第一回戦SS・沿岸その2

 海を見に行こう――心の落ち着かない時はいつもそうだった。小説家を志す前、ただの小説好きな少年だった頃からそうしていた。幼い日に預けられていた祖母の家のある港町に、明治の文豪が篭って執筆していたという安宿があったのもその一因かも知れない。
 海は何かを教えてくれるような気がしていた。
 魔人能力に現実を侵食されだしてからというもの、完全に心安らいだ日というものはなかったが、それでもC2トーナメントに出場し魔人たちと覇を競うという大きな決断をした今、やはり自分には海が必要な気がした。
 砂浜に腰を下ろして、一日潮風に吹かれて過ごそうと。

 東京から海に向かう電車内、駅に停車した電車が発射するのを待っていると、パーカーの裏地に縫い付けたC2訴えてきた。対戦相手――同じC2カードの持ち主が1km圏内にいる。
 カードを取り出し確認する。
 飯綱火誠也。男性。
 数十秒経ち電車が発車しても圏外に出ることはなく、カードにはその名が表示されたままだ。
 同じ車内にいる。恐らく今乗り込んできた。

 夢人は電車を降りなかった。向こうもそうだろう。電車はそのまま終電――夢人の目的地だった海辺の駅に着く。
 その頃には乗客も少なく、ホームに降りてくる客は20数名。この中に対戦相手。

 夢人は表面上平静を装いながら歩いた。一瞬パーカーを被ろうとしたが、あまりにわざとらしいので手を止める。そもそも、自分の顔は世間に露出してはいない。ネットを見ても自分の容姿を特定する情報はなかった。探偵でも雇って調べれば古書店の店主をしている現況に行き着くかも知れないが、飯綱火誠也はそこまでする男かわからない。
 高校時代に魔人の格闘大会で全国優勝しているという。それから数年、自分よりはいくらか若いが、戦えば多分、自分より強いだろう。
 乗客たちは当然、思い思いの出口を出て思い思いの道を進む。夢人は、予定通りの道――海へ向かうことにした。
 都会とは言えない駅前には、海が近いということでマリンスポーツの店もいくつか見えるが、多分この季節はそう流行らないだろう。
 飯綱火誠也はやはり着いて来ている。電車を降りて自分と同じ道を歩く人影は4、5人ほどあったがそれもだんだんと減る。この季節、海を訪れる客はそういないのだ。
 海水浴場が見えるところまで来ると、道を歩く者は2人になった。ダンジョンで使う小さな鏡で気づかれないよう後方確認。
2mを超えるだろうかという長身の男だった。顔ははっきりとは見えないが、高校生の頃の姿から多少背が伸びてもここまでは育たないだろう。

――ちがうか? なら本物は……?

まだ圏内。ついては来ているだろう。物陰から伺っているのだろうか――止まりはしないまでも歩みを遅くし、周囲を警戒。
遅く歩く夢人と後ろの男の差は縮まり、やがて並ぼうとする。
 隣の男にも一応の注意は保ったまま、横目でちらりと見上げた。
隣を大男が通り過ぎたら、これくらい見るのは失礼かも知れないが特におかしくはないだろう。
 シークレットブーツの類を履いているわけではない。骨延長術などで強引に伸ばしたような体型でもない。
 横顔はすっと通った鼻梁と薄い唇の美男子だった。こちらをちらりと見ることもなく、憂いを帯びた眼差しで前を見つめている。海水浴場前もこのまま通り過ぎていくのだろうか。
 やはりちがう、飯綱火誠也はどこにいるだろうか。自分の前に出た男から周囲へと、警戒の比重が傾いた瞬間だった。

「黄連雀夢人さん?」

 びくり、と心臓が跳ねる。夢人が何か応答する前に蹴りが飛んできた。後ろ回し蹴り。

「くっ……」

 鋭く、速い。だが、捌ける。夢人は咄嗟に左手をかざし、顔面へと迫る足首を払い、後ろへ跳ねた。

「……さすがに『神保町』の人か」

 蹴りを捌かれた男はそう口にした。声の割に口調は若い。

「あなたは」

 言葉を発するか否かというタイミングで、男が文字通り「変貌」を遂げる。
2m近い長身が一瞬で平均よりやや高い程度まで、代わって痩せた体には筋肉が隆起する。
 さらに、壮年の美貌も特に端正とは言えない顔立ちへ、やはり代わりに、なのかシワのよっていた肌には若々しい張りが戻る。
 この男に似た少年を夢人は知っている。顔からは当時のあどけなさが消え、筋骨は二回りほども逞しい。

「飯綱火誠也です。悪いっすね、無作法で」

尋ねはしたが答えは聞かず、自分が関係のない一般人だったらどうするつもりだったのか――無作法というより無法ではないか。夢人は思うが、しかし大会の性質を考えればこれでも行儀がいいのかも知れない。

「……黄連雀夢人」

 それ以上言葉を発さなかった。
 姿が変わったのは自分の夢じゃないのだろう。変身能力。なかなか羨ましい能力だと思う。

 ざり……どちらが発したのか、足元で砂を踏む音がした。
 直後。飯綱火の足元でアスファルトが爆ぜた。
 文字通り爆発的な――元の体で発揮できる本来の脚力。夢人は一瞬で間合いを詰められ、打拳を喰らっていたかも知れない。これが道場での試合なら。
 が。

「っ!?」

 飯綱火が不自然に足を滑らせる。強大な脚力での踏み込みだけに損ねた時の反動も常人より大きい。その場で大きく体勢を崩した。

 好機、一瞬思った。が。

「ダメよ、夢さん」

 するはずのない声が聞こえた。夢人は戸惑いながらも踏み止まる。目の前、崩れたバランスをどうにか立て直そうとするかに見える飯綱火は――しかし誘うような目でこちらを見ていた。     
チャンスだろ、さあ不用意に突っ込んでこい、と。

「っ」

 夢人は横に跳ねた。本来は10mほど先の階段で降りる海水浴場へ。砂浜との高低差は3mほどだろうか。常人なら多少危ないが、これでもそこそこには武闘派魔人だ。
 飯綱火は崩れた体勢から、夢人を追って強引に跳ぶ。

――さすが。けど。

 崩れた体勢では本気で跳ぶこともできず、さすがに宙で自分は捕まえられない。身体能力差を補って余りあるスタートの差。
そう思った。が。

「っ!?」

 首が取れたかと思うほどの衝撃があった。
 飯綱火は夢人の予想を遥かに上回る跳躍力を見せ、放物線を描く夢人に対しほぼ直線に跳び、一瞬で追いつくと勢いそのままラリアットを見舞ったのだ。
 意識の混濁、軌道を変えられ、ずるりと斜め下方へ落ちていく――飯綱火はそれを許してはくれなかった。
 ラリアットを食らわせた右腕でそのまま夢人の首をホールド、がっしりと捕まえたまま、仲良く砂浜へと落下する。
砂がクッションになって共に落下のダメージはないが、安定した体勢を確保した飯綱火はすぐさま夢人の背後へ回り、捕まえた右腕、そして左を使って夢人の首を絞め上げた。裸絞めの体勢だった。
魔人による殺人で、扼殺、絞殺という殺し方はあまり見られない。魔人の腕力で首を締めたならたいてい窒息より先に首が折れるからだ。
夢人も見かけの割には頑丈な魔人だが、万力のような飯綱火の腕はそれをするだけの力がこもっていた。圧力に頸骨が悲鳴をあげる。

「あっ……」

 意識が飛ぶ。死ぬ。C2カードがあれば生き返れる、生き返れるが。

「ずーっとこっちで遊ぼう」

 ぼやけていく砂浜に子どもの顔があった。ケタケタと笑いながら夢人を歓迎していた。

「ふっ……ああっ!!」

 ぎゅるり、と夢人が背後で首を絞める飯綱火ごと激しく回る。砂浜にちょっとした竜巻が起こった。風は2人の体を強引に引き剥がし、距離を取らせた。
 海の方へと飛ばされた飯綱火は後ろに一回転しすぐさま立ち上がった。夢人も同じく。砂煙に包まれる中で睨み合う。

「えふっ……えふ……」

 ゴホゴホと咳き込む。明らかな隙に飯綱火が攻め込んで来ないのは、今の現象を警戒しているのだろう。魔人能力か、と。
 それは正しい。魔人能力『ザントマン』。生み出した砂を操る能力。

「風を操る能力? いや、砂か?」

 その一言に、夢人はひやりとする。それを察したように、飯綱火は薄い笑みを浮かべた。さっきもそうだ。飯綱火はこちらの反応を読むことに長けている。
 飯綱火の魔人能力が変身ではなく強化であり、一瞬視覚を代償にして強化した聴覚で心拍数の変化を捉えていることなど、夢人には知る由もなかった。

「じゃあ砂浜、『ホーム』って、わけか……不味かったな」

 飯綱火は勘違いしているようだ。
夢人は別に全ての砂を操れるわけではない。さっき巻き上げたのは、ここへの道中眼に見えないほど微量ずつ足下へ零し、着いてこさせておいたもの、そしてここへ落ちると同時に撒いたもの。ついでに、自分は有利な場所としてこの海へ来たわけではない。
けれど、自分の脅威は大きく見せておくにこしたことはない。自分は周囲の砂全てを操れる能力者で、有利になるこの砂浜へと足を運んだ。そういうことにしておこう。
 そして、飯綱火は最大の勘違いをしている。
 ザントマンは砂を操るための能力ではない。

「……?」

 ぴくり、と飯綱火が足をふらつかせた。困惑したような表情を浮かべる。今度は演技ではないだろう。

「志津……え?」

 誰かの名前を呼ぶ。また、ぐらりと上体と揺れる。本来の能力用途を考えれば十分とは言えないが、戦闘に支障を来すだけの症状だろう。
 今度は演技ではない。本当の好機(チャンス)
 夢人は機を逃さず足下を蹴った。飯綱火よりもよほど大きく砂浜が爆ぜる。自分にこんな脚力はない。飯綱火の足を滑らせたのと逆、砂が文字通り「後押し」してくれている。
 ザントマンが効いている状態でも飯綱火は夢人へ迎撃の構えを取る。
 が。
 飯綱火の踏みしめる砂が立ち上り、足に絡みつく。行かないでとでも言うように。飯綱火にはそれを振り払う力はあるだろう。
 が、しない、いやできない。

 夢との袖口から放たれた砂の奔流が飯綱火を直撃した。


 ――幻覚、能力。

 黄連雀夢人の能力は砂を操るに留まらない。砂を吸い込むか、触れるか、とにかく砂を介して相手に幻覚を見せられる。
 それに気づいた時には遅かった。
 砂の中から、志津屋桐華が手を伸ばしていた。失ったはずの手が砂へと変わっていた。幻だ、振り払え――気持ちに余裕があったなら、理性の命令に従っていただろう。
 しかし。

「っ……」

 それができないまま、飯綱火は夢人の操る砂を浴びた。威力よりも、砂を浴びることが不味いという感覚があったが、避けられなかった。近づいてくる砂のはずのそれは、やはり志津屋桐華の形をしていた。
 自分は倒れたような気がする。気がするが、手足に力が入らず、体を起こせない。

「誠也くん。こっちがいいわ」「誠也くん、一緒に遊びましょう?」「こんな人より、私と、私と」

 志津屋桐華が纏わりついてくる。懐かしい声で囁きかける。ああ。
 砂人形の志津屋桐華は手足があった。砂の塊はやがて肉の質感を帯び、生身へと変わっていく。
 ずっと、ずっと望んでいた彼女。

「ねえ、誠也くん」
――なんだよ、志津屋。

「ずっと、こうしたかったわ」

 ぺたりぺたりと、手で触れてくる。完全に柔肌の感触になっていた。

――ああ、俺は。

「こう……したかった!!」

 LIMIT UNLIMITED――MAX。
飯綱火の拳が、志津屋桐華の顔面を粉砕する。飯綱火にとっての志津屋桐華は、つまるところそういう相手だった。志津屋桐華にとっての自分も同じはずだった。

「っ!?」

 砂浜に倒れうわ言を漏らすだけの飯綱火に、最後の砂を浴びせようというところ、ノーモーションで放たれた一発の破壊力に、夢人の体は宙へ跳ね上がった。
 この日一番の膂力。寝た体勢から撃ったとは到底思えないパンチに右顔面が陥没、飛びかけた意識を舌を噛んで繋ぎ止めた。

「一体」

 なんの能力なのだ、こいつは。
 能力そのものは姿を変えるだけと思ったが、何かおかしくないか。真相を推理するだけの余裕はあるはずもなく。
 下を見れば打ち上げた自分を追って飯綱火が跳ぶところだった。

「最悪な夢、ありがとよ」

 やはり異常な身体能力を発揮した飯綱火は今度は砂の妨害も意に介さず、いとも容易く夢人に追いつく。
 これまでにも増して発達した筋肉の鎧を纏う姿は、砂の魔人として目に映った。
 いつもなら、その光景に怒りや、あるいは怯えを抱いていただろう。しかし。

――悪い夢、か。

 夢人は苦笑を漏らした。ずっと、自分以外の人間にはいい夢を見せていると思っていた。もしかすると。

――けれど、けれど。

 今出せる最大量の砂を放とうとする。
もし推測が正しいなら、なおさらこの悪夢の日々は終わらせねばならない。他人にも、もう悪夢は見せるわけにはいかない。

――ねえ、真砂さん。

「私は嫌よ、夢さん」

 はじめて、彼女の声が恐ろしかった。
 さっき声を聞いた時は、自分の中の彼女が答えてくれたものと思っていた。それは正しい。正しいが、彼が期待していた意味とはちがう。
 真砂は、自分の……。




 人のいない海水浴場の砂浜で小さな爆発があった。
 遠方から目撃した地元の女性が見に行くと、そこで顔面を潰された男が死んでいた。悲鳴をあげる彼女の前で、男の死体はゆっくりと再生していき、やがて傷一つない青年の姿となって静かな寝息を立て始めた。
 それでも、男は目を覚まさなかった。



 真砂という女を生み出したことが、間違いの始まりだったのかも知れない。
 地獄でしかなかった悪夢の中に舞い降りた彼女は救いだった。自分の夢が醒めるまで一緒にいてくれる人だと思った。
 けれど、どこかで気づいていた。悪夢の終わりは真砂との別れを意味する。悪夢の中の一時の安らぎ、それへの希望はいつしか執着になっていた。

 黄連雀夢人は遠からず目を醒ますだろう。けれど悪夢の終わりは、きっとまだまだ遠い。

最終更新:2016年09月04日 00:07