プロローグ(物部ミケ)

●物部ミケプロローグ

「モーさーん、グッドモーニング!」
「はい、グッドモーニング」
「モーさーん、グッドモーニング!行ってきまーす」
「はいはい、行ってらっしゃい」
「モーさん、グッドモーニング!今日も輝いてるね!」
「はいはい、口ばっかり達者なんだから」

 聖ソレイユシャングリラ学園へと登校する生徒達を見送りながら、モーニングスター三郎は玄関先で愛用のモーニングスターを磨いていた。
 彼の自宅の前は聖ソレイユシャングリラ学園の通学路となっており、朝夕には登下校する生徒達が行き交っている。モーニングスターの手入れをしながら生徒たちを見送るのがモーニングスター三郎の20年来の習慣であった。
 学生達からモーニングスター三郎に対する対応は千差万別だ。
 初日から臆さずに挨拶する者、最初は警戒していたものの時が経つに連れて打ち解け挨拶をしてくれるようになる者、中には彼にモーニングスターを触らせるよう頼んでくる剛毅な者も居たりする。
 色々な生徒が居るが、時間をかければほとんどの生徒と打ち解けられるのが彼の自慢だった。
 最初は距離を置いていた生徒でも、一年も経つ頃には挨拶を返してくれるようになる。その過程が微笑ましくも楽しく、彼は20年も飽きずにここでモーニングスターを磨きながら生徒たちを見守っているのだ。
 だが……どんなことにも、例外はある。
 モーニングスターを磨く彼の前を、また1人、新たな生徒が通りがかった。

「おっと、おはようさん」

 モーニングスター三郎はその生徒に声をかけた。だが、彼女は一瞥すら返さない。
 女生徒は長い銀髪を朝日に輝かせ、脇目もふらず堂々と歩いている。どこか近寄り難い威圧感のにじみ出るその姿は、制服を着て通学カバンと革製の竹刀袋を持っていなければ高校生には見えないかも知れない。
 モーニングスター三郎は彼女の名前も詳しい素性も知らない。去年の四月から通るようになったことから最低でも2年生であるとは思われるが、それだけだ。
 この一年と少しの間、モーニングスター三郎は朝夕と彼女に挨拶し続けてきた。だが、彼女の態度はまるで鋼鉄のモーニングスターのように頑なで、まったく変わることがなかった。

「うーん……あの子、学校で上手くやれているのかなあ」

 背筋を伸ばし堂々と歩く姿は、美しいが孤独だ。
 去りゆく彼女の背中を見守りながら、余計なお世話とわかっていてもモーニングスター三郎は心配せずにいられなかった。



 モーニングスター三郎の家の前を過ぎてから少しして、銀髪の生徒――物部ミケは背後から何者かに声をかけられた。

《マスター。挨拶されて返事もなし、というのは少々失礼なのでは?》

 モーニングスター三郎とは違う、若く張りのある男の声だ。だが、声のする方向には誰もいない。ただ物部ミケの抱えた竹刀袋が揺れているだけだ。

「嫌よ。だってあの人、怪しいじゃない」

 マスター、と呼ばれた物部は背後に視線もやらずに小声で答えた。無人の空間から声がしたことに関してはさも当然といった振る舞いである。

《そうですか……私には悪人のようには見えませんでしたが》
「どこがよ」
《ああも丁寧にモーニングスターの手入れを行っている、というのは素晴らしいものです。道具を大事にする方に悪人は居ない》
「根拠がないわね」

 鼻で笑いながら答えたところで、ミケの脇を一人の生徒を追い越していった。
 追い越した生徒は、一人で喋っているミケに怪訝そうな目を向けた。それに気づいて、ミケは口を閉ざした。
 この声は彼女の特殊能力『万物の主(マテリアルスレイブ)』によるものだ。
 万物の主(マテリアルスレイブ)は、発動中に手で触った無生物に命を与える能力だ。
 命を与えられたものは無生物は常人程度の知性と、ミケにだけ聞こえる声で会話する能力、ある程度の運動能力を得る。
 ミケにだけ聞こえる声ということは、今の彼女は客観的には誰も居ないところで独り言を喋っているようにみえるということだ。不審者扱いもされよう。

《まったく……今更のことではありますが、マスターはもう少し愛想を良くしたほうがいいのでは?》

 ミケが憮然とした表情でやりすごしていると、若い男の声は呆れたようにつぶやいた。
 この声の主は竹刀袋に収められた彼女の愛刀《魔剣『VINCENT』》だ。
 通常、彼女の能力による生命は一時的なものだ。だが、何故だかVINCENTだけはいつまでたっても能力が切れない。その上におしゃべりなので、こういうこともしょっちゅうある。
 いつもならある程度おしゃべりに付き合ってやってはいるが、流石に不審者を見るような目を向けられてはそんなことをする気にもなれない。
 ミケはそれ以上は何もこたえず、通学路を歩いて行った。

 ミケが登校すると、朝の教室のざわめきが一瞬だけ静かになった。会話をしていた生徒のうち数人が、ミケの姿に気づいたのだ。
 だが、それもつかの間のこと。すぐに生徒達はそれぞれの会話を再開し、ミケは誰にも声をかけずに自分の席についた。
 ミケの隣の席に座っているおとなしそうな女子生徒が、チラチラとミケの様子を伺っていた。だが、ミケはそれに見向きもしない。

《マスター、挨拶ぐらいしてもいいのでは?》
「うるさい」

 VINCENTの小言にぼそっと答えると、隣の席の女子生徒は慌てて目を逸らした。

《ほら。彼女、自分が言われたと勘違いしてますよ?謝ったほうがいいですよ》
「……別に、いいわよ」

 VINCENTはまだ何かを言おうとしていたが、始業のチャイムがなったのでそれ以上は何も言わなかった。
 ガラっと、教室の扉が開き、若い男性教師が入ってきた。
 一時間目は倫理、担当はモーニングスター四郎先生だ。若く、熱意があり、常に巨大なモーニングスターを携えていながらも誠実でユーモアもある彼は生徒に人気のある教師だ。
 モーニングスター四郎は無言で教壇に立った。そのまま、ニヤニヤと笑みを浮かべたまま黙っている。
 生徒たちの間にざわめきが起こった、教師が何も言わないので、誰もがどのように反応していいものか把握できていないのだ。
 普段のモーニングスター四郎なら教室に入ってくるときも明るく挨拶をするし、授業を始める前に軽いジョークで場を和ませることもある。
 今日のように何も言わずニヤニヤとしていることなどありえない。

「く……くヒヒ……くヒヒヒ………」

 モーニングスター四郎の口から、彼らしくない下卑た笑いが漏れた。
 あまりにも不自然な行いに生徒たちの動揺は次第に増していった。
 ついに耐えられなくなったのか、一人の生徒が手を上げてモーニングスター四郎に質問を投げかけた。ミケの隣の席の女子生徒だ。

「あの、先生……どうしたんですか……?」
「どうした、どうしただと………くヒヒヒヒヒヒ……」

 モーニングスター四郎はこらえきれない、というように笑いを漏らし、右手をあげた。握られていたモーニングスターの鎖が、じゃらじゃらと音を立てながら持ち上がった。

「200億だぞ?これが笑わずに居られるか……?200億もあれば……」
「あの、先生?……先生?」
「こんなクソみてーな仕事ともおさらばだァー!!」

 モーニングスター四郎は掲げた右手を思いっきり振り下ろした。鎖は勢い良く引っ張られ、モーニングスター先端の鉄球がミケの隣の生徒へと飛んで行く。

「えっ」

 生徒たちは、誰一人としてその行動にまともな反応をすることができなかった。
 モーニングスター四郎は生徒指導を任せられることもあった。だが、決して生徒に手を出したり声を荒げたりすることのない、まさに聖職者の武器であるモーニングスターを携えるに相応しい人物と言えた。
 そのモーニングスター四郎が、まさか生徒に向けてモーニングスターを振り下ろすことがあるなどと想像していた生徒は居なかった。

――ただ一人。否、一人と一本を除いて。

 鉄球を向けられた生徒の姿が、不意に消えた。否、床に倒されたのだ。
 彼女の足元には竹刀袋が転がっていた。それが足に引っかかってバランスを崩したところ、隣から伸びてきたミケの手が彼女の腕を掴み、地面に引き倒したのだ。

《まったく、マスターは素直でない》
「別に。隣でモーニングスターとか当たられたら血で汚れるじゃない。そもそもモーニングスターを持った教師って何よ。馬鹿じゃないの?」

 彼女の言葉をきっかけに、生徒たちは目の前の現実を認識し一目散に教室から逃げ出した。ミケに引き倒された女生徒も、ミケのことをチラチラと見ながら教室の出口へと向かっていった。

《マスターは逃げなくてよろしいので?》
「そうしたいのはやまやまだけど……」

 教室の床に食い込んでいたモーニングスターが、勢い良く引き戻された。
 モーニングスター四郎は引き戻したモーニングスターを自らの頭上でぐるぐると旋回させながら、殺意のこもった目をミケに向けていた。

「お前かぁ、物部ぇ……お前はそうやっていつもいつも、協調性もなく先生の邪魔をしやがってェ……一度、物の道理って奴を思い知らせてやらなきゃならねえと思っていたんだよォ……ヒヒヒヒ」
「あっちは、逃がしてくれる気がないみたい」
《普段の行いが悪いせいですね》
「うるさい」
「うるさいのはお前だァ!物部ェ!!」

 ミケがVINCENTの小言に反論していると、モーニングスター四郎は唾液を撒き散らしながら再びモーニングスターを振り下ろした。
 飛来する鉄球をミケは床を転がりながら避けた。回転しながら床に落ちていた竹刀袋を拾い、口を開く。

「先生は私の魔人能力をご存知でしたっけ?気をつけた方がいいですよ」
「何ぃ?」

……ゴゴゴゴゴ

 開いた竹刀袋の口からは、まるで地鳴りのような重低音が響いていた。
 あの中身が抜かれれば、何か良くない事が起こる。生徒指導として不良とも渡り合ってきたモーニングスター四郎の直感が、激しく警告していた。

「加減は、できませんから。怪我しても知りませんよ」

 ゴゴゴゴ…………ズガーン……!!

 竹刀袋からミケが抜刀と同時、轟音が鳴り響いた。
 かなりの威力を感じさせる音に、モーニングスター四郎は思わず両腕で防御姿勢を取った。机を吹き飛ばしたか、あるいは衝撃波か。どちらにせよ、まともに受ければ無傷では済まないだろう。

 ズガーン!ズガーン!ドンガラガッシャーン!

 音は連続して、しかもだんだん近づいてくる。だというのに、一向に衝撃はやってこない。
 不審に思ったモーニングスター四郎が僅かに防御姿勢を解くと、視界には物部が居ないこと以外は先程と変わらない教室があった。

 ズガーン!ズガガガガガ……うぇ、ゲホッ!ゲホッ!ゲホッ!………ドカーン!

「あ……この、馬鹿ッ!」

 四郎の背後から音と声が聞こえてきた。振り返ると、そこには片手に木刀を持った物部ミケが立っていた。
 木刀は刀身に『ヴィンセント』と記されていた。ちなみに四郎からは見えないが反対側には『Made in GUAM』と記されている。
 木刀からは、ズガーンだのどんがらがっしゃーんだのと音が聞こえている。よく聞くと、成人男性っぽいバリトンボイスだった。どうやら、木刀から音が出ていただけのこけおどしであったようだ。生徒指導としての直感はまったく当てにならなかった。
 これこそが魔剣『VINCENT』。四年前、修学旅行先のグアムで買ったミケの愛刀である。
 VINCENTは何故かやたら彼女の能力と相性が良かったため、いつまで経っても能力が切れないのだ。その上、何故か他人にも聞こえるように音をだすことが出来るようになっていた。魔剣とは言うものの、基本的にただの喋る木刀であった。

「大人を舐めやがって……手品の種はバレたぞ物部ェ!!」

 モーニングスター四郎は逆上した。まんまと騙されたのがそんなに屈辱だったのか、口の端に泡を飛ばしながら叫んでいた。
 片手で木刀を構えたミケは、黒板にもう片方の手をつきながら四郎を睨んでいた。

「あら、ごめんなさい」
「ごめんなさいだとォ~~~?」
「ええ、2つ謝ることがありまして。まず、私の愛刀がやたらうるさいこと……そして、能力について嘘をついていたことです」

 ミケは黒板を叩き、見下すような笑みを浮かべた。

「私の能力は、無生物に命を与え命令を下すことができる。命を与えられた物はある程度動くことができます……例えば、こういうふうにね!」

 ミケは黒板から手を離し、後ろへと跳躍する。
 背後にあった黒板消しクリーナーの置いてある机に手をついて、体を止め、叫んだ。

「万物は我が傀儡!やりなさい……《万物の主(マテリアルスレイブ)》!!」

 ミケの言葉に合わせて、黒板からガタガタと揺れるような音がした。まるで、今まさに倒れて来ようとするかのように。
 教室用の黒板は通常仕様のもので50kg程度、魔人生徒も通学する学校に卸されている特別仕様なら150kg近い重量がある。それが壁から外れ、頭上に倒れてきたらどうなるか。屈強な魔人教師であるモーニングスター四郎であっても昏倒は免れないだろう。
 ミケがペラペラと解説しているのに気を取られていて四郎は今まさに落ちようとする黒板に反応が間に合わない。黒板はガタガタと揺れ。

「……やりなさい!」

 ガタガタと揺れ。

「………」
「………」

 揺れがとまった。別に黒板は落ちてこなかった。

「……どういうことだ?」
「……ちょっと、どういうことよ!」

 四郎とミケは同じ言葉を口に出していた。その言葉に、黒板はミケにだけ聞こえる声で返答した。

《いやその最初はOKしましたけど……よく考えたらそんな人にぶつかったらヒビとか入りそうですし、嫌だなって……》
「…………なるほどね」
《そりゃ黒板掃除していただけるっていうのはありがたいですけど……その、割に合わないかなーって……すいません、なんか優柔不断で》
「……わかった。わかったわ!修繕費もちゃんと出すし、毎日磨いてあげる。だから言うことを……」

 額に青筋を立てながら黒板に詰め寄るミケの横合いからモーニングスターが飛来した。
 ミケは体をのけぞらせ、間一髪かわした。ミケはモーニングスターを回避した。黒板は避けられなかった。そもそもそこまで急な動きは出来なかった。

《ぐああああああ!》
「黒板!?……ちっ、私のいうことに従わないから!」
「よくわからねえが……どうやら失敗みてぇだなあ?」

 バカバカしいやり取りから立ち直ったモーニングスター四郎は、血走った目でミケを睨んでいる。黒板はモーニングスターに叩き割られた。修理しないと再起不能だ。これ以上は頼れないだろう。
 ぽたり、と地面に汗が落ちた。VINCENT握るミケの手が、冷や汗でびっしょりと濡れていた。

《それで、マスター。ここからどうするんですか?》
「ふ……ふふふ………どうするのか、ですって?」

 ミケは木刀を持っていない腕を黒板にめり込んだモーニングスターめがけて叩きつけようとした。
 だが、掌が鉄球に触れる前に、四郎が鉄球を手元に引き戻していた。

「おっとぉ、俺のモーニングスターを操ろうったってそうはさせねえぞ……てめえがこいつに触れるのは死ぬ時だけだァ!」
《マスター。モーニングスターに能力を使うのも失敗したようですが、次の策は……》

 VINCENTとミケの間に気まずい沈黙がおりた。何とかして開いたミケの口から出てきた言葉は

「………ないわよ」

 の一言だけだった。

《マスター………短いお付き合いでした》
「見切りが早いわよ、このクソ野郎!」
「誰がクソ野郎だァ!」

 ミケは薄情なVINCENTを罵倒したが、モーニンスター四郎はそれを自分への罵倒だと誤解した。
 四郎が逆上し、怒りに任せてモーニンスターを振り回す。勢いがどんどん増していく、あの速度では回避も防御も難しいだろう。

「ああもう!あんたのせいで!」
《失礼ながら、今のはマスターが不用心であったかと》
「くそっ、どいつもこいつも口ばっかり達者で……!私が何したっていうのよ……」

 悪態をつきながら、ジリジリとミケが後ずさる。
 モーニングスターの射程から逃さないように、四郎は同じだけ近づいていく。
 モーニングスターはもう黒い輪のようにしか見えない速度で旋回している。アレをぶつけられれば一瞬で粉々になってしまうだろう。

「ヒ……ヒヒヒ……死になァ~~~!」

 四郎は下卑た笑いをあげながら、高速旋回するモーニングスターをミケめがけて飛ばそうとした。
 腕が振り下ろされ、鉄球が飛んで来る。まさにその瞬間であった。
 ブウウン、と低い音を立て、黒板の横に置いてあった黒板消しクリーナーが突然動き出した。
 通常の吸い込むのとは逆の動作をし始めた黒板消しクリーナーは、内部に溜まったチョークの粉を激しく噴出し始めた。

「ぐあああ!」

 チョークの粉は四郎の顔面を直撃し、そのままどんどん教室に粉煙を充満させていく。視界を失った四郎のモーニングスターは、あらぬ方向へと飛んでいった。

「ゲホッ、ゲホッ、なにこれ!?」
 ミケが困惑していると、しわがれた声が話しかけてきた。

《いやあその、嬢ちゃん。話は聞かせてもらったがの……その、ちょっと哀れでのう》
「え、誰!?」
《儂は黒板消しクリーナーじゃよ。嬢ちゃんが能力発動中の手で触れたからこうなったんじゃが……気づいていなかったんかい?》

 確かに、思い返してみると確かにミケは黒板消しクリーナーに触ったような気もする。
 だが、能力を使うつもりは全く無かった。おそらく単純に切り忘れていただけだろう。現に声をかけられるまでまったく認識していなかった。

《マスター。ラッキーですね》
「うっさい馬鹿!クリーナーのあんたは助かったわ!あとで掃除してやるから!」
《おお、そいつはありがたいの。期待しとるよ》

 ミケは木刀を構え、目の見えない四郎に攻撃をしようとした。
 だが、四郎はめちゃくちゃにモーニングスターを振り回しておりなかなか近づくことができない。
 そうこうしているうちに教室のスプリンクラーがチョーク煙に反応し、水を撒き散らし始めた。スプリンクラーの水はミケも四郎もビシャビシャに濡らし、チョークの粉を洗い流していく。

「おお!こいつはいいぞォ!目が見えるようになったらお前なんぞミンチだ、物部ェ!」
《あーあー、マスターがグズグズしてるから》
「うっさい!一旦逃げるわよ!」

 チョークの粉が洗い流され、四郎の目を開けられるようになったころには、教室に物部ミケの姿がなかった。
 獲物から逃げられた形になったモーニングスター四郎だが、廊下に目を向けた途端、彼は満面の邪悪な笑顔になった。
 そこには、スプリンクラーでびしょ濡れになったであろう生徒が残していった足跡が、はっきりと残っていた。



「はぁ……もう、何よこれ……」
《災難でしたねえ、マスター》

 家庭科室に逃げ込んだ物部ミケは、一息つくと手近なタオルで顔についた水を拭った。
 チョークの混じった水がタオルにつき、まだら模様になった。ミケは少し嫌そうな表情でそれを見た後、続けて制服とスカートを絞った。

「ビチャビチャじゃない。チョークで汚れてるし、体に張り付いて不快だし、最悪」
《まあ、今回ばかりは同情しますよ、マスター》
「同情って何よ。それに今回ばかりはってどういうことよ」
《しっ……静かに、マスター。この金属音、恐らく奴のモーニングスターです》

 VINCENTに言われて耳を澄ますと、確かにミケにもじゃらじゃらと鎖を引きずるような音が聞こえた。
 この音は聞き慣れている。モーニングスター四郎が教室に来る前には、いつもこの音が響いていた。

「改めて、なんで教師がモーニングスターをいつも持ってるのよ……」
《モーニングスターは元々聖職者の武器ですからねえ。教師も聖職者、適切かと》

 ミケがぼやくのと、家庭科室の扉が開かれるのはほぼ同時だった。

「物部ェ!ここだなァ!ヒヒヒぃ、ちょうどいい。てめえのミンチをここでハンバーグにしてやるぜェ!」
「……聖職者?適切?」
《聖職者と言っても人それぞれですので》

 ミケの言葉に注意も払わず、モーニングスター四郎はよだれを撒き散らし、モーニングスターを振り回しながら家庭科室の中に入っていった。
 ミケは家庭科室の中心から動かない、片手にタオル。片手に魔剣『VINCENT』を構え、四郎をまっすぐに見据えている。

「ヒヒヒ……!問題児めェ……ミンチにしてその性根をこねくりまわしてやるァァァ!!」
「生憎と、今度こそ倒れるのは貴方ですよ……《万物の主(マテリアルスレイブ)》!!!」

 ミケの声に応じるように、生命を与えられた家庭科室の蛇口が一斉に上を向き、水を吹き始めた。

「なんだこれはァ?今更水で何が出来るァ」

 蛇口から勢い良くあふれだす水は四郎とミケの体を濡らしていった。だが、それだけだ。
 四郎は水をまったく意に介さず、ミケのことを睨み向けて走っていこうとした。
 一歩、二歩、三歩。距離は確実に詰まり、後数歩でモーニングスターの射程内に入る。期待によって、全身に力がみなぎっていく。その瞬間を想像しながら彼は力強く次の一歩を踏み出し。
 ずるっと、足を滑らせた。
 濡れたリノリウムの床は確かに滑りやすい、だが、それだけではここまでバランスを崩す理由を説明できない。
 倒れながら、四郎の視界の端に家庭科室の流しが目に入った。流しに置かれた洗剤の容器は全て倒れ、床に向けて洗剤を流している。家庭科室に入った時は倒れていなかったはずだ。おそらくこれも、ミケの能力によるものだろう。
 洗剤の混ざった水が撒き散らされた床。これでは踏ん張ることが出来なくて当然だ。
 どすん、と大きな音をたててモーニングスター四郎は床に倒れ込んだ。起き上がろうとしても、洗剤でつるつると滑って上手く立ち上がることができない。
 だが、と四郎は考える。上手く動けないのはお互い同条件だ。だったら、ここで彼が倒されることはないだろう、奴が打つのは逃げの一手に違いない、と。
 その考えは、正面から走りこんでくるミケの姿に打ち消された。

「馬鹿なァ!?貴様はなぜ転ばない!」
「さあ、考えてみれば?」

 ニヤリ、とミケが笑うと、彼女だけに聞こえる声が足元から響いた。

《あー!そういうこと言っちゃうんだー!僕達の見せ場説明してくれないんだー!やる気なくすなー!》
《横暴だー!》《傲慢だー!》《雑巾差別だー!》《ストライキすっぞー!》
「ストはやめて!?わかったわよ!私の能力で雑巾を動かして足元だけ綺麗にしてるの!これでOK!?」
《綺麗にしてる?し・て・るぅ~~~?》
「……綺麗にしていただいているの!感謝してます!」

 叫ぶ彼女の足元には、確かに何枚かの雑巾が這っていた。雑巾達は床にぶちまけられた洗剤を拭い、ミケのために道を作っていた。

《わかればいいんですよ、わかればねー!》

 雑巾達は結構調子に乗りがちで、足元を見てくる性格だった。
 こんな奴にやられたくないと思いながら、モーニングスター四郎はモーニングスターを持ち上げようとする。だが、洗剤で鎖がつるつる滑ってつかむことができない。

《あ、雑巾だけに感謝っすか?役目を果たせば蛇口には用なしっすか》
《いいんですよ……身を絞って洗剤をだした私達なんて……所詮使われるだけの存在……》
「うるさい!後で掃除も詰め替えもしてやるっつってるでしょ!」

 ああ、こんな奴にやられるのか……
 木刀をたたきつけられ意識を失いながら、モーニングスター四郎が最後に思ったのはそんなことだった。



「はぁ……疲れた……」

 スプリンクラーとチョークで汚れた教室の掃除、黒板消しクリーナーの詰替え、家庭科室の流しの掃除や洗剤の詰め替えに雑巾の洗濯。
 ミケがそれら全てを一通りこなし終わったのは、既に日が暮れた最終下校時刻寸前だった。

《まったく、あちこちに手を借りるからそんなことになるんですよ》
「うっさい、役立たず……」

 疲労で、VINCENTにまともに反論する気力も湧いてこない。
 さっさと帰ろう、と校門から出ようとすると、そこに一つ、人影があった。
 人影の正体はミケの隣の席の女生徒だ。彼女はミケの姿を認めると、深く呼吸をして声をかけてきた。

「あ、あの、今日は、ありがとう……」
「別に。何か用?」
「えっと…………その…………えっと……」

 女生徒は、ためらいながらも、胸の内から自分の気持ちを拾うように、ゆっくりと、言葉を紡いでいく。
 そんな姿をみてミケは。

「……急いでるから」

 そう告げて、足早に去っていった。
 女生徒はミケを止めるように手を伸ばした。だが、手はそのまま空を切り、ミケの姿は消えていった。

《……マスター、僭越ながら》
「何よ」

 ミケが下校していると、耐えかねた、とでも言うようにVINCENTが喋り始めた。

《先ほどの彼女。あれはマスターと親交を持ちたかったのでは?》
「親交?」
《早く言えば、助けてくれてありがとう!友達になって!みたいな》

 VINCENTの言葉を聞くと、ミケはふん、と鼻で笑った。

「ヴィンセント、いい?友達って、そんな簡単になれるものじゃないのよ」
《……そうでしょうか》
「だって、物のあんた達に言うことを利かすのだってギブアンドテイクの取引と、アフターケアが欠かせないのよ?人間となんてもっと面倒くさいにきまっているじゃない」
《友達居ないくせに言いますね》
「居ないからわかるのよ。簡単なら友達できるはずだもの」

 VINCENTは応えなかった。

「でもね!今日はちょっとチャンスがやってきたの!」
《……さっきのではなく?》
「違うに決まってるじゃない。これよ」

 ミケが懐から何かを取り出した。それは、1枚のカードだった。

《ああ……なんかモーニングスター四郎先生がもってたカードですか。それが一体?》
「なんかね!これをもってる奴に勝ちまくると200億もらえるらしいのよ!」
《はあ……凄いと思いますが、それが友達と何の関係が?》

 馬鹿ね、とミケは鼻を鳴らした。

「あんたは知らないかもしれないけど、友達を作るには友達料ってのが要るらしいの。こないだ読んだ本に書いてあったわ!」
《……はあ》
「相場は月5万らしいの。で、私が80で死ぬと考えるとあと寿命が60年ぐらい。生涯の一人あたり12×5×60で3600万円でしょ?500人友達つくってもお釣りが来るわ!」
《それはその……良かったですね……》
「ええ。ふふふ……先生は仕事を辞めるとかいってたけど、そんな使い方は馬鹿げてるわ。先生の犠牲は私の友達王国の礎となるのよ……!」

 VINCENTはそれ以上何も応えなかった。愛刀の気持ちを知ってか知らずか、ミケは上機嫌に鼻歌をうたいながら歩いていた。
 その時、誰かが彼女に声をかけてきた。VINCENTではない。中年男性のちょっといがらっぽい声だ。

「おや、こんばんは」

 モーニングスター三郎は、モーニングスターを磨きながらミケに声をかけた。彼が彼女の姿を見かけるようになってから、これほどまでに上機嫌そうな様子を見るのははじめてだった。
 ミケの鼻歌が止まり、ギギギ、と軋む音が聞こえそうなほどぎこちない姿でモーニングスター三郎の方に首を向けた。

「今日は上機嫌だね。何かいいことでもあったのかい?」

 ミケは数秒間、静止していた。そして、薄暗がりでもわかるほど顔を真っ赤にし、

「べ、別にあんたには関係ないでしょ!」

 そう叫んで、あっという間に走り去っていった。

「なんだ。あの子、何を考えているのか良くわからないと思っていたけど、あんな顔もできるんじゃないか。うむ、良いことだ」

 モーニングスター三郎は、微笑みながらその姿を見送った。彼が磨いているモーニングスターが、ミケの進む道を照らすかのようにキラキラと輝いていた。


最終更新:2016年08月28日 19:45