どくどくと血が胸から溢れだす。
ああ、終わったんだ。
出血を抑えようと胸を抑えたが、手は血で濡れるだけで、血だまりは広がっていく。
凶器のナイフは血だまりに沈んでいる。
「オジサン」
母の兄だった男。
両親を失った私を引き取り育ててくれた。
十年寝食をともにしたおぞましい思い出。その全てが匂いとなって部屋中にこびりついている。
「オジサンが悪いんだよ」
オジサンの頬を撫でる。ざらざらした肌が、手の甲を掻く。
オジサンは口をぱくぱくとさせ、見開いた目をまっすぐに私に向けている。
――これも美しくなるために必要なことだ。
オジサンの口癖だった。
コトに及ぶ際、おじさんは免罪符のように、震え、逃れようとする私に手を上げた後、つぶやいた。
□□□□
深夜の繁華街。
騒々しい人波とけたたましい笑い声。
零時を回ったというのに、眠ることを知らない町。
その中にあって、まるで隔絶されたかのように、ひときわ寂れた路地裏のブティックホテル「CINDERELLA」の前で俺は域を潜めている。
沖宮夫婦蒸発事件の捜索打切から半年。
妹夫婦の蒸発は、俺には到底、納得のできないものだった。
コートの胸元のポケットには、在りし日の妹夫婦とその娘の姿を収めた写真が収まっている。
まだ、生え揃っていない前歯を見せて笑っていた姪っ子の姿は、今やもうない。
あの事件以来、俺が引き取り育てているが、一度足りとも、この写真のような笑顔を俺に見せはしない。
事故死する直前、姪っ子が見たという、白と黒のセーラー帽を被った人影。
信ぴょう性がないとして、検討すらされなかった。
魔人犯罪が関係する事件に巻き込まれたのでは、と俺は考えた。そして、姪の目撃情報を唯一の根拠に、妹夫婦の捜索を続けていた。
そして、尽くせる限りの根回しの末に、ようやく手にした、ここブティックホテルCINDERELLAでの目撃情報。
俺はそれに賭けていた。
何日にも渡る張り込みの末に、俺はようやくソレを見つけた。
白と黒のセーラーキャップ。
それを被った少女の影を見かけた刹那、俺の体は動き出していた。
気持ちが焦ったのだ。気づけば私は、その少女の腕を掴んでいた。
きょとんとした目で少女は俺を見る。
くるんと長い睫毛にぱっちりとした目。
その整った顔立ちに、私は声をかけることも忘れ、見とれていた。
事件の重要参考人。
この少女が妹夫婦を殺した犯人である可能性もある。にもかかわらず、不用意に声をかけるなど迂闊すぎる。
けれど、それは違う。
犯人を見つけることで、姪の笑顔が見れると思った。
こんなのものは言い訳だった。
「君っ」
俺はその少女を抱きしめた。
あの頃、俺がまだ中学生だった時、一目惚れした頃と、鮫氷しゃちはまるで変わらない。
白と黒のセーラー服。
その話を聞いて、ドキドキしたのは、なぜか。
白状しよう。俺は鮫氷しゃちにまた会うためにここにいる。
「い、痛いよ。オジサンっ!」
困ったように言うしゃちの体を抱きしめながら、俺の心は、中学生だったあの頃に戻っていた。
□□□
「私達、もう恋人同士だもん!」
いつものように校庭の茂みで授業をふけっていると、女子達の声が聞こえてきた。
思わず聞き耳を立てつつ、俺は少女らの会話を盗み聞く。
「大好きだよ」
茂みの隙間から覗き込んだ俺の目に入りこんだのは、キスシーンだった。
女子同士でキスをしていた。
当時は純粋だった俺は、その女子達の行為を前に、恐ろしさで顔を青ざめたことを今でも覚えている。
何か見てはいけないものをみてしまったような背徳感。
それと同時に、俺の中に沸き起こる言葉にならない衝動。
それを百合と呼ぶのだということを知らなかった。
その頃の俺は、魔人として覚醒したばかりで、触手を操るという自身の能力を持て余していた。
「いや! やだあ!」
その破壊衝動を止めることはできなかった。
百合というものを知らない未熟な心は、百合を壊すことでしか、それを嗜むことができなかった。
俺は、自らの触手を操る能力ショック・アンカーで、何の罪もない少女のカップルを襲った。
「殺してやる」
このような言葉を向けてくるような少女には、より徹底して屈辱を与えた。
だが、俺は満たされなかった。
今更であるが、俺が求めていたのは純粋な百合であり、幸せな少女の慎ましやかな恋愛だったのだ。
しかし、誰も俺に百合を教えてくれなかった。こんなこと理由にはならないが、こんなおぞましい能力を持ってしまったがゆえに、俺は百合のたしなみ方がわからなかったのだ。
「あはは、おかしい」
幾つもの百合を散らし、少女を傷つけてきた俺の前に、白と黒の魔物が現れたのは、俺にとっては、まさに神の行幸とも言えた。
ケラケラと笑う白と黒のセーラー服と帽子を纏った少女は、自らを鮫氷しゃちと名乗った。
しゃちは、俺と俺に寄って汚された少女達を前に、目をキラキラさせながら腹を抱えていた。
「おめえも散らしてやろうか!」
俺は触手をちらつかせ、脅すが、しゃちは何がおかしいのか、今度は、地面のうえをころころと回りだした。
あっけにとられる俺と少女たち。
「あー、びしょ濡れ」
ひとしきり、嗤いきったのか、鮫氷しゃちは起き上がると、ハンカチで汚れを拭う。
先程まで、周囲には触手から放たれた俺の体液が、バシャバシャと降り注いで、沼地のようにどろどろしていたが、いつの間にか降り出していた雨によって、全て洗い流されていた。
巨大な積乱雲は夜空を塗りつぶし、雨空の闇を一層深くする。
ボロボロに引きちぎられた衣服を、震える手で手繰り寄せ、少女達はまるで住処を追われた野良猫のように、闇へと逃げていた。
「オジサン、もしかして百合童貞?」
「ユリ……ドーテー?」
鮫氷しゃちの言葉を俺は飲み込めない。
ドーテーとは何だ。
ユリとは何だ。
「俺は女だぞ……!」
「ええ! どう見ても君、おっさんじゃん!?」
「うぅ……!」
鏡に写った自身の姿が脳裏に浮かぶ。
俺はまるで赤子のように、小さくうずくまった。
毛むくじゃらの手に、髭面の顔。
お父さん似だから可愛い子になると言われた幼少時。
優しかったお父さん。
豪快に笑いながら、大きな手で、いつも俺の頭を撫でてくれた。
お父さんのようになりたい。
その思いがいつの日か、こんな形で叶うとは思わなかったのだ。
俺は、気づけば、お父さんと瓜二つの姿に成長していた。
俺はもう男として生きるしかないのか。進路に惑い、授業を受ける意味さえ見失い、俺はいつしか一人で学内を隠れ潜むようになっていた。
どうしてこんなことになったのか分からない。
今はただ、自身の全てが気持ち悪い。
ぐるぐると不快な感情がお腹の奥で巡る。
「あらら、禁句だった? でーもーさ。ドージョーすべきはオジサンじゃないよ」
「汚してやる!」
俺は触手を鮫氷しゃちに向ける。
□□□□
「ッ……!」
触手に手をかけた絞りだす指が止まった。
気づけば、全身が硬直し、身動きがとれない。
「な、何をした……!」
俺はそう絞りだす。
「あはは、おかしい」
しゃちはくるくるとその場でステップ踏んでいる。
「オジサン遊んでほしいの?」
くすくすと笑いながら、しゃちは言う。
この頃の俺が知る由もないが、シャチは超音波によって、獲物を硬直させ、対象を捕食するという。それと同様の能力を、鮫氷しゃちも持ち合わせていた。
「百合はいいものなのだ」
「君が本当に女の子なのかなぁ」
鮫氷しゃちの唇が迫る。
そのとき、俺はようやく百合というものを知った。
十五の夜の事だった。
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そして、俺は今ここに居る。
「百合師匠!」
俺はブチックホテルの前で叫んだ。
この鮫氷しゃちは、俺の言葉が理解できないのか、首をかしげていた。
けど、俺はそれでよかった。もう一度、会えたのだから。
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私達仲良し三人組――眼下院ハナ、数取テンコ、柊木フウカは、いつも一緒だった。
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生ごみの発酵したような匂いが充満する。
突如現れた少女は自らを「鮫氷しゃち」と名乗った。鮫氷しゃちは口を尖らせながら、その前髪をくるくると指で回している。
「あー、うんざり」
じっと様子を見守っていると、鮫氷しゃちは、大きなため息とともに、そう言った。
これが、悲劇の序章になるとは、私達の誰ひとりとして気づいていなかった。