「お前は十分よくやったよ」
重たげな紫煙を吐き出しながら、事務机に片肘をついたライヒが気怠そうに言った。
那由他は答えない。彼は使い古された患者用ベッドに体を横たえ、
いつかのように点滴の落ちゆく様をただじっと見つめていた。
「あの化け物みたいな大原と蟹原と、本物の化け物たるラッドノートに勝ったんだ。
上出来も上出来、出来過ぎと言ったって足りないだろうさ」
ライヒは半ば独り言のようにしゃべり続ける。闇医者は那由他の目を見ない。
繰り出される言葉の羅列は、あるいは自分自身に言い聞かせているようにも思えた。
三回戦。那由他の取った行動の代償はあまりにも大きかった。
【宮内庁異端審問部検閲済】と化した那由他のお気持ちは枯渇寸前に陥り、
それは彼の生物としての死が目前まで迫っている事を意味していた。
生きとし生けるものは皆お気持ちによって活動している。
お気持ちが尽きれば、生物はただの抜け殻となる。
肉体は生きていても、その精神は死ぬ。
C2カードをもってしても復活は出来ない、神秘の精髄――お気持ちとはそういう物である。
ライヒは無数の吸殻で剣山のようになった灰皿に灰を落とした。
彼女の呑む煙草の本数は、この数日で目に見えて増えていた。
「その体で、ボロボロになってさ。お前自身がどう思っているのか知らないが、
誰も言わないなら私が言ってやる。お前は凄い奴だよ。凄い事をやったんだ」
「ライヒ」
那由他は点滴から目を離し、ライヒを見た。
お気持ち尽きかけた瞳は昏く、感情を読み取れない。
彼は低く掠れた声で、ライヒの想定していた通りの答えを返した。
「俺はやるよ。最後まで戦う」
「……死ぬんだぞ」
押し殺すような、絞り出すような、全身の苦渋が音となって吐き出されたようだった。
「もう一度でも戦えば、必ず死ぬ。そういう所まで来てるんだ、お前は」
「それでもだ、ライヒ。もう決めた事なんだよ」
那由他は首を振って言った。
ライヒは小さな拳を握りしめ、分からずやの小僧の顔面に灰皿を叩きつけたい衝動をなんとか抑えていた。
医者である彼女にとって、命以上に優先されるべきものなど無い。
それは純然たる武術家の那由他とは対極にある思想だった。
「それに、死ぬというなら俺はとっくに死んでるんだ。十年前のあの夜に、俺は死んだ。
親父に武道家としての生を諦めろと言われた時にだ。俺は……俺は生きたいんだよ。一瞬でも良い、
最強になって、俺は生きていると言いたいんだ。それまでは死んでいるのと同じなんだ」
訥々とした独白を聞き終えてから、ライヒは黙って立ち上がった。
つかつかとベッドへ歩み寄ると、迷いの無い動きで拳を振り上げ、那由他の頬を打った。
彼の想像したよりも、ずっと重い拳だった。
「ふざけんな」
医者は那由他の襟を掴み、ぐっと引き寄せていった。
青い瞳は潤み、手も声も震えていた。
「痛いだろう。ふざけんなよ、それが生きてるって事なんだよ。何が死んでるんだバカ!
お前はこれまでずっと生きてきたんだ!お前が死んでるってんなら、私は今まで何をして来たんだよ!
医者をバカにするのも大概にしろ!!」
常に飄々とした皮肉気なこの闇医者が、これ程に激した所を那由他は初めて目にした。
それでも、ライヒの激昂が那由他の残り僅かなお気持ちを揺らす事は無かった。
決して逸らさぬ男の瞳から、ライヒはそれを感じ取った。
「すまん、ライヒ」
「――もういい。自殺志願者のケアは私の管轄外だ。お前は勝手に戦って、勝手に最強になって、勝手に死ね」
手を放し、踵を返したライヒは呟くように言った。
彼女が鉄扉のノブを握った時、那由他が白衣の背中に声をかけた。
「煙草は程々にな」
「お前のせいだよ、とっととくたばれ」
扉が不快な錆音を立て、乱暴に閉じられた。
那由他は上体をベッドに倒し、再び点滴の落ちる様を眺め始めた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「あなたは十分よくやったわ」
住宅街、深夜。隣に立つ真砂の柔らかい声が耳朶に染みるようだった。
黄連雀夢人と三都真砂の二人は――傍から見れば一人であるが――並び立つ民家の屋根に身を伏せていた。
神田古書店街の下層には、古代の都市部が密集した、見通しの悪いエリアがある。
夢人が用いているのはその周辺を縄張りにするアーバンゴブリンを真似たゴブリン拳の型の一つ、隠れ身の術であった。
「これまで戦ってきたのは、誰も彼も強敵だったわね。地下格闘技のチャンピオンに、
幼女拳の達人。それに物体を操る女の子。皆強かったわ」
真砂の言葉を、夢人は黙して聞いている。
彼女の言う通り、最強を決めると謳われるだけあって、いずれも難敵であった。
しかしそれも残す所はあと一人。あと一人倒せば、夢人は目的を果たせる。
果たしてそれは最大の難事を意味していた。
三回戦で対戦者たる五色那由他が見せた、あの【宮内庁異端審問部検閲済】。
誰もが想像だにしていなかっただろうあの力。あれを越えねば、優勝の二文字は無い。
沈思黙考する夢人に、真砂は猫を思わせる人懐っこさでおもむろにすり寄る。
「ねえ、優勝したら何をするのか、まだ教えてくれないのかしら?」
「口に出して負けたりしたら恥ずかしいでしょう。あと一勝するまでの辛抱ですよ」
「あら、焦らすのね」
真砂は口元を着物の袖で抑えてころころと笑った。
夢人がそれを咎める事は無い。真砂が幻影である事は、彼自身も自覚している。
和装の女が屋根に寝転がっても、その着物や黒髪はいささかもくすむ事が無い。
まるでVR技術のような臨場感だ。
笑う声も超リアル! 本当にそこにいるようだ!
夢人はふと、首にかけていた双眼鏡を取り出して前方を注視した。
何の変哲も無い雑居ビルの裏口から出てきたのは、白衣を着た金髪の少女である。
事前に手に入れた情報の正しさが、これで証明された。
決勝に臨むにあたり、彼は念を入れる事にした。というより、今までが無防備過ぎたのだ。
夢人はダンジョンに住むモンスターに対する心得はあるが、対人間のノウハウは皆無であった。
しかし勝負である以上、両者に通じるものはある。例えば情報収集と事前準備の重要性だ。
手持ちの武器――ブラックジャックを強化した事はあったが、逆に言えば準備はそんなものだった。
対戦相手の事を調査し、より深く知らねば勝てない……これまでの戦いでそれを痛感した。
彼は獲得した賞金を使って情報を集めた。
五色那由他が墨夜死組に出入りしていた事を突き止め、関係者を洗い、
なだめすかしあるいは脅し、ついには彼の拠点を突き止めたのである。
「あの子は?なんだか怒っているように見えるけれど」
「五色那由他が雇っている闇医者です。怒ってるというか、泣いてるようにも見えますね。
何か……イレギュラーな事があったのかもしれない。例えば、仲間割れとか」
「まあ、可哀相に。あんな小さな子を悲しませるだなんて」
だとすれば、チャンスかもしれない。
あの医者以外に五色と通じている人間の情報は掴んでいない。
夢人が知らないだけという可能性は否定出来ないが、
それでも現在五色が独りであのビル内に居る確率は高い。
五色が雑居ビルの地下に運び込まれたという情報は裏を取っていた。
「行きましょうか、真砂さん」
「ええ、夢さん。何処へなりとも」
少女のように笑み、真砂はアーバンゴブリンの行う屋根から屋根への
連続跳躍を真似る夢人の背後にぴったりと着いていった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
がらん、と音を立てて鉄扉が開いた。
那由他は違和感を覚え、上体を起こした。今更ライヒが帰ってくるとは思えない。
となれば、今ここを訪ねてくる者は墨夜死組の使いか、あるいは――
「こんばんは」
和服の上にパーカーを羽織った、顔色の悪い男だった。
那由他が見間違える筈も無い、決勝でぶつかる予定だったその男の名は。
「……黄連雀夢人」
那由他は即座にベッドから飛び降り、点滴の針を抜き放って構えを取った。
黄連雀がこの場所を突き止めるとは。
そして堂々と正面から現れたという事実が、事態の深刻さを物語っていた。
「五色那由他さん、ですね」
男は眼鏡の位置を直しながら言った。利き手には黒い革袋。
その中に詰まった砂が致命的な効果を人体にもたらす事も、那由他は勿論知っている。
「まさかドアから入って来るとは思わなかった。見かけによらず豪胆なんだな」
「さて、部屋へ入るのにドア以外の何処から入ると言うのでしょう」
那由他は喋りながら思考する。黄連雀の狙いは何か。
奴は精神の均衡が危うく見えるが、戦闘において安々と迂闊を行う程愚かでは無い。
何かある。そう判断した那由他の行動は早かった。
即断即決。那由他がギリギリの死線を掻い潜り生き延びて来られた理由の一つだ。
「そうだな。例えばあの天井にある通風孔、とか」
言い終わるかどうかというタイミングで、那由他は一息に踏み込んだ。
天井への視線誘導は失敗。そこまで甘い相手では無い。
黄連雀は既に構えを取っていた。恐るべき反応の速さだ。
ダンジョン象形拳・キメラの型。一見手足を無茶苦茶に曲げただけの隙だらけな構えだが、
その実いかなる方向からの攻撃にも対処可能な恐るべき拳である。
かの銃火器戦闘の達人、クリント・イーストウッドですら、
このキメラ相手には三日三晩の死闘を繰り広げたといわれている。
だが、那由他の拳は、魔物相手に磨かれた黄連雀の反射神経をも上回っていた。
日本史を専攻された事のある読者諸兄はよくご存知であろうが、
聖徳太子は数多くの魔物を屠った聖人としても知られている。
蘇我イルカを初めとして蘇我タウロス、蘇我ユニコーン、蘇我コッカトリス、蘇我キメラなど、
例を挙げれば枚挙に暇が無い。
当然、その技術は五色流も研究している。それらの魔物への対策は五色流の基礎なのだ。
「(体が軽い)」
だが、那由他が黄連雀を圧倒している原因は他にもある。
体が羽のように軽く、その眼は敵の弱点を透かすように見抜いた。
那由他の拳が、肘が、膝が、爪先が、足刀が、悉く黄連雀の急所を捉える。
打たれるがままの黄連雀の体から力が抜けていく。
那由他は殆ど彼の体を壁に磔にするように連打を放っていた。
黄連雀の手からブラックジャック+1が離れ、中身の砂が床に零れ落ちた。
力尽きたふりをして逆転を狙っているのかもしれない。那由他は手を緩めなかった。
C2カードが五色那由他の勝利を告げたのは、それからおよそ二十秒後であった。
「……勝った」
肩で息をしながら、那由他は呟いた。半裸の体は返り血で真っ赤に染まっている。
足元には崩れ落ちた黄連雀。最早原型を留めていない。
「……勝った……」
那由他はもう一度、半ば茫然自失の状態でそう口にした。
何か、違和感があった。常ならば全身を駆け巡る勝利の実感が、極端に薄い。
そう、 れはまるで の中の出来事で、 が全て った な 。
那由 は そ の手を見 は と 強 。
【宮内 問部 済 言 『 ラ 。
夢
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「すごい手際だったわね。感心しちゃたわ」
真砂が少女のように無邪気に喜んでいる。
夢人は十分な量の砂を那由他に流し込むと、血に染まった革袋を事務机にあったティッシュで清めていた。
「事前に立てた計画の通りでしたから。しかしこうも上手く行くとは、私も思っていませんでしたが」
顔面を滅多打ちされ、元の顔の形も分からなくなった五色那由他を見下ろしながら、夢人は答えた。
彼は五色の潜む地下へは直行せず、まず事前に調査していたビルの空調システムを掌握しにかかった。
システム管理室にはそれなりに屈強な警備員も配置されていたが、
ダンジョン象形拳と『ザントマン』の敵では無かった。
夢人は警備員の口に砂を流し込んでから、ビルの空調が何処から何処へ流れているのか直接確認し、
地下へと風を送っている配管に砂を微量ずつ侵入させたのだ。
配管を通って少しずつ少しずつ送り込まれた砂は、確実に那由他の体に蓄積されていった。
後は適当な時間を置いて地下へと侵入し、酩酊した那由他を打ち倒す。それだけの作業だった。
「あんなに色々仕込んでいたのに、いざ攻められると脆いものね」
「私も何か仕掛けがあると踏んでいたのですが。あるいは、
あの医者が守備の要であったのかもしれません」
全ては推測に過ぎないが、最早考える意味も無い。勝負は決したのだ。
戦わずに勝つ。最初からこのように戦っていれば、もう少し楽な気分で居られただろうか。
「……は……だ……」
那由他が呻くような寝言を吐いた。口回りもひどく変形しているので、内容は聞き取れない。
夢人は革袋を拭く手を止めた。いつもならここで終わりにする。いつもなら。
だが今回は違う。もっと早く、確実に終わらせる方法はある。そう、これで終わりなのだ。
「夢さん?」
真砂が不思議そうに夢人を見る。
「真砂さん。今夜話しましょう、私の店で、優勝したら何をしたかったのか」
夢人がブラックジャック+1を振り上げる。確実なるとどめを。
勝利を決定する一打ちが、狂気を伴って振り下ろされた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ライヒは己を省みる。
五色那由他は、無様なほど愚直に己の夢へ向かってあがいている。
自分はどうだろうか。ああも激したのは、那由他を思っての事だけでは無い。
現実という壁にぶち当たり、夢を諦めざるを得なかった自分自身への苛立ちもあったのではないか。
ライヒにも、なりたいものがあった。
闇医者に身をやつしたのも、その夢を捨てきれなかったからではないか。
人を癒すこと。
ライヒの内に眠る、お気持ちの光で人を癒し続ければ、いずれは。
心のどこかで、そう思っていた。
だが、お気持ちで思うだけの日々を、終わらせるべきときが来ている。
五色那由他が、その姿を示してみせた。
(そう――)
ライヒは一度だけ目を閉じ、五色那由他の輝かしいお気持ちの光を思い浮かべる。
アリア・B・ラッドノートとの戦いで見せた、人を癒す神聖な光。
(あの光は、私の中にもきっとある)
もとより、その力を活かして闇医者となった。
あのような体で、五色那由他が戦い続けることができた原因も、そこにあった。
ライヒは意を決して目を見開く。
小さなライブハウス。スポットライトが照らすステージ。
衝動のまま現役復帰宣言をした。
闇医者の仕事は終わりだ。ライヒはステージへ向けて足を踏み出した。
白衣を脱ぎ捨てる。スポットライトが、まばゆくライヒを照らす。
自分の胸の中にあるお気持ちも、せめてこの光に負けないように。
狭い観客席だったが、満員だった。
お気持ちのこもった視線が、ライヒに集中した。
(なりたい)
ライヒは熱望する。
(なりたい――私も、【宮内庁異端審問部検閲済】に!)
日本国民には、職業選択の自由がある――ごくわずかな例外を除いて。
たとえば、【宮内庁異端審問部検閲済】になれるのは、
特別な血を引いた、いわば神に選ばれた男だけである。
だが、夢を見るのは自由だ。
その権利だけは、誰にも犯すことはできない。
目指すことを止めることなど、誰にもできない。
ライヒは、幼い頃に封印した夢を、いま再び目指そうとしていた。
「……みんな」
ライヒはマイクを握り締め、告げた。
「今日は――」
一度、言葉を忘れる。
忘れていい。
大事なのはお気持ちなのだから。
「今日は、ライヒのために集まってくれてありがとーーーーーー!」
歓声がライヒを包み込んだ。
「ライヒ、超嬉しい! お気持ちあげあげでいくね!
もう一度、私、【宮内庁異端審問部検閲済】を目指します。
聞いてください――『玉音放送』!」
荘厳で雅な音楽が流れ始める。
バックバンドのお気持ちも最高潮に高まりつつあった。
笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛(りゅうてき)、
数々のやんごとない楽器が唸りをあげる!
そして、華麗なイントロからライヒのコールが飛ぶ!
「さあ、いっくよ~~~! 耐え難きを~~~~~?」
『耐えーーーーーっ!』
「忍び難きを~~~~~~~??」
『忍びーーーーーーーーーーっ!!!』
呼吸のあったコール&レスポンス。
ライヒとオーディエンスのお気持ちは、すでに一体だ!
共鳴し、激しく高まっていく!
(五色那由他――)
ライヒは昭和【宮内庁異端審問部検閲済】陛下がお得意とされた
必殺のナンバー「玉音放送」を絶唱しながら、彼のことを思う。
(私も、戦いを始めたぞ。すぐに追いつく――最強になったお前に!)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「俺は!最強だ!!」
絶叫じみた寝言と共に、寝そべった状態から打ち上げるような那由他の蹴りが黄連雀の顔面を捉えた。
ブラックジャック+1を振り下ろしていた黄連雀はカウンターの形でそれを喰い、
眼鏡を割りながら後方へ吹き飛ばされた。
「夢さん!」
「大丈夫、大丈夫です真砂さん」
黄連雀が流血を袖で拭い、真砂を制する。
那由他はふらふらと立ち上がった。あれだけの砂を喰って覚醒したというのか?
否。その眼は確かに塞がっている。五色那由他は眠ったままだ。
彼は眠ったまま、己の寝言によって傀儡子が発動した。
己が最強であるという嘘を、深層意識の中に刷り込んだ。
魔人能力は絶対である。
起きていようが眠っていようが、自分自身に嘘を信じ込ませる――傀儡子とはそのような能力だ。
那由他は意識がないまま構えを取る。己が思い描く最強の構えを。
燃え尽きた筈のお気持ちを、夢の中のライヒが引き出す。
精神は肉体と同期している。体はお気持ちを裏切らない。お気持ちも体を裏切らない!
那由他の体が俄かに光を帯び始めていた。肉体の傷が癒えていく。
「これは――」
これは、あれだ。三回戦の時に見せた、あの【宮内庁異端審問部検閲済】だ!
最早猶予は無かった。黄連雀もまた構えた。
この奇妙な構えは、ダンジョン象形拳・レッドドラゴンの型――否。
モンスターは常に倒される側だ。
誰に?
――冒険者にだ。
ならばダンジョンにおける最強とは、一体何だ。
「ダンジョン象形拳・人の型」
黄連雀は、迷宮における最強の存在を形取り、構えた。
無数の冒険者の技が、武器が、その構えの中に内包されている。
右手は剣のごとく掲げられ、左手は弓矢を引き絞るごとく体の後ろに引かれ、
右足は槍のごとく伸びて、全身はそれ自体が鎧であり、戦いに臨む大槌であった。
一撃。
一撃が入れば倒れる。それだけのダメージは与えた。
彼は床を蹴った。己の夢の為に。真砂の為に。
五色那由他は無意識の内に叫んでいた。
「アキヒトちゃんのお気持ちになるですよ!!」
光と影が、交錯した。
お気持ちの砕ける音を、五色那由他はどこか遠くに聞いた気がした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
黄連雀夢人は透き通るような鼻歌が聞こえる事に気づいた。
後頭部に柔らかな感触。数瞬の間を置いて、己が膝枕されている事が分かった。
「あら、お寝坊さん。よく眠れたかしら?」
「……ええ、とても」
真砂がふわりと微笑む。
思えば、常ならば感じる、あの砂のようにじゃりじゃりした悪夢の残滓は欠片も無かった。
「真砂さん、私は――」
「いいのよ、何も言わないで。言ったでしょう?あなたは十分よくやったって」
真砂はおもむろに、片手に持ったワイングラスに唇を寄せた。
中身はきらきらと水晶のように光る砂だ。
真砂の白く冷たい手が、夢人の細い輪郭を撫でた。
うっとりと、花を愛でる少女のような笑み。
「ずうっと一緒よ、夢さん。これからは私の為だけに小説を書いて?
私、楽しみに待ってるわ。ずうっと傍で待ってるわ」
ワイングラスが降りてくる。その淵が、そっと夢人の唇に触れる。
嗚呼――そうか。私は願いを叶えたのだ。
「ええ……ずっと一緒に居ましょう、真砂さん」
グラスの砂は、その形質と同じように、透き通った夢の味がした。
――そのあとの五色那由他の行方を、誰も知らない。
終幕