【水没都市】SS その1
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【水没都市】SSその1
1.鳥河津ミサ
異様な光景だった。
眼下に広がる水面。そこから、マングローブを思わせるようにビルが生えている。
林立するそれらのうちのひとつに自分もまた立っていることを、鳥河津ミサは認めた。
林立するそれらのうちのひとつに自分もまた立っていることを、鳥河津ミサは認めた。
「……なにこれ。夢?」
それにしては、いささか現実離れした空間だ。
ミサの記憶にある限り、このような場所が日本にあるとは思えない。
世界広しといえ、さすがにこんな場所があればとっくに観光名所として知れ渡っているだろう。
ミサの記憶にある限り、このような場所が日本にあるとは思えない。
世界広しといえ、さすがにこんな場所があればとっくに観光名所として知れ渡っているだろう。
「夢じゃなければ、魔人能力? ならまたイルカが何か……いや、それでも私に事前に言いはするか」
思い出す。確か研究室を出て、イルカにねだられたシチューの材料は何を買い足せばよかったかな、とか考えながら歩いていたはず。
念のためスマホを取り出してみるが、圏外を表示している。緊急脱出手段は使えない。
念のためスマホを取り出してみるが、圏外を表示している。緊急脱出手段は使えない。
ハァ、とため息をつきながら、ビルの屋上を歩いてみる。
コツコツと返ってくる、堅いコンクリートの感触。あまりにも、実感 がある。
コツコツと返ってくる、堅いコンクリートの感触。あまりにも、
(……本当に、夢?)
訝しむミサは、やがて前方に人影があることを知覚する。
最初に抱いた思いは、『警戒』。
当然だ。ここが『魔人能力で生成された空間』である可能性がある以上、遭遇する相手はこの空間を生成、ないしは生成された空間に招待した者であるケースは想定しなければならない。
そうでなければ、大学生にして豊富な対魔人戦闘経験を誇るミサが今日まで生き残れはしなかっただろう。
当然だ。ここが『魔人能力で生成された空間』である可能性がある以上、遭遇する相手はこの空間を生成、ないしは生成された空間に招待した者であるケースは想定しなければならない。
そうでなければ、大学生にして豊富な対魔人戦闘経験を誇るミサが今日まで生き残れはしなかっただろう。
向こうの人影も、こちらに歩いてきている。
背中を庇うような、ぎこちない歩き方。次第に、姿が鮮明になる。
背中を庇うような、ぎこちない歩き方。次第に、姿が鮮明になる。
濃い茶髪の女性。歳は、ミサと同じくらいに見えた。
左腕に提げたハンドバッグを大事そうに掴んでいる。
綺麗だけど、どこか疲れてそうな顔。
自慢の魔人能力に巻き込まれた相手の顔を嬉々として見に来た能力者――には、あまり見えない。
左腕に提げたハンドバッグを大事そうに掴んでいる。
綺麗だけど、どこか疲れてそうな顔。
自慢の魔人能力に巻き込まれた相手の顔を嬉々として見に来た能力者――には、あまり見えない。
(……だけど。変に落ち着いてる ?)
専攻の影響か、はたまた想い人の影響か――鳥河津ミサは人間観察に長じる。
いわば、心理学に近しい分野だ。イルカの独り言に近い分析と自身の経験則による「理解」こそが、ミサの一番の武器とすら言える。
いわば、心理学に近しい分野だ。イルカの独り言に近い分析と自身の経験則による「理解」こそが、ミサの一番の武器とすら言える。
(突然巻き込まれた――って風には見えない。少なくとも、この空間を知ってる 者の落ち着き方だ。さすがに、ここに住んでるわけじゃないだろうけど)
値踏みするようなミサの視線に、わずかに身じろぐ。
警戒。不安。あとは……後ろめたさ、か。
やはり、何か知っている。これまでの戦闘経験が、そう言っている。
警戒。不安。あとは……後ろめたさ、か。
やはり、何か知っている。これまでの戦闘経験が、そう言っている。
「……こんばんは。ここ、どこか知ってる?」
とりあえず話しかけてみることにした。
情報を得るためには、反応を観察するのが一番の近道だ。
情報を得るためには、反応を観察するのが一番の近道だ。
「私、気づいたらここにいて――うわっ!?」
突き出された刃を、後ろに跳んで躱した。
ハンドバッグから取り出したのだろう、右手に包丁が握られている。
兆候はあった。だから躱せたが――しかし。
ハンドバッグから取り出したのだろう、右手に包丁が握られている。
兆候はあった。だから躱せたが――しかし。
(決まり。普段から包丁を持ち歩いてる異常者か、ここのことを知っていて、私か誰かを殺すために包丁を準備していたか。つまり)
スイッチを入れる。
ここからは分析じゃない――『分析+戦闘』、だ。
ここからは分析じゃない――『分析+戦闘』、だ。
(敵だ)
2.汐名莉弥
初撃は外した。それは、想定内だ。
汐名莉弥は、冷静に次のステップに移行する。
汐名莉弥は、冷静に次のステップに移行する。
「っ……いきなり、何だっての!」
足を、手を止めず。攻撃を続ける。
経験上、これが一番長く続く パターンだった。
経験上、これが一番
最初の頃は、もちろん、自分から攻撃なんて仕掛けなかった。
それでもいずれ、殺し合う流れになってしまう。そうなれば、莉弥に勝ち目はない。
魔人の戦闘も、格闘技の観戦すらしたことはなかったが、それでも分かるほどに、目の前の相手は動きが違う。
『凪の状態』からはおおよそ勝ち目がない。一度握った主導権を手放さず、攻め続ける。
それでもいずれ、殺し合う流れになってしまう。そうなれば、莉弥に勝ち目はない。
魔人の戦闘も、格闘技の観戦すらしたことはなかったが、それでも分かるほどに、目の前の相手は動きが違う。
『凪の状態』からはおおよそ勝ち目がない。一度握った主導権を手放さず、攻め続ける。
(大事なのは、攻撃の角度。円を描くように回避させる……!)
いつもそうだったが、目の前の相手――青みがかった髪を揺らしながら、慣れた様子で対応してくる女性は、最初こちらの観察に徹する。
莉弥の攻撃に素直に従い、ビルの端に追い詰められないようにだけ注意しながら、おとなしく対応してくる。
多少の反撃はしてくるが、それでも莉弥とは違い、戦闘の一番の目的を『勝利』においていないような違和感があった。
莉弥の攻撃に素直に従い、ビルの端に追い詰められないようにだけ注意しながら、おとなしく対応してくる。
多少の反撃はしてくるが、それでも莉弥とは違い、戦闘の一番の目的を『勝利』においていないような違和感があった。
「っ……はっ!」
そろそろ来るタイミングだ、と分かっていた通り、反撃の蹴りを綺麗に避ける。
分かっていれば、さすがの戦闘素人の莉弥でも避けられる。避けられる――ようになった 。
以前は、見事に喰らって無様に転がされ、そのまま胸を踏みつけられた。肺の中の空気をすべて吐き出させられる苦しさを、これ以上味わいたくはない。
分かっていれば、さすがの戦闘素人の莉弥でも避けられる。避けられる――
以前は、見事に喰らって無様に転がされ、そのまま胸を踏みつけられた。肺の中の空気をすべて吐き出させられる苦しさを、これ以上味わいたくはない。
怪訝そうに眉をひそめた相手は、また少し、回避に徹する時間を迎える。
いくらパターンをなぞっているとはいえ、毎回まったく同じ攻防を再現できているわけではない。
それでも、敵のリアクションは概ね似たタイミングで返ってくることが多かった。
いくらパターンをなぞっているとはいえ、毎回まったく同じ攻防を再現できているわけではない。
それでも、敵のリアクションは概ね似たタイミングで返ってくることが多かった。
キチッとした人なんだろうな、と浮かびかける感想を、強いて無視する。
相手の人となりを想ってはいけない。
私は、これからこの人を――
相手の人となりを想ってはいけない。
私は、これからこの人を――
「……ふぅん。じゃあ、これはどう?」
相手が数歩引き、左手を掲げる。
知っている――何度も見て、何度も殺されかけた能力。
4秒 だ。
知っている――何度も見て、何度も殺されかけた能力。
目の前に、黒いカーテンが下りてくる。
相手との間を遮るように、不吉な色合いが、ここから先の閉鎖を宣告する。
私は緊張に支配されかける手足を奮い立たせ、そこに飛び込む。4秒以内、だ。
相手との間を遮るように、不吉な色合いが、ここから先の閉鎖を宣告する。
私は緊張に支配されかける手足を奮い立たせ、そこに飛び込む。4秒以内、だ。
「やあっ!」
突き出した刃は、今度は驚く敵の左手を浅く裂いた。
これもまた、あるパターンから何度も繰り返してくるようになった展開だった。
自身の『モノを入れ替える能力』を、バリアとか、そういう能力に偽装しようとしてくる。
そこで生まれる隙で、傷こそ浅いが一撃、入れることができる。
自身の『モノを入れ替える能力』を、バリアとか、そういう能力に偽装しようとしてくる。
そこで生まれる隙で、傷こそ浅いが一撃、入れることができる。
(通算、6回目の成功。順調にいってる……!)
最初の挑戦では動き出しが遅れ、片足だけどこかへ飛ばされてしまったっけ。
あれは痛かった。あれ以外も、全部、この場所には痛かった記憶しかない。
それも、もうじき終わる。終わらせてみせる。
あれは痛かった。あれ以外も、全部、この場所には痛かった記憶しかない。
それも、もうじき終わる。終わらせてみせる。
(あとは、このまま『アレ』が来るまで……!)
3.鳥河津ミサ
(――『未来予知 』。たぶん、そう)
ここまでの攻防から、ミサは相手の能力に見当をつけていた。
表層の表れにくい能力ではあるが、交戦経験もある。それで類推できた。
表層の表れにくい能力ではあるが、交戦経験もある。それで類推できた。
(私の攻撃を、完全に知っている 動きで避けてる。『同時』じゃなくて『先手』の動き方だから、読心能力の線は薄め。『トリック R/L』の偽装も効いてないし)
自分の手札を晒す行為は、魔人戦闘においては概ね下策ではある。
それでもミサは、相手の能力を確定させることを優先した。
以降の戦闘を有利に進める意図。本当に予知能力者であれば『既にバレている』可能性もあったこと。
何より。
それでもミサは、相手の能力を確定させることを優先した。
以降の戦闘を有利に進める意図。本当に予知能力者であれば『既にバレている』可能性もあったこと。
何より。
――できるだけ、相手の魔人のことをいっぱい引き出してね
魚峰イルカの言葉は、ミサにとって何よりも優先すべきものだ。
ミサにとっての最優先事項は、勝つことではない。
相手の能力を解明すること。すべては、愛するイルカのために。
ミサにとっての最優先事項は、勝つことではない。
相手の能力を解明すること。すべては、愛するイルカのために。
(予知能力は、『能力によって何をしたいか』によって性質が変わる)
かつて予知能力者と戦ったときの映像を見ながら、イルカは言っていた。
イルカの言葉なら、一語一句間違えずに思い出せる。
イルカの言葉なら、一語一句間違えずに思い出せる。
(『自分の道を邪魔されたくない』ジコチュー型は、長く、先のことを見通す能力に目覚めやすい。大雑把に外敵を察知するために)
思考をしている間は攻撃に移りにくい。
必然守勢に回らざるを得ないが、目の前の相手は技量が高くない。
左手の出欠も大したことはないのも幸いだった。
必然守勢に回らざるを得ないが、目の前の相手は技量が高くない。
左手の出欠も大したことはないのも幸いだった。
(一方、『自分を襲う危機に備えたい』臆病型は、比較的近い、あるいはピンポイントな未来を詳細に見通す。その危機から絶対に逃れたいがゆえに)
対戦相手を見る。
どう見ても素人臭い動きの中で、こちらの攻撃に対してのみ反応が鋭くなる。
よほど詳細に未来を見通さなければ、こうはならないだろう。
どう見ても素人臭い動きの中で、こちらの攻撃に対してのみ反応が鋭くなる。
よほど詳細に未来を見通さなければ、こうはならないだろう。
(あとは矛盾の解消として『予知した未来を変えられるか否か』とかの軸もあるけど、ほとんどの能力は『変えられる』側だし、ここは重要じゃないかな)
変えられないタイプは、『予知によって未来を確定させる』という向きが大きくなる。
当たる未来を見てから銃を撃つ、など。
こちらは、未来予知を『手段』の一つとしてカウントしているタイプに多い。未来予知以前に、信頼を寄せる『何か』を持っている達人などに見られやすい傾向だ。
当たる未来を見てから銃を撃つ、など。
こちらは、未来予知を『手段』の一つとしてカウントしているタイプに多い。未来予知以前に、信頼を寄せる『何か』を持っている達人などに見られやすい傾向だ。
(まあ、どっちにしろこの子は違うでしょ)
少なくとも戦闘においては、未来を変えながら戦っていることを前提に考えるべきだ。
それを前提に……さて、どこまで観測をすべきか。
相手が格上の場合、さすがに勝ちを優先する。問題は、格下の場合。
舐めプレイをしたいわけではないが、それでも、ミサにとっての『優先順位』というものがある。
相手が格上の場合、さすがに勝ちを優先する。問題は、格下の場合。
舐めプレイをしたいわけではないが、それでも、ミサにとっての『優先順位』というものがある。
(……もうちょっと、見てみる?)
幸い、相手は戦闘の素人だ。覚醒からも、そう日が経ってないのだろう。
いつもの塩梅からして、もう少しこの子の能力を引き出さないとイルカは満足してくれない気がする。
能力効果が表立って現れないタイプの能力はそこの判断が面倒くさいが――
いつもの塩梅からして、もう少しこの子の能力を引き出さないとイルカは満足してくれない気がする。
能力効果が表立って現れないタイプの能力はそこの判断が面倒くさいが――
「――――は!?」
驚愕する。
目の前の相手に対して、ではない。
その先。視界の端に広がる水面が――紅く、染まってゆく。
目の前の相手に対して、ではない。
その先。視界の端に広がる水面が――紅く、染まってゆく。
(何……どういう、何が起こった!?)
ミサの思考は急激に回転を速めた。
この不可思議な現象。まず間違いなく、魔人能力による作用。
それを感じただけで、ミサの思考はひとつの焦点に収束する。
この不可思議な現象。まず間違いなく、魔人能力による作用。
それを感じただけで、ミサの思考はひとつの焦点に収束する。
(この子の仕業、じゃない。別に術者がいる? ダメ。ちゃんと理解してかないと、)
イルカのために――
「あ、」
ミサの頭を埋めた最優先事項が、隙を生んだ。
広がる紅海に目を奪われた一瞬に、刃が懐に潜り込んでいる。
広がる紅海に目を奪われた一瞬に、刃が懐に潜り込んでいる。
凶刃の先端が、ミサの服に触れた。
「――ぶ」
その、刹那。
ミサは足元のコンクリートごと、視線の先のビルへ転送されている。
刃は半ばから先を持っていかれ 、空を切った。
ミサは足元のコンクリートごと、視線の先のビルへ転送されている。
刃は半ばから先を
魔人能力『トリック R/L』。
攻防の最中であろうと、思考の最中であろうと、いつだってミサは自分の周囲を不可視の【領域R】で指定し、敵の死角となるビル上を【領域L】で指定している。
攻防の最中であろうと、思考の最中であろうと、いつだってミサは自分の周囲を不可視の【領域R】で指定し、敵の死角となるビル上を【領域L】で指定している。
対戦相手も、ミサの緊急回避手段を熟知しているかのように、常に足を動かさせるような攻撃で【領域L】の更新をせがんでいた。
攻撃のタイミングも、最後の更新から4秒が経過するか否かの瀬戸際だった。
かすりすらしなかったのは、相手にとって不運でしかなかった。
攻撃のタイミングも、最後の更新から4秒が経過するか否かの瀬戸際だった。
かすりすらしなかったのは、相手にとって不運でしかなかった。
「なかった……かも」
呟きは、足場だった残骸がコンクリートに落ちる音に掻き消された。
ミサは不確かな着地にステップを合わせながら、元いたビルを振り返る。
ブレーキなど当然間に合うわけもなく、突然崖と化したビルの屋上から滑り落ちていく、哀れな背中が見えた。
ミサは不確かな着地にステップを合わせながら、元いたビルを振り返る。
ブレーキなど当然間に合うわけもなく、突然崖と化したビルの屋上から滑り落ちていく、哀れな背中が見えた。
「……まあ、うん。あなたの見栄えしない能力より、こっち のフィールドワークの方がお気に召してくれそうだから」
どぼん、と鳴った水音に、心の中で小さく謝った。
それきり、落ちた少女には興味をなくしたように視線を戻し、ミサは赤に染まりきった水面に目を凝らした。
それきり、落ちた少女には興味をなくしたように視線を戻し、ミサは赤に染まりきった水面に目を凝らした。
4.汐名莉弥
視界が真っ赤に染まっている。
苦しい。悔しい。臭い。
必死でもがけど、なにも掴めない。
水が重い。浮き上がらない。何もない紅い空間に、ただ飲まれてゆくのみだった。
必死でもがけど、なにも掴めない。
水が重い。浮き上がらない。何もない紅い空間に、ただ飲まれてゆくのみだった。
どういった理屈で、どういった作用をしているのかは分からないが――水面が赤く染まりだすタイミングがあることを、ここ何度かの戦いで莉弥は知った。
その時の敵が、明らかに注意を莉弥から水面に移すことも。
その時の敵が、明らかに注意を莉弥から水面に移すことも。
絶対の好機――にもかかわらず。
一度目は、自分も呆気に取られていて逃した。
以降の数度は、タイミングを掴みかねて逃した。
そして、それらの終幕は決まって。
一度目は、自分も呆気に取られていて逃した。
以降の数度は、タイミングを掴みかねて逃した。
そして、それらの終幕は決まって。
(また……また! また、この血の海に沈められるの !?)
莉弥が赤く染まった海に『転送』されて、沈んでいくさまを観察されるものだった。
涙が出る。出た、はずだ。
それも、埋め尽くす赤に溶けた後では証明しようがなかった。
涙が出る。出た、はずだ。
それも、埋め尽くす赤に溶けた後では証明しようがなかった。
いつも、まるで実験のようにおざなりに海に落とされ。
やっと掴めたと思った勝機も、するりと手の中をすり抜けていく。
やっと掴めたと思った勝機も、するりと手の中をすり抜けていく。
嫌だ。
もう少しで、勝てた。
このループを、抜け出せたんだ。
もう少しで、勝てた。
このループを、抜け出せたんだ。
今までの後悔とは、明確に違う想いが莉弥の脳を埋め尽くしていた。
『死にたくない』、じゃない。
ゼロからのやり直しなんて、もう、たくさんだ。
『許せない』。
こんな理不尽を強いる、運命を。
『認めない』。
こんな簡単に失った、好機を。
『負けたくない』。
こんな、ひとを虫けらのように扱う相手になんか。
もう一度やり直せば。
絶対。
今度こそ――――
絶対。
今度こそ――――
――――――――
――――――――――――
――――――――――
「――――は!?」
驚愕に満ちた声に、莉弥は我に返った。
幾度となく踏みしめたビルの屋上。
そこに、莉弥は立っていた。
刃先を失ったはずの包丁を、健在のまま握り締めて。
そこに、莉弥は立っていた。
刃先を失ったはずの包丁を、健在のまま握り締めて。
(……え)
目の前の敵は、口を開けたままよそ見をして、こちらへの集中を欠いている。
絶対の好機。にもかかわらず。
莉弥の頭には、それ以上の困惑があった。
絶対の好機。にもかかわらず。
莉弥の頭には、それ以上の困惑があった。
(今……え。私)
ドクドクと、鼓動が早まるのを感じる。
さっきまでの自分と、今この瞬間の自分。
何が変わったかなど、頭で考えるまでもなく鮮明に、『認識』している。
さっきまでの自分と、今この瞬間の自分。
何が変わったかなど、頭で考えるまでもなく鮮明に、『認識』している。
(巻き戻した――『朝』じゃない。『失敗の瞬間』へと)
自分の中の何かが、花開いたような。あるいは、羽化したかのような。
そんな高揚を、莉弥は感じていた。
表層に現れ得ぬ能力の進化を、この敵はまだ知らない。
そんな高揚を、莉弥は感じていた。
表層に現れ得ぬ能力の進化を、この敵はまだ知らない。
(――あくまで、偶然。もう一度狙って起こせるとは限らない。うん。ああ、でも)
相手は興味を水面へ向けながらも、すでにこちらへの注意を取り戻している。
せっかく巻き戻した勝機は、高揚の内に失われた。
せっかく巻き戻した勝機は、高揚の内に失われた。
そのことを、莉弥は悲観していない。
(私は、まだ――運命に抗っていいんだ)
5.鳥河津ミサ
おおよそ解明しきった、素人の予知能力。
そんなものより、この『紅く染まった水の都』を調べるべきだ。
こいつはさっさと片付けて、いい加減、調査に集中しよう――
そんなものより、この『紅く染まった水の都』を調べるべきだ。
こいつはさっさと片付けて、いい加減、調査に集中しよう――
そう思ってた。ほんの、少し前までは。
(……おかしい)
ミサが違和を覚えたのは、敵の動き方の変化だった。
さっきまでの、正確に未来を予知したような『無駄のない動き』ではなく。
突っ込んでくるような攻撃を見せたり。
そこから、いきなり急ブレーキをかけて下がっていったり。
突っ込んでくるような攻撃を見せたり。
そこから、いきなり急ブレーキをかけて下がっていったり。
なんというか、計画性に欠ける動きが増えていた。
(水面が赤く染まったあたりから、かな。そこが予知の終点 で、ここからは未知になっている?)
イルカに付き合ううち、分析的になっていった頭が自然と考え出す。
明らかに解き損ねた疑問を残すのは、座りが悪かった。
明らかに解き損ねた疑問を残すのは、座りが悪かった。
(それとも、未来が変わった? ……こっちの線もあり得るか)
相手を窺う。
静かに緊張感を湛えた表情。それは、以前とはあまり変化なく。
でも、やはりどこか違う気がする。理論というよりは直感で、差異を感じていた。
静かに緊張感を湛えた表情。それは、以前とはあまり変化なく。
でも、やはりどこか違う気がする。理論というよりは直感で、差異を感じていた。
(……うん。予知の断絶、あるいは変転。それにしては――ポジティブ な感じだ)
攻めにも守りにも見られるようになった不可解な動きに、どこか前進する意志 を感じる。
能力に見捨てられ破れかぶれになった、とはまた異なる印象を抱いていた。
まるで、この変化が好ましいものとでもいうかのような。
能力に見捨てられ破れかぶれになった、とはまた異なる印象を抱いていた。
まるで、この変化が好ましいものとでもいうかのような。
(もう少し、掘った方がいいかな。……さすがに考えすぎだろうけど、もしかしたら)
挑戦心に溢れた攻防が、かといって以前よりも有効に働いているというわけではない。
まだ、余裕はある。左手の出血も止まっている。
本命であるこの空間を調べる前に、このモヤモヤだけでも解消しておこう――その程度の気持ちで、ミサは口を開いた。
まだ、余裕はある。左手の出血も止まっている。
本命であるこの空間を調べる前に、このモヤモヤだけでも解消しておこう――その程度の気持ちで、ミサは口を開いた。
「――ねえ。もう、未来は見えないの ?」
「っ!?」
「っ!?」
戦闘中に相手に話しかけるのは、おおよその場合において悪手だ。
ちゃんと自覚している。そのうえで、やはりミサはそれを選択した。
ミサにとって優先すべきなのは、いつだって『イルカのために』である。
ちゃんと自覚している。そのうえで、やはりミサはそれを選択した。
ミサにとって優先すべきなのは、いつだって『イルカのために』である。
(一般論として――覚醒して日が浅い魔人は、独特の全能感に任せて聞いてもないのに自分の能力をペラペラ解説したり、勝ちを意識した途端に饒舌になったりしがちだ)
研究者の界隈では、すでに定説として成り立っている。
ミサ自身も、これまで相対した魔人の何割かにそういった手合いを確認していた。
ミサ自身も、これまで相対した魔人の何割かにそういった手合いを確認していた。
(例外は、賢く理性が強いタイプか、自分の能力を嫌っている タイプ)
おそらく、この敵は後者だろう(他意はないぞ)。
いずれにしても、今後も戦いの中から得られるヒントは多くない。
いずれにしても、今後も戦いの中から得られるヒントは多くない。
「近い未来しか見えないタイプ? それとも、何か条件がある? たとえば、『自分に関わる未来しか見えない』とか。……あ、もしかして、回数切れた?」
矢継ぎ早の質問に、どんな反応を示すかを観測する。
通常では悪手であっても、それがミサにとっての『最善手』だ。
通常では悪手であっても、それがミサにとっての『最善手』だ。
「私の知り合い にもいたんだけどね、予知能力。その人は、受験に大失敗したことで『事前に問題が分かっていれば』って思いから魔人になったんだって」
共感は、口を緩ませる。
かつて倒した能力者の覚醒経緯に、確かに、目の前の女性は表情を崩した。
小さく驚いた表情から、やがて、わずかに笑みを浮かべる。
かつて倒した能力者の覚醒経緯に、確かに、目の前の女性は表情を崩した。
小さく驚いた表情から、やがて、わずかに笑みを浮かべる。
このアプローチが正解だったか。
より歩み寄るため、ミサも微笑を貼りつけて言葉を続ける。
より歩み寄るため、ミサも微笑を貼りつけて言葉を続ける。
「ね。あなたは、」
「その人が」
「その人が」
遮られた言葉の続きは、ミサの予想だにしないものだった。
「イルカさん ?」
ざわり、と総毛立つようだった。
「は……え、は?」
思考が白く明滅する。
どうして、ここでイルカの名前が?
何を知っている。何を見た――?
どうして、ここでイルカの名前が?
何を知っている。何を見た――?
「あなたが」
今度こそ明確に、反応が遅れた。
「言ったんだよ!」
振るわれた包丁に、苦し紛れに庇った右腕を深く裂かれる。
熱が走るような痛みに顔をしかめている暇すら、ミサには厭わしかった。
考えなければならないことは、山ほどあった。
熱が走るような痛みに顔をしかめている暇すら、ミサには厭わしかった。
考えなければならないことは、山ほどあった。
(饒舌になった――やっぱり後者 だった、じゃなくて! 勝機を見た!? 私の発言が、何かを歪めてしまった? 『あなたが言った』――攪乱? それとも、本当は読心能力者だった? いや、そんなはずは……ああ、もう!)
千々に乱れる思考の最中でも、ミサは能力を発動している。
とにかく今は退避しなければならない。
思考を正し、傷口を縛り、状況を整理――しなければ、いけないのに。
とにかく今は退避しなければならない。
思考を正し、傷口を縛り、状況を整理――しなければ、いけないのに。
「逃が、さない!」
「っ……!!」
「っ……!!」
迷いなく踏み込んできて、能力の解除を余儀なくされる。
魔人能力『トリック R/L』の4秒のタイムラグ。このようなリアルタイムでの戦闘では、相性が悪い。
魔人能力『トリック R/L』の4秒のタイムラグ。このようなリアルタイムでの戦闘では、相性が悪い。
(後方に【領域R】を置いといて、退避先の【領域L】が完了したら飛び込めば――いや、こいつの予知の全貌が開いてない! 転送の瞬間に服でも掴まれたら私が死ぬ! なら、これは……!)
不可視の【領域R】を、足場と平行に薄く広く展開。高さは膝の位置。
黒い【領域L】は、バレないように向かいのビルの側面に引く。
黒い【領域L】は、バレないように向かいのビルの側面に引く。
気が遠くなるような4秒を切り抜け、転送を行う。
同時に、上へ跳んで領域外へと脱する。
首尾よくいけば、敵の脚を切断するが――
同時に、上へ跳んで領域外へと脱する。
首尾よくいけば、敵の脚を切断するが――
「ッッ……そんな、の!」
眉をひそめ、苦痛に耐えるかのような表情で、敵もまた同時に跳んでいる。
攻撃は不発。やはり、リアルタイムでの予知を行っている。
悪態が漏れそうになる。このままでは、ジリ貧――
悪態が漏れそうになる。このままでは、ジリ貧――
(…………いや)
ともすれば見逃してしまいそうな、デジャヴュ。
確かに回避したはずなのに、まるで攻撃を喰らったかのような反応 。
このシーンを知っている。
このシーンを知っている。
いつだ。どの戦いだ。
記憶の書架を無我夢中で調べ――たどり着いた。
過去、出会った。同じく幻肢痛じみた反応を見せた、その相手の能力は。
記憶の書架を無我夢中で調べ――たどり着いた。
過去、出会った。同じく幻肢痛じみた反応を見せた、その相手の能力は。
(――『回帰能力 』。事象を、巻き戻す能力)
かつて戦った回帰能力者は、発動時に独特のエフェクトを発するタイプだった。
ここまで結びつかなかったのは、その印象が強かったのかもしれない。
ここまで結びつかなかったのは、その印象が強かったのかもしれない。
予備動作なく回帰を行う能力者。
であれば、いろいろな違和感にも説明がつく気がした。
であれば、いろいろな違和感にも説明がつく気がした。
(……当時の相手は、自分の意志で強く回帰を望んで発現したから、それを喧伝するような能力を得た)
心の中で、推論を組み立てていく。
覚醒のルーツを検証することは、戦闘においては『未知の能力を究明するため』に行うものだ。
能力の仕様を見てからルーツを想うことは、実際的には意味の薄い行為ではある。
覚醒のルーツを検証することは、戦闘においては『未知の能力を究明するため』に行うものだ。
能力の仕様を見てからルーツを想うことは、実際的には意味の薄い行為ではある。
(この人は、なにかのアクシデントの中で、自分でも訳が分からないままに回帰能力に目覚めたから、傍目では発動が分からない能力になった――)
それでも。
(っていうのは、どうかな? イルカ。合ってる?)
あの、憎たらしくも愛しい横顔を想えば。
悔しいけど、無限の力が沸いてくる。
悔しいけど、無限の力が沸いてくる。
いつだってそうだ。
鳥河津ミサは、あの顔がいい魚峰イルカに負け続けるために、勝ち続ける――!
「【領域R】!!」
声高に宣言し、血濡れた右腕を掲げる。
敵の女性は面食らった様子で、一時、硬直する。
敵の女性は面食らった様子で、一時、硬直する。
戦闘中に口を開くことは、概ね悪手である。
例外のひとつとしては、相手を牽制し、何が何でも4秒を捻出したい場合。
例外のひとつとしては、相手を牽制し、何が何でも4秒を捻出したい場合。
もうひとつの例外としては、誤謬を誘う場合だ。
「――【領域、L】!!」
またも、左腕を前方に掲げながら叫ぶ。
発声と動作。両者を併せ、あたかも後方に領域を展開したかのように思わせる。
発声と動作。両者を併せ、あたかも後方に領域を展開したかのように思わせる。
その実――次第に、ふたりに影が掛かる。
展開した【領域L】は、遥か高き頭上。
自分たちふたりを包み込んで余りある、巨大な転送域を形成している。
展開した【領域L】は、遥か高き頭上。
自分たちふたりを包み込んで余りある、巨大な転送域を形成している。
(回帰能力者の弱点は――こんなもの、誰でも弱点だけど。それは、一撃必殺 )
事前に予見し攻撃を回避する予知能力とは違い、回帰能力は喰らってからなかったことにする 。
事象の巻き戻しなどという莫大な能力、いつでも自在に発動できるはずがない。
魔人能力構成指標 でいえば、効果値200は下るまい。
事象の巻き戻しなどという莫大な能力、いつでも自在に発動できるはずがない。
大甘に見ても、必ずなにがしかの制約が付属する。
一度使ったらしばらく使えないだとか、攻撃を喰らった後で、だとか。ゆえに、幻肢痛が伴う。
すなわち、一撃必殺が効く。
一度使ったらしばらく使えないだとか、攻撃を喰らった後で、だとか。ゆえに、幻肢痛が伴う。
すなわち、一撃必殺が効く。
(上空に放り出して、私だけ『トリック』で逃げる。足場がない空中で、私に追い縋る手立てはない)
そのために、大げさなアクションで足を止めさせた。
未知の攻撃に対処するために、相手はもう距離を詰めることはままなるまい。
もうすぐ、4秒が経過する ――
未知の攻撃に対処するために、相手はもう距離を詰めることはままなるまい。
もうすぐ、
「な」
指先が、服の袖を摘まんだ。
そこからもう一歩、負傷した右手を、左手で掴まれる。
眼前に迫った顔。イルカとは似ても似つかない、必死の形相が叫ぶ。
そこからもう一歩、負傷した右手を、左手で掴まれる。
眼前に迫った顔。イルカとは似ても似つかない、必死の形相が叫ぶ。
「分かる、から! 知らなくても……それくらい。私が、何度……!」
支離滅裂な言葉に気圧されつつも、思考は止めない。
どうする。転送を、するか。それ以前に、この距離は危険。
せめてこれだけは、と左の手刀で相手の包丁を叩き落しつつ、それから――
どうする。転送を、するか。それ以前に、この距離は危険。
せめてこれだけは、と左の手刀で相手の包丁を叩き落しつつ、それから――
「あなたのことは! 私が、一番分かってるよ!!」
その言葉で。
自分でも驚くほど、血液が冷えていくのを感じた。
自分でも驚くほど、血液が冷えていくのを感じた。
(確かに。私の頭の中を一番覗いている相手は、別にいる)
でもそいつは、私本人には一切の興味を持っちゃいない。
大事なのは、私の交戦データのみ。私の想いなんか、道端の石コロと同程度にしか思ってないだろう。
大事なのは、私の交戦データのみ。私の想いなんか、道端の石コロと同程度にしか思ってないだろう。
ここで私が死んだとして、何の感情も動かされまい。
せいぜい、便利な助手兼シェフ兼足がいなくなって面倒が増えるな、とため息ひとつ吐くくらいだ。
せいぜい、便利な助手兼シェフ兼足がいなくなって面倒が増えるな、とため息ひとつ吐くくらいだ。
だとしても。
そんなセリフを吐くような相手じゃないと、分かっていても。
そんなセリフを吐くような相手じゃないと、分かっていても。
「……あんたじゃ、ないんだよッ!!」
激情のままに転送を行う。
刹那、ふたりの姿が掻き消える。
刹那、ふたりの姿が掻き消える。
ゼロ距離で掴み合ったまま、戦いは終盤へ。
舞台は上空、数百メートル――
-99.汐名莉弥
「……んー。ビルの中は、ほんとにフツーのオフィスビルって感じなのね」
独り言ちながら、うち捨てられたデスクの抽斗を開けたり、PCの電源を点けようとしたりしている。
私になんか、もう、目もくれちゃいない。
それが、私を殺す女。
私になんか、もう、目もくれちゃいない。
それが、私を殺す女。
「電気も通ってない、か。スマホが圏外だからそんな気はしてたけど。イメージ的には、なにかの災害で海に飲み込まれた……『水没都市』ってところかな」
さらさらと手帳にペンを走らせている。
その姿を――両腕を切断され、下半身は切り崩された屋上の瓦礫に押し潰され、刻一刻と死んでゆく私は。
ただ、恨みがましく見ていることしかできない。
その姿を――両腕を切断され、下半身は切り崩された屋上の瓦礫に押し潰され、刻一刻と死んでゆく私は。
ただ、恨みがましく見ていることしかできない。
「これ、イルカのやつも来たがるだろうな……『私も連れてけ!』なんて駄々こねて。ふふ、無理だろーなぁ」
何度か口に出しているその単語は、あの、実は哺乳類である動物のことではないだろう。
人名。それも、この殺人女の頬を緩ませるような、トクベツな相手。
そいつのことばかりを、こいつは考えて。
死にゆく私のことなんか、何も思っちゃいない。
死にゆく私のことなんか、何も思っちゃいない。
自分の中に、こんなにもどす黒い感情があったことを、今知った。
イルカ。その存在を、上書いてやりたい。
イルカ。その存在を、上書いてやりたい。
この女に、私を見させる。
私で、埋めてやる。
私で、埋めてやる。
6.鳥河津ミサと汐名莉弥
ふたりとも、この感覚を知っていた。
鳥河津ミサは、かつて回帰能力者を同じ手で倒した時に。
汐名莉弥は、サークルの友人たちとスカイダイビングをした時に。
汐名莉弥は、サークルの友人たちとスカイダイビングをした時に。
バタつく髪を抑える余裕なんか、まったくなく。
互いに互いの服を、腕を、掴み合い。
互いに互いの服を、腕を、掴み合い。
ただ、重力の命ずるままに落ちていく。
剥き出しの想いを叫びながら。
剥き出しの想いを叫びながら。
「あんた……なんなわけ!? なんでそんな、私を殺そうとするの!」
「そっちが先にやったんでしょう!? 何度も、何度も私を!!」
「知らないっつの! てか、ここなんなの!? 誰がこんな大掛かりな……!」
「私だって知りたいよ!!」
大した意味もない、やかましいだけの罵り合い。
それが分かっていながらも、ふたりは共に、それぞれの理由で激情に身を任せていた。
それが分かっていながらも、ふたりは共に、それぞれの理由で激情に身を任せていた。
「これ! このままじゃ死ぬけど! 何、死にたいの!?」
「もう、慣れてるから! そっちこそ、死にたくないくせに私を殺してたんだ!?」
「それ、別に両立するでしょ!?」
「両立するから何!? っ……どうせ、『イルカ』って人への気持ちも、そんな風に大したことないんでしょう!?」
「は……ァアッ!?」
ミサが拳を振り上げる。
能力を使うでもなく、あるいはミサのために少しだけ齧った護身術の打撃作法もクソもない、純粋に衝動的な暴力。
鈍い音が響いて、莉弥の額が割れる。流れる血に、それでも莉弥は勝ち誇るような笑みを浮かべる。
能力を使うでもなく、あるいはミサのために少しだけ齧った護身術の打撃作法もクソもない、純粋に衝動的な暴力。
鈍い音が響いて、莉弥の額が割れる。流れる血に、それでも莉弥は勝ち誇るような笑みを浮かべる。
「ほ、ほら、すぐ暴力に訴える! そういうところだよ……いつも、いつも!」
「何なの、本当! あんたが、私の何を知ってるっての!?」
「だから言ってるじゃない! あなたのことは一番、」
「だからッ! あんたじゃないって、言ってるでしょ!! このッ……ああ痛ッ!」
「み、右手! そんななのに殴ったら痛いに決まってるじゃない! 何も考えてないんじゃない!?」
「るっさい! これでも、そこそこいいとこの大学生だよ!」
「私、のとこの方が! ランク、上に決まってる!」
「言ってろッ!!」
ミサが再び拳を振り下ろせば、莉弥が顎を引いて頭で受ける。
お返しに、莉弥は背後、ベルトに挟んでいたピックを抜き、まっすぐ突き刺す。
その動きを分かっていたかのように、ミサは針を掴んで止める。今度は、ミサが勝ち誇った笑みを浮かべた。
お返しに、莉弥は背後、ベルトに挟んでいたピックを抜き、まっすぐ突き刺す。
その動きを分かっていたかのように、ミサは針を掴んで止める。今度は、ミサが勝ち誇った笑みを浮かべた。
「ハッ――見え見え、だったから! 動き方で……最初から! 背中になんか仕込んでることくらい!」
「だっ……だから、何……? このまま、押し切れば、同じでしょう……!?」
「さ、せ、な、い、っての……!!」
じりじりとした押し合いの中で、ミサはひそかに『トリック R/L』を発動する。
自分たちの落下速度を計算し、4秒後に自分が収まる地点へ、広めに【領域R】を指定。
莉弥の四肢がそれで千切れようと構わない。むしろ歓迎だ。あとは上空に【領域L】を――
自分たちの落下速度を計算し、4秒後に自分が収まる地点へ、広めに【領域R】を指定。
莉弥の四肢がそれで千切れようと構わない。むしろ歓迎だ。あとは上空に【領域L】を――
「……だからっ!」
不意に、大きく重心を揺さぶられる。
莉弥が全霊の力を以てミサを掴み、己ごとぐるりと動かす。
莉弥が全霊の力を以てミサを掴み、己ごとぐるりと動かす。
「そろそろ だって、分かるんだから!」
「ああ、もう――ホント、何なわけ!?」
応じるように、ミサも莉弥を掴んで力を籠める。
ふたりは頭から落下しながら、時に上下すらもぐるりと回って、何度も位置を入れ替え続ける。
ふたりは頭から落下しながら、時に上下すらもぐるりと回って、何度も位置を入れ替え続ける。
手から零れたピックを上空へ置き去りにして。
展開した領域をそのまま通過して。
展開した領域をそのまま通過して。
まるで、不格好なダンスでも踊っているかのように。
ふたりは、落ちていく。
ふたりは、落ちていく。
やがて、眼下にビルの屋上が映り。
ふたりはとうとう、互いの手を離した。
それぞれ、失い難きものを守るために。
汐名莉弥は、命を守るために四肢を盾にし、それらを屋上の赤い染みに変えた。
鳥河津ミサは、脳だけは傷つけまいと全身で頭を庇い、背中から墜落した。
7.汐名莉弥
「…………まだ」
振り絞るように、呟く。
全身をひたす生暖かさと、それが徐々に冷えていくような感覚。
その自覚すらも、意識を繋ぐよすがだ。
全身をひたす生暖かさと、それが徐々に冷えていくような感覚。
その自覚すらも、意識を繋ぐよすがだ。
「まだ、終わってない……こんなところで、……」
きっと、今の私を上から見たならば。
赤い水たまりに浮かんだイモムシのように映ることだろう。
結局、虫けらのままだった。それでも、文字通り虫の息でも、まだ生きている。
赤い水たまりに浮かんだイモムシのように映ることだろう。
結局、虫けらのままだった。それでも、文字通り虫の息でも、まだ生きている。
「こんなところで……能力を 、発動してたまるか っ……!!」
敵の、あの人は。もう、ぴくりとも動かない。
もうじき死ぬ。
あとちょっとで、念願の勝利が掴める。この繰り返しを、終わらせられる。
もうじき死ぬ。
あとちょっとで、念願の勝利が掴める。この繰り返しを、終わらせられる。
だから、未練なんてない。後悔なんてない。
もう、発動させやしない。
なかったことになど、させてたまるか。
もう、発動させやしない。
なかったことになど、させてたまるか。
死なない。
生きて、勝つ。
勝てば、次のページ に行けるはずなんだ。
生きて、勝つ。
勝てば、
私たちに遅れて、取りこぼしたピックが落ちてきて、キンと落下音が鳴った。
みんなで、私の部屋でタコ焼きパーティをした時に買ったピック。
幸せだった日常。あの日々へ、私は、帰るんだ。
みんなで、私の部屋でタコ焼きパーティをした時に買ったピック。
幸せだった日常。あの日々へ、私は、帰るんだ。
「こんな、痛み……もう、慣れてるって、言ったでしょう……!?」
血の塊を吐きながら、言って聞かせる。
このラストシーン。痛み、苦しさ。
何度も開いて、覚えてるのにまた開かされて、ページが縒れてしまった脚本の。
ここから先の白紙は。
「私が……汐名、莉弥が、埋める……!!」
それが、私たちを繋ぐ、最後の言葉だった。
「っっ……ああーーッ! とうとう終わったな、試験!」
「はぁーー、しんどかった。でもこれで、次の公演に集中できるな」
「それね! アタシさー。莉弥の脚本、超楽しみにしてッかんね!」
「はぁーー、しんどかった。でもこれで、次の公演に集中できるな」
「それね! アタシさー。莉弥の脚本、超楽しみにしてッかんね!」
試験会場の教室を後にして、賑やかしく話す男女たちの姿があった。
話を振られた濃い茶髪の女生徒が、遠慮がちに笑う。
話を振られた濃い茶髪の女生徒が、遠慮がちに笑う。
「あんまり期待されると、プレッシャーだけどね。でも、頑張るよ」
「へへーっ。アタシ、莉弥に声かけて良かったー。興味ない他サーの新歓で意気投合しただけだったのにさ、」
「文学部ってだけで連れてきたんだろ? 莉弥、押しに弱いからなァ」
「何度も聞いたっつの。まあ実際、そっから他の連中も認める脚本担当になっちまうのがスゲーんだけどさ」
「何度話したっていいじゃん! アタシらの友情エピ! ねえ、莉弥?」
「……うん。何度だって、ね」
「へへーっ。アタシ、莉弥に声かけて良かったー。興味ない他サーの新歓で意気投合しただけだったのにさ、」
「文学部ってだけで連れてきたんだろ? 莉弥、押しに弱いからなァ」
「何度も聞いたっつの。まあ実際、そっから他の連中も認める脚本担当になっちまうのがスゲーんだけどさ」
「何度話したっていいじゃん! アタシらの友情エピ! ねえ、莉弥?」
「……うん。何度だって、ね」
莉弥と呼ばれたその女性は、ぴたりと立ち止まる。
それから力ない笑みを浮かべて二言三言しゃべり、他のメンバーとは手を振って別れた。
踵を返して、近くのトイレに入る。
それから力ない笑みを浮かべて二言三言しゃべり、他のメンバーとは手を振って別れた。
踵を返して、近くのトイレに入る。
(……あれから、二週間)
流しっ放しの洗面台に手をついて、汐名莉弥は俯いている。
思考を埋めるのは、『あの日』のこと。
死闘の末、自身も死に瀕していた莉弥は、いつの間にか戻ってきていた 。
あのビルの屋上に招かれる前、祈るように自室のベッドに座っていた自分に重なるように、健在な四肢でベッドにしなだれかかっていた。
死闘の末、自身も死に瀕していた莉弥は、いつの間にか
あのビルの屋上に招かれる前、祈るように自室のベッドに座っていた自分に重なるように、健在な四肢でベッドにしなだれかかっていた。
(なんだったのかな、あれ)
戦いの後どうなるかなんて、知らなかった。
勝負の終着を迎えたことなど、なかったのだから。
傷もすべて治っていて、夢なのかと疑ったのも一度や二度ではないが、家から持ち出した包丁もピックも失われたままで。
勝負の終着を迎えたことなど、なかったのだから。
傷もすべて治っていて、夢なのかと疑ったのも一度や二度ではないが、家から持ち出した包丁もピックも失われたままで。
(……あの人も。結局、名前も知らなかったな)
思えば、比較的穏やかに始まった最初の頃でも、不思議と自己紹介などはしなかった。
聞いとけばよかったかな、と思いつつ、聞いてどうなるのか、という思いもある。
お互い大変でしたね、なんて言って、飲みにでも行くのだろうか?
聞いとけばよかったかな、と思いつつ、聞いてどうなるのか、という思いもある。
お互い大変でしたね、なんて言って、飲みにでも行くのだろうか?
(あの人も……たぶん、生きてるよね。私が元に戻ったんだから、あの人だって元に戻ってるかも)
きっとそうだろう、と頷けば、急に笑いがこみ上げてくる。
(……もしそうだったら、私。……なんであんなに必死だったんだろう。バカ、じゃん)
洗面台に俯いたまま、ひとりでクスクスと笑っていた。
傍から見れば、情緒不安定な不審者としか映らないだろう。
傍から見れば、情緒不安定な不審者としか映らないだろう。
ああ、でも、と莉弥は思い出す。
相手の名前は知らないままだったが、ひとつだけ、覚えている名前がある。
あの人の、ご執心の相手。確か――
相手の名前は知らないままだったが、ひとつだけ、覚えている名前がある。
あの人の、ご執心の相手。確か――
「――――さっきから、見てたけどさ」
「へっ」
「へっ」
後ろからかけられた声に、莉弥はビクリと飛び上がった。
振り向けば、腕を組んだ女性がこちらを見ていた。
振り向けば、腕を組んだ女性がこちらを見ていた。
莉弥の知っている相手だった。話したことはないけど、一方的に知っている。
同じ大学の、名物准教授。主に、その息を呑むような美貌によって、有名な。
魚峰准教授だ。
同じ大学の、名物准教授。主に、その息を呑むような美貌によって、有名な。
魚峰准教授だ。
「なんか面白かったけど。もしかして、疲れてる?」
「え、っと……」
「薬、飲む? 水いらないやつだから。あげるね」
「え、っと……」
「薬、飲む? 水いらないやつだから。あげるね」
言葉に窮してる間に、ヒョイと錠剤を手渡される。
魚峰准教授はマイペースな性格で、研究室のメンバーも振り回されていると風のウワサに聞いていた。
とはいえ厚意自体はありがたいもので、断るのも気が引けると、莉弥は手渡された薬を飲み下した。
魚峰准教授はマイペースな性格で、研究室のメンバーも振り回されていると風のウワサに聞いていた。
とはいえ厚意自体はありがたいもので、断るのも気が引けると、莉弥は手渡された薬を飲み下した。
「……ありがとう、ございます。魚峰准教授」
「いいっていいって。野暮用のついでだし」
「野暮用、ですか?」
「いいっていいって。野暮用のついでだし」
「野暮用、ですか?」
話しながら、莉弥はつい、魚峰准教授の姿を眺めていた。
研究室の違うこの校舎にいるのも珍しかったが、それよりも目を惹いたのは。
まるで喪服のような、黒一色の服装。
研究室の違うこの校舎にいるのも珍しかったが、それよりも目を惹いたのは。
まるで喪服のような、黒一色の服装。
「落ち着いた? 汐名莉弥さん」
「あ、はい、おかげさまで……え?」
「それはよかった! じゃ、ひとつ講義をしよっか」
「あ、はい、おかげさまで……え?」
「それはよかった! じゃ、ひとつ講義をしよっか」
それよりも、気になったことがあった。
なんで、私の名前を。
莉弥は確かに、そう聞こうとした。
そう、言ったはずだった。
莉弥は確かに、そう聞こうとした。
そう、言ったはずだった。
「
ごぼっ
」
出てきたのは、言葉ではなく、血の塊だった。
幾度となく味わってきた感触には違いなかった。
でも、終わったはずのことだ。なんで、また、そんなことに。
めぐらせようとする思考は、すべて、血の海でもがいた手のように、何も掴めぬまますり抜ける。
でも、終わったはずのことだ。なんで、また、そんなことに。
めぐらせようとする思考は、すべて、血の海でもがいた手のように、何も掴めぬまますり抜ける。
「思考や想いをトリガーにする魔人能力。単純に『効果を使うぞ!』って意志よりも深化させて、想いによって形態の変わる能力。まー、ちょくちょくいるんだけど、結構強いんだよね。頭の中のことだから、止めらんないし」
コツコツと、トイレの床を歩きながら、ただひとりのために行われる講義。
その唯一の聴講生は、もはや自分の体重を支えることもできず、吐き出す夥しい量の血に溺れるように、床に伏せていた。
その唯一の聴講生は、もはや自分の体重を支えることもできず、吐き出す夥しい量の血に溺れるように、床に伏せていた。
「手っ取り早いのは、脳を破壊すること! 物理的にやればついでに死ぬし、薬で脳をぶっ壊すのも有効。実演して見せよっか? ……ってね」
ふう、と息を吐く。
普段、目を爛々と輝かせながら講義を聞かせてきた魚峰イルカは、なんともつまらなそうに足元の聴講生を見下ろしている。
普段、目を爛々と輝かせながら講義を聞かせてきた魚峰イルカは、なんともつまらなそうに足元の聴講生を見下ろしている。
……思えば。
まだ小さかったあの頃から、いつも後ろをついてくる可愛くて仕方がない幼馴染のためだけに、イルカの言葉はあったのだった。
まだ小さかったあの頃から、いつも後ろをついてくる可愛くて仕方がない幼馴染のためだけに、イルカの言葉はあったのだった。
「『あなたが言ったんだよ』、だっけ。そう。お前が言ったんだ。自分の名前を」
忘れがたきあの日。
研究室の外で騒ぎが起こって、何があったと駆けつけてみれば、鳥河津ミサが死んでいた。
自身の脳を、命よりも大事にするように庇った姿勢で。
研究室の外で騒ぎが起こって、何があったと駆けつけてみれば、鳥河津ミサが死んでいた。
自身の脳を、命よりも大事にするように庇った姿勢で。
「……バカ。バーカ。ミサのバカ。大バカやろう」
周りの猛反対を普段以上の強引さで押し切って、魔人能力『D.Liveレコーダー』でミサの記憶を見た。
彼女の、最後の戦い。最後の想い。
そして、彼女に手を下した仇の、名前と風貌、それと能力を。
所在を特定し、メタとなる薬を手に入れるまで二週間。案外近くにいたことには、やや驚いたものだったが。
彼女の、最後の戦い。最後の想い。
そして、彼女に手を下した仇の、名前と風貌、それと能力を。
所在を特定し、メタとなる薬を手に入れるまで二週間。案外近くにいたことには、やや驚いたものだったが。
「『できるだけ』、って言ったじゃんか。データ守って死ねなんて、誰が言ったんだよ」
歩き出す。もう、ここに用はない。
イルカには、まだ討たねばならない相手がいる。
あの空間へ、ミサを連れ去ったやつだ。
イルカには、まだ討たねばならない相手がいる。
あの空間へ、ミサを連れ去ったやつだ。
手がかりはない。
それでも見つけて、必ず、報いを受けさせる。
それでも見つけて、必ず、報いを受けさせる。
そうして、後に残ったのは。
血の海に沈んだ、運命の成れの果てのみだった。
<了>