大原吉蔵は空港内ロビーのベンチに腰掛け、澄み切った空を駆けていく飛行機を
眺めていた。
喧騒に包まれた空港の中を行き交う人々は忙しく、
しかしその殆どが幸福そうな表情を浮かべている。
本日この場で命を懸けた戦いが待っている――という状況で無ければ、
吉蔵も歓声を上げて走り行く子供を一瞥して穏やかに微笑む余裕があったかもしれない。
杖をついたまま飛び交う飛行機を見る老人の目付きはしかし、
平穏とは無縁の鋭さを放っている。
内に秘めた闘志のお気持ちが、眼光として漏れ出しているのだろう。
それはむしろ、戦場へ赴く歴戦の兵士を思わせた。
否――此処は既にして戦場。吉蔵は杖を握る手にぎりりと力を漲らせた。
六十年連れ添った妻は、最強を目指すと言い出した自分を何も言わずに送り出した。
妻と同じぐらい付き合いの長い、良き友人であり好敵手でもある重ちゃんと貞ちゃんの
お気持ちも、この老いた心臓に宿っている。
八十三年間、最強を目指し研鑽を重ねた。この齢になっても諦めきれぬ程に、
その理想は吉蔵に取って代えがたい魅力を放っているのだった。
そう、一晩寝かせた熟成カレーのように……。
蒼天をまっすぐに裂いて、一機のジャンボジェットが空港に降り立った。
その動きを追うように視線を横に動かすと、窓の側に立つ
一人の青年の姿が目に止まった。
パーカーのフードを目深に被り、じっと吉蔵を見つめている。
フードの隙間から覗く口元や鼻先には、大小様々な瑕が刻まれていた。
「おや……ワシに何かご用かいの、青年。なにやら思いつめた目をしとるが」
「大原吉蔵だな」
青年が口を開いた。小柄な割に低い声。
吉蔵は「ふむ――」と、のんびりした相槌を打った。
「いかにも、ワシは大原吉蔵じゃが……そういうおぬしは」
ゆらり、と。老人の輪郭から陽炎が立ち上る様を、
青年は……五色那由他は確かに見た。
それこそは、内に秘めたお気持ちが放つ、ある種の熱気に他ならない。
高まったお気持ちは、時として実際に体温を上昇させることがある。
この現象を五色流では、「お気持ち熱」と呼ぶ。
「何者じゃあああーーーーッ!!!!」
奇襲!砲声一発、およそ老人とは思えぬ俊敏さで瞬時に間合いを詰めた吉蔵が、
白い火炎を纏った拳を横薙ぎに叩き付ける!
好々爺然とした振る舞いからのあまりに唐突な変貌に虚を突かれた那由他は、
かろうじてガードを上げ防御するが、勢いを殺せずロビーの窓ガラスをぶち破って
屋外へ吹き飛ばされた!
「おおー、そうじゃそうじゃ。その顔はたしか運営から貰ったリストで見たのう。
五色那由他……じゃったか。歳を取ると忘れっぽくなっていかんわい」
怒号と悲鳴を背に、ごきごきと首を鳴らしながら散乱したガラス片を踏みつけ、
吉蔵が吹っ飛んだ那由他の後を追う。
その右手に纏う白炎は蛇のようにのたうって伸び、那由他の体に巻きついている。
先の一撃で吉蔵は既に仕込みを終えていた。
吉蔵が操る『セイクリッドファイア』は様々な性質を付与する事が出来る。
質量を与える、傷を癒す、全身に纏い身体能力を強化する――
そして敵に対しては炎をロープのように巻きつけ、自由を奪う事も可能だ。
先手を奪い、速攻と同時にアドバンテージを稼ぐ。
まさに老練、というしかない。
「さて、どうするかね?このまま焼け死ぬのを待ってもいいが、降参するなら
命までは取らんぞい。未来ある若人を手にかけるのは心苦しいからのぉ」
半ば嘘だ。
降参を認めれば、念には念を入れ、吉蔵は容赦なく那由他にとどめを刺すであろう。
魔人であればこそ、どんな能力を持って状況を覆すかわからない。
それでも、こう言っておく意味はある。
白い火炎は既に那由他の全身を包まんとしている。
このまま放置すれば焼死あるいは窒息死は免れない。
那由他の判断は早かった。受身を取って素早く体勢を立て直し、
ゴム紐付きのボールめいて勢い良く老人に突進する。
「なるほど、凡夫では無いのぉ」
那由他は『セイクリッドファイア』の性質を知らない。
しかし炎である以上、自身が熱によるダメージを受ける間合いでは使用出来ない筈。
その推測は半分方当たっていた。仮に至近距離での肉弾戦に持ち込んでも、
吉蔵は炎の性質を『癒し』に変化させてダメージを防ぐ事が出来る。
だがそれは、那由他への拘束・熱傷を解除しなければならない事を意味するのだ。
あるいは室内へ飛び込めばスプリンクラーが作動し、炎を消化できるかも知れない。
「――だが甘いわッ!『セイクリッドオーラ』!!」
吉蔵の全身が燃え盛る白い火炎に覆われる!
腰を深く落として両拳を腰だめに構え、火達磨と化した那由他を迎え撃つ!
「チエストオオオーーーーッ!!!!」
裂帛の気合と共に放たれた正拳が、ジャブの牽制から胴タックルに移行しつつあった
那由他の顔面を捉えた。
『セイクリッドファイア』による身体強化が吉蔵のお気持ちをも燃え上がらせ、
正確なカウンターを成功たらしめたのだ。
那由他は再びピンボールのように弾かれ、先程の地点より更に二メートル程余計に
吹き飛ばされた。なんたる鉄壁の守り!
かつて炎上する羅生門を背に三百人の精鋭と共に外敵と死闘を繰り広げた
聖徳太子にも匹敵しようか!
これすなわち――強 制 敬 老 殺 人 拳 。
常人ならばこの拳を食らったが最後、鼻血を吹き出し敬老確実であろう。
一撃でダメなら、敬老するまで殴り続ければよいだけだ!
強烈な打撃と燃え盛る炎に意識を飛ばされかけながらも、
那由他はなおも受身を取った。
(この速度でもダメか)
那由他は痛感する。自分は弱い。弱いまま戦わなければならない。
(でも、それでいい。もう一度、今度は限界を超えてやる)
逃げる事は頭に無かった。前へ。なんとしても前へ。
その様子を見た吉蔵の反応は早かった。
そう、平日早朝の総合病院にお並びになる、ご高齢の方のように!
余談ではあるが、筆者は深夜に原因不明の蕁麻疹に襲われ、
朝七時ぐらいに市内の総合病院に駆けつけたことがある。
だがすでにその時点で、十名は下らぬご高齢の皆さまによる行列ができていた。
高齢化社会問題は、日本国民がみんなで考えていかねばならない問題なのだ……。
「折れぬか小僧!ならば仕方あるまい……!カァーーーッ!!」
吉蔵が両手を突き出すと、その間に火炎が集中し、白く輝く火球が形成されていく。
火球は見る見る内に小さく、そして眩しく光度を上げていく。
膨大なエネルギーが一点に集中し、密度を増していく。
――あれは、やばい。
那由他は咄嗟に横っ飛びに飛んだ。
前へ進むと自身に命じた彼をしてそうせざるを得ない程、その光は剣呑であった。
そして。
充分過ぎる熱量を得た火球に対し、吉蔵はあえて圧し込める力のバランスを崩した。
凝縮されていたエネルギーが逃げ場を得て一斉に動く。
逃げ場とは即ち、吉蔵の前方!
一条の白光が空港を真っ二つに裂いた。下から上へ、水平線を縦に割るように。
一拍の間を置いて、熱線の直撃を受けた飛行機が爆発炎上した。
それはあたかもラーマーヤナに記された聖徳太子の放つインドラの矢の如く、
空港の頑丈極まるアスファルトを切り裂き、途上にあった全ての物体を分断した。
これすなわち――強 制 敬 老 灼 熱 光 。
直撃すれば敬老蒸発間違いなしであろう。
那由他の被害が飛散する瓦礫や鉄片による背部の裂傷と、
右脚の脛から下を消失するに留まったのは幸運という他に無い。
吉蔵は同じく飛び来る破片を炎で打ち落としながら油断無く残心した。
「年季が違うわい!どうじゃ小僧、まだやるか!」
「――俺は」
強制敬老灼熱光発射の為、一時的に弱まっていた炎の拘束は復活しつつある。
だが幾分か呼吸は整えられた。ならば充分。
「俺は最強だ」
勝負は間も無く決する。勝つにせよ、負けるにせよ。
だから那由他は宣言した。片足で立ち上がり、まっすぐに敵を睨み付けて。
老人は呵呵と笑った。
あれを喰らって立ち上がって来たのは重ちゃんと貞ちゃん以来か。
この若者を支えているものの正体が、吉蔵にはわかりかけていた。
呪いにも近い、「最強」へのお気持ち。
それにかけては吉蔵も譲るつもりはない。年季が、違う。
「よう吼えたわ若造ッ!ならかかってこんかい!!」
那由他はぐっ――と身体を沈めた。一足にて間合いを詰める。
直前、小さく呟く。自らに架したリミッターを――
「外す」
その矮躯が弾丸めいた勢いで射出された。
最早後は無い。炎に焼かれ、酸素を奪われ、右脚を飛ばされたこの状況で、
もう一度距離を離されれば次なる攻撃を繰り出す事無く絶命するだろう。
故に那由他は枷を解き、全力で飛んだのだ。
その行動は、当然吉蔵も予期していた。
那由他は今まで能力らしい能力を見せていない。
何かを隠し持っているなら、それを使うべきは最後の最後、ここしかない。
吉蔵の纏う炎が一層激しさを増した。
奥の手を破った上で、勝つ。
吉蔵の積み上げられた経験は、この手合いにはそれが最善手であることを語っている。
相手が最も自信を持つ一撃を破ったとき、最大の隙が生まれる。
逃げる道、他の策を練り直す道を与えない。
「(何を使う。何が出来る。ワシに見せてみィ、お前のお気持ちを!)」
鈍化した時間の中で、吉蔵が正拳を繰り出す。先程のリフレイン。
瞬間、老人の背中に悪寒が走った。
それは幾多の戦いを経験して来た者だけが知る、決定的な敗北の予兆。
拳に纏いつく不吉を払い、吉蔵は雄叫びと共に拳を振りぬいた。
かつて五色流の開祖たちが聖徳太子を打倒するにあたり、
もっとも悩まされたのがその不死身性であった。
聖徳太子は神の祝福により十七回殺されても死なない体を持っていたのだ。
これに対抗する為、五色流では相手を十七回連続で殺す
オーバーキル前提の高速打撃が産みだされた。
その名を――
十 七 条 拳 法 !!
「(なんじゃ、これは)」
吉蔵は困惑していた。
片足の、大火傷を負った半死半生の男に、『セイクリッドファイア』で強化された己が、
一方的に殴られている――!
反撃しようにも間に合わない程の超高速連打。
およそ人体の限界を超える打撃が秒間ダース単位で叩き込まれる。
強化が通じない。回復が間に合わない。人体のあらゆる部位に、
人体のあらゆる部位を叩き付けてくる!
「お――おおおおオおおオオオオオオオオオオオ!!!」
吉蔵は吼えた。お気持ちだ。お気持ちを見せろ。
反撃出来ずとも、回復出来ずとも、敵の体力は既に限界だ。
無呼吸で全力の連打を長時間続ける事は出来ない。耐えろ、耐えろ吉蔵!
「(今夜はカツ丼にします?)」
そうじゃ、今夜は好物のカツ丼じゃ。勝ってばあさんに報告しよう。
「(やっぱり強いのう、吉っちゃんは)」
「(昔から、ワシらの中でも腕っぷしは一番じゃった)」
そうじゃろう、ワシは強いんじゃ。まだまだ若いモンには負けんわい。
見てとくれよ、二人とも。きっちり優勝して、ハワイに連れて行ってやるからな。
――連打が、止まった。那由他は喀血し、酸素を求めて喘いだ。
ここだ。ここで行かねば男が廃る。
大原吉蔵八十三年の積み重ねてきた物を、今ここで出し切る!
「ワシが……最強じゃ……!」
しかし、体は動かなかった。あと少し。少しだけ。
幾ら脳が命じても、指先一つ動かせない。
白炎は風前の灯めいて頼りなく揺らめいている。
聖徳太子をも討ち取った十七条拳法……その全力を体一つで受け止めた代償であった。
吉蔵がかろうじてダウンを免れたのは、那由他が満身相違であった事と、
十七条拳法が不完全であった事が原因だ。
片足を失くし、酸素を奪われた状態では、十三度殺す程度の打撃が精一杯だったのだ。
だが奇しくもそれは、ゴルゴダの丘で聖徳太子が磔に処された日付と同じであった。
西洋で忌み嫌われる、聖徳太子の死を暗示する不吉な数字と。
「生前退位しろ」
那由他のかすれた声が吉蔵の耳に届いた。
既に青年を拘束していた炎は消えている。
「生前退位……じゃと……!?」
歴戦の猛者たる吉蔵は、当然その言葉の意味する所を知っている。
降参しろ、と。目の前の若者はそう勧告しているのだ。
吉蔵は歯を食いしばった。それだけは。それだけは受け入れてなるものかと。
「認めん……認めんぞワシは!ゴホッ……せ、生前退位など、絶対に!!」
「殺す為に戦ってるんじゃない。俺に死後退位させるな」
既に勝負は決していた。
那由他はまだ捨て身の一撃を放つだけの余力がある。
吉蔵には無い。それが事実だった。
『セイクリッドファイア』による体力回復も、
吉蔵が動けるようになるまでにどれだけかかるか分からない。
「小僧、お前には分からんじゃろう。八十三年間最強を夢見続けた男のお気持ちなぞ」
吉蔵の瞳には涙が滲んでいた。恥も外聞も無く、それ程惨めで悔しかった。
何よりも仲間達の、妻のお気持ちが、吉蔵を突き動かしていた。
那由他はゆっくりと構えた。
片足でふらつきながらも、渾身のお気持ちを込めた構えだった。
「あんたは強い。これまで戦った相手の中で間違いなく一番強かった。だが、
例えパワーで勝てなくても。スピードで劣っても。技で及ばなくも」
ぎりぎりと体を捻る。矢を引き絞る武者のように。
五色流に伝わる奥の手――十七条拳法と並ぶ秘奥、それを放つ為に。
「……最強に懸けるお気持ちだけは、誰にも負けられないんだ」
死 後 退 位 拳 !!
満身の力と気力とお気持ちを込めた拳が吉蔵の胸を撃ち抜き、
その衝撃は背中まで突き抜けて脊髄を生前退位せしめた。
鮮血を吐きながら吹き飛んでいく老体が、那由他の目にはやけにゆっくりと映った。
「く」
吉蔵の目から、耳から、口から、鼻から、血が噴き出した。
「か……」
何を言おうとしたのかは、わからない。
そのまま倒れ、立ち上がることもなかった。
打ち終えた那由他もまた、その場に崩れ落ちた。
燃え上がる空港の喧騒が、どこか遠くに聞こえていた。
「奥義を……使っちまった」
那由他の限界は、また一つ近づいた。
体内のお気持ちを燃やし、打ち込み、死に至らしめる。
それが死後退位拳。
お気持ちでお気持ちを食い尽くす、必殺の打撃。
しかし、人間が内包するお気持ちは無限ではない。
奥義を放つのに消耗したお気持ちは、いかほどか。
体の傷は癒えるとも、燃やしたお気持ちは戻らない。
五色流にて「最強」の技ひとつ、死後退位拳。
二度は撃てぬであろう。
「それでも、俺は――」
那由他は大きく息を吐いた。
蒸気のような、熱い吐息であった。