黄連雀夢人という作家がいた。『了る春』『折り目正しき憂鬱』などの短編が一部で持て囃されたが、非常に寡作で、ここ数年は新作の発表は全くない。世間的には忘れられた、というよりはそもそもほとんど知られぬまま消えていく数多の作家のうちの一人、という位置付けになるだろう。
『あなたの持つ魔人能力そのものを消し去ることは不可能です』
薄暗い店内には、眼鏡をかけ、着物の上に黒のパーカーを着込んだ男が一人。彼は……黄連雀夢人は、一枚の紙をひらひらと弄びながら、実家である古書店『連雀庵』の店先に座っていた。
『しかし、その副作用のみを沈静化させることは可能です。ただし、それには……』
紙には「見積書」の文字が記され、末尾にはゼロの数がやたらに多い数字が記されている。彼が正気に戻るために必要な手術代の額だ。借金をしても、到底返し切れる額ではない。と、見ているうちにその数字は虫のようにうねうねと動き出し、紙を出てどこかに行ってしまった。
いつものこととはいえ、嫌になる。夢人は深くため息をついた。
東京、神田古書店街。様々な古書(コーデックス)の眠る地下回廊の内外に、いつしか収穫物を売買するための古書店が立ち並び、さらに複雑な構造の迷宮となった屈強な冒険者(ビブリオマニア)と幽鬼のごとく各々の店に潜む書店主たちの街である。
『連雀庵』はそのうち地表寄りの三階層目、セーブポイントにほど近い位置に建つ、時代がかった小さな建物だった。扱う本は主に近代文学。この階層あたりまでは、冒険者たちのためのアイテムショップを兼ねる店が多く、連雀庵もその例には漏れなかった。
作家としての挫折を味わい、この古書店の店番に舞い戻ったのはしばらく前のこと。それには、彼の魔人能力『ザントマン』が深く関わっていた。
眠りと夢をもたらす砂を生み出す能力。作家として人に夢を見せることを望んだ彼の心が生み出した力だ。それ自体に関しては何も問題はなかった。問題は、その力が彼自身にも作用したことだ。
初めのうちは良かった。少々の夢はむしろ彼の作品の糧となった。だが、時間が経つごとに、彼の見る現実は徐々に夢によって浸食されだした。せめて幸せな夢ならば少しは良かったろう。だが、彼を蝕んだのは悪夢だった。
人間の顔には黴が生えて見える。色彩はまるでぐちゃぐちゃ、あちこちに触手や謎の虫が蠢いて見える……。そういった世界に彼はぶち込まれた。何より彼を苛んだのは、文字が読めなくなる現象だった。
彼は鬱蒼と立ち並ぶ本棚の一角から、適当な書物を取り出す。しばらくは問題なく読書ができる。だが、そのうちに文字は波打ち、動き出し、やがてどこかへ去って行ってしまう。先ほどの数字と同じだ。
無論、これは彼だけの見ている夢であるから、実際に文字が消えたはずもない。落ち着いて一度本を閉じ、また開ければ元通りに戻っている。だが、この状態の彼が本を一冊読むのには長い時間が必要だ。ましてや、執筆活動など夢のまた夢。かくして作家・黄連雀夢人は世間から消え失せたのだ。
夢人は苦々しい顔で、本棚に本を戻す。その時だった。店内に適度な騒音を立てていた旧式のテレビが、ぷつんと音を立てて突然別の番組を放送し始めた。
『まずは、謝罪をさせていただきます。国民の皆様方には、突然のご迷惑を……お許し頂きたい』
彼は眼鏡の奥の目を瞬かせた。テレビの画面中の老人は、ゆっくりと、しかし徐々に熱を込めて語り始めた。
ちりん。ドアの開く音と共に、鈴が鳴った。
「あら、面白そうなもの見てる」
「静かにしてください、真砂さん」
彼は来訪者の方を見もせずに、画面に釘付けになっていた。客は……赤地に白い睡蓮の柄の着物を着た、長い黒髪の若い女は、婉然と微笑む。馴染みの冒険者、三都真砂だ。クラスはビショップ。
「これ、すごい騒ぎになりそうだこと」
「それはそうですよ。動く金の量が違う」
彼は眼鏡を上げ、画面に、そしてこの老人に食い入るように見入っていたが、それでも、その瞬間まではあくまで他人事、閑古鳥の鳴くこの地下生活にひとつ増えた娯楽、程度と捉えていた。その瞬間までは。
『時と場所を問わず、勝利した者には一戦につき1000万円。優勝者には200億円を進呈します』
『観戦者からの好評が得られた試合に関しては、適宜、賞金に加えて……1億円を』
『えー……そして、そう。私の財力と情報で可能な限り、優勝者の望みを、一つ叶えます』
どくん、と心臓の音が大きく響いた。見積書の値段に見合った金が手に入るかもしれない。この馬鹿げたバトルに勝ちさえすれば。いっそ優勝してしまえば、金の心配などひとつも要らない。副作用を治し、退屈な店番もせず、ただただ執筆に専念することすらできるかもしれないのだ。
「あらあ、太っ腹」
真砂がカウンターに肘をつき、面白そうに言う。この女は時折こういった無礼を行うが、彼は特に気にしたことはなかった。
「夢さん、どうしたの? そんなにお金が欲しいことなんて、何かあった?」
「いや……」
「でも、この大会、なんとかってカードがないと参加できないみたいよ」
曖昧に言葉を濁す夢人に、真砂はずけずけと続ける。
「夢さんも強いけど、上から何人ってなると話が違ってくるものねえ」
この迷宮で育った者として、独力でキュマイラを屠るほどの力はある。が、それではまだ選ばれるまでには足りない。神田の中だけでもその程度の実力者は探せば幾らでもいる。夢人は手を開いてまた閉じた。
「……参加、したいの? 夢さん」
真砂が珍しく、黒い瞳を真っ直ぐ彼に向けて真面目に問うた。
「私は人と戦いたくなどない」
夢人は、そう答えた。
「それに、真砂さんの言う通り、カードを手に入れることなどとてもできそうにありません。土台無理ですよ」
「つまらないの」
真砂は少女のように唇を尖らせた。
その一撃は、運良く彼の身体を逸れ、隣のトタン塀に当たった。
ガギィッ! 嫌な音を立てて塀がひしゃげる。本能寺時次郎は冷や汗をかいた。これがもし胴体に直撃していたら……。いや、彼は既にその結果を身をもって知っている。彼の右手右脚は既に破砕されていた。目の前のフードを被った男の武器……黒い革のブラックジャックに!
「私は戦いたくない」
「か、勘弁してくれ……許してくれ」
無表情な声で男は言う。本能寺は、みっともなく座り込みながら命乞いをした。
「C2カード」
低い声で相手が呟いた。彼は震える手でポケットから一枚のカードを取り出す。それは強者の証であり、途轍もない価値を秘めた宝であり、彼が運良く買取に成功したはずのものだった。このカードを最初に受け取ったのは、確かに強者だが、酷い厭世家かつ自殺願望者であり、無限の再生を嫌って二束三文でカードを本能寺に売り払ったのだ。
本能寺は本格的にツキが回ってきたと思った。彼は自身の能力『フライクーゲル』を心から信頼していたし、一勝でもできれば相当な金が入る。しめたものだ、と。だから、少しばかり浮かれていた。夜な夜なバーで自慢げに話をした気もする。だが、彼は自身の能力を信頼していたし、何があっても返り討ちにしてやる自信があった。夜の闇に紛れ、突然目潰しを受け、横合いから殴りつけられるまでは。
「こ、これか。狙いは」
「C2カード」
男は繰り返す。フードの下の眼鏡が街灯の明かりを照り返し、表情は読めない。
「わかったよ! 渡す、渡すよ。だから許してくれ」
彼はガタガタと生まれたての子鹿
のように震えながらカードを差し出した。目論見が甘かった。本能寺はC2バトルを、その褒賞を舐めていたのだ。
「私は戦いたくないのだ」
「そう、そうだよ。俺だって戦いたくない。だからこれ、やるよ。持っていってくれ」
眼鏡の男はカードを黙って受け取り、突然そのカードの端をパキリと音を立てて折った。
「なっ……」
だが、次の瞬間、カードは破損部分からバチバチと再生する。
「なるほど。本物か」
そして、本能寺は目を疑った。
「ハハハ、見てください真砂さん。ほら、本物でしょう」
彼が虚空を目がけ、C2カードを差し上げたからだ。新手かと思った。だが、目を凝らしてもそこには誰もいない。
「ええ、これで目的は叶いました。……全く、豪胆な人だ、あなたという人は」
通話をしている風でもない。そこにいる誰かに向かって話しかけている。くき、と男が再び彼の方を向いた時、本能寺は身体中が冷えるような思いを味わった。
「さて、あなたの処遇だが、言った通り私は戦いたくないのだ」
つかつかと、男は近づいてくる。彼は脚の痛みを堪えて後ずさった。
「許してくれ、もうやっただろ、カードは……」
男は首を傾げる。
「私は」
影が、ブラックジャックを振りかぶる。誰もが扱えるような簡易武器だ。多少の威力はあるが、あくまで護身用として使われることが多い。
「戦いたく」
だが、力を持った者に確かな殺意をもって握られた場合、その威力は骨をも砕く。そして、本能寺は知らぬことだが、男の……黄連雀夢人の魔人能力によって中身の砂の動きは操られ、さらなる遠心力を生んでいた。
「ない」
鉄槌が、振り下ろされた。彼の胴体に向かって。骨が軋む音がした。打撃は一度ではなかった。二度、三度。本能寺が痛みで意識を失うまで。
「私は私は私は私は私は」
黄連雀夢人はぶつぶつと呟きながら、打擲を続け、そして唐突に止める。黴だらけの顔でゲラゲラ笑って見えていた男が急に静かになったからだ。
「ええ、そうですね、真砂さん。ここまでにしておきましょう」
そうして、ゆっくりとブラックジャックの紐を解き、半死の男の口を大きく開かせた。武器の中にぎっしりと詰められた白い砂を、口にざらざらと流し込む。これは、敵の反撃を確実に封じるための手段でもあったが、何より彼なりの儀式でもあった。
黄連雀夢人の能力は、夢をもたらす白い砂を生み出すこと。それを集めて袋に詰め、武器としたものが、このブラックジャックだ。男は、いい夢を見られることだろう。
気管を塞がれた男の身体は、えづくように痙攣した。まるで『ありがとう』と言っているかのように。夢人は目を細める。街灯がぐにゃぐにゃと曲りくねり、紫色の煙を吐いた。
「良い夢を」
一礼する。哀れな男の口からは、ざらざらと砂がこぼれ落ちていた。
「無事手に入ったわねえ」
再び連雀庵。真砂は夢人の手の中のC2カードを興味深げに見つめている。
「真砂さんの情報網のおかげです」
C2カードを懐にしまい、彼は真砂の顔をじっと見た。その美しい顔には、少しも黴の生える様子はない。この世でただ一人だけ。
「勝ったのは夢さんでしょう。自信を持ちなさいな」
真砂が背中を叩く。
「ね、夢さん。ところで、もうお話は書かないの」
真砂がいつもの問いを口にした。初めて会った時から、彼女は言っていた。『黄連雀夢人のファンなの』と。そうして、時折彼をこうして急かす。いつもは嫌な顔をして首を振っていた夢人ではあったが、今日は違った。
「そうですね。C2バトルが終わったら」
「あら」
彼女は目を瞬かせた。そうして、とても嬉しそうな笑顔を見せたのだった。
ちりん、ドアが開き、男が一人入店してきた。やはり馴染みの冒険者だ。
「ああ、夢人くん。薬草をひとつくれないか……」
彼は不思議そうな顔をして店内を見渡した。
「なんだか声が聞こえたから、他にお客でも来てるのかと思ったが、気のせいかね」
「気のせいですよ」
視界の端で、隣の真砂がしいっ、と人差し指を立てる。悪戯めいた表情で。
「最近独り言の癖がありまして。薬草ですね。お出しします」
夢人の能力は彼を蝕み、引っ切り無しに悪夢を見せる。彼もその状態に酩酊し、既に狂気の淵にある。そして、三都真砂は、彼がその狂気で作り上げた、どこにも存在しない人間だ。だから、他人に彼女が見えようはずもない。本能寺の件を突き止めたのも、全て彼が独力で成し得たこと。
「はい、薬草。5ゴールドです」
代金を受け取り、古い勘定台に放り込む。男は礼を言い出ていった。回復ポイント近辺で新入りのレベル上げをするのだと張り切って。
真砂が夢の産物であり、他には見えていないことを、夢人は薄っすらと知っている。知っていて、普段は忘れている。時折、辻褄合わせのように思い出し、また忘れ、夢に浸る。
「夢さん」
「はい」
「お話が書けたら、私に一番に読ませてね。約束よ」
さらさらと、黒髪が揺れる。彼女が夢の産物である限り、その約束は決して守れないということを、彼は知っている。夢人が悪夢から解放される時、彼女もまた同時に消えるはずなのだから。
「ええ。約束です」
それでも、彼はそう答えた。ごく厳かな気持ちで。
切れかけた蛍光灯がぱちぱちと音を立てる。光の射さぬ地下の一角、本に埋もれた店の隅で、狂人は幻の女にそっと微笑みかけた。