「黄連雀夢人、か」
情報屋の届けてきた書類には、簡単なプロフィールと顔写真。一度表で多少とはいえ名の知れた人間のようだ。基本的には地下に篭っているようだが、足跡を辿るのは、そう難しいことではなかったという。
「作家として幾つかの作品を発表するが、突然創作活動を中止。神経衰弱のためと見られているが、詳細は不明。今大会への参加動機も不明だが、カード強奪による参加であるため、かなり強い意志をもって臨んでいる模様」
五色那由他は相手の人生の概略にざっと目を通す。がさり。机の上に、横顔の写真が投げられた。
「能力は砂を操るものであることは判明している。また、打擲武器を用いた近接格闘も行う、と。中継の通りだな。これは」
バシ、と強いお気持ちをもって、拳が打ち合わせられた。
「だが、俺が最強だ」
「五色那由他」
古書店『連雀庵』の静かな店内。黄連雀夢人は、父に頼み、伝手を辿り得た情報を聞いている。父の声が徐々に険しくなる。
「聖徳太子を倒したとされる五色流継承家の長男。ただし才能には乏しく、中途で破門。その後は薬物投与や身体改造等を繰り返し、裏社会での始末屋稼業を続けている……強敵だぞ、こいつは。倒した相手の数も、賞金も、お前とちょうど同じだ」
父は眉をひそめる。
「今回参加の動機は?」
「強さにこだわる言動が多く見られているため、恐らくは最強の座を得るための参加であると思われる」
「戦狂いか」
夢人は一言で片付ける。元より戦いを好むわけでもない、金と望みが目当ての参加者である彼には、案外多く存在する、最強を目指すタイプの参加者のことはよく理解ができない。
「どちらにせよ、勝ちますよ。真砂さん」
誰もいない隣に向けて話しかける彼に、父はまたか、という諦めの目を向けた。
夕暮れ時の住宅街。五色那由他はゆっくりと歩を進めていた。ねぐらに帰る途中……のはずではあったが。ふらりと裏路地に入っていく。
……黄連雀夢人は、その小さな背中を静かに追いかけていた。優勝を狙うのであれば、もはや最多勝者である五色を狙うのが一番手っ取り早い。フードをかぶり、いかにも怪しげな様子で、つかず離れず彼を追う。
裏路地。男の居所としては確かに似つかわしい場所ではあったが。彼は誘い込みを疑う。
だが、望むところだ。どんな策を用意していようが、彼が勝つ。頼むものはこのブラックジャック+1と、彼自身をも蝕む砂だけではあるが。彼は勝つ。ひとりきりで。
路地の中ほどまで進んだところで、五色那由他は振り返った。後ろに、逆光を浴びた人影がひとつ。
「五色那由他」
押し殺したような暗い声だった。眼鏡をかけているようだ。
「お前、黄連雀夢人か」
先日見たばかりの顔だ。資料と、そして試合の中継で。今日は発狂はしていないようだ。態度は落ち着いている。
「ちょうどいい。ちょうどここに……」
ガガガガガガガガッ!
突然伸びてきたワイヤーが縦横無尽に、黄連雀の立っていたあたりの空間を蹂躙した。相手は一歩だけ、前に進む。それだけだった。
「……鶯は空鳴きか。まあいい」
進んだということは、道をふさぐワイヤーによって退路が断たれたということ。すなわち、彼の掌握する空間に足を踏み入れたことを意味する。
「ここがお前の法隆寺だ」
火器喰えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
著名なこの俳句は、法隆寺に立てこもった聖徳太子側の残党が、無慈悲なるガトリングガン連射により破れた、かの戦いへの鎮魂歌。葬送の鐘は既に鳴り響いている。彼は小声で傀儡子を発動。リミッターを解除。
「そして最強は、俺だ」
五色は正拳を振り抜いた。
十 七 条 拳 法 !!
夢人は五色那由他の過去の試合の中継を見ていた。高速の連打。対応せねば彼には勝てないと思った。対策を瞬時に取る。
ごく薄い砂の膜を張る。砂は、拳を包み込むように動き、急所からわずかにその狙いを外す。一枚が剥がれ落ちる前にもう一枚下の層を。それが剥がれる前にさらに下の層を。
神田古書店街七階層に住まう巨大な水蛇、ヒュドラは、その首をひとつずつ切り落とすごとに次の首が再生される。これは、彼がその戦いぶりを見て生み出した防御技。すなわちヒュドラ打点ずらし。
ダメージを完封することこそできないが、おおよそ半減は可能だ。ヒュドラの首は九つ。十七の半分、すなわち八と二分の一回殺されても、半分の命は残る。半殺しで済むのだ!
凄まじい連打にふらつきながら、しかし夢人はまだ立っていた。死ぬわけにはいかない。彼は、夢を叶えるのだ。
五色那由他が目を細めた。大原に続き、この技が破られたことに何がしかの感慨を受けているのだろうか。彼は、無意味と知って話しかける。
「……あなたの望みは、五色流の最強を証明することか」
「まさか。俺は俺の最強を証明する。俺の在り方、全てを肯定する」
「聖徳太子でも退治するつもりか?」
「カンがいいな。その通りだよ」
お前は聖徳太子か? 五色那由他が獰猛に笑った。
妙にいい気分だった。闇医者、ライヒに土下座してまで頼み、致死量近くにまで点滴してもらったお気持ちのおかげだろうか。いつになく口が回る。拳に力がみなぎる。つられたか、黄連雀も、既に半分ボロボロになりながらも饒舌だった。
「……私の出身は、神田古書店街だ」
肩に拳が掠る。浅い。
「ああ、調べはついている……まさか参加者に、奴の遠い縁者がいたとはな」
黄連雀は頷く。神田古書店街ダンジョン。その始まりは、聖徳太子による大仏建立により地に穿たれた大穴。やがてその穴は古代の人間により広げられ、時の権力に弾圧された重要文書や文化財を隠すための避難所となった。そこは常に、まつろわぬ人々の隠れ場所であったのだ。
「縁者というほどのこともない。だが」
ブラックジャックが空気を鳴らす。彼は軽くそれを弾く。身体が軽い。絶好調だ。
「俺にとっては重要なことだ」
彼の拳は、黄連雀を追い詰めつつあった。ワイヤーの張られた一角に、徐々に相手は押されつつある。大して、大技を撃った後もこちらのお気持ちは十分だ。
「聖徳太子を、殺す。追い詰め、殺す。ひとりでだ。いいか。俺は、それで、証明する。最強を。俺の最強を。俺だけの」
はた、と気がつく。この感じは、なんだ。いつもの俺とはまるで違っている。黄連雀は、どこか冷めた目で彼を見ていた。
何か、白い、細かいものが宙に舞っている。これは、砂、か。
黄連雀夢人の操る砂は、通常、魔人が少量摂取した場合は微かな眠気と一瞬の幻覚を呼ぶ。今回も、彼はそれが狙いで密かに空間に砂を散らばせていた。少しでも相手の動きを鈍らせることができれば、と。
だが、五色那由他は戦闘開始直後に傀儡子を密かに発動。通常以上の興奮物質を分泌させる体質と化していた。それは、鎮静効果を無効化、逆に必要以上のアドレナリンを生み出す。彼は饒舌に、凶暴になりつつあった。彼は話し続けた。
「お前は、大原吉蔵よりも、弱い!」
ダン、と拳が胴を撃つ。黄連雀は、だが、ワイヤーの反発を利用し、逆に彼の懐に飛び込んできた。鳩尾を抉られるような痛み。
「蟹原和泉よりも、意外性がない」
足で払う。相手はまた下がる。ワイヤーにぶつかる。そこを、殴り抜く。
「そして、アリア・B・ラッドノートよりも、ずいぶん情けない」
こんなものか、と思った。油断をしたわけではない。だが、始末屋をしていた頃、この程度の人間になら稀に出会っていた。こんな程度の相手と、俺は並んでいたのか?
お気持ちが熱く燃える。汗が飛ぶ。内側から光が溢れているような気分だった。
「俺は最強だ」
そう、それは。お気持ち放送発声可能上映。彼のお気持ちは、今や4DXの座席のごとく揺れ、己の声がドルビーサラウンドシステムのように荘厳に鳴り響くようなお気持ちですらあった。
「俺は最強だ!」
黄連雀は、彼を睨みつけているようだった。だが、もはやどうでもいい。彼の心は空の高みに飛ぶ。
「俺は、最強だ!!!!」
そして、お気持ちは高まり、弾け、恍惚を呼び、そして、ついにはひとつの言葉を生んだ。
「俺は、全てだ」
ぱちんと、何かが弾けた。その時、五色那由他の姿が消えた。黄連雀は訝しげに辺りを見回し、待ち、そして、懐で奇妙な挙動を見せだしたC2カードを取り出す。
その名前の表示は今まで見たことのないような形に、ひどく文字化けしていた。
五色の能力である傀儡子は、物理法則に反することは行えない。しかし、お気持ちに働きかけることは可能だった。そして、常人には耐えきれぬほど高められたお気持ちは、ついに、彼の肉体を凌駕した。
すなわち、お気持ちビッグバンである。
彼は「光あれ」と言われた。すると光があった。光とは俺だ。彼は思った。分かたれた闇もまた彼だった。
天と地も、夜と昼も彼だった。第一日のことである。
空も、水も、陸も、全てが彼だった。生きとし生けるもの死せるもの全てが彼だった。すべてが彼と同化し、時間も空間もなかった。すべてがお気持ちに満ちていた。
彼は勝者すべてであり、敗者すべてでもあった。彼は聖徳太子であり、スイコちゃんであり、また聖徳太子を屠った五色流の者たちでもあり、人という小さな殻を被っていた頃に勝った/負けたすべての人間であり、もはや彼には名などなく、ただ、ただ、お気持ちは拡散し続け、アカシックレコードすらも書き換え……。
診察室でテレビに見入っていた闇医者、ライヒは、ふと我に返った。C2バトル。なぜ自分はこんなに集中して観戦していたのか? 縁者もいないというのに。
自室で密かに試合を見守っていた五色無量は、疑問に思った。この試合の何が、自分の心を捉えていたのか? 自分は誰を応援していたのだったか?
だが、彼の人としての自我が消えかけたその瞬間、微かに彼を引くものがあった。茫漠としたお気持ちのまま、それを見やる。
そこには一枚のカードがあった。今や読み取れぬほど文字化けしたその表示は、確かに彼の名を表していたはずだった。そして、そのカードを手にするひとりの男があった。
彼が、唯一、何の決着もつけぬままに終わりつつある男。黄連雀夢人。
「これで終わりか」
黄連雀は言う。それは独り言であったのか、それとも消えた対戦相手への語りかけであったのか。
「この試合は初めから無かったことになる。もしかすると、カード不具合で勝者なしの空白試合と位置付けられるかもしれない。それで終わりか」
拳は、小刻みに震えていた。
「それが、許せるか」
どういうわけか、黄連雀は彼を、宇宙すべてに拡散した彼のお気持ちを捉えているようだった。直前に接触した故か、あるいはカードが特異点として作用したのかもしれない。理由は不明だ。
ともかく、彼は虚空を睨みつけ、そして吼えた。
「お前はそれで許せるのか、五色那由他!!」
俺は。拡がった自我が、突然収縮を迎える。俺は、俺のあれだけ焦がれたものは。人としての生は。叫ばれた名に引き寄せられるかのように、彼は受肉した。あの貧弱な肉体に。もはや取り返しのつかぬほど傷ついた身体に。
「俺は、五色那由他だ」
黄連雀は、目の前で彼を睨み据えていた。あちらに、今まさに起こったことの記憶があるのかどうかは定かではない。五色の中からも、一瞬の涅槃の記憶は薄れつつある。
「俺は、弱い」
彼は、続けて言った。隠しても拭い去れぬ真実を。
「俺の身体は、最強からはほど遠い。神に選ばれた男になりきることができても、真実、奴になることはできない」
黄連雀は、構えたままそれを聞く。
「そして、中身はもうボロボロだ」
ライヒは、この試合を観ているだろうか。この告白を、どう思っているだろうか。
「俺は弱い。だが」
そう。これはお気持ち放送発声可能上映。彼の傀儡子を全国ネットの中継に乗せる。
「俺は、最強だ!」
黄連雀が、彼に躍りかかった。
最強か、と夢人は思う。最初に戦った、飯綱火誠也の目指していたものも最強の座であったと、彼は後に知った。長鳴ありすとて、己の信じる強さを証明するために戦っていたのだろう。
物部ミケはおそらく違う。彼女は彼と同じだった。最強であることそれ自体に意味はない。その奥にある望みを叶えるために、彼女は駆け上がっていた。
彼の力は、生き抜くための力だった。ダンジョンで生きていくために、彼はモンスターを屠るための力を手に入れた。それは、誰と比べ競うものでもなかった。型がなかろうが、奇矯であろうが、何も問題はなかった。
だが、彼らが最強を目指すと言うのならば。自分はそれをさらに乗り越えねばならない。彼には夢と絆がある……いや、それらをこれから現実に築いていく。その出発点に立つためには、誰よりも強くあらねばならぬのだ。
不意の一撃は、防がれた。だが、相手も体勢を崩す。もう一度打ってから、引き下がる。
次は、どう出る。
五色は構える。五色流最も基本の構え、一番最初に父に習った構えを。
黄連雀も構えを取る。それは神田古書店街において最も初心者向けとされる敵、コボルトの動作を写したもの。
五色は拳を突き出した。これも、一番最初に習った動作。基本の一撃。正拳突きを。
正拳は政権、はては聖剣に通ずる。スイコちゃんを守る円卓の騎士の伝説を、彼は思い浮かべた。
(俺の拳は、今やエクスカリバーにも匹敵する!)
それはもはや、トヨタも宮内庁も関係ない、純粋な彼のお気持ちだけの乗った拳だった。
彼は、真っ直ぐに、無我夢中に敵に向かい拳を振り抜き……。
突然、足を、取られた。
白い砂が、手のような形になり、五色の足を捉えていた。一番最初の試合。飯綱火誠也を破った時の技だ。
夢人は間合いを詰め、五色の襟首を掴む。そして、相手を投げた。長鳴ありすとの戦いで『教わった』技だ(なお、この投げには正式には幼女拳・わんぱくの型:つかんでぽい!という名称がついている)。
そして、路地を反対側に回り込み、置いてあったポリバケツを転がす。生ゴミの腐った臭いをまき散らしながら、バケツは五色の動きを一瞬止めた。周囲の物を利用する戦い方は、物部ミケから学んだ。全て、彼が戦い抜いた記憶から得たもの。彼は、よろめきながらも前に進んでいた。
ブラックジャック+1を振り抜く。五色が呻く。今や二人の状態は五分五分の均衡状態となっていた。
「五色!」
聞き慣れた声が聞こえた。僅かに視線だけをそちらにやる。ライヒが、肩で息をしながらそこに立っていた。
彼女の手術室はここからほど近い。中継を見て、駆けつけたのだろう。
「夢さん」
ゆっくりと振り向く。幻は、いつものように優しい顔でそこに在った。真砂が見ている。
それだけで、彼はどうにか立っていられそうな気がしていた。
「負けるな」
「負けないで」
ひとつの声は現実。ひとつの声は狂気の夢。ふたりの男は、一瞬で睨み合いに戻る。
五色は、再度構えた。利き足を後ろに引き、踵を浮かせる。屈みこみながら力を込める。弱いこの身体だが、お気持ちは、まだ残っている。いける。五色流、最後の大技……。
大 化 の 壊 神 !!!!
夢人は、ふらつきながらもブラックジャック+1を掲げるように持ち……そして、それは突然、膨れ上がり弾けるようにして爆発した。
中に収められていた砂による、白い嵐が巻き起こった。
真砂が目を閉じ、口を押える。ライヒが微かに砂を吸い込み、膝をついた。
五色は、未だ攻撃の途上にあった。動きを止めることは、できなかった。歴史の流れを、止めることはできないように。
砂の嵐は、吸い込まれるように、五色の口の中に全て流れ込んだ。先ほどとは違う、大量の砂は、目減りしたお気持ちを抑え、興奮物質の効果を跳ね除け、鎮静物質を大量に分泌させる。
とどめに、夢人の型のない拳が彼の頭を強烈に揺らした。
五色那由他のお気持ちは、遠ざかる意識を引き留められぬまま、静かにくすぶり続けた。一度は宇宙とまで同化したはずの男の、これが、敗北だった。
「一歩、及ばずか」
「はい」
彼は、子供の頃に戻っていた。場所は、五色流道場。父無量と正座で向かい合っている。
長いこと顔を合わせていない父は、彼の記憶の中と同じくひたすらに厳しい顔をしていた。
「俺は、ただ、最強になりたかっただけなのに」
悔し涙も出なかった。負けには慣れている。だが、そんな諦念とも違うお気持ちが彼の心を満たしていた。
「那由他」
「はい」
父が名を呼ぶ。緊張感と、少しの畏怖が湧き起こる。
五色無量は、ゆっくりと言った。
「だが、よくやったな、那由他。お前は、私の誇りだ」
那由他は、ぽかんと口を開けていた。それから、前のめりに倒れる。道場の床を汚してはならない、と言われていたのに。彼は突っ伏して泣いていた。父はそれをじっと眺めている。
「うう、う う、うう あああ!」
頬を いもの 濡 し、彼は や我 きずにし く 上げ た。
白い が 場に差 。
た 心 は た。
夢
「夢さん、お疲れ様」
真砂が言う。彼らは、いつの間にか連雀庵の店内に立っていた。先ほどまでは暗い裏路地にいたのだから……。
「ああ、これは、夢か」
「そうみたいね」
思い出す。自分で自分の顔を殴りつけ、震える手でC2カードを取り出し、勝利の二文字を確認したその瞬間、意識が途切れたのだ。狂気に陥る前に昏倒できたのは幸いだった。前回のように、やたらに人に危害を与えるようなことはもう、したくはない。
「真砂さん。私はこれから、手術を受けます。悪夢の副作用を取り除く手術だ」
「そうね。それが目的だったものね」
「それから……自首をしようと思っている」
「どうして?」
「C2カードを手に入れた時のことは、あれは完全に傷害罪でしょう。C2バトル中の行為の扱いがどうなるかはわかりませんが……」
少なくとも、物部ミケには申し訳ないことをしたと思っている。
「それで、どうするの」
「一年か、三年か、もしかすると五年か……その間、『待たせる』と思います」
真っ直ぐに、真砂の顔を見る。
「ちょっと待って、話が」
「私は、あなたを現実に呼び出す。そのために望みを使います」
真砂の目が見開かれた……いや。彼は苦笑する。彼女を動かしているのは自分だ。これは、ただの茶番。
「真砂さん、私が一番あなたとしたいことが何か、知っていますか」
「……夢さんは。私と喧嘩がしたいって思ってる」
「そう。私から離れたあなたと、意見が合わなくて言い合ったり、腹を立てられたり、幻滅されたり。そういうことがしたい」
もう、ひとりは嫌だと思う。どんなにぶつかり合っても、ふたりでいたいと、そう思った。
「だから、これは破ってもらっても構わないお願いです。待っていてください」
真砂は頷いた。彼は、幻の女を抱き締めた。
「 して ます」
夢
『連雀庵』に住人がひとり増えたのは、それからしばらくしてのことだった。いつもの神経質な眼鏡の青年は姿を消し、黒い髪の女が、いつの間にか住み着いていた。客や近所の住人はいろいろと噂話をしたが、それもやがて消える。
黄連雀夢人という作家がいる。『了る春』『折り目正しき憂鬱』などの短編が一部で持て囃され、また、C2バトル優勝からの逮捕、そして獄中からの出版が話題になり、一時期飛ぶように本は売れ……そして、数年後にはまたどこかマイナーな立ち位置に戻りつつある。
やがて、『連雀庵』の裏方の戸には、やや新しい表札が掛けられた。
そこには夫婦の名が記されている。黒い墨の字で、『黄連雀夢人・真砂』と。
その文字は、もう動き出し、逃げ出すことはない。