第三回戦SS・病院その1

【仙波透】


「お兄ちゃん。いつもありがとう。
 でも、もういいの。私のために、がんばらないでいいから」

 ヤスリは、静かにそう言った。


 これが、ヤスリとの最後の会話になった。


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《Atom Heart Mother》

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【仙波 透】


「お前の戦い方は、感心しないな」

 病院への道すがら。透が、ヤスリの見舞いに行くために病院に向かっている途中、突然後ろから、棘のある言葉が投げかけられる。
 振り向くと、ヤクザの女性が眉間に皺をよせながら、仁王立ちをしていた。

「いくら治療してもらえるとはいえ、お前の戦い方は雑すぎる。量橋との戦いでは、右手の小指を切って飛ばしたそうだな。それは必要だったか? 無意味に自分を傷つけるな」

「随分優しいこと言いますね。そのためだけに来たんですか」

「言ったろ。私は、お前を気に入っている。人を殺すなんて、慣れないことをしているだけでも負担なんだ。なるべく体は大事にしろ」

 透は、生気のない顔を女性に向けた。その頬はこけ、目の下には大きなクマができている。碌に食事をしていないのか、体は明らかにやせ細っていた。
 透は、虚勢を張るかのように、鼻で笑った。

「俺が戦えなくなったら、組の不利益になるからですか」

「それもある。だが、それだけじゃない」

「いいんすよ。俺の体なんて、どうなってもいい」

「……それを、妹が望んでいると思うか」

 透が、ぴくっと体を震わせた。女性はその反応を確認したうえで、言葉を続ける。

「お前の妹、徐々に起きている時間が短く……」

「うるせえ」

 気が付けば、口に出ていた。透は、無言で拳を握りしめる。研ぎ澄まされた指が手のひらに食い込み、血がにじむ。
 女性は、やれやれとでも言いたげに頭を振る。

「イラつくのは勝手だが、それで困るのはてめえだ。アタシに、ガキくせえ八つ当たりをぶつけるな」

 透は、静かに女性を見据えた。一瞬、女性が狼狽する。
 透の顔には、一切の感情が見えなかった。

「ああ、そうだな。困るのは、俺か」


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【仙波ヤスリ】


 目が覚めると、白い光に包まれた。瞼の上から指で押さえられたような痛みに、たまらず布団を顔に寄せる。
 目が慣れてくると、いつもの病室。がらんどうの、人の気配が感じられない、無機質な部屋。

 私は、この部屋が嫌いだ。

 無機質な、生活感の乏しい部屋。本来、人間が暮らすためのものではない部屋。この部屋で目を覚ます度、私の気持ちはズンと沈む。
 でも、そんなこと言えるわけがない。お兄ちゃんが私を入院させるために、どれほどの苦労をしているか知っているから。
 最近のお兄ちゃんは、なんだかすごく無理をしている。見るからに顔色が悪いし、食事もとれていないようだ。
 昨日、もう頑張らないでいいよ、と言った。でも、お兄ちゃんは少し笑って、それでおしまい。
 お兄ちゃんは、絶対に私に辛いことなんて言ってくれない。私に、何も背負わせてくれない。
 そして、私もそれを望んではいけないのだ。

「ん~……よーっし! それじゃ、お兄ちゃんもいないことだし、今日は光合成といきましょーか!」

 布団をはねのけ、スリッパを履いた。ピョンピョンと飛び跳ねながら、なるべく明るい声を出し、散歩に向かった。
 それが私にできる、唯一のことだから。


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【長鳴ありす】


「ししょー。しっかりしてくださいー。まだ、おひるねの時間じゃないでしょー」

「うーん……ねむい。ねむ……」

 長鳴ありすは、幼女道の弟子であるめこに手を引かれながら、ふらふらと道路を歩いていた。
 ありすは前回の戦いで黄連雀夢人に敗北し、催眠作用のある砂をしこたま飲まされた。その後遺症の所為か、3日ほど経つ今でもやたらと眠気が強く、おひるねの30分前にはもう眠気でむにゃむにゃしてしまうようになってしまったのだ。
 めこは、ふらふらと歩くありすの手を懸命に引きながら、歩道からはみ出さないようにしていた。さながら、はじめてのおつかい風景! 通行人からは、微笑ましい目で見られている。
 ありすが、おててでごしごし目をこする。

「めこ……ちょっと休もう……。さすがに、これだけ注目されるとちょっとはずかしい……」

「わっかりましたー! じゃあ、そこの大きな公園にしましょー!」

 そう言って、明らかに公園には思えない大きな門扉を通り抜け、明らかに大学の構内だろう噴水の真ん前にあるベンチに、ありすとめこは座った。
 ありすも、普段ならば気づくのだが、あまりの眠気に周りを気にする余裕がない。こっくりこっくり頭を上下し、そのまま上を向いて口をあんぐりと開けたまま、寝息を立て始めた。
 めこは、そんなありすを守るため、ベンチの前のおつちでおしろを作り始めた。幼女拳おすなあそびの型:『砂上の楼閣』である。
 本来幼女は砂場においてはお城を作るものではなく、おままごとやお人形遊びをするものである。しかし、めこはまだ未熟。基本中の基本である『砂上の楼閣』しか、使うことはできなかったのだ。

「あ、お城作ってる! 格好いい―! ねえねえ、私も混ぜてもらっていい?」

 ぺんぺんと一生懸命おしろを作っていためこの頭上から、女性の声が降り注いだ。明確な油断。めこが、ばっと顔を上げる。
 そこには、チェックのパジャマを着た、健康そうな女の子がいた。

「私、ヤスリっていうの。ねえねえ、一緒に遊ばせてよー!」

 その太陽のような笑顔に、めこは思わず全開の笑顔で返した。

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【仙波ヤスリ】


「やあ、ヤスリちゃん。童心に帰ってるね」

 病院の中庭にある噴水の周りで知り合った女の子と一緒に、砂でお城づくりをしていた私は、40歳くらいの男性が声をかけて来た。
 私は、ちょっと恥ずかしくなって、顔が熱を持つ。立ち上がり、わざとらしく服の砂を払った。

「あ、え、えへへ……。坂上さん! お久しぶりです……」

「いいよいいよ、そのまま続けてて」

 坂上さんが、笑顔で手を振った。女の子が、もうちょっとで完成なのに、と責めるような視線を浴びせて来る。ちょっとごめんね、と一言謝ると、坂上さんがいいよいいよと手を振った。

「ちょっと寄っただけだから。元気そうで安心したよ。すぐ帰るから、気にしないで」

「へへへ、すみません。この子、すっごくお城づくり上手なんですよ! プロみたいなの!」

「ふっふーん! とーぜんです! だって、ぷろだもーん」

「そうかあ、プロかあ。すごいねえ」

 汚れた手で鼻の下をこするめこちゃんに、坂上さんは和やかに相槌を打つ。
 と同時に、めこちゃんからは見えない角度で、そっとウェットティッシュを私に渡してきて、「あとで拭いてあげて」と小声で言ってきた。私は、思わず笑った。
 坂上さんは、カタヌキ買取店の店主だ。カタヌキ師だったお母さんの昔からのお友達で、今はお兄ちゃんに仕事の斡旋をしてくれるし、私のお見舞いにもよく来てくれる。とっても優しい人だ。
 私はお父さんのことを覚えてないけど、お父さんがいたら坂上さんみたいな人がいいなあ、と思う。

「それじゃあ、僕はこれで」

「ええ! 今日はわざわざありがとうございます! あ、あと、最近お兄ちゃんちょっと忙しそうなんで、できればお仕事入れるとき、気にしてあげてください!」

 私にとっては、何の気ない言葉だった。
 坂上さんが、はっとした後、すぐに俯き顎に手を当てる。一瞬、こちらの顔色を窺うように視線を向け、また目を伏せた。
 坂上さんは、うそがつけない人だ。
 私は、お兄ちゃんの高校時代を思い出し、急な不安に駆られた。私に何の相談もせず、暴力団の扉を叩いた、あの時のことを。

「坂上さん。お兄ちゃんのこと、何か知ってるんですか? 何か危ないこと、してないですよね?」

 坂上さんは、私から視線をそらすように、ううんと唸る。そして、何かを決心したかのように私の肩を掴み、真正面から目を覗き込んだ。

「透君が君に言えないことを、僕は言えないよ。でも、大丈夫。透君は、ちゃんと頑張ってるよ。君のために」

 その言葉は、私が一番欲しくなかった言葉だ。
 やっぱり、お兄ちゃんは最近すごく無理してる。私のために、全部一人で背負おうとしてる。
 でも、お兄ちゃんが私のために無理をすればするほど、私が好きなお兄ちゃんから離れていく気がする。それが、例えようもなく心細くやるせない。

「……私のためになんて、いらないんです」

 気が付けば、下唇を噛みしめていた。めこちゃんが心配そうに、伏せた私の顔を下から覗き込む。

「戻りたい。お母さんと、お兄ちゃんと、三人で住んでいたあの家に」

 あの時が、私にとって一番の幸せな時間だったから。

 ベンチに座っていためこちゃんのお友達が、薄目を開けていたことに、私は気づかなかった。

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【仙波透】


 C2カードが、不快な警告音を鳴り響かせた瞬間、全身から血の気が引いた。
 急いでカードを取り出し、確かめる。カードに表示された名前は、『長鳴ありす:女性』。幼女道なる武術を使う女と、ヤクザの女性からは聞いている。
 一度、ヤクザの女性からテレビのある部屋を借りて、姿も見たことがある。どこからどう見ても小さい女の子だったのに、40代と聞き驚愕したものだ。
 だが、あくまでも近接戦が強い相手。偶然遭遇したとしても、そこまで難しい相手ではないと思っていた。

 C2カードが鳴った場所が、ヤスリの入院する大学病院の敷地内でさえなければ。

「ヤスリッ!」

 すぐさま駆けだす。太ももが、爆発したかのように熱い。こんな偶然、普通はあり得ない。敵は十中八九、ヤスリを狙ってきたと考えていいだろう。
 ヤスリが狙われる。可能性は考えていた。ヤクザにも頼んだ。だが、限界があるだろうことは容易に想像がついた。
 むしろ、自分が今この場にいるということが、僥倖なのかもしれない。

 誰であろうと、ヤスリを狙った奴は、生かしておけない。

 病院の受付を無視する。後ろから誰かが叫んでくるが、気にしない。エレベーターでは遅い。階段を、全力で走る。入院患者が何事かと目を剥くが、気にもしない。3階についた。ヤスリの病室は、309号室。婦長さんが制止するが、聞く耳を持つな。走る、走る、走る。

 俺の目がとらえたのは、ヤスリの病室から出てくる、小さな女の子。

 長鳴ありす。

 全身の血が、沸騰するかのように熱くなった。

「テメエエエエェェェェ!!!!!」

 俺は、肩を突き出したタックルの体勢のまま、上半身を固める。ありすの、驚愕するような顔が見える。その顔を押しつぶさんばかりの勢いで、そのまま突っ込んだ。


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【長鳴ありす】


「……すまん。すこし、話を聞かせてもらった」

 ヤスリちゃんを、めこと共に病室に送った別れ際。私は、ヤスリちゃんに声をかけた。ヤスリちゃんは、きょとんとしている。

「治るといいな! 体を治して、お兄ちゃんと幸せに暮らせるといい!」

 伝えるべきか、迷った。この言葉は、もしかしたら失礼になるのかもしれない。だが、幼女の基本はやる気・元気・根気だ。幼女が希望を語らずして、誰が希望を語れるのか。そう信じ、言葉にした。
 幸い、ヤスリちゃんは太陽のような笑顔を見せてくれた。

「ありがとう! ありすちゃんとめこちゃんも、また遊びに来てね!」

「ふっふっふー、ヤスリちゃんのおしろづくりはまだまだですから、めこがまたちゃぁーんと教えてあげますよー」

「こらこら。めこは、すぐ調子にのるんだから……。じゃあね、ヤスリちゃん」

 手を振って、重たい引き戸をうんしょっと開け、廊下に出たその時だった。

 野獣の方向のような、低く重たい絶叫が聞こえた。

 声の方向を見やると、灰色の作業着を着た大男が、肩を突き出しこちらに突っ込んでくる。私はとっさに、幼女拳おませの型:『きゃー、えっち!』を使い、胸を両手で抱え込むようにガードを固めた。
 重い衝撃。その勢いは止まらず、廊下を走り続ける。めこが、呼ぶ声が聞こえた。反応はできない。
 そのまま、壁を突き崩し、外に飛び出した。下は、先ほどまでヤスリちゃんと遊んでいた、病院の中庭だ。高さは三階。このまま落ちれば、重傷は免れない。

「はああああ!」

 全身から、『幼女闘気』を噴出させる。そのまま、幼女拳ごろんごろんの型:『でんぐりがえし』を使い、受け身を取る。回転により、落下のダメージをほぼ100%分散させた。
 すぐに後ろを振り返ると、タックルを仕掛けて来た大男が、特に受け身を取るでもなく、そのまま着地した。ダメージを受けた様子はない。何と言う頑丈さだ。

「長鳴ありす……だな」

 男が、低い声を出した。ピンときて、懐からC2カードを取りだす。そこに書かれているのは、『仙波透:男性』の文字。

「仙波透、か。カタヌキ師、だったかな。挨拶もなく襲撃とは、職人の割には随分と粗雑な仕事をするじゃないか」

「ふざけてるのか、てめえ」

 透の全身から、吹き出すような怒りを感じる。ぷんすかしているのはこっちだというのに。

「一般人を巻き込みそうになった。代償は高いぞ。私は、お前に手加減はしない」

「ああ、そうかよ」

 舌打ちをして、こちらに突っ込んでくる。まるで会話をする気はない様だ。それならば、それもいい。
 遠慮なく、叩きのめせるというものだ。


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【仙波透】


 腕の、肘から先を硬化する。まずは、先制だ。カタヌキにおいて最初の一太刀は、最も肝心なものである。

「おらあ!」

 ありすに向けて、チョップを放つ。カタヌキ師の手は、刃である。まともに食らえばそこから型は裂け、カタヌキのための下地が出来上がる。戦闘力を奪うには、これ以上の攻撃はない。
 ありすは、動く様子はない。これならば、確実に肩を切り裂く。
 その瞬間、ありすが親指で何かをはじき、口にくわえた。

「幼女拳おゆうぎの型:『へびさんごっこ』」

 ピ~~~~ヒョロロロロ~~~~~~!

 頭の悪くなりそうな音が響く。ありすが口にくわえた笛ラムネを吹いたのだ。その瞬間から、ありすの体がふにゃふにゃと、不定形の如き動きを見せた。まるで、インド人の笛と共ににょろにょろと動く蛇のように!

 そして、俺が放った袈裟切りは当たらない。返しの逆袈裟。突き。胴。その全てが、フニャフニャと動くありすには、全く当たる気配もしない。なんだ、この動きは。

「くそっ!」

 俺は、紙一重で躱される手刀を諦め、蹴りを放つ。こちらも硬化済み。鉄槌の如き蹴りだ。

「幼女拳いやいやの型:『ぶんぶん』」

 素早い体捌きで事もなく蹴りを躱し、そのまま懐に入ってきたありすが、手をぶんぶんと上下左右に振り回した。
 眉間。みぞおち。コメカミ。みぞおち。人間のありとあらゆる急所を、全て貫くかの如きぶんぶん。
 だが、全身を硬化した俺には効かない。ノーガードのまま、拳を繰り出した。

「硬いな……。これならどうだ」

 繰り出した拳を、ありすが掴む。気が付けば、もう片方の拳もすでに掴まれていた。ちょうど、俺の腕がクロスするような形だ。これは……!

「幼女拳おゆうぎの型:『せっせっせー』!」

 ぶんぶんと、俺の両腕が振り回され、たまらず体も宙を舞う。世界が逆転したかのような、浮遊感。
 一瞬の驚愕。それが、俺の体の硬化を止めた。

「幼女拳、てててての型」

 愛くるしい声が耳に響く。やばい、と本能が危険を告げる。だが、もう遅い。

「『ころんじゃったーっ』!」

 ありすが、全体重を乗せるかのように、頭から俺のみぞおちに突っ込んできた。宙に浮いていた俺は、なすすべもなく吹き飛ばされる。その勢いは止まらず、病院のごみ集積所に突っ込み、やっと体が地上についた。

(つええ……)

 そこまで難しい相手ではない、なんてとんでもない。これほど接近戦で圧倒されるとは、思っていなかった。
 敵は、強い。近接戦闘では、今まで戦った芹臼ぬん子や、量橋叶など、比べ物にならない。

 それでも、俺は負けられない。

 金が、必要だから。

 ふらふらと、体を起こし、またありすに向かおうとした、その時だった。

「お兄ちゃん?」

 背後から、聞きなれた声が響いた。


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【仙波ヤスリ】


 病室を飛び出した私の目に映ったのは、何か大きな力で破壊された、病院の壁だった。
 めこちゃんによると、ありすちゃんはそれに巻き込まれ、外に飛び出たという。私はいてもたってもいられず、怖い気持ちを押し殺して、めこちゃんと一緒に外に出て来た。
 その時、ごみ集積所から、大きな物音が聞こえた。

「あっちです!」

 めこちゃんが私の手を引く。私もそれに引かれて、懸命に走った。
 たどり着いた先にいたのは、灰色の作業着を着た、大きな男の人。
 見間違える筈がない、力強い背中。

「お兄ちゃん?」

 思わず、声をかけた。否定して、欲しかった。
 目の前で血を流し、ふらふらと立ちすくむ彼は、一瞬こわばり、ゆっくりと振り向いた。

「大丈夫」

 優しい声。いつもの、お兄ちゃんの声。お兄ちゃんの笑顔。
 なのに、どうしてこんなにも、痛々しいのだろう。

「ヤスリは、気にしなくていい」

 それだけ言って、お兄ちゃんは走っていった。

「あ、まてーっ!」

 後を追おうとするめこちゃんの手に、しかし私は、それに応えられない。
 急激な眠気。病気の発作だった。
 膝から崩れ落ち、その場に倒れ込む。めこちゃんが私を呼ぶ声が、水中に響くように鈍く耳に届いた。

「お、にいちゃん……」

 私の声は、誰の耳にも届かなかった。

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【長鳴ありす】


「なるほどな。私が『ひとじち』を取ったと思ったのか」

 ヤスリちゃんとのやり取りを見て、透の怒りの源泉がようやく理解できた。彼は、ヤスリちゃんの病室から出てくる私を見たのだろう。

「だが、それは誤解だ。君の妹さんとは、なかよく『すなばあそび』しただけだよ」

 はあはあ、と息を切らしながら立ち尽くす透は、疑念を隠し切れない目で、私を見た。やれやれ、と私は頭を振る。

「かわいい妹さんだ。それに、できた子だ。お前のことを、とても心配している」

「……自慢の妹だよ」

「それでいいのか」

 透の動きが、ぴたりと止まる。手を握りしめているのがわかる。右手から、血が出てきている。

「何がだよ」

 透の返答は、虚勢でしかない。構わず、私は言葉を続けた。

「妹さんのためを思うなら、お前は妹さんのそばにいてやるべきなんじゃないか」

「うるせえ! てめえに、何がわかるッてんだ!」

 透が、固めた拳で病院の壁面を叩く。ぴしりとひびが入り、パラパラと欠片が降り注いだ。

「ヤスリがカタヌキをしろと言わなければ、ヤスリが健康でいれば、ヤスリがいなければ。何度もそう思った。その度に、自分が嫌いになった。
 自分の全てをかなぐり捨てて、あいつのために生きたかった。でも、俺はあいつに、お前の所為だって言ってやりたいんだ。
 お前が生きているから、俺がこんなに苦労してるんだって。あいつにぶちまけてやりてえんだ。傷つけてやりてえんだ」

 がんがんと壁を叩き続けていた透は、ぴたりとその動きを止めた。自分の頭を、握りつぶすように抱え、俯く。

「そんなクソみてえな野郎の人生に、価値なんてねえだろ……」

 蚊の鳴くような声で、そう絞り出した。
 透は、涙を見せなかった。しかし私には、子どもがぎゃんぎゃんと泣いているように見えた。

 悲しい男だと、私は思った。


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【仙波透】


 頭を抱え込み、その場にしゃがみ込む。今日はいろんなことが起きる日だ、もう嫌だと、純粋にそう思う。

 俺はただ普通の兄貴みたいに、ヤスリを思っていたかった。でも、俺のガキみてえなワガママは、それを許してくれない。

 そんな俺なんかより、ヤスリが生きていた方がよっぽどいい。
 ヤスリが、生きたいと言ってくれたから。
 ヤスリのためなら、俺なんて死んでも構わない。そう言い訳をして、今日まで生きて来た。

 そうだ。俺は勝たないといけない。

 勝って、金を稼いで、ヤスリにさっきのことを説明して。ごまかさないといけない。

 でないと、あいつを生かせないんだ。

 俺は、ゆっくりと右手を掲げた。職人気質。右手が、オリハルコン製のノミのように、硬化する。俺が自分の体の中で、唯一信頼できる場所だ。

「おおおおおおおおおお!」

 自分を鼓舞するかのように、叫んだ。何の策も持たず、何の意味もなく、ただ走り、ありすに向かって右手を突き出した。

 ザシュっと、肉が裂ける音が聞こえた。

 それと同時に、ありすは左脇腹で、俺の右腕をがっちりとホールドした。抜こうとしても、まるで抜けない。何と言う腕力だ。

「いたいんだね」

 ありすの、優しい声が耳に届いた。

「こころが、いたいんだよね」

 頭に、暖かい感触。むかしむかしにされたような、どこか落ちつく懐かしさ。

 そうだ。ありすは、俺の頭を優しく撫でているのか。

「だいじょうぶだよ。いたいのいたいの、とんでけー」

 俺は、全身の力が抜けていくように、ゆっくりと目をつぶった。


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【長鳴ありす】


 幼女道とは、武道である。
 それは戦国の世にあっては、敵を欺くための技であった。だが、この平和な時代を通じ、幼女道はその愛くるしさ故、敵を作らぬ技へと発展した。

 だが、ありすは、その先を求めた。敵を作らぬだけでは、彼女は満足できなかったのだ。

 そして、ありすはついにたどり着いた。原初の幼女。愛くるしさの権化。ロリ・オブ・ザ・ワールド。様々な二つ名を持つありすだからこそたどり着いた、境地。
 これこそが、ありすが開眼した幼女道奥義。

 なでなでの型『いたいのいたいのとんでけ』。人を救うための、活人拳である。

 透は、その暴力的なまでのバブみに、もはやオギャる以外にすべきことを見いだせなかった。

「なんで、なんで俺ばっかり! こんな目に合うんだよ!」

 透は、人目をはばからずに泣き叫んだ。泣いて、泣いて、全身の水分を出しつくすかのように。ありすは黙って、その頭をなで続けた。
 だが、

(まだまだ未熟だな)

 お前を、救ってやれなかった。

 ありすの感覚が消えていく。わき腹が熱くなる。ぼんやりとした熱に浮かされ、ありすはその意識を失った。


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【仙波透】


 ありすの膝枕を受けながら泣き崩れた透は、完全に戦意を喪失していた。

 完全に、俺の負けだ。この先まともに戦ったところで、勝てるわけがない。何より、何故だかすっきりしている自分がいる。
 もう、いいじゃないか。終わりにしよう。

「ありす、さん。俺の、負け……」

 そう、透が言おうとしたとき、ありすの体がぐらついた。
 ありすは目をつぶり、そのまま倒れ伏した。そのわき腹からは、どくどくと血が流れている。

「おい……おい! あんた!」

 透が一瞬焦り、止血をしようとわき腹を押さえた時、

 思いとどまった。

(もう、こいつは動けない)

 勝ち目はなかった。本来ならば。だが、今ならば。

 透が、ゆっくりと右手を固めた。唇を、血が出るほどに噛みしめる。何故か、泣きそうな気持になった。

「……かわせただろ、あんた」

 攻撃を紙一重でかわそうとしなければ。自分を抱き締めようとしなければ。

 透の右手が、振り下ろされた。




【仙波透vs長鳴ありす】

【勝者:仙波透】



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【仙波ヤスリ】


 ヤスリは病院の中庭で、強烈な眠気と懸命に戦っていた。

 めこちゃんの声がどんどん遠くなる。今までなら、後30分は起きていられたはずだった。起きている時間は、どんどん短くなってきている。
 私は、いつまで起きていることができるだろうか。
 原因不明の病気。次に目を閉じれば、もう二度と目を覚まさなくなるかもしれない。そんな恐怖に身を震わせながら、今日も眠りにつくしかない。

(でも、私が起きなかったら、お兄ちゃんは楽になるかな)

 そう思うと、少し心が和らぐ。私が死ねば、お兄ちゃんはずいぶん楽になるだろう。

 私がカタヌキ好きだなんて言ったから。
 私が病気になったから。
 私がいたから。
 お兄ちゃんは、日々の暮らしに苦労しているのだ。

 私が放った呪いのような言葉で、お兄ちゃんはずっと苦しんでいる。カタヌキ師なんて、お金の稼げない仕事を続けているのは、私がそれを望んでいるからだろう。
 口には出さないけど、お兄ちゃんは私が嫌がることを決してしない。だからこそ私は、大変な重荷になっているはずだ。

 でも、ごめんね。わがままな妹でごめんね。
 私、それでも生きたいよ。

 お兄ちゃんと二人で、一緒に生きていたい。

 ヤスリの意識は、深い闇の底へと向かっていった。


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【仙波透】


 ズリズリと、足を引きずりながら、透は面会時間を過ぎた病室の中を歩く。どれくらい意識を失っていたのだろうか。
 全身の傷は、皮膚の硬化で止血をした。痛みを感じる暇すらない。千代田の私兵の治療を受けている時間さえ、惜しかった。とにかく、今はただヤスリに会いたかった。会って、説明と、言い訳をしたかった。大丈夫なんだと、心配することはないんだと、言いたかった。
 ヤスリの病室にたどり着き、無言で重々しい引き戸を開ける。

 部屋は、がらんどうになっていた。

「ヤスリ……?」

 おかしい。この時間に目を覚ましたことはなかったと思う。いや、どこか散歩しているとしても、何故私物がなくなっているのだ。
 混乱する透に、背後から声がかかった。

「透君!」

 透が振り向くと、そこにはでっぷりした中年の男性……坂上が立っていた。
 その目は少し赤くなっており、目じりは腫れている。ひどく憔悴しているようで、いつもの笑顔を見せる余裕すらないようだ。

「坂上……さん。ヤスリのお見舞いに来てくれたんですか?」

「いや、僕は病院から連絡をもらって……。透君、落ち着いて聞いてくれ。ヤスリちゃんは……」

 坂上の一言を聞いて、透の視界は、まるでシャットダウンしてしまったかのように、暗転した。
 その後の坂上の言葉は、透の耳には届かなかった。ぼんやりとする頭で、坂上に手を引かれるまま、ある部屋の前に連れていかれた。
 透は、集中治療室と書かれた部屋の前に立ち、ふらふらと大きな引き戸を掴んだ。

「ヤスリ、入るぞ」

 返事はない。

 透は、重苦しい扉を開けた。

 至極個人的な黄昏が、透の眼前に広がっていた。

最終更新:2016年09月18日 00:07