プロローグ(傀洞グロット)

「おはよう」

娘が寝室を出て、グラつく頭を押さえながら辿り着いた調理場では、すでに彼が朝食の準備をしていた。
鼻をくすぐるのは、タマネギの匂い、ベーコンの匂い、イースト菌の匂い。あまりに色々な匂いが入り混じり、彼女にもうこれ以上の区別は付かない。

「おはようございます」

彼、傀洞グロットが調理場の入り口を振り向き、ふわりと挨拶をした。
まだ外は暗い。早起きなスズメも鳩もまだ鳴き出してはいない。
街灯もポツリポツリと白い光を散らし、目を凝らせば空には星も見える。

人によっては、この時間を夜と呼ぶこともあるだろう。
それでも彼らにとって、既に今日という日の朝は始まっている。
パン屋は時間の流れが速い。


「そろそろ食べましょうか」

食卓に皿と食器を並べ、パンと料理を盛り付ける。
深い器にスープをよそうと、2人は簡単な「いただきます」をして、今日最初のエネルギー源を腹に詰め込んだ。

カチャカチャと食器の音が響くばかりで、両者の間に会話は無い。
娘は、テーブルの端に置かれた干しブドウの瓶を手元に寄せ、ざっと皿の上に黒い粒を注ぎ、瓶を元に戻した。
食事を続けながら、彼女は向かいに座る相手の顔を盗み見て思い出した。
彼らが最初に出会った時のことを。

   ▽

それは、およそ5年前のことだった。
あの頃、娘は一介の学生に過ぎなかった。
将来は両親の営むパン屋を継ぐつもりでいたが、今はよく学び、よく遊ぶようにと親にも言い聞かせられていた。

それでも、その頃から既に彼女はパン作りを手伝い、身体にその感覚を染み込ませてもいた。
娘のパンは、美味だった。
その技術は、店を継ぐことになるそのずっと以前から完成していたのだ。

彼女の作品は数量限定ではあったが店に置かれることになり、店は繁盛した。
その頃である。理想都市より、まだ少年の状態で傀洞グロットが送り出されたのは。

彼にはその時、まだ自分を守ることのできる味方がいなかった。
彼自身は理想都市の市長の意向により、市民権も戸籍も得ることは出来ない。
途方に暮れ、生活に困った少年にパンを分け与え、数日の宿を借したのは、この娘であった。

まるでペットのように、娘は彼をこっそりと家に入れ、その日の試作品のパンをこっそりと彼に与えた。
彼女の行為が知られたならば、無防備や破廉恥として謗る輩もいたかもしれない。
しかし、それでもこの時、彼女は何より清純であり、何より尊い存在であった。

グロットは数日の夜を彼女の家で過ごし、昼は理想都市から新たな人間の取り寄せに勤しんだ。
そして、その内の1人が住処を手に入れたことで、拠点をそちらに移すことになったのである。
娘と別れる時、彼は簡単に理想都市の話と礼をし、何らかの形で恩を返すことを約束してその場を去った。

それからの約4年間、2人が会うことは無かった。

   ▽

グロットはコーヒーカップを傾け、その中で滾る黒い液体を一息に飲み込んだ。

昨晩は忙しかった。
千代田茶式の緊急放送があった後、理想都市本部からは大会参加、他参加者からの住人候補募集、『カナン・コンプレックス』の能力者の住人化などの指令が出された。

既にこの世界に召喚された人造人間の数は300万人を越えている。
使える限りの手段を用いた手回しによって、C2カードは既に手元にある。

今回は特殊な方法により、既にC2カードを所持していた強者を理想都市の住人にし、カードは貰った。
しかし、ここから先は手回しだけでどうにかなる問題では無い。

『カナン・コンプレックス』の能力者を引きずり出すには、大会で完全な勝利を収め、千代田に命じる必要がある。
そのためには、あくまでもカードを持ったグロット自身もある程度は矢面に立ち、大会のルールに則って勝利していることをアピールしなくてはいけない。

少なくとも試合を行ったという認識をしてもらわないといけないのはグロットには骨の折れる仕事だ。
それでも、彼はこの仕事を絶対にやり遂げようとするだけの理由があった。

彼の視線は、空になった目の前の食器の向こう、未だ食事を続ける少女の元で止まった。
彼の脳内に、この娘と再会した時の記憶が蘇る。

   ▽

彼は自らの職務を遂行し続け、遂に社会下に盤石な理想都市の思惑をはめ込むことに成功していた。
そして彼は、恩のある娘の元へ向かったのだ。
少なくともこの世界で行えるだけの礼をするために。

しかし、例のパン屋があった筈の場所に、娘とその家族は見当たらない。
近所の人間に聞いた所、その家の両親が知人の借金の連帯保証人になり、知人が行方を眩ましたことで金銭的なトラブルに巻き込まれたらしい。

彼らが黒塗りの高級車に連れ込まれたとの噂もあり、グロットは自分の情報力も利用し救出を急いだ。
そして、遂に娘の連れ込まれた場所、連れ込んだ組織などの情報を得て、彼は直接災害源へと向かったのだった。

その結末は、とてもハッピーエンドと言えるものでは無かった。
娘の両親は既にこの世を去り、娘自身も裏社会における強者の餌とされ、尊厳を著しく傷つけられていたのだ。

グロットは法的手段、暴力的手段を問わず扱うことで、最終的に娘を連れ帰り、彼女に療養を勧めた。
彼は彼女にはしばらく身体と心を休めて貰い、献身的に社会復帰の手伝いをした。

ようやく色々な大切な物を取り戻した娘ではあったが、心には変わらず傷が残り続けた。
グロットが書類や資金を準備し、店を再オープンした後も、彼女は黙々とパンを作るばかりで口数はめっきり減った。

その様子を見て、グロットは考えた。
もはや、理想都市に連れて行くしか彼女を救う方法は無いと。

しかし、彼は都市の完成までにそこへ帰ることは禁じられており、また、勝手に住人の条件に合わない人間を連れ込むことも許されていなかった。
ただし、市長は彼がこの世界に来る前に、約束してくれていた。
都市完成の暁には、彼の願いを何でも理想都市の可能範囲内で叶えてくれるということを。

   ▽

彼は、今回の試合で理想都市を完成させねばならない。
そして、その見返りとして娘を都市の住人としなくてはならない。

食器を洗いながら厳しい顔をする彼に、娘は声をかけた。
グロットは既に、彼女に大会参加と理想都市への移住の件は伝えている。

「私のために無理をするようなことはしないでいいよ。
君がここまで尽くしてくれていて、私は十分幸せなんだ」

「これは僕のためでもあるのです。何につけても理想都市に劣ると思っていたこの世界、いるだけで辛いと思ったことも少なくありません。
ここではあなたがいてくれたことだけが、私にとって幸福の全てでした。
それに、理想都市のことを信じてくれる人自体が少なくて少なくて……」

「うん、君は私が信じる最後の人ってそう決めたから……」

食器や皿を片付けて、今日のパンの仕込みに入ろうとした所で電話が鳴った。
けたたましい音が、小さな家の中で響き渡る。

グロットは受話器を取り、耳に当てた。

「こちら連絡班でございます。市長補佐殿、C2カード所持者を1人、補足いたしました……」

「了解です、追って連絡します」

遂に、大会の始まりが目の前に現れた。
予想以上に急速な展開で、思わず溜息がでる。

仕込みは娘1人に任せ、彼は外出の準備を始めた。

「この家の警備は十分にしてありますが、もしこちらも危ないと見えたならばすぐに逃げて下さい」

「君も無理せず逃げていいんだからね」

娘の助言に対して曖昧に微笑み、彼は玄関の扉を開けた。
暗く涼しい空気が身体に触れる。

(なんて哀れで、なんて美しい娘だろう。
彼女はこのような不幸にも満足しようとしている。それどころか、幸福から目を逸らそうとすらしている。
いや、これは理想都市を知らない人間全員に言える問題なのだろうか。
それならば、何としても彼女をここから連れ出さねばなるまい)

背後で玄関の扉が閉じる音がする。
彼の身体は闇に溶け込む。
数歩歩くたびに、闇の中で足音は増えていく。

(負けるわけにはいかない……)

最終更新:2016年08月28日 19:46