第三回戦SS・劇場その2

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夕暮れ時。蟹原和泉はオフィス街の路地裏で目覚めた。

既に日は傾き、西の空は赤く、東の空は黒く染まっている。しかしビルの窓には未だ電灯の明かりが灯っている。おそらく残業中のサラリーマンたちが残っているのだろう。そして残業代は出ないのだろう。悲しい現実だが、和泉には関係のない話である。

仰向けに寝そべった状態から上半身を起こし、その姿勢のまま体中を触れて確かめる。数時間前に受けた傷は跡形もなく消え、ずたずたに破れた服も元に戻っている。尻ポケットの中にはちゃんと財布も入っている。無くなったものはない。ほっ、とため息を吐く。

一安心したところで、彼女は路地裏で昼寝することになった原因を思い出した。街中での格闘戦。薬まじりの肉の味。そして……。

左手を目の前に掲げる。指が五本揃っている、所々に生えた□さえ無ければ、何の変哲もない掌。一本ずつ触って確かめる。親指、人差し指、中指。反対側から小指。そして、薬指。

そう、薬指だ。あの時、この指にはケーブルが絡みついていた。その姿は今思い返せば不格好でおかしなものだったが、しかし、あの時の和泉にはソレがなんだか尊いように、美しいように感じられた。

彼女はしばらくそのままの姿勢で、左手薬指、その付け根をじっと眺めていた。その顔には不思議そうな、しかし嬉しそうな表情が浮かんでいた。

そして。

「…………おなか、空いたなあ」


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最強を目指す。そのお気持ちを再び固いものとした大原吉蔵が行ったことは、他の参加者とは違う、一風変わったものだった。

まだまだC2バトルは終わっていない。通常であれば他の参加者を調べたり、もしくは次の戦いに備えて武器や装備の調整を行うことだろう。実際、どこぞの山中の鍛冶屋を訪ねて武器を強化したものもいる。

だが、吉蔵はそんな事はしなかった。彼の武器は年甲斐もなく燃え盛る闘志と、年の割に強靭な肉体、そして彼が少年の頃より共に戦ってきた『セイクリッドファイア』だけである。そしてそれらは理想都市の戦士との戦いによって研ぎ直されたばかりである。彼は心身ともに万全の状態だった。

では、彼はどうしたか?……吉蔵はその日、妻と共に街に繰り出していた。目的地は駅前の県立劇場。目的は演劇鑑賞だ。

何をのんきな、と読者のみなさんは思うかもしれない。しかし、これはただの娯楽ではないのだ。演劇とは役者と裏方、そして劇作家の血と汗と涙の結晶であり、フードファイトに並ぶとも劣らぬ苛烈さを持つ。当然鑑賞するだけでも相当量の気力と体力を要求され、結果として通常の鍛錬では身に付かない根性や気迫といったものを鍛えることが出来るのだ。

これらの鍛錬方法は近年の若者の演劇離れと共に知る者が減っていき、今では古武術の専門家や幼女道の免許皆伝者など一部を除き誰も実践するものが居ない。しかしその効能は肉体的苦行を遙かにしのぐのだ。いにしえの劇作家・聖徳太子も「男の鍛錬は飯食って劇見て寝る、それで十分だ」との言葉を残している。

そして、大原夫妻もその事実を知る数少ない人物のうちに入っていた。彼らは月に一度か二度演劇鑑賞を行うことで、その精神を研ぎ澄ませているのだ。事情を知らぬ他人から見れば仲の良い老夫婦に見えるだろう、しかし実情は過酷な修行を共に行うことによって互いに高めあっているのである。

吉蔵は既に肉体の調整を終えている。あとは残る精神面を鍛え直すことで、彼は吉蔵を超えた吉蔵、グランド吉蔵にジョブチェンジすることが出来る。そうなればもはや負ける事は絶対にありえない。

彼らは腕を組み合いながら、劇場の出入り口、チケットもぎり場へと歩を進めた。


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お手洗いに向かった妻と一旦別れ、一足先に吉蔵が劇場内の椅子に座った時、彼の腰元がじんわりと熱くなった。

彼の脳裏に悪い予感が走る。思い出されるのは友人・貞治が言った何気ない一言。

《年を取るといろいろと締まりが悪くなって、無意識にアレやコレを漏らしちまうらしいぞ。いや、ワシの事じゃなくて、一般的な話で……なんじゃその目は》

まさか。まさか漏らしてしまったのか。しかも公共の建物たる劇場の中で。一気に顔色が青くなる。自宅ならまだしもこんな所でやってしまったとなればボケ老人扱いは必定。最悪これからオムツを履いて暮らすことになってしまうし、息子や孫からの尊敬も消し飛ぶだろう。

……隠蔽しなければ。彼は「セイクリッドファイア」を使って水分を蒸発させることにした。染みは残るかもしれないが水たまりを残すよりはマシだ。掌に極小の火炎を作り出す。

しかし、それが裏目に出た。

ブガーーーッ!ブガーーーッ!ブガーーーッ!

吉蔵が炎を出したと同時に、劇場内にサイレンが鳴り響いた。火災報知器だ!

地元の古臭い劇場ならいずしらず、ここは天下の県立劇場。火事対策は万全である。そんな中で火を起こしたら火災報知器がなるのは当然。だが粗相の可能性に慌てた吉蔵の頭からはそんなことは抜け落ちていた。

「みなさーん。落ち着いて、いったん外に避難してくださーい」

劇場スタッフの誘導により、すでに着席していた観客たちがどんどん外に退出していく。その最中において、吉蔵はすこしバツの悪い顔をしていた。

見ればズボンには濡れた後はなく、アンモニア系の臭いもしない。彼はポケットを探ると、一枚のプラスチックカードを取り出した。それは見た目からは分からないが、たしかに発熱していた。

「……」

それを見る吉蔵の顔は、まるで苦虫を噛み潰したがごとし。恥ずかしさと悔しさがないまぜとなっている、複雑な表情だ。

カードの正体はもちろんC2カードだった。家を出る時に忘れかけ、慌ててポケットに突っ込んでおいたものだ。こいつが発熱したおかげで彼は恥ずかしい勘違いをしてしまったのである。この怒りは後で貞治にぶつけておこう。そう決心した。

しかし、発熱したという事はなにか異常があったという事。吉蔵はカードを裏返し、そこに刻まれた文字列を読む。案の定、それは次の対戦相手の名前だった。

「……フーム」

劇場には多くの人間が集める。もちろん吉蔵も戦闘になる可能性は考えてあった。むしろ今の状況は人払いが出来て好都合でもある。

カードに刻まれた名前は『蟹原和泉』。彼はC2バトルに参加する以前から強そうな格闘者には一定の注意を払っていたが、そういった所でもこの名前を見たことはない。

だが、どこかで見たような、そんな気がした。それも新聞やテレビと言ったものを通してではなく、自分の目で。

「ムム……」

一体どこで見たのか。記憶を手繰り、思い出そうとする。しかしなかなか思い出せない。ぼけているのではなく、そんなに重要な事ではなかったからだろう。首をひねる。

その時、彼の肩に手が置かれた。

「きええェェェェェェッッ!!!」

怪鳥音!吉蔵のカラテシャウトだ!火炎を纏った拳が襲撃者に命中する!

「グワーッ!?」

吹き飛ぶ襲撃者!吉蔵はそれに並走し追撃をかける!

……しかし、彼は襲撃者への追撃の拳を止めた。敵の姿をしっかりと確認したのだ。

「……あー、しまった……」

それは、先ほどまで出入り口付近で案内をしていた劇場スタッフだった。おそらく一人で劇場内に残っていた老人の姿を見つけ、親切にも声をかけようとしたのだろう。それを考え事をしていた吉蔵は敵と誤認して攻撃してしまったのだ。

すまん、と心の中で呟き、倒れた彼に『セイクリッドファイア』を纏わせる。ものの数秒で表皮の火傷は治ったが目覚めはしない。少々強く殴りすぎたのだろう、吉蔵は小さく反省した。

しかしそうなると真の敵『蟹原和泉』はどこにいるのか。劇場内には既に吉蔵と気絶した劇場スタッフしか残されてはいない。スタッフは既に戦闘不能であり対戦相手である可能性はゼロだ。

(どこだ……どこに居る……!?)

じわり、と汗が額ににじむ。緊張に喉が渇く。何か飲み物が欲しいところだが、あいにく劇場内は飲食禁止だ。水分補給できそうなものは何もない。

その時、吉蔵の脳内で稲妻が走った。水分補給。その単語が彼の記憶を呼び起こしたのだ。

そう、あれは重雄と貞治と三人でパターゴルフで血で血を洗う争いを繰り広げたあの日。激しい運動をした彼らはあの後、水分補給をするために近場の喫茶店に入ったのだった。

中にはアルバイトとおぼしき女性店員がひとりのみ。彼らはアイスティーを頼むついでにその店員にちょっかいをかけたのである。若かりし時に女給さんと遊んだことをまたやりたくなったのである。彼らは老いてなお盛んだった。

しかし、その結果は散々たるものだった。店員に少しばかり下品な言葉をかけた吉蔵は煮えたぎる紅茶を頭から浴び、店員の尻を触ろうとした重雄は指を折られた。わざと股間にアイスティーをこぼして拭かせようとした貞治は……これ以上は何も語るまい。

その後も店員は三人を病院送りにしようとしたが、すんでのところで店長らしき男が現れ彼女を静止したのだった。そのとき店長は確かに『蟹原くん』と呼んでいた。

(そうか、あの時の……!)

吉蔵の脳内にはっきりとその時の光景がよみがえった。そして確信した。敵はあの店員だ。

いまだ敵はその姿を見せず。しかし既にその正体は分かった。もう間違えて他人を攻撃することはない。吉蔵は構えをとった。

周囲に気を配る。椅子の影に敵の姿はないか。ない。

ふと、彼は一つの事が気になった。それは妻・知代子の事だ。彼女は今どうしているだろうか。

先ほどお手洗いに行くといって別れたが、その後どうなっただろう。スタッフに連れられて劇場外に避難したか。

だが、それはおかしい。吉蔵は彼女と連れあって何十年と経つ。彼の妻はひとりで避難するような女ではない。避難する前に必ず吉蔵に会いに来るだろう。

それが、無い。急に嫌な予感がし、彼は女子トイレに向かって走り出した。


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女子トイレは血の海だった。

否、女子トイレだけではない。出入り口につながるロビーが全て真っ赤に染まっていた。ねっとりとした鉄の臭い。すべて血だ。

だが、それにしては人影がない。これだけの量の血が流されたとなれば被害者は数人どころの話ではない。重傷の人間か、それか死体が二ケタは転がっていなければおかしい。しかし怪我人はおろか健常者の姿もない。

「どういう事だ……!?」

彼が劇場内に入ってから二十分ほど。その間に百人はいた観客たちが血だまりを残して全員消えている。通常ならば考えられないことだ。

だが、事実としてここには誰も居ない。生者も死者も残らず居なくなった。異常な光景がそこにあった。

「ぎゃあああああああああああああああああ!!!」
「!!?」

その時。劇場内から悲鳴が上がった。中には吉蔵が殴り倒したスタッフしかいない。おそらく彼の声だろう。吉蔵は劇場内に戻るべく猛スピードで駆け出した。

息が荒くなる。老いた心臓が早鐘のように鳴り響く。

そして彼が劇場内に戻ったとき、そこには、一人の女性だけが居た。

全身真っ黒の服装。右目には眼帯。そして……左腕の肘から先がない。彼女は駆け込んできた吉蔵を一瞥した。そして、その口を開け、まるでミュージカルの主演女優がごとき澄んだ声で語り出した。


「結婚指輪ってあるじゃないですか。私もこの前つけたような……つけなかったような

「それを見て私、綺麗だなあって思ったんです。それに、とても、美味しそうだなあって

「だってそうでしょう?綺麗なものは美味しい……だから食べてみたんです。指ごと

「でも、私の指ってもう残り少なくって。あんまり食べられなくって……

「だから、他の人のも食べてみようと思ってですね、それで」


「黙れ」

吉蔵は喉から声を絞り出した。その喉はもうからからに乾いている。両手には炎が燃え盛っている。

「一つだけ聞く。答えろ」
「なんですか?」

きょとん、とした表情で応える女。ソレを睨み、彼は問うた。

「ワシの妻、トイレに居たはずだ……貴様、アイツをどうした……!?」

……彼自身、その答えはほとんど分かっていた。しかし、聞かない訳にはいかなかった。そして。

「ああ、美味しかったですよ。でもすこし脂が足りなかったかな?」

その答えを聞いたか聞かなかったか。彼は敵に向かって突撃した。

後方に火炎を噴射、全身に炎を纏った体当たりである。直撃すれば木っ端みじんに吹き飛ばせるだろう。だが彼自身にも少なからずダメージが及ぶ捨て身の業だ。それだけ頭に血が上っていた。

それを見た女は、一言だけ、呟いた。

「いただきます」

直撃。黒い服が燃え、素肌があらわになる。しかし、それだけではなかった。

女……蟹原和泉の身体が被弾箇所から放射状に裂ける。服と言う拘束が無くなり、□が最大限開かれたのだ。そしてその穴に、火だるまと化した老人が飛び込む。


そして、□が閉じた。

「ごちそうさまでした」


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【勝者・蟹原和泉】

最終更新:2016年09月17日 23:56