「夢人さん」
長い黒髪、赤い着物の女、三都真砂が肩をつついた。
「そんなにのんびりしていていいの? 対戦相手を探しに行かなくても」
「そうだなあ……」
古書店『連雀庵』の勘定台の中に腰かけていた黄連雀夢人は、少しだけ考え、床に積んである雑誌の表紙写真をふと見、それから手を叩く。真砂を見ることができるはずもない店内の客が、ぎょっとした顔で彼の方を見た。
「そうだ。海に行きませんか」
そう、彼女を誘った。
C2カードに相手の名前が表示されてから、探すのにそう長く時間はかからなかった。一面の砂浜は広く、よく見渡せたし、この季節に海水浴に訪れるような観光客もいない。営業を休止している海の家のほど近くに、短めの坊主頭に意志の強そうな瞳、精悍な顔つきの青年が、目を閉じ、手を合わせた姿勢のまま立ち尽くしていた。この男で間違いないだろう。
いつもの和服の上にパーカー姿の彼は、砂上をできるかぎり静かに歩いて青年の元へ向かう。地面からは次々に黒い手が生えては彼を引き留めようとしたが、所詮悪夢。振り払うまでもなかった。さっさと勝って、手術のための金を用意して、そうしてお前を亡きものにしてやる、と思った。
対戦相手であろう青年の身体には、服の上からでもわかるほどに筋肉がついていたが、筋骨隆々というわけでもない。それでいて、静止した姿からは地面から真っ直ぐに伸びた大樹のような不動の印象を与える。
(間違いなく、強敵)
佇まいだけを見てもそう判断できた。
C2カードに表示された彼の名は、飯綱火誠也とあった。魔人格闘リーグ・M-1の序列第一位のファイターだ。
夢人がその名を知らなかったのも無理はない。M-1はあくまでアンダーグラウンドの格闘リーグであり、金持ち達が賭けに興じる法外の戦いの場だからだ。元から興味を持って調べようとするものでなければ、大会の存在自体を知りえない。故に、情報が無い。
夢人は慎重に歩みを進め、身を隠したまま誠也の背後へと回る。そして一気に接近し、後頭部への一撃を狙う。奇襲は立派な戦法の一つである。咎める者はいない。
ましてや、誠也は既に何らかの魔人能力を発動して罠を張っている可能性すらあるのだから。
彼が知る由もない事だが、飯綱火誠也の魔人能力『LIMIT UNLIMITED』は、自身に制約を課し、それに見合うだけ自身の能力を強化するものだった。
今、彼が選んでいる強化能力は――
黄連雀夢人のブラックジャックが音を立てて空を切った。
決して鈍くは無い背後からの奇襲を、飯綱火誠也はわずかに上体を屈める動作のみで回避していた。
続けて繰り出される連撃も、左から右、右から左と体重移動を合わせて躱す。まるで打ち合わせ通りとでもいうような、なめらかで無駄の無い動きだ。
(これは)
夢人は中段蹴りを繰り出したが、後方へ飛び下がった誠也の胸板を掠めもしない。すかさず間合いを詰めながら、しゃがんで足元の砂を拾い、誠也の顔面へと投げつける。
夢人の魔人能力は『ザントマン』。眠りと夢をもたらす砂を生み出すものだ。大量に摂取させれば昏倒させることができるが、今はまだ手を明かす時ではない。ただの砂を使って、能力を誤魔化し、さらに視界を奪ってブラックジャックをヒットさせる――はずだった。
この戦闘中初めて繰り出した蹴り技。それを布石として虚を突くはずだった奇襲も、残念ながら『危機回避能力』を最大まで強化した誠也には通用しなかった。
誠也は砂を受け止めた掌を素早く振って地面に散らすと、涼しげな笑みを浮かべた。
「終わりかい?」
涼しい表情は、実のところポーズだ。本当は掌を苛む、焼けつくような痛みに耐えている。
誠也が選んだ制約が、実際のダメージの何倍も痛みを感じる『痛覚倍増』だったためだ。
(痛ってぇな……! 砂とか投げてくんじゃねえよ!!)
これは彼がM-1で未知のチャレンジャーと戦う時に取る戦法の一つだった。回避を重視して相手の戦い方を探り、隠し技を引き出す。この戦法を取る際は、ライフルの狙撃ですら回避が可能だ。そうして相手の動きが止まったところで次の段階へ移る。
黄連雀夢人。カードに表示された名前は、彼の知るデータベース上には存在しない。
再度、能力発動、『LIMIT UNLIMITED』。
強化能力は分析力、代償は移動不可。その場から一歩も動かない事を条件にして発揮する強化能力。
「あんた、見た目よりスタミナあるな。力の配分にも慣れてる。……足場が悪いってのに、よく動く。それも能力か」
話しかけながら黄連雀の反応を見、また分析する。
「でも戦い方が格闘家じゃない。たぶんきちんと習った技じゃないんだ。そして」
苛立ちを誘うように、大仰に人差し指を突きつけた。
「何より、対人戦に慣れてない」
黄連雀の表情は変わらないが、強化された分析力は指摘が的中している事を読み取っている。彼にとってはすぐ崩れる砂場、足場の悪い状況など慣れたものだが、見たところこの男はそのような修羅場をくぐってきた格闘家にはとても見えない。恐らくは、体格が人間と大きく異なるような何かと戦ってきた。それも、顔色の悪さからすると屋内か地下。
「こっちもプロだ。格闘の素人に負けるわけにはいかないんでね」
分析は完了した。口に出してこそいないが、先ほどまでの動きから黄連雀の行動パターンはほぼ読めるようになっている。
気合の声と共に、誠也は地を蹴って黄連雀へ接近する。凡百の魔人格闘家では反応できないレベルの速度。無論、『LIMIT UNLIMITED』による敏捷性強化の恩恵だ。代償となる制約はカロリー消費倍増、要は猛烈な勢いで"腹が減っていく"状態になる。
遭遇直前に平らげていたハイカロリーの携帯食料による備蓄が、身体から急速に消えていくのを感じる。長時間はもたない。
それでも、誠也に焦りはない。
何千、何万、何十万と繰り返してきた型の稽古。打ちこみ。組手。そこから生み出されるコンビネーションは、自身の身体に染み込んでいる。武術の心得が無い者には防ぎきれないはずだ。
はたして、誠也のその判断は正しかった。黄連雀は防御に徹しているにも関わらず、肘打ちによろめき、裏拳で顔を打たれ、ガードをすり抜けた中足が脇腹へと突き刺さった。絶妙なタイミングの入りと出で、反撃を許さずに打撃を繰り返す。
(この技も。この技も。桐ちゃんと学んだ技だ。桐ちゃんと戦って、倒すために磨いた技だ)
桐華の顔が浮かんだ事で、ふいに誠也の視界が歪む。慌てて前蹴りを放ち、距離を離す。失くした幼馴染。そして、彼がこの大会に参加する何よりの動機となった少女。
「っと。いけねえ。感傷に浸っちまったか」
目に溜まった透明な滴をごしごしと乱暴に手で拭う。
ダメージを蓄積する一方であった夢人は、訝しげにその様を見つめていた。
「夢さん」
少し離れた場所で見守る真砂が心配そうに声をかける。痛む脇腹を押さえ、夢人は喘ぎながら呟く。
「……驚くべき身体能力です。そして、これが武の強みか。私には無いものだ」
足元には密かに砂を撒く。踏んだ”自分の”砂を微妙に操ることにより、彼は足場の悪条件を打ち消していた。
積み上げた鍛錬の力。それは素人が簡単にひっくり返せるようなものではない。そして、この戦いにおそらく都合のよい第三者の助けなど入らない。最後まで己の中にあるもので勝負をするしかないのだ。
故に、黄連雀夢人は自らの記憶を辿る。
ダンジョンは生まれたばかりの子供に向く生活の場ではない。幼き日の夢人は、預けられていた親戚の家から父に手を引かれ、黴っぽい空気の漂う神田古書店街へ足を踏み入れた。
物珍しい、古書(コーデックス)を求めて猛者たちが集う街。そして、地下の迷宮。
『このダンジョンには様々な形態のモンスターが現れる』
『習うよりも慣れろ、その身で戦い方を学べ』
父は非常に大雑把な方針でもって、幼い夢人をダンジョンに放り込んだ。夢人は泣き叫び、何度も死にかけながらギリギリで生還を繰り返した。
今思えばそれは父の見極めが正確だったためなのだろう。
そうして、夢人は身に付けてきた。戦う術を。生き残る術を。
黄連雀の言葉が自分に向かって放たれたものではない事に気が付かず、誠也は笑う。
「ああ、そうだよ。俺は鍛えた。この力で、最強になってみせる」
その”最強”が恐らく、黄連雀の理解する”最強”とは意味合いが違うことは、わざわざ教えてやるまでもない。『LIMIT UNLIMITED』発動、全身体機能強化。制限時間付きの強化フォーム。
(さあ。一気にカタをつける!)
だが、強く踏み込もうと足に力を込めた誠也は目を見開いた。
黄連雀夢人はブラックジャックを握った手を後方へ。逆の手を前方へ。俯いて爪先立ちになり、前後にゆらゆらと揺れている。
奇怪な構えだった。
(何か、まずい)
誠也の背中に汗が噴き出した。修行の最中、そして魔人格闘リーグで様々な格闘家と戦ってきたが、このような構えは一度も見た事が無い。
(象形拳か……いや、それにしても)
象形拳は中国に伝わる、多くは動物を模した拳法。獅子や虎、鷲などのスタイルがある。わずかながら黄連雀の構えはそれに近い印象を受ける。
『恐らくは、体格が人間と大きく異なるような何かと……』
先の分析を思い出す。何か、関係があるのかもしれない。
(どうする。今からでも強化フォームを解除して、分析力強化に変えるか!)
誠也は迷った。構えはただのハッタリかもしれない。もしそうならば、ここで方針を切り替えることは敵の思惑通りだ。強化フォームの制限時間が迫る。退くべきか進むべきか、誠也は逡巡した。
”砂地の王”バジリスクの構えを取った夢人を前にして、それは十分に致命的な一瞬だった。そして。
ざっ、誠也の足元が爆ぜた。いや、爆発ではない。足場の白い砂が彼の足を取るように持ち上がったのだ。誠也は知る由もないが、それは、夢人が先に見た悪夢の手とよく似た形をしていた。『ザントマン』。砂を操る能力。そして、密かに足場を作りながら夢人が打っていた布石。
「が、はっ!?」
次の瞬間には、嘴を模した貫手が誠也の腹部へと食いこんでいた。強化された腹筋の、その僅かな隙間を貫く狙い澄ました一撃。激痛に体が竦む。
あまりの踏み込みの速さに夢人自身の眼鏡が外れて宙を舞っていた。誠也は持続時間残り数秒の全身体機能強化を解除し、左腕使用不能の制約を用いて痛覚を軽減する。
「き、り……!」
顔を上げた誠也の眼前に、砂の詰まった黒い塊が迫っていた。
バジリスクとは前方に鶏、後方に蛇の顔を持つ怪物である。二つの顔を持つその怪物の動きを模し、また狩るために生まれた構えも、当然、それに対応した二段の構え。
「お見事」
真砂がぱちぱちと手を叩いた。
顎先にブラックジャックの直撃を受けた誠也は仰向けに倒れ、痙攣している。
いかに痛覚を軽減しようとも、脳震盪を起こしては動けない。夢人は、誠也の口にざらざらと白い砂を放り込みながら言う。
「バジリスクの出没地点は地表寄りのせいぜい二階層。初心者向けのモンスター」
真実であった。幼少時の夢人を死の淵に追いやり、独自の構えを生み出させるに至ったバジリスクだが、ダンジョンのモンスターとして評価すれば「初心者向け」にすぎない。神田古書店街に立ち並ぶ焼き鳥屋は、実にその六割強がバジリスクの肉を使用している。
げほげほと咳込みながら、夢人は地面に落ちた眼鏡を拾い上げる。
「……ダンジョン探索の素人に負けるわけにはいかないんでね」
「誠也くん、来て!」
白い砂浜に、透明の手足を生やした志津屋桐華が立っていた。見えないが、構えているのだろうことは表情からすぐにわかった。いつもの、試合の時の彼女の顔だ。
誠也はしばらくぽかんと立ち尽くす。
「誠也くんたら、ほら、早く!」
「桐ちゃん?」
彼は顔をぱっと輝かせた。
「桐ちゃん!」
「もーうー、時間がいくらあっても足りないわよ。私と誠也くんがいて、やらなきゃいけないことっていったらひとつしかないでしょ!」
でも桐ちゃん。俺は、その当たり前のことがずっとできなくて、ずっとやりたかったんだよ。誠也もすっと構えを取る。
ごめんな、桐ちゃん。最強は……C2バトルの最強は取れそうにない。でも、今ここで桐ちゃんと戦える、それが、嬉し 。俺 、そのた に、ずっと!
彼 地面を蹴りつ 、突進す 。
足場の悪 など、 にとっ は何の 害にもな い。桐 だっ そ だ。
二 い の試 のよ ぶ 合 、戦 。
夢
「さて、帰りましょうか。風が冷たくなってきた」
と、夢人は、寄せては返す波とじゃれるように歩いている真砂を見た。幻である彼女は砂に足跡を残さないが、彼の目はそれをないものとする。
「きり、ちゃん」
仰向けに倒れ、口から砂をこぼしている誠也が、もごもごと誰かの名を呼んだ。友人の夢でも見ているのだろうか。それも親しげな。そして、対戦中に浮かべていた涙。あれは……。
彼は首を振る。誰にでも、それぞれの事情があって、この馬鹿げた大会に参加しているのだ。
真砂の髪は、風になびく。彼の一勝は、正気を取り戻す日を、ひいては彼女を失う日が近づくことを意味する。彼はそれを知っていて、知らないふりをしている。
彼は身を縮めた。ざあ、と風に舞った砂が、誠也の身体を薄い白に染めていった。