神に選ばれた男の事を、今でも夢に見る。
まだほんの子供だった俺には、専門用語だらけの解説は理解できなかったが、
その男がどれ程偉大であるかは認識できた。
男の戦績を示す途方も無い数字や、巨岩のように盛り上がった筋肉や、
稲妻のような速度で繰り出される洗練された技のすべてが、
万の言葉を費やすより雄弁に男の強さを物語っていたからだ。
『――つまりですね、彼は産まれつきとても筋肉が付きやすい体質なんですね。
その上骨密度が普通の人間の三倍を超えておりまして、更には血中のヘモグロビンも――』
白髪混じりの医者がお気持ちを語る。
その男がいかに途轍もない才能を持って世に生を受けたのかを。
俺は唐突に悟った。
ああ、同じだ。
この男は俺と同じだ。
ただ一点を除いて。
『彼は神に選ばれたんですねぇ』
男は神に選ばれた。俺は選ばれなかった。違いはそれだけだ。
病室を夏の風が吹きぬけた。テレビの音と騒がしい蝉の声に耳を傾けながら、
俺は一定の間隔で滴り続ける点滴の液を見つめた。
――――――――――――――――――――――――
五色那由他が最強を志したのは四歳の頃である。
古武術の名家に生まれ、日々父である五色無量の背中を見つめて育った彼が
その道を目指す事は半ば必然であった。
「この道はしんどいぞ、那由他」
父はそのように言い含めたが、那由他に迷いは無かった。
当初は渋っていた父もついにはそのお気持ちを認め、正式に入門を許可したのであった。
無量が異変に気付いたのは、那由他が五歳になって少し経った頃だった。
「――どうした那由他。もうへばったか」
「まだ……ハァ、まだ……!」
白い顔をしてふらつく体に鞭打つ子供と、それを見守る父。
一年の間で日常となった光景。常と変わらぬ――変わりが無さ過ぎる光景。
日夜稽古を積んでいるにも関わらず、那由他には体力が付かなかった。
筋量も同年代の子供に比べて少ない。
運動すればすぐに息が上がり、しばらくすると動く事もままならなくなる。
当初の無量は、それを小さな子供にとって、
厳しすぎる練習内容のせいだと考えていた。
彼は厳格な男であった。
最強を目指すという息子に対しても、大人と遜色無い指導を行った。
幸い那由他には執念とも呼ぶべきお気持ちがあり、
厳しい鍛錬にも弱音を吐かずについてきた。
転機が訪れたのは、那由他が道場で倒れ、病院に運ばれた日の事である。
「遺伝性の筋疾患と思われます。他に呼吸器にもいくつかの異常が」
無量はその時初めて、息子にとってそのお気持ちは幸いなどでは無く、
むしろ災いにしかなり得ない事を知った。
筋疾患の影響で筋肉がつきにくく、運動のたびに圧痛が伴う。
肺は小さく、気道は僅かな刺激で容易に狭まる。
運動能力はいずれも並かそれ以下。
一年とはいえ過酷な鍛錬を経た結果は、五歳児の標準にすら達していなかった。
無量は息子にありのままを伝えた。
武道家としての才を致命的に欠いている事を告げられた那由他は、
父の顔をまっすぐに見据えて言った。
「それでも、おれは最強になりたい」
それは執念か、狂熱か、あるいは呪縛か。
那由他の瞳には、誰にも負けぬ父の姿がどうしようもなく焼き付いていた。
――それこそは、まさに『お気持ち』。
「父さんみたいになりたい」
地獄の日々が始まった。
――――――――――――――――――――――――
十五歳の夜の事だった。無量は息子を道場へ呼び出し、その場で立会うよう命じた。
格子窓から降り注ぐ月光が道場の壁に掛けられた
『一意専心』『拳禅一如』『遺憾の意』『お気持ち』といった書道を淡く照らす中、
決着は極めて速やかに訪れた。
「もう辞めろ」
血反吐を撒き散らし、あらぬ方向にへし折れた手足で尚もがいて
立ち上がろうとする息子に対し、父は吐き捨てるように言った。
那由他は何か言い返そうとしたが、千切れかけた舌が上手く動かない。
無量は正装である。
血達磨と化した那由他に対し、紫袴にも、白い胴衣にも、
返り血一滴付ついてはいない。
ただ足元の白足袋と両の手のみが赤黒い血で濡れそぼり、
月明かりを反射してぬらぬらと光っていた。
折れた右肘を支えに、那由他はかろうじて上体を起こした。
まだ終わっていない。
まだ立ち上がれる。
立ち上がれるなら戦える。
そう主張するかのように、腫れ上がった眼で父を睨み据える。
月光に照らされた父の顔は陰影濃く、
苦悩と落胆の色がはっきりと見て取れた。
それはあの日、医者に病状を告げられた際にも見せる事の無かった――
真のお気持ちであった。
「(何故俺だ。何故この身体(うつわ)にこの魂を容れた)」
屈強な肉体など要らない。普通の、平凡な身体で良かった。
まともな素体ならば、それを磨き上げて最強へ導く自信があった。
だが与えられたのは動くのがやっとの粗悪品。
それでも、諦められるならまだ救いはあった。
己には何も与えられなかった。
諦観という誰もが持っている機能さえも。
あるのはあまりに分不相応な、役立たず以下の鋼のお気持ち。
努力は実を結ばなかった。
五色流だけではない。
古今様々な武道・武術を学び、戦略と戦術を知り、
戦う相手の情報を集め、傾向と対策を練り、その全てが無駄に終わった。
どれだけ鍛錬を積んでも、思いつく限りの修練を経ても、那由他の実力が
平凡の域を脱する事は無かった。
「最早一片の見込みも無い。お前が最強などと、口にするのも烏滸がましい」
ただ焦がれるばかりでは、想うばかりでは決して届かぬ境地がある。
中天の星を掴むような無謀を繰り返す息子に対しての、
それは父なりの優しさであったのかも知れない。
立ち上がりかけていた那由他の身体は、
糸が切れたように崩れ、再び血の海に沈んだ。
無量の心境はどうあれ、その言葉は少年のお気持ちを
その手足と同じく完全にへし折った。
生まれて初めて知った絶望という名のお気持ちは、
心に渦巻く煮え滾るような怒りをも黒く塗り潰し、
那由他の意識を奪い去った。
――――――――――――――――――――――――
繁華街の路地裏、小便の臭いが染み付いた薄暗い小路を、
屈強な男が歩いていた。
身の丈は190センチを優に超え、
厚手の上着越しにも大きく発達した筋肉が見て取れる。
男は不機嫌な目をギラつかせ、獲物を物色していた。
ストレスを発散する為の手頃な獲物を。
彼の名を、秋月 殺生。
つい先ほど、埼玉県の沖合に浮かぶアルカトラズを脱獄した――死刑囚である。
幼少から体格も膂力も他人より優れていたが、暴力に対するタガの緩さは、
武道を学んでも死刑判決を受けても変わる事は無かった。
むしろ社会に対する不満と怒りのお気持ちが、
秋月という男の凶暴性に拍車をかけていた。
ふと雑居ビルの合間から、ひょろりと背の高い、小汚い身なりの男がふらふらと現れた。
酔っているのか、足取りが覚束ず視線も定まらない。
誂えたように“手頃な”獲物だ。
好都合。
秋月は歩調を変える事無く、浮浪者めいた男に向かってずんずんと進む。
狭い路に人間二人が並べるだけの幅は無い。
必然、すれ違い様に肩と肩がぶつかった。
「おい」
間髪入れず、秋月の太い指が汚れたコートの襟を掴む。
引き寄せられた酔漢の首が人形のごとく前後に揺れ、
焦点定かならぬ瞳に秋月の剣呑な視線が突き刺さった。
「何ぶつかって来てんだてめえ。俺に喧嘩売って――」
ふと違和感を覚えた。
両腿に感じたそれは、一瞬の間を置いて耐え難い灼熱感に変わる。
咄嗟に視線を下げた秋月は、己の両腿から
ナイフの柄が生えているのを認めた。
秋月の巨体が膝を折るより速く、闇に溶けるような黒い刃が閃く。
風切音と共に、分厚い筋肉に覆われた腕の付け根――
神経の集中する脇に突き立つ。
思わず尻餅をついた秋月の胸板を、つま先が蹴った。
男の動きに淀みは無い。
馬乗りになり、秋月の口内へナイフを刺し入れた。
緩くカーブの付いた刃が頬の内側をぎりぎりと裂く。
秋月は悲鳴をあげながら抵抗を試みる。
が、四肢を深々と刺されている上に
馬乗りになられていては膂力も体格も無意味である。
しかも暴れるほど口の中の刃が喰い込み、裂き開かんとして来る。
秋月の状態は、さながら釣り針にかかった魚だった。
「おかしいなぁ」
襤褸を纏った男が初めて口を開いた。
口角から涎を垂らし、依然不安定に視線を揺らしながら、
右眼だけが獲物を見定めた猛禽のように
ぴたりと哀れな犠牲者を見つめている。
「おかしいよなぁ、言ってる事がおかしいだろォ。ぶつかったって事はよぉ、
お互いに前見てなかったって事だろォ?違うか?そうだよなぁ?」
男がナイフを握る手の力を強める。
血泡を吹く秋月が藻掻いても、激痛が増すばかりだ。
「おい……聞いてンのか?返事しろよぉ。人を無視するって事はよぉ、
その人間の存在を否定するって事だろォ。母ちゃんに教わらなかったか?
そういう事をよぉ……失礼だろうが、エエッ?」
厚手の布地を裂くような音を伴って、凶刃が真横に引き抜かれた。
一条の鮮血がビル壁に飛び散る。
くぐもった悲鳴を聞きながら、
男は痩せこけた頬に引き攣れたような笑みを浮かべていたが、
「あっ、ああーっ、あっあっ、うおっおおう、ふううう~」
突如全身を震わせて喘ぎ始めた。
瞳孔が散大し、呼吸が急速に早まる。
男は皺だらけのコートの懐をがむしゃらにまさぐった。
痙攣の止まぬ手が取り出したのは白い包み紙である。
最大限の注意を払って広げられた紙の上には、粉末。
雪のように白い。
男は紙を掌に乗せ、付属したストローを鼻に差し入れると、粉末を一息に吸い込んだ。
「ああっ、ああ~~……甘ァい……」
脳内を迸るような快感が廻る。全身を蕩かすような甘み。
白く霞んだ視界が一気に鮮明となり、全身の感覚とお気持ちが生まれ変わったように
研ぎ澄まされて行く。
経口では無く鼻粘膜から直接吸収する、その薬物。
名を、“蘇”と言う。
かつて聖徳太子が愛用した、牛乳を固形化するまで煮詰めて乾燥させたそれは、
人間の集中力と骨密度を極限まで高め、
強い甘みはストレスを一瞬で吹き飛ばす。
疲労を感じさせず不眠不休のまま、数日は行動可能たらしめる効果をも持つ。
しかし非合ドラッグの例に漏れず、蘇には強い依存性と副作用が存在する。
脳の蛋白質化を促進して認知機能を衰えさせ、
廃人と化すまでの平均日数は、およそ二年。
ヤクザ子飼いの暗殺者にして鍛え込まれた身体を持ち、
毒に対して稀有な耐性を持つこの男が蘇に手を付けてから三年が経過している。
彼の名を、遣唐使・小野妹麻呂。
聖徳太子に仕えた72柱の「遣唐使」、その遺伝子を受け継ぐ末裔である。
「いひッ、えひひィ!甘ェエ~~!はひひひ、いひゃひゃあァ~~!」
奇声をあげながらトリップに浸っていた男――小野は、
唐突にコートに納められていたナイフを抜き、
路地の奥に向けて投げ放った。
矢のように放たれたナイフは、
いつの間にかそこに立っていた人物の不意を突き、
避け損なった彼の左前腕に突き刺さった。
蘇によって強化された小野の感覚が、密かに近付きつつあった人間の存在を捉えたのだ。
「痛って」
パーカーのフードを目深に被った青年は、舌打ちと共に無造作にナイフを抜き取った。
さほど動揺した様子もない。
そのことに、小野はかすかな苛立ちを覚えた。
ゆえに衝動のまま秋月の顎を踏み付けると、改めて闖入者に向き直る。
「なんだァ?お前……人様のやる事をよぉ、断りもなしにのぞき見ってのはァ、
趣味が悪いんじゃあねぇのか?ちゃんとした教育受けてんのかァ、おい……」
「小野妹麻呂だな」
青年は――五色那由他は小野の言葉に取り合わず、左手の動きを確かめるように
開閉しながら尋ねた。
「墨夜死組のネタに手ェつけて高飛びした件……って言や分かるよな。
ヤクザを甘く見ない方がいい。連中、意外に真面目なんだ」
那由他は喋りながら間合いを詰める。早くも遅くも無い歩調。
「いひっひっひ……さぁ、何の事だかなァ、こんな善良な人間つかまえてよぉ」
距離が縮まる。あと二歩で刃の届く間合いとなった瞬間、
小野が残像を生じる速さで懐に手を入れた。
同時に那由他が手に持っていたナイフを投げる。
訓練された小野のそれとは全く異なる、
とにかく当たりさえすれば良いという無造作な投擲。
それでも顔面に投げ付ければ、
避けるなり弾くなりの動作によって体勢が崩れる……筈だった。
小野は顔面に向かって回転しながら飛んでくるナイフを、
さも当然のように柄の部分を掴んで止めた。
蘇によってブーストされた感覚は、景色の全てをスローモーションと化す。
今なら十人同時に話しかけられたとしても、正確に返答できるだろう。
正に聖徳太子の領域である。
投擲と同時に踏み込んでくる、那由他の動きも鮮明に見えていた。
右腕をアップライトに頚動脈を守る構え。左腕はだらりと下げたままだ。
「(かわいいなぁ、ああ?)」
鈍化した時間感覚の中、小野はほくそ笑んだ。
見え見えの誘いだ。
左腕が動かないと見せかけ、右側から仕掛られた攻撃にカウンターを合わせるつもりだろう。
耳への打撃で平衡感覚を崩すか。
あるいは血による目潰しか。
いずれにせよ、小野妹麻呂にとっては子供だましのような戦法だった。
残虐な笑みを湛えた小野の斬撃が、
那由他の思惑通り右側から首を目掛けて襲い来る。
常人にはほぼ目視不可能な速度で繰り出される刃を、目線と初動作から軌道を予測し、
那由他は上体を倒しながら左腕を円を描くように振った。
狙いは耳。
それも全て小野妹麻呂が予測した通りの動きだった。
ナイフは振り切られず、フードに触れる直前で引かれた。
その反動を利用するように、いつの間にか小野の左手に握られたナイフが那由他の腹筋を貫く。
「いヒッ!」
肉を裂く感触を惜しみながら、小野は素早くナイフを引き抜いた。
腕を掴んで動きを止めようとする事は分かっていた。
一か八かの相打ち狙いにさえ持ち込まれなければ、己が敗北する事などあり得ない。
バックステップを刻み、小野は素早くナイフを構え直す。
「そういや言ってなかったな」
唐突に、五色那由他が呟いた。
「俺は特異体質でな、人よりアドレナリンの分泌量が多いんだと。
戦ってる内に、多少の出血やら痛みやらは無視できるようになるんだ」
小野はいぶかしんだ。何故わざわざそんな情報を口にするのか。
ただのハッタリか、あるいは――。
「それともう一つ」
那由他は鳩尾を押さえていた手を離し、構えを取った。
右腕は拳を作り腰溜めに。
左腕は鉤のように曲げ、心臓を庇う形に。
その眼は窮地に在ってなお、煉獄のように燃え盛る。
「一瞬だけなら、俺はリミッターを外せる」
言うが早いか、那由他は飛んだ。
アスファルトを抉るほどの膂力で蹴り出された身体は矢の如く真っ直ぐに敵へ。
小野は冷静に状況を分析する。左右には回避不可。
後ろへ飛んで距離を離すには、このガキが速過ぎる。打撃の絶好の間合いとなろう。
ならば前、タイミングを早めて急所を抜く。
心臓は腕が邪魔だ。
低い体勢で股間も狙えない。
ならば首だ。
頚動脈では無く、頚骨ごと落とす。
「ヒャヒヒヒィ!!」
紫電一閃、無慈悲な刃が死神の鎌がごとく振り抜かれる。
かつて聖徳太子は、十名の高官の首を同時に斬り落としたという。
その姿を彷彿とさせる精確さで、刃は迫る那由他の首筋に喰い込んだ。
衝撃と異音。
那由他の頭部がビル壁に激突した。
「へっ……へへひひ、ひひひははは!」
路地裏に哄笑が響く。小野は鮮明な視界の中でそれを見た。
ナイフは確かに獲物を捉えた。
しかし首を裂いたはずの刃は、何かによって絡め取られ、停止している。
ナイフを持つ小野の両手を、那由他が掴んで封じた。
「お前……ひひ、なんだそりゃァ、てめぇの首にそんなモンを」
言葉は、股間への蹴り上げによって遮られた。
半ば壁に体重を預け、筋骨の強度限界を超えて振るわれたそれは
小野の体を三十センチほど浮かせ、彼の生殖器官を不可逆に破壊した。
苦悶の声もない。
空中で前屈みの姿勢となったその鼻先へ、那由他の額が叩き込まれた。
小野はこの時点で意識を手放していた。
が、那由他は更に両腕を引き、勢いをつけて再び頭突きを繰り出す。
加えて三度、肉と骨のぶつかる音が響いた。
「色々やってるんだよ、俺は」
壁に体を預け、ナイフを引き抜きながら那由他は亡骸に向かって呟いた。
本来頚動脈があるべき位置にあるのは、特殊カーボン製の繊維束。
インプラント手術の一種だった。
実際の血流は、血管バイパス手術によって内側に迂回し、脳へと送り込まれている。
「才能が無いからな」
――――――――――――――――――――――――
五色那由他がその闇医者と出会ったのは、彼がヤクザの使いとして
不義理を為した人間の始末を付けるという稼業を始めて暫く経った頃の事だ。
父の背を追う事を諦め、その身に叩き込まれた五色流を自分なりにアレンジして、
その成果が出始めた頃合だったが、裏稼業の性として危険は絶えず、
才の欠如を工夫で補うにも限度は存在した。負傷は日常茶飯事となり、
その結果として彼は腕の良い医者を必要としていた。
「私の事はライヒと呼べ」
おおよそ中学生程にしか見えない少女は開口一番そう言った。
一見して目に付く金髪碧眼、すっと通った鼻筋、細い肩を覆うよれた白衣。
余程珍妙な顔をしていたのか、ライヒと名乗る闇医者は眉間に皺を寄せて鼻を鳴らすと、
「まず服を脱いで横になれ。口で言うより腕を見せた方が早いだろ」
そう言って魔女のように笑った。
事実としてライヒは腕の良い医者だった。
良過ぎたと言っても良い。
彼女はプロらしく那由他の事情には頓着せず、金さえ払えば適切に治療を行った。
彼がどのような重傷を負ってもそれこそ魔女のように合法非合法の別無く
あらゆる手段でもって治した。
それが根治治療では無く対症療法である事を彼女は再三伝えたが、
それで那由他の戦い方が変わる事は無かった。
怪我をしても治ると考えていたのでは無く、一つの仕事に全力を傾けなければ死ぬからだ。
常に己の実力を超える相手を前に、次を考える余裕も技も那由他には備わっていなかった。
当然の結果として、負傷に次ぐ負傷はライヒの神技をもすり抜け、
確実に那由他の身体を蝕んでいった。
『――グニチュード3.4の地震が発生しました。この地震による津波の心配はありません』
垂れ流されるテレビの音声が、五色那由他の意識を緩やかに浮上させた。
何の愛想も無い打ちっ放しのコンクリでできた壁と天井。
微かなカビの臭い。
それで己がいつもの場所――打ち捨てられた地下の下水処理施設だかを改造した
手術室に運ばれたのだと悟った。
ふと煙草の香りがしたので首を廻らせてみると、感触で頚部に包帯が巻かれている事に気付いた。
左腕と右足にも包帯とギプスが嵌められている。
両足の間から、簡素な事務机に座ったライヒの姿が見えた。
彼女には珍しく物憂げな顔をして細巻きを燻らしていたのでなんとなく声をかける事も憚られたが、
当のライヒはいち早く那由他の覚醒に気付いた。
「おはよう。気分はどうだ?最悪か?」
「まあまあだな。……煙草、吸うんだ」
ああ、これ――と、ライヒは煙草を軽く掲げて見せた。
少なくとも彼女が那由他の前で喫煙するのは初めての事だ。
「たまにな。まあ気紛れという奴だ」
「身体に悪いぞ」
ライヒは一瞬呆気に取られたようにぽかんと口を開け、
それからこんな大きな声が出せたのかと思う程の声量で笑い始めた。
「そんなにおかしいかい」
「ああ、おかしいね!お前の口から出た言葉の中では今のが間違いなく一等賞だよ」
涙の滲んだ目尻を拭うと、ライヒはぐっと身を乗り出し、那由他の目を見た。
口元には大笑の名残がわだかまっていたが、
目付きは既に命を切り貼りする医者のそれに切り替わっている。
「無理を通して道理を引っ込ませる為にぶち込んだ薬物のお陰で、今やお前の身体の
中味はオーバーヒート寸前のエンジンだ。五臓六腑の一切合財にガタが来てるのさ。
お前は自分の身体をその辺の棒切れか何かみたいに思ってる節があるが、
そんな戦い方はもう出来ないって事だ。ッハハ、そのお前が!健康と来た!」
けらけらと笑う闇医者が再び涙を拭うと、煙草の灰が零れて落ちた。
那由他に表情は無く、ただライヒの震える肩と細い髪を見つめていた。
「まあ、分不相応な夢を見た代償というものだろうよ。才能も無い癖に最強なぞ目指して、
人の忠告も聞かずに突っ走ってきた報いだ。継ぎ接ぎのボロ雑巾みたいな様になって、
金で魔人能力を買ってまで到達出来た所が、殺し屋くずれの遣唐使相手に命を投げ出して
ようやく勝てるというようなものだ。手前の命を無駄遣いしてるようなガキに、
身体の心配だけはされたくないもんだね」
闇医者は吸殻を灰皿へ乱雑に押し付けながらそう言い捨てた。
那由他に反論は無かった。
まったくその通りであると思ったからだ。
彼は己の掌を見た。
無数の傷に覆われ、歪に変形した手を。
「(今の俺は、聖徳太子に勝てるようになったか)」
自問する。答えの明らかな問いである。
父の背中を追いながら一度は道を諦め、
それでも最強への憧れを捨て切れなかった。
天空高い五色の道を踏み外し、血と泥に塗れた修羅道を踏み越え、行き着いた先がこれか。
ぐっ、と掌を握り締める。
「(この有り様で、この体たらくで。おれは聖徳太子に勝てるのか。
聖徳太子はこの俺を前にして、敵とすら認識しないんじゃないのか)」
思考は思わぬ方向から断ち切られた。
即ち、突如切り替わったテレビの音声によって。
『……えー、ああ』
二人はほぼ同時にディスプレイを見やり、瞬時にその人物の正体に思い当たった。
千代田茶式。世界最高峰の諜報機関たる中央幕僚監部第二部の元部長。
既に現役を退き、しかし未だあらゆる権力に隠然たる影響を与えると噂されるフィクサー。
『国民の皆様方には、突然のご迷惑を……お許し頂きたい。……そして、ああ……
私個人の、関係者各位にも、まことに申し訳ない』
「――これは驚いたな」
闇医者が素直な感想を漏らした。無論那由他も同感である。
裏社会において幾つもの修羅場を潜ってきた二人は、クリティカルな事態に対する鼻が利く。
その嗅覚が告げていた――奇しくも、歴史に名高いスイコちゃんのお気持ち放送爆音上映と同じように。
これは大掛かりな悪戯などでは無い、本物(シリアス)だと。
『――最強の者は誰か』
那由他とライヒは無言のままその放送を聞き終えた。
闇医者は溜息をついて髪をかき上げると、心底呆れたという風に口を開いた。
「なんとまあ酔狂な。お前といいあのじいさんといい、最強ってのはそんなに――」
言葉の途中でライヒは目を剥いた。那由他がジーンズのポケットから、今しがた
千代田茶式が掲げていた黒いカード……C2カードを取り出したからだ。
「お前、それ」
「あいつが持ってたんだ」
眼のような意匠のエンブレムを見つめながら、那由他は震えていた。
「ようやくお前の取り得を見つけたよ」
ライヒは新しい煙草に火を付け、紫煙を吐き出しながら言った。
「悪運が強い。立派な才能だ」
蘇生が担保された戦闘。賞金。そして何よりも確かな、最強を証明する機会。
全国民がそれを見る。全国民が証人となる。
「(お前が最強などと、口にするのも烏滸がましい)」
那由他の脳裏に、かつての父の言葉が蘇った。
知らずシーツの端を掴み、止まらぬ震えと感情に任せて、彼は笑った。
そして「しばらくお待ちください」と表示されたディプレイを睨め付け、
誰にとも無く宣言するように呟いた。
「俺が最強だ」