらかじめ全身に刻み込んでいた聖句が、
それに触れた吸血鬼の体を酸のように蝕んでいるのだ。

アリアが蒸気立つ右腕を振り、傲然と那由他を指差す。
次の瞬間には、地下鉄の入り口から、俄かに甲高い鳴き声が響いてきた。
その正体は郊外や都市部にも生息する、唯一の飛行する哺乳類――コウモリの群れであった。

那由他は紫外線照射装置を口に咥え、構えを取った。
五色流の技は、聖徳太子を討つための技。
人外の怪物を想定したその術技は、人間を超える存在に対しても有効に作用する。
本来ならば。

このとき、アリア・B・ラッドノートは、その領域をはるかに超えていると言わざるを得なかった。

「これから私がお前にすることを」

コウモリに紛れてアリアが踏み込んでくる。超人的なスピード。
五色流にはこれに対応する技もある。
相手のお気持ちを読み、それを受け流して叩きつける合気にも似た技。
これを冠位――

「お前がどう思っても構わない」

だが、技は動作に移る前、お気持ちのまま潰えた。
アリアの動きが速すぎる。
片腕に未来という負傷者を抱え、紫外線によってダメージを受けながら、
さらにスピードが増しているとしか思えなかった。

那由他の体は、たった一撃の平手打ちによって吹き飛び、ホームから転落する。
受身はどうにか間に合った。
これだけは、虚弱体質の那由他が人一倍に鍛え抜いた技術だった。

線路の鉄がつめたく、激しい振動を伝える。
眩しいほどの光。
電車が近づいてくる――。

「でも」

アリアの姿が、霞むように動いた。
そう思ったのは気のせいだったかもしれない。
那由他が捉えることができたのは、残影だけであった。

「徹底的に」

なにを思ったか、アリアもまたホームを下り、後方に手を差し出した。
向かってくる電車の光が、彼らを焼き尽くさんばかりに照らし出す。
警報。けたたましい音。
アリアも那由他も、回避はもはや間に合わない。

「二度と戦う意志を持てないほど!」

アリアのお気持ちが燃え上がった。
後方に何気なく突き出した手が、向かってくる電車を受け止める。
激しいブレーキ音に混じって、金属の爆ぜる断末魔のような強烈な音。
火花と、誰かの悲鳴と怒号。

電車は、十秒もかからずに完全にその運動を停止していた。

アリアはたったいま電車を止めた手で、那由他を指差す。

「――お前をすり潰す!」

真の吸血鬼が、吼えた。

――――――――――――――――――――


このアリアの身体能力の向上を、どのように解釈すればいいのかわからなかった。
負傷者を抱え、紫外線によるダメージを負い、確実に弱っているはずだった。
ならば意識を失ってなお、未来のお気持ちがアリアを強化しているのか。
それとも、これこそが真の吸血鬼の力だというのか。

五色那由他は初めて、己のお気持ちが揺れるのを感じた。
五色流を捨ててまで勝ちに徹したお気持ちが、何故今更動揺するというのか。

最強になる為はこれしか無かった。拘りを捨てなければならなかった。


本当に?

「(自分のお気持ちを信じられない者が頂点に立つ事は無い)」

昔、まだ那由他が幼い頃、父をトヨタ・カローラで奇襲した事があった。
父は事も無げにカローラを捌き、カウンターの払い腰を決めた後に一言そう言った。

俺はどうしたかった?目の前の吸血鬼に勝ちたかったのか?
仮に勝てたとして、それで優勝出来たとして、その時胸を張って言えるのか?
『俺は最強だ』と――。

「否」

口を開くと、線路上に紫外線照射装置が転がった。
射殺さんばかりの殺気を放つ吸血鬼を前に、那由他はそれを思い切り踏み潰した。

「否。断じて否だ」

アリアがレールを蹴る。鉄製のそれを捻じ曲げる程の勢いで飛び出したアリアの初弾は、やはり化け物じみて速い。
肋骨が蹴折られる。那由他の吐き出した鮮血がアリアの白い顔を濡らし、煙を立てて蒸発する。
戦闘の直前に透析の要領で神父が祝福儀礼を施した血液だが、いずれ致命傷には程遠い。

何故己はこんな小細工で勝てるなどと思ったのか。こんなもので彼我の戦力を覆せると思ったのか。
叩きつけられた壁に受身を行いながら、那由他は次の攻撃動作に移るアリアの姿をかろうじて捉えた。
捉えはしたが、何も出来ない。死の直前去来するという走馬灯――人体が死を回避する為に知覚を総動員するその一瞬間だけ成し得た奇跡……あるいは絶望。

――――――――――――――――――――


アリアの攻撃――おそらくは致命的なそれが迫る一瞬の間に、
五色那由他の胸に去来したのは「後悔」のお気持ちであった。

五色流の技を、磨きに磨いた。
それでも己が凡庸の域を出ることはなかった。
だが、血反吐を吐いて修練を続けた日々は決して辛い記憶ではない。

父の期待と失望。
己の弱さ。
幼い頃に見た、神に選ばれた男――。

そう。

すべてが完璧だった、あの男。
卓抜した技。練り上げられた肉体。
なによりも、圧倒的なお気持ち。彼こそはお気持ちそのものであった。
那由他の目に焼き付いた「最強」の具現。

自分には決して届かぬ領域があると知った。
父に言われたことがある。

「どれだけ我々が強くなろうと、叶わぬ夢もある」

と。

「その夢だけは諦めろ。それだけは、抱いてはならぬ夢なのだ」

神に選ばれた男のようになりたい。
あの存在に並びたいと言った、那由他のお気持ちを、父は悲しげに否定した。

いまならばわかる。
神に選ばれたあの男にだけは、例えどんな奇跡が起ころうと、なることはできない。
なりたいと思うだけでも不遜であり、不敬であろう。

しかし、と五色那由他は思う。

叶わぬ夢であれ、目指すことに善悪があろうか。
あの男のようになりたい。いまは強く思う。ただ、なりたい。
ならばどうする。

神に選ばれた男。
五色流は、その男の血脈によって成立し、その男を守るために存在してきた。
すなわち――

五色はその一言を呟いた。

――――――――――――――――――――


アリアは一瞬困惑した。
渾身の力で放たれた右拳は人類の知覚限界を遥かに超え、痛みを感ずる間も無く那由他の頭部を破壊する筈であった。

その右拳が、片腕で止められている。
これまでの那由他の戦闘力ではあり得ない。その瞬間、アリアは気付いた。

雰囲気が変化(ちが)う。
風貌が変貌(ちが)う。
体格が変容(ちが)う。

五色那由他を構成する、全ての要素が違う!

「――誰」

尋ねずにはいられなかった。
太陽のように凄烈にして純粋なオーラを放つ、その男の名を。

「――俺は。否」

衝撃が全身を駆け抜け、破壊する直前、五色ははっきりと口に出して告げた。

「朕は、【宮内庁異端審問部検閲済】だ!」

傀儡子の能力が起動していた。
思い込みの力が、那由他のお気持ちを変化させている。
彼のお気持ちを、完全に作り変えたのだ――そう、【宮内庁異端審問部検閲済】として。

アリアは己の手が一瞬で焼けただれるのを、他人事のように見ていた。
何が起きているのか、瞬時には把握できなかった。

「――アリアさん」

神秘的な、遥か彼方から聞こえるような御声が響いた。
那由他がアリアの手首を掴み――否、握り、穏やかに微笑なされた。
全身から光が滲み出し、アリアは咄嗟に顔を背けた。
あまりにも眩しく、神々しい光だった。

「もう、いいのです」

那由他は首を振る。
光が、アリアを焼いていく。

「私たちが戦う理由はなにもない」

ふざけるな、と、アリアは言おうとした。
だが、声にならない。
口を開いた途端に喉が焼けた。この光。なんという神聖さであろう。

アリアは全身にお気持ちを巡らせ、その顔を直視しようとした。
五色那由他の顔。
日本に暮らす者なら、誰でも知っている。
その表情――否、ご尊顔は、【宮内庁異端審問部検閲済】によく似ていた。

アリアは光に耐えかね、その場に崩れ落ちた。
太陽の光よりもなお眩しい、その輝き。
それでも未来だけは手放さない。抱えたまま、決して地に落とすことなどない。

「未来さん、ですね」

五色那由他はうなずき、自らお膝を折られて、アリアと未来にかがみ込んだ。
光が間近に迫り、アリアは声にならない悲鳴をあげる。
吸血鬼にとって、この神聖さは近づくだけで破滅を意味する。

「取り返しのつかないことをしてしまいましたが、せめてもの謝罪を」

那由他は頭を下げ、未来の手を握った。
なんというお気持ち。
一国の【宮内庁異端審問部検閲済】の立場を背負う【宮内庁異端審問部検閲済】ともあろうお方が、
ひとりの国民に謝罪を表明したのだ。
このようなこと、本来ならあらゆる意味で許されるはずもない。

だが、実現した。
那由他のお気持ちの光が、地下鉄のホーム全体を照らしている。
気づけばホームにいた人々は唖然として彼らを眺めていた。

未来の傷が、光に照らされてみるみるうちに癒えていく。
眉間に皺が寄り、口からはかすかなうめき声すら漏れた。
アリアは光に照らされることでさらに悶絶。
未来だけはしっかりと抱えたまま、神々しさにのたうち回る。

「いいご友人をお持ちだ」

五色那由他は、微笑みながらお気持ちを口にされた。
慈愛のお気持ちが暖かな光となって、大気を満たす。
光が未来を癒し、うっすらと目を開かせる。
アリアは全身を焼かれて灰になっていく。

「アリア……様?」

熱にうなされたように、未来が呟く。
自らを抱えている者が何か、まだ歪んだ意識の中で知ったのだろう。

「嬉しい。アリア様がこんなに近く……暖かい……」

未来は幸せそうにアリアに頬ずりをした。
それが致命的な一撃となり、ぼろり、とアリアの全身が崩れ、灰となった。
だが、未来にはそんなものは関係ない。
灰となろうが、アリアはアリアだ。
かけがえのない存在だった。

「アリア様……」

朦朧としながらも、未来はアリアの手を握った。
かろうじて残っていた腕が粉々になった。

「大好き、です」

「きっと、アリアさんも同じ気持ちですよ」

五色那由他は大きくうなずかれ、彼女たち二人に背を向けた。
これ以上、野暮な干渉は不要とご判断されたのだ。
背中に負った後光がむき出しとなり、それはもう恐るべき光量でアリアを完全に焼き払った。

「お二人共、どうか末永く仲良く、お幸せに」

「はい!」

未来は強く返事をして、灰となったアリアを抱きしめた。
世界一幸せな二人に――まばゆい輝きの加護が、いつまでも降り注いでいた。

最終更新:2016年09月18日 00:03