「最強の『力』とは何か――」
闘技場に行く気力もなく、なんとなしにつけたテレビにおかしな爺さんが出ていた。
電波ジャックの首謀者を名乗る千代田茶式なる老人。
彼がカメラに提示した悪趣味なデザインのカードは、昨日俺のもとに届いたものと同じだった。封筒を開けて出てきたまま、目の前のコタツテーブルにほっぽり出してある。
「暴力、知力、権力、財力、運力……異なる力の持ち主たちが『実戦』で戦った時、試合ではなく生活の延長としての『実戦』で戦った時、最強の力の持ち主とは誰か……」
テレビを通じて全視聴者に、おそらくは自分自身に、そして俺に問いかけている――最強とは何か、最強は誰か。
戦後日本の影の実力者だったこの爺さんは、その答えを得るべくこんな行動に出たのだという。
「一つの力を極めた者、複数を併せ持つ者……おそらくはそのどれもが不完全、幻想に過ぎないと承知の上で言わせていただきます」
老人斑の浮かんだ細い指が、小刻みに震えながら再びカードを持ち上げる。
「現在この『C2カード』を持つ16人は、『最強』の候補者である、と」
画面越し、そして俺のすぐ脇、カードに刻まれた瞳が、カメラを通じて訴えてくる、お前がそうだ、と。
久しぶりに、心を強く揺さぶられる感覚があった。
「……ふっざけんなよ!!!」
握り拳をコタツに叩きつける。天板が土台ごと二つに割れ、その上のカード、そして下にあった写真が床に散らばる。
写真に映っているのは先月死んだある女の、子ども時代のもの。撮った当時は憎たらしいと思ってたが今からすると可愛げがある。
名前は静矢桐華、俺よりは最強に近かった女だ。
静矢と出会ったのは子どもの頃、近所の道場でのことだった。
道場に通いだしたのは読んでいた漫画の影響だったと思う。地上最強を夢見てはいなかったが、腕っ節が強いのはかっこいいと思うくらいにはふつうの子どもだった。
そこで近い時期に入門してきた同い年の女の子が静矢だ。アイツの親はけっこうな金持ちらしく、見学に来た日は品のいいワンピース姿だったのを憶えている。
俺は師匠からは才能があると言われていたし、たしかに今思うと相当なハイペースで上達していたが、当時自分が強いと思えたことはなかった。静矢がもっと強かったからだ。
組手をすると俺の打撃はロクに当たらず掴ませてももらえないまま一方的に打ちのめされた。
「同い年の子の中では、誠也くんは一番強いと思うわ。他の子とやっても全然汗をかかないもの」
さらっと上から目線で言うアイツの笑顔に俺は歯噛みし、稽古に励んだ。大岩を拳で真球に削る荒行に挑んで骨折し、師匠にこっぴどく叱られた。
静矢を追い越すべく俺はどんどん強くなったが同じように静矢も強くなっていて、結局差は埋まることがなかった。
しかしその後、一時的にだが俺は静矢より強くなってしまう。俺は魔人になったのだ。
能力は『LIMIT UNLIMITED』――自身に制約を課し、それに見合うだけ自身の能力を強化するというものだが、それを使うまでもなく魔人化による身体能力の増大は、簡単に俺を静矢より強くした。
組手の時、俺のパンチはびっくりするほど容易くアイツの顔面に当たった。止めるのも忘れていた。これまでは止めるまでもなく捌かれるか避けられていたし、なんだかんだでアイツは俺より強いはず――そう思って、というより望んでいたのかも知れない。
鼻血を流して尻もちをつき、目を丸くして俺を見上げるアイツに、俺は言いようのない罪悪感を覚えた。
「誠也くんのことなんかまたすぐに追い越してみせるわ。せいぜい束の間の勝利に酔いしれることね」
鼻にティッシュを詰めたアイツはいつもと変わらない笑みで言ったが、その日から俺は組手をしようとは言わなくなり、やがて師匠に頼んで、魔人の門下生も多いという道場へ籍を移した。
より強くなれる環境を求めて、と言えば聞こえはいいが、要は逃げたのだ。ズルをして強くなってしまった――そんな気がして静矢と同じ空間で稽古をするのが嫌だった。
きっかけがなんであれ、周囲に強い人間がたくさんいる環境というのは燃えるものがあった。熱心に稽古に励むようになり、その道場でもメキメキと実力を伸ばしていった。
そんな頃、前の道場の師匠から静矢が入院したとの電話が入った。稽古中に足が麻痺し立てなくなったのだという。
母親伝てに聞いたところでは、筋肉の麻痺する病気らしかった。四肢の随意筋に症状が始まり、やがては心筋や呼吸筋までも麻痺して死ぬ病。
救い――と言えたのか怪しいが、助かる道もあった。その病気は発生した病巣が転移することで進行する。胴体に至る前に切断すればいい、と。
病院に行くと、ベッドに寝かされたアイツがいた。
見た目にはパジャマ姿なだけで特に深刻そうではないが、ベッドに投げ出された手足はぴくりともしない。こちらを見つめる虚ろな瞳が怖かった。
アイツは切断手術を受けることを拒み、医師や両親から毎日説得を受けていたらしい。ベッド脇には医療用サイバネのパンフレットが置かれていた。事故や同じ病気で手足を失くした人たちが、人工の手足をつけて笑っている姿があった。リハビリに励めば日常生活も、軽いスポーツも可能なのだという。
「でも、格闘技はダメだって……」
「……うん」
だろうな、と思った。後にサイバネ義肢をつけた闘技者にもけっこう出会うことになるが、この頃は知る由もないし親が許すはずはない。
天井を仰ぐ瞳に涙が滲み、溢れだした。静矢が泣くというのが俺には想像もつかないことだった。
「私、嫌だ……死んじゃいたい……。誠也くんに、勝つのに……」
「桐ちゃん」
静矢はそのまま声を震わせて泣いた。逃げ出した俺に、その言葉は重すぎた。
結局、静矢は手術を受けることになった。手術の翌日親と一緒に見舞いに行き、ガラス越しに麻酔で眠っている姿を見た。切断部位に包帯を巻かれ横たわる様があまりに痛々しくてまた逃げたくなったが、それでも今度は一緒にいようと思った。なるべく毎日病院に通って、静矢がリハビリも頑張れるように、と。
しかし、アイツがサイバネ義肢を付けることはなかった。その前に、アイツは手足を手に入れたのだ。
「誠也くん!」
「……桐、ちゃん……?」
ある日、病院に行くと入り口で宙に浮いたアイツが出迎えた。
地上数十cm、ちょうど足が生えていればそのくらいだろう、という高さにアイツの体は位置していて、そしてちょうど足首の位置には患者用スリッパがある。両脇には手袋も同じように履いた状態で浮遊していた。
「なにそれ……?」
「私、また手足が生えてきたの!」
静矢が目覚めた魔人能力『ゴーストハンド』は、サイコキネシスの一種と言えるかも知れない。
きっかけは四肢欠損者の経験する、手足がまだついているのではという感覚に襲われる症状――幻肢痛というヤツだった。アイツはベッドの上でそれを味わい、一瞬、感覚として存在するだけの手足を動かせるのではないかと思ったという。
同じように思う患者はたくさんいるのかも知れない。けれど静矢の場合は現実になった。空想の中で突きを放った右腕にはじまり左腕、そして両足が現れたのだ。目には見えず、生身として存在するわけじゃないので意識を保っていないと消えてしまう。それでもたしかにそこに。
「桐ちゃん……す」
「やったわ! 私!」
俺が言うより先に静矢は勢いよく抱きついてくる。すぐ近くにある彼女の顔や密着した上半身より、俺の背に回された目に見えない腕の感触が、俺の心を揺さぶった。
「見ててね! すぐにまたボコボコにしてあげるんだから」
「うん……うん……」
以前ならもっと威勢のいいことを言えたかも知れない。その時の俺はただ彼女が帰ってきたような気がして、ボロボロと泣くことしかできなかった。
その後の静矢は恐ろしい早さで能力を使いこなしていった。数日の訓練でピアノ演奏までできるようになり、走る泳ぐといった運動も一通りこなしてみせた。そして両親を説得し、俺の通う道場へ魔人の部で入門してきたのだ。
「どう? 懐かしい?」
「うん」
道着に身を包み、見えない手を腰に当ててポーズを取る静矢に、俺はまた泣きそうになった。
オープンフィンガーグローブを着けた静矢と、約1年ぶりに組み手をした。さすがに身体操作の精度は生身で鍛錬を積んできた俺の方が上だったが、見えない手足のパワーは魔人の自分と遜色ない。
稽古を始めたアイツはやはりメキメキと上達して、3か月ほどで生身の頃の技のキレを取り戻し、その後はさらに磨きがかかっていった。
ゴーストハンドは生身のものであるかのように成長し、負荷と休息を繰り返すことでパワーを増していくらしい。イメージで作ったものなのに変かも知れないが、それがアイツの求めた手足ということだろう。
そして半年が経つ頃、俺は久しぶりに静矢に負けた。
「言ったでしょ? ここからは、誠也くんは私に勝てないわ」
懐かしい不敵な笑みに、情けないことに俺も笑ってしまっていた。
久しぶりに曇りのない気持ちで稽古に臨めるようになり、俺たちはまた競い合うように強くなっていく。しかし、道場内ではどんどん実力を伸ばしていった俺たち、いや静矢だが、外で力を試せる環境には恵まれていなかった。
公の格闘大会に設けられる『魔人の部』は魔人の身体能力で戦うことが許されているに過ぎず、魔人能力の使用は認められていない。それを許せば競技として成立しなくなるからだ。能力なしでは歩くのがやっとという体の静矢は、それはそれで出場を認められなかった。
「誠也くんや先輩たちと戦えれば、平気」
気にしない風に笑う静矢だがその笑顔はどうにもさびしそうで、それでも俺と戦っている時はたしかに楽しそうだった。俺が大会に出場しどれだけの成績をあげても、やはり道場に戻ると静矢に勝てなかった。
アンダーグラウンドで行われている魔人格闘リーグの存在を知ったのは、高校に入るかどうかという頃だった。
魔人能力の使用まで解禁したアルティメットファイト。戦いの場に飢えた魔人たちがそこで己の武を競い合い、一部の金持ちの娯楽、かつ賭けの対象になっているという。
「俺は高校出たらそこで戦いたい。静矢はどうする……?」
高校の屋上、思い切り転がされた体勢のまま俺は脇で見下ろす静矢に問いかけた。
「そんなの、決まってるじゃない」
答えるアイツの笑みは、相変わらずの不敵なものだった。
『アンダーグラウンド最強は誰か知りたいかぁーーっ!?』
試合開始3分前、MCが毎度お馴染みの文句で視聴者を煽る。配信サイトのコメント欄は「うおおおおーーっ!」とかそんな感じのコメントで溢れているのだろうか。
『皆様ご存知のこととは思いますが、本日の今シーズン最終戦に臨む両選手を紹介させていただきます!
まずは先入場者――ランキング2位、飯綱火誠也選手!
今シーズンは気合の現れか伸ばしていた髪を突然のスキンヘッドに、試合着も道着からショートスパッツに変更するなどしましたが試合では不調が続き、下位の選手にも苦戦が目立ちました。ここまでですでに2敗しており、先の試合で3位の百合ヶ原選手を下しどうにか2位をキープ! チャンピオンへの挑戦権を獲得しました!』
成績が芳しくなかったのはたしかだが、これからって時にそんな格を下げるようなことを言わないで欲しい。
俺が今いる最終戦の場はショッピングモールを思わせる建物だった。
リングや畳の上でなく、日常生活の延長としての戦い、「常在戦場」を実現するというのがアンダーグラウンドのコンセプトだ。
武器の持ち込みは禁止だが、魔人能力で生成したものの他、会場内にあるものを武器にするのも認められている。
勝利条件は相手選手の降参か戦闘不能、及び場外。反則は特にないが、殺人はご法度。
相手を死亡させた選手は2シーズンにわたって出場停止、故意であると見做されれば永久追放される。アンダーグラウンドは法外の存在だが、法外なりのルールに則って成立している。
下位選手に与えられるアドバンテージで先入場を果たした俺は場内を見て回った。会場のモールは潰れて久しいらしく、テナントは全て引き払い、どの売り場もガラリとしている。ホコリとカビの匂いが立ち込め、動かないエスカレーターや遊具の放置されたキッズスペースがなかなか物悲しい。
建物自体の他に残された物品の中、見つけた役立ちそうなものを手に歩き回る。
すでにアイツも入場しているはずの時間。身を隠して不意打ちを狙ったり有利な地形を確保したりというのも立派な作戦だが、アイツはそういうタイプじゃない。多分そのへんにいるだろう。
2階の吹き抜けに面した通路を歩いている時、聞き慣れたアルトの声が呼んだ。
「こっちよ」
声のした方を振り向く。見下ろす1階広場には人影がなかったが、そこから階下に飛び降りると……いた。俺も入場してきた正面自動ドアから売り場前を通り、真っ直ぐこの広場に繋がる通路の真ん中に仁王立ちしていた。
タンクトップにハーフスパッツ、肩口とスパッツの裾から先は欠損しているが、魔人能力で作った不可視の四肢が体を支えている。
俺は奴に向かって20m程度の距離まで歩み寄り、足を止める。まだ試合前だが、ここならギリギリ「圏外」のはずだ。
『続いて、ランキング1位! 頂点に登り詰めてからの2年間無敗を守る手足のない格闘王! 『無影拳』の静矢桐華!
飯綱火選手との対戦はこれで3度目になります』
「表」の実績でBランクからスタートになった俺に対し、静矢は下部組織のDランク、Cランクを全勝で制覇。
Bランクでも当時2位の俺もあっさりと下し優勝、Aランクに上がった最初のシーズンで3位、2シーズン目に当時の王者を激戦の末下し、今の地位についたのだった。
それからの2年、100近い防衛戦に勝利してきたこいつに対し、俺は1度Aに上がって次のシーズンでBに落ち、先のシーズン返り咲いたAでどうにかこうにか勝ち抜いた末、静矢に挑んで敗れた。
だからアンダーグラウンドでの対戦は3度目、王座への挑戦はこれが2度目だ。
「誠也くん今回はランク下げちゃうんじゃって心配したけど、うれしいわ。でも、勝てる?」
「つもりがなきゃ来ねえさ」
『両選手睨み合います。何か軽く言葉を交わした様子ですが、以後は一言も発さず。決戦を前に互いの視線が火花を散らすかのよう』
静矢の視線は、俺が右手にぶら下げたものへと注がれていた。「それが勝算か」と目で聞いてくる。
アナウンスが言うように口は閉じたまま。答えるような仕草もしない。
ただ、自分の中の闘争心を高めることに残り時間を費やした。九字も真言もいらない。自分の気持ちを確認する。
この2年、幾多の怪物を退けながら静矢は強くなっているのがわかる。前の最終戦では触れることもできずに負けた。こいつはあの時より強いはず、そして俺は2年前のこいつより弱いだろう。おまけに今シーズンは不調だと言われている。オッズはいったい何倍だろうか。
それでも、今日勝つのは俺だ。
『女王が王座を守るのか! 挑戦者がリベンジを果たすのか! それでは――』
開始のブザーが鳴り響く。直後、俺は手にしたもの――未撤去で残されていた10型消火器を3つ、ホースを伸ばした状態でフレイルのように振り回し、まとめてやや前方へと叩きつけた。
魔人の腕力による衝撃に床材が砕け容器が破裂、中身の消火剤が撒き散らされる。
噴射とちがって衝撃による拡散、それも3つ分をまとめてだ。煙幕というほどじゃないが、俺と静矢の間がだいぶ白んで見えるくらいには、薬剤が散布され漂っていた。
『やはりと言うべきか、消火剤を周囲に撒き散らした飯綱火選手! チャンピオンの試合ではよく見られる光景です! しかし――』
「それ、何度目?」
白いヴェールの向こうから冷めた声。
俺は無視して、自分の張ったそれの向こうへと駈け出した。
魔人能力『LIMIT UNLIMITED』発動。
敏捷性を強化―-筋組織に運動神経、「速く動く」ために必要な身体機能が魔人として見ても規格外に強化される。今の俺は魔人化したトラやライオンを遥かに凌ぐ速さで動ける。この間合を詰めるのに1秒もかからないだろう。
もっともそれは何の妨害もなければ、の話だ。同じことは前回もやった。
2mほど先で周囲を覆うヴェールが揺らめく。俺が動いたからじゃない。そこに何か物理的存在が出現したのだ。
『ゴーストハンド』――手足の欠損を埋めるべく発現した静矢の能力はいつしか生身の切断面からだけじゃなく、自身から離れた空間上にさえ同じように四肢を生やし、操ることが可能になった。有効範囲は恐らく現状18m弱。
足下に、背後に、頭上に、多くのファイターが前触れ無く現れる不可視の拳足に打たれ、投げられ、絞め落とされてきた。
ゴーストハンドを躱すためによく取られる手段が空間に目に見えるものを散布し、発生する揺らぎを目で捉えるというものだ。砂ぼこりやスプリンクラー、消火器を使ったのも俺以前に2人いた。
結果、王座についてからの静矢桐華は未だ無敗。
空間に現れた複数の手が円形の動きで暴風を起こす。漂っていた消火剤は高い天井、脇のテナントスペースへと拡散され、目に見えないレベルで希薄になってしまう。
これまた誰でも思いつきそうな対策だが、恐るべきはその早さだ。高名な空手家の「回し受け」は近距離での火炎放射を散らしてみせたというが、こいつは30cmの距離で手榴弾が炸裂しても火傷一つ負わないだろう。
走りだしてコンマ2秒、詰めるべき間合いはあと15mほど、消火剤散布はすでに無効化され、また不可視のエリアが続くことになった。前回はあっという間に足首を捕まれ、意識を失うまで床と天井をバウンドさせられた。あの時のことが頭を過る。
が、今はちがう。
足下――ビリビリとそれの存在が伝わってくる。足首狙い――掴みか、いや足払いだろう。
地面を蹴るタイミングを早め、迫り来るそれを避ける。
さらに、後頭部にも同じ感覚。数十cm身を屈めれば鉄槌打ちらしき打拳が頭皮を僅かに掠めて行った。
「っ!」
ヴェールが晴れたおかげで静矢が目を見開くのがよく見えた。偶然じゃない。狙われている部位にタイミング、明らかにわかって躱している――と。
それでも攻撃の手は休めない。
顔面への突き、脇によければ今度は側頭部を狙って掌底、それもヘッドスリップさせて避けるが、脇の柱が手の形に陥没。喰らってたらと思うと鳥肌が立つ。今度は水月への中段突き、身を捻りながら跳ぶ。
なぜここまで躱せるか、アイツにはわからないはずだ。長い付き合いだが、俺は自分の能力を身体能力強化としか説明していない。嘘ではないが、多分そこからすぐさま答えには行き着けないだろう。
俺は速力と共にもう一つ――皮膚感覚を強化していた。
目で見ることはできなくても、空気の流れを極度に鋭敏化した皮膚で捉え、動きを察知することができるのでは――ゴーストハンド攻略の鍵がそれだった。
脱いだのも頭を剃ったのも体表の露出を増やすため、消火器も油断を誘う他、目に見えないほど希薄でも空気中に粒子を漂わせ、気流の感覚をハッキリさせる狙いも兼ねている。
言うは易し行うは難し。
ボールを避ける訓練を繰り返した後、俺は実戦でものにするため、「視覚を封じる」という制約で強化した皮膚感覚だけを頼りに試合を繰り返し、結果格下に2敗を喫することになる。
だがそのおかげで、相当なレベルで接近する物体の動きや形状を掴めるようになった。3位に勝てたのもその証拠だろう。
しかし、さすがに静矢相手に視覚の封印は舐めすぎだ。
代わる制約は「痛覚の鋭敏化」。「風が当たるだけで痛い」なんて言うが、実際空気の動きに触れるだけで火傷に似た痛みが走る。そのおかげでより捉えやすくなってるのかもしれない。
強化したスピードと皮膚感覚、磨いた「避け勘」が俺にここまでの回避を可能としていた。
『おおおーーっ!
無敵を誇った静矢選手の『無影拳』を飯綱火選手はことごとく躱しているようだ! 空振った打撃の破砕音だけが響いています。
不調だなどと言われましたが、飯綱火選手強い! 心なしかチャンプの表情にも焦りが見えます!』
1秒で詰められる間合いと言ったが、俺が走り出して10秒以上経っているだろう。時間はかかっている。だがゴーストハンドを掻い潜りながら、徐々に近づきつつある。間合いはもう10mを切っているはずだ。
とはいえ、余裕かというと全然そんなことはない。
鉤突き、側頭肘打ち、諸手突き、前蹴り、貫手、下段蹴り、上段足刀蹴り、猿臂打ち、金的蹴り、三日月蹴り……間断なく打ち込んでくるコンビネーションはさすがの一言だった。それも、ゴーストハンドは恐らく本体に近づくほどに手足のパワーも精度も増していく。
そして、俺には致命的な弱点があった。スピード強化の制約――タフネスの低下。
今の俺は極端に脆い。ボクシングでガラスの顎なんて言うが、俺は全身そんな感じだ。
さっきからちょいちょい掠ってるだけで実はけっこう体力を削がれている。痛覚の鋭敏化もあってめっちゃ痛いし。ダメージを受けやすくそれによる痛みは増幅して感じるという負の相乗効果が働いている。
多分、一発でもまともに打撃を貰えば俺は骨を砕かれ、激痛で気絶するだろう。足の裏もそれ用のソールで保護してるのにだいぶ痛いし。
というか打撃なんぞ当てなくても、静矢が操れる本数を越えて手足を空間を埋めるように「置いておく」だけで強引に突破することもできない俺は動きを止められ、捕まるだろう。
まあそれは俺が脆いなんて知らないからやらないわけだが、とにかくそれだけ俺の優勢は薄氷の上ってことだ。
だがそれがいい。
別にいくさ人的なアレじゃなく、俺の『LIMIT UNLIMITED』は不利であればあるほど効果を増す。ギリギリ崖の上を行くような能力なのだ。
「うっ! くっ!」
アナウンサーが言った通り、追い詰められたこいつの顔からはいつもの余裕が綺麗さっぱり消えている。こいつが最も手こずった試合――2年前の前王者との戦いでもこんなに焦ってはいなかった。技そのものが確実に攻略されるのははじめてのはずだ。
いい。過去には「勝っちまった」とか思ったこともあるが、今はちがう。俺は実力で追い詰めている。
快感が油断に変わらないよう、俺は強く唇を噛んだ。思った以上に痛くて涙が出た。
静矢は焦りからコンビネーションには精彩を欠きつつも、しかし近づくことで攻撃の密度は増していく。このまま突破は厳しい、が……。
『LIMIT UNLIMITED』――速度強化二重掛け。もう多分掠っても死ぬ。
「ああ……ぐ、っらあああああああっ!!」
静矢のはじめて聞く声と共に繰り出された全方位打撃、俺は僅かなタイミングの間隙を縫い、滑りこむようにして突破を試み――抜けた。
唖然とした風な静矢がいる。
無影拳が完成してからは、一方的に自分の間合いで蹂躙してきた。ここからは、俺の間合いでもある。
直後、能力を解除――それまでの慣性を利用し、滑るような足運びで静矢の脇へ回り込む。どれだけ速くても触ればこっちが砕けるんじゃ話にならない。だから、ここからは……。
「っ!」
一瞬、一瞬だった。
静矢はこれまでにない種の苦戦に心を乱している。冷静でない。だから、一旦能力を解除し掛け直す余裕くらいは、あると思っていた。
わかっていたはずだ。瞬間移動に意識誘導、今までにも他の手段でこいつに接近できた奴は何人もいる。そのことごとくを、静矢は接近戦で倒してきた。
「はぁっ!!!」
「がっ!!」
撞肘――体表から生やした幾本もの脚での震脚、その勁力を乗せた肘が俺の腎臓を捉える。
心を乱していたはずの格闘王は、能力解除の瞬間に生じた生理的、あるいは心理的な隙を読み取り、これ以上ない一撃を捩じ込んできたのだ。
到底堪え切れず、横に吹き飛んだ俺は脇のテナントスペース、その奥の壁へと激突、そしてぶち抜いた。
勢い余って外まで飛び出しゴロゴロと転がる。敷地丸ごと試合場で助かった。
「はっ、はっ……はっ……」
一発喰らっただけでなんてザマだ。制約を解除しておいて助かったが、しかしこの状態でもすでにダメージ甚大だった。
さらに最悪なことに俺をふっ飛ばした静矢は当たり前だが追撃をかけるために俺の空けた穴から店外へと跳躍し、宙で不自然に加速を付けてこっちへ突っ込んでくる。
舞い上がった粉塵で僅かに見える、ライダーキックって感じの蹴りだ。
クソ。ベストタイミングには程遠いが、使うしかない。
『LIMIT UNLIMITED』――MAX。
脳内でドーパミンだかエンドルフィンだかがギュンギュン分泌されるのを感じる。目も耳も異常なほど冴え渡り、痛みも感じなくなった。一瞬でパンプアップした筋肉は大型ヘリの離陸だって止められそうな気がする。
「っ!」
宙の静矢は俺の異変に気づいた様子だ。空中で何かに引っ張られるように動きを止めた。
「逃がすか」
俺は寝た状態から全身の撥条を使い、自ら弾かれたように宙へ跳ぶ。一瞬で滞空していた静矢の頭上へと達し、振り上げた踵を打ち下ろした。
「っ!!」
「らっ!」
ガード。両腕をクロスさせているのが感触でわかった。
それも簡単に切る。圧し負けたアイツは勢いそのまま落下するが、しかしやはり生やした手をクッションにしたのだろう。落下によるダメージは特になさそうだった。
俺もそれを追うように着地。踵踏み付けはカポエラの体捌きで回避される。アスファルトがデカいゼリーのように砕け散り、50cmほどのクレーターを形成。その威力に静矢は目を丸くする。
「……」
距離を保ち、こちらを見た。額から流血しているが、大したダメージではないだろう。
そして多分バレている。
俺のこの状態は戦闘に関わる身体機能ほぼ全てを爆上げするというあまりに身も蓋もない、まあそれっぽく言うと強化フォームってやつだ。
制約も1分しか使えず、その後は丸1日動けなくなるというやっぱり身も蓋もないものだが、今はさっきの大ダメージのせいで制限時間も大幅に縮み、多分もう30秒もない。
パワーで静矢を圧倒できるこのフォームを温存し、インファイトで変身して反撃も許さず一気に決めるというのが俺の勝利プランだった。
なかなかに脳筋だが、前王者・剛霊武もまた、硬化能力と魔象並のパワーで無影拳をものともせず突っ込むというゴリゴリのゴリ押しスタイルで静矢を追い詰めている。
ただ、それは静矢にとって逃げ場のない状態に追いこんで、というのが必須条件だ。ゴーストハンドで逃げや時間稼ぎに徹されたらこの状態でも捕まえきれずタイムアップだ。
ここまで使わなかった異常なパワー、そう長くは続くまい、と多分誰だって思うだろう。広い店外に出られ、さっきの接近で有効打を与えられなかった時点で俺の勝ちは相当厳しい。
しかし。
「おい……っ」
静矢はそれ以上間合いを広げず、どころかこちらへと跳んだのだ。
「テメ……!」
バカにしてるのか――チャンスと思うより先に、思考が沸騰しかける。が。
「かっこよくないじゃない。ここで逃げちゃ」
「……」
「っはあああああいやああああああああっっ!」
ゴーストハンドの格闘性能を最も発揮できるショートレンジ――手足のない格闘王、静矢桐華が最も浴びせる暴風雨のような乱打は、目に見えないのに雄弁で、目に見えないのに綺麗だった。
頑強になった肉体なら数発貰ってもそう怖くはない。体勢を崩しに来る「本命」を回避し、前に出て一撃を狙う。
こいつの的は小さく狙いづらいが、どれだけ鍛え込んでも軽量だ。他のファイターほど打たれ強いはずはない。今の俺が殴ればそれで決着だろう。当然静矢もそれはわかっていて巧妙に回避、防御してくる。
10秒、20秒と時が過ぎる――LIMITが近づく中で、俺は楽しかった。
「しゃっ……!」
地面から、俺自身から生えた脚が体を固定し、逃げ場を奪う。不味い。合わせて跳躍した静矢の崩拳が、俺の顔面を捉える――寸前、俺は頭を下げた。
額受け――人体で最も硬い部位。それが強化された今は拳で砕ける硬度じゃない。
生身だったなら静矢の拳が破壊されていただろう。
ガラ空きになった静矢のボディに、俺は渾身の一撃を打ち込もうとする。
「あっ」
切れた。タイムリミットだ。
これまでの反動で全身の筋肉が弛緩し、突き出したはずの拳は文字通り蚊も殺せない威力でぺたりと腹に当たるだけだった。
クッソ……ここまでかよ。
静矢のトドメの一発が打ち込まれるのを待つ、その時は来なかった。
脱力し膝から崩れた俺の目の前で、静矢は体をくの字に折り曲げ、白目を剥く。
「は? しず……おい」
意識の消失でゴーストハンドが強制解除され、手足を失った小さな体は宙に投げ出された。
「桐ちゃんっ!!!」
その叫びを最後に俺自身の意識も遠のき、闇に落ちていった。
病院で目を覚まし、そして向かった先は同じ病院の静矢のもと。幸いと言っていいのか、静矢の方も命に別状はなかったという。
ただ。
「再発、ですって……」
ベッドに寝かされ力なく笑う姿は、いったいどれくらいぶりだろうか。
病巣には取り零しがあった。
確認できないごく微小な病巣が手術しても残り、後年、決して無視できない確率で再発する可能性はある。そしてその時は死を覚悟せねばならない。手術した当時、医者からも聞かされていたという。
再発した今、恐らく余命は1月もない。今回のように軽い麻痺では済まない。いずれ完全に肺か心臓が止まるだろうと。
「10年以上平気だったから、大丈夫だと思ったのだけどね」
「なんねえのかよ、なんとか……」
静矢は力なく首を振る。ならないからこうなっている。わかっている。
アンダーグラウンドには治癒能力を持った魔人が常駐しているし、大規模な医療機関にはたいてい、病気治療に効果のある能力を持った魔人が雇用されている。しかし彼らも万病を治せるわけではない。
「俺の……俺の、能力なら……」
「誠也くんの?」
俺は自身の能力について包み隠さず静矢に明かした。
『LIMIT UNLIMITED』は他人にも効果が及ぶこと。人体にある病気への抵抗力だって強化できること。
「だから……」
「『制約』は?」
「っ……」
「死んでしまう病気を治す、制約は何になるの?」
そう問われ、俺は答えられなかった。強い効果を得るには重い制約が必要になる。
思えば、かつて静矢がこの病気で手足を失おうという時も思いつき、そして思い留まっていた。手足を失うのを免れるなら、静矢は代わりに何を差し出すことになるのか、と。況してや生命だ。
子どもの頃の俺にはそれに気づけるくらいに分別があったのに、今はなんてバカで軽薄なんだろうか。
「ごめん……」
謝る俺に静矢はまた首を振る。なんでこいつは死にそうなのに俺を許してるんだろう。いや、ずっと許してくれていたんだ。
そのまましばしの沈黙があって、静矢がぽつりと口を開いた。
「誠也くん、私この病気にはじめて罹った時、死んじゃいたいって思ったのよ?」
「……そう、だったね」
「今はそんなことない。生きていたい」
「ああ……」
「誠也くんと戦って、私、まだまだだなあって思った。もっと強くならなきゃって……」
「……」
「死んだら、なれない……強くなれないっ……」
静矢は下を向き、肩を震わす。
零れた涙が見えない手の甲に落ちて、流れ落ちていく。
しばらく嗚咽を漏らす声が病室に響き、その後、鼻をすすった静矢が脇の俺を向いて、すっと手を差し出した。
求められていると思って、俺は何も言わず手を握った。
患者着の袖が持ち上がっているだけで今は手首の位置なんてわからないのに、まるで指し示されたように手を取ることができた。
幾多の猛者を屠ってきた無影の拳が、今はずいぶん弱々しい。
「ずっと……手を握っててくれる?」
「ああ……」
それから、俺はなるべく静矢の傍にいた。
彼女の家族は俺が傍にいることを嫌ったらしい。数年ぶりに会った彼らに気まずい思いをしながら頭を下げたが、向こうの声は露骨に冷たい。
倒れたのも俺との試合の最中だったし、これまでのことを思えば、俺のせいというところは実際大きいのかも知れない。
病気で死ぬことにはなったとしても、俺がいなけりゃもっと穏やかな人生になったのでは、と。
2人になってそのことを口にすると、また静矢は首を振って言った。
「私、別に誠也くんのせいとか、誠也くんのためとか、そんな理由で戦ってたんじゃない。
一緒に強くなるのが、一番楽しい人だった。それだけよ。それだけだけど、本当によかった」
その言葉が、俺にとって彼女の遺言になったのだった。その日の夜、静矢は心不全を起こし死んだ。
静矢の言葉があったってのに、俺はまた戦おうとか、強くなろうとか、繰り上がりで就いた王座を守ろうとかって気にはなれなかった。
きっかけは静矢と全然関係なかったはずなのに、いつの間にか彼女と戦いは不可分になっていたらしい。
そんなところに舞い込んできたのが、千代田茶式なる老人の企画するトーナメント。
M-1の比じゃないある種原始的で傍迷惑な「実戦」志向にはおどろいたが、最も重大なのは参加資格であるこのC2カードに、所有者を生き返らせる力さえあるということだ。
俺のもとに届いたのは当然M-1の現チャンプだからだろうし、じゃあもう少し早く、静矢の生前に届いていたなら彼女は助かってたってことじゃないか。
最強だって死ぬ。病気には勝てない。戦闘での強さが意味をなさない状況なんていくらでもあるだろう。
M-1も所詮、見世物としての勝負が成立する範疇の魔人だけを集めていた。デカいのか小さいのか知らないが、井の中の蛙には変わらない。他の分野の強者にしたってそうだ。どんな魔人にも勝てる魔人なんて恐らく存在しない。
それでも、最強を決めたがる。最強になりたがる。
『かっこよくないじゃない。ここで逃げちゃ』
あの時の言葉が蘇った。
かっこよさ、なんてものに静矢が言及したのはアレが最初で最後だった気がする。
「かっこいいよな、桐ちゃんは……」
言葉にはしなくても、きっとずっと思っていた。俺を打ちのめし見下ろす時のあの憎たらしい表情に俺は惹かれていた。
俺たちは何のために戦うのだろう。
そりゃ金のためって人も多いだろうし俺だって仕事だが、しかしそもそものところ俺たちは、魔人同士の直接戦闘力なんてちっぽけなものの競い合いに生きることを選んだのだ。
強い奴はかっこいい。そんなガキみたいなこと思ってなけりゃ、選ぶはずのない道だ。
俺だって、静矢の方から向かってきてくれてラッキーなんて思わなかった。自分がかっこ悪い気がしたからだ。けれど静矢のかっこよさにほだされた。戦争でない強さ比べはかっこよさのぶつけ合いなのかも知れない。
余命幾ばくもないのにあんなことをしでかして、「最強を知りたい」なんて抜かす爺さんもやっぱりそれに惹かれる人間なのだろうか。
確実に言えるのは、今の俺はかっこ悪いってことだ。
俺は例の放送で千代田茶式が告げた番号にコールする。カードに刻まれた数字をプッシュし、現れた無機質な声の女に尋ねた。
『俺が優勝した時、俺の「願い」は叶うのかどうか、先に確認させてもらえませんか?』
『飯綱火様のお願いとはどのような内容でしょうか?』
『死人を1人、生き返らせて欲しいんです』
出場の決意を固めると、改めて写真を額に飾る。
道着に身を包んだ幼い静矢桐華が、まだ生身の拳をカメラへと突き出し、あの不敵な笑みを浮かべていた。俺もそれに向かって合わせるように拳を向ける。
やっぱり俺たちは、手を握るより拳をぶつけ合うのが似合っていると思う。
桐ちゃん、待っていてくれ。
桐ちゃんが生き返った時、桐ちゃんより弱かった男は世界で2番目に強い男になっている。
今の俺は弱いから、かっこいいまま戦えるかわからない。無様な姿も見せるかも、卑怯な手だって使うかも。
それでも最後まで勝ち抜いて桐ちゃんを生き返らせることができたなら、その時俺はまた君に挑む。
俺は世界最強になる男だ。