前半戦第二試合SSその2

 ——ひょっとしてここが理想郷かもしれない。




 久利エイチヴが目覚めると目の前は真っ暗闇。いつものことだ。彼女は己を晒すことに異常な嫌悪を羞恥を抱いている。同級生はおろか親友・家族その他すべての人、すべての物、いうなれば世界すべてから視認されることを拒み、壁の中にいる。壁すらも彼女に気付かない。あらゆる物体を透過する彼女には、誰の目線も届かない。
 もちろん日常生活には不便だが、とにかく誰にも見られたくない。そんな人生ベリベリハードモードな久利が、穴を覗くように、壁から目だけをほんのわずか出して、外に誰もいないか確認する。久利の体内時計では現在深夜0時頃。外へ出て食事をとるには絶好のタイミングだ。
 だがいつもの席——教室の壁の中から見える風景が、彼女の知るものと違う。(なんというか、目が臭い)。古びた、あるいはしなびた空気が教室中に漂っている。
 異様さ、その正体はすぐに気付いた。
 月光のおちる教室に木製の席が乱れて並ぶ、枯れた葉が何枚か踏み抜けそうに傷んだ床を滑る、物音は皆無、一種の神秘的な光景ではあった——席に座る真黒い瘴気を除けば。
 最初、久利にはぼんやりと黒いもやとして見えた。月明りに目が慣れると、もやはだんだんと影のようにはっきりと濃く人の形をかたどった。
 人。
 人であれば壁から出てゆくつもりはない。それらが立ち去るまで何時間でも何日でも待ち続ける。人目にさらされる恐怖は、餓死よりももっと怖い。
 ただ、人ではないのかもしれない。人というにはあまりに不気味すぎる。
 久利はそれらが人であるか確かめた。もちろん全身恥部である彼女が、それらのそばに駆け寄って話しかけるというような真似はできない。ただ壁を内側からノックする。こんこん。そう音を立てて注意を惹くつもりだった。
 しかし彼女の想定外だったのは、自らが潜む壁である。眼前のもやのような異様さにとらわれ、それ全体を包む場所の違和感に気付けなかった。
 内側からノックした壁、バリっと致命的な音がして、穴が開く。壁の中にわずかに光が。驚きに体をのけ反らせると、目の前が急に明るくなる。目の前に無地の黒板が見える。
 戦慄し、身を翻す久利。(彼女は壁の薄さに気付いていなかった)。30もの人影が、ただ正面を向いていた。
 久利の絶叫が、沈黙の夜にこだました。


 久利の絶叫に、もやたちは何の反応もしない。
 恥ずかしさのあまり死にかけたが、なんとか蘇生した。実際、いま死んでしまったら犬死もいいところだ。あるいは、それらの眼窩に黒い影が落ちていると無意識下で気付いたため、恥ずかしさが軽減されたか。
 久利の絶叫に、もやたちは何の反応もしない。
 それらは、久利を「見ていない」。そのことに気付いて、久利の心臓はじょじょに落ち着いた。しばらくして落ち着かなくなった。どきどきしてきた。窓側の一番後ろの空いている席に座って、そこから見える教室の景色を、どぎまぎしながら見る。見慣れない視点、ありえない自分。人(らしきもの)がいて、それなのに平気で教室に座っている自分。誰も見ていない、その確信がある。
 突如、もやたちが一斉に立ち上がった。浮かび上がった、というほうが正しいかもしれない。久利は驚きのあまり身を縮こまらせ、世界を拒否するように目を閉じる。

「やめて……」

 つい口に出た言葉。もやたちは彼女を意に介さず、列になって教室から出ていく。
 深呼吸。
 久利は、もやたちについていくことにした。床は踏んでしまえば子供でも踏み抜けてしまうような脆さだ、だが「久利エイチヴ」が羞恥によって世界を拒絶し続けているかぎり、彼女は外部からの直接的な影響を一切受けない。一歩二歩とトコトコ歩いてもやたちの最後尾についていく。各々の教室から湧き出たらしいもやたちは大名行列を組んで大部屋に入る。

「食堂……」

 もやたちについていき、席のひとつに座る。もやともやが重なり合ってさえいる。それらはテーブルから見えない何かをつまんで自分の中へ入れる動作をする。幽霊の食事だろうか。久利は厨房へ入り、がらんとした食材庫の奥から桃の缶詰を取り、開けて、元の席でもやたちを横目に食する。(食堂で、堂々と席に座ってご飯を食べるのって初めて)。久利はしだいに楽しくなってきた。涙も出てきた。(普通に生きたかった)。久利がなぜ妃芽薗学園に通うのか、通おうと思うのか——明らかに彼女はまともには生きられない。人の視線に気付いただけで恥ずかしさのあまり死んでしまうような女の子が、壁の中に隠れてまで、食べ物を盗んでまで、人を殺してまで学校へ行くのか。
 まともに生きることを、諦め切れないからだ。なにかある、もしかしたら、なにか。
 久利は、目の前にいるもやたちに目がないことを知っている。輪郭のぼやけた、人のかたちを真似た同じく透明ななにか。そんな不気味なものと同席して、食事する。こんな不気味な体験でさえ、久利には暖かった。

「おいしい……」

 同席する目の前のもやは、久利になんの反応もしない。それが心地よかった。

「……ひょっとしてここが理想郷かもしれない」

 人のない学校。それも、古びたよく分からないとこ。いつもの学校ではない、それでも心地よい。(しばらくここで学園生活を楽しんだら、外へ出てもいいかもしれない。外の世界に誰もいなければ、腕をまくってどこか好きなところへ散歩してもいい。疲れたら電車に。そうだ、電車に乗りたい。新幹線でもいい。のぞみでもひかりでもいい。決して同じところに留まらず、ものすごい速度で駆け抜けていきたい。なにもかも置き去りにしてほしい)。久利の中でさまざまな希望が湧いてくる。
 もやたちが急にざわめく。音はない。もやたちが揺らめき濃くなっている。久利はつまんだ桃を落としてしまった。埃だらけの床を見て、久利は最後の一口を諦める。

「いったい何が……」

























ヽ1〆





 一羽の折り鶴が、テーブルに乗り、久利を向いていた。折り鶴は久利を見ていた。

「——」

(見られた)
(見られた(見られた(見られた(見られた(見られた(見られた(見られた(見られた(見られた(見られた(見られた(見られた(見られた(見られた)))))))))))))(死ぬほど恥ずかしい))

 絶句した久利。彼女は鶴からの視線を激しく感じる。全身を真っ赤な血が駆け巡る。頭の中が点滅する。吐き気、身もだえ、恐怖、泣きたくなる申し訳なくなる死にたくなる。羞恥の渦へ激しく呑み込まれていく。

(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい(死ぬほど恥ずかしい))))))))))))))(死ぬほど恥ずかしいから——死んで!))

 久利がこぶしをぎゅっと握って鶴を睨み返すと、静寂の世界が全く破壊される。鶴は爆発した。激しく掻き乱れた埃と煙で視界がゼロになる。と同時に、さっきまで穏やかだったもやたちが激しく吠える音が巨大な暴力となって轟く。(急になにが!)。混乱の中でも、久利は薄っすら予測した。(今の爆発がトリガーとなって、この「もや」が「悪霊」のようになった? だれかを襲いに? 私に? 鶴に? どちらにせよ、襲うための機能もついたはず——獲物を捕らえる目が!)

 這う姿勢をとり、久利は弾丸のように飛んだ。テーブルの脚や空の花瓶を乗せた棚、しっけた壁をすり抜けて、久利は廊下へ出る。食堂では何かが裂ける音、砕ける音、壊れる音、足音と吠える音が響きあっている。久利は一目散に身を跳ね、壁から壁、影から影へと身を移し、どこか隠れられるような頑丈な壁はないか探す。しかし大昔に建てられたらしいこの学園には、彼女の身一つすら隠せるような厚い壁はない。それも触れれば壊れてしまうような脆い壁だ。部屋から部屋へと渡って生徒会室らしき部屋から眺める。部屋のガラスの向こうには運動場、廊下側には森が見える。(中が無理なら外へ逃げる?)。(地球につながる地面へだけは、すり抜けることはできない)。(逃げ場がない)。(運動場側、誰に見られるか分かったもんじゃない。森側、逃げおおせればなにか手が見つかるか)。(どこか隠れるような場所は……)。(どこかに隠れなきゃ)。(どこか……)。
 すぐ近くで板を踏み抜く音がする。近づいている。もう外へは出られない。久利は意を決して、掃除用具の入っているロッカーへ入り込む。気休め程度に、カギをかける。

(あの悪霊のようなものが……なにかの手段で私に気付くなら……私を見るのなら……)

 想像しただけで恥ずかしく、恥ずかしさのあまり死にそうになる。死にたくなる、死にそうになる。死にたくない、殺す。心臓の鼓動がメトロノームになって、不安と恐怖と希望と殺意が交互に訪れる。音は近づき、また遠くへ去っていった。気付かなかったらしい。小さく息をつく久利の、不意を討つようにロッカーをなにかが強く叩く。高い音がなる。心臓が高鳴り恐怖で動くこともできない。どこへ逃げればいいかも分からない。
 死刑宣告を待つような久利に訪れた死刑執行人は、鶴の形をしていた。

「死ぬほど恥ずかしいから死んで!」

 鶴は爆発した。自分が死ぬほど恥ずかしいときに、その死を相手に押し付ける能力。一見無敵に思えるが、あらかじめ心の準備をしておかなければ、本当に恥ずかしさのあまり死んでしまう。何度も何度も発動できるわけではない。

(校舎はもうダメだ、森へ、森へ逃げよう)

 壁をすり抜けて芝生に足が触れ、ガラスから肩をのぞかせ、小さな鼻が冷たい空気に触れて、外へ出た久利の前には一匹の魚がいた。魚の形。それは九九八もの紙飛行機の群れ。魚の形は、久利をまっすぐに見つめていた。魚にはふたつの目がある。紙飛行機にバランスよく乗せられたまん丸い目、人間の目。目。魚の目。魚の目は久利をまっすぐに見つめ、久利は射抜かれたように膝を降り、その目を見上げた。
 意識が飛ぶ一瞬、目の前の光景が脳に焼き付く。森を背に、無音で泳ぐ紙飛行機の魚。その上には月が輝いており、その白い光さえも久利だけに注がれている気がした。




 目が覚めると久利はまた真っ暗闇の中にいた。声が聞こえる。顔を合わせたことのないクラスメイトたちの声。(あれは白昼夢だったのだろうか)。そんな結論が頭をよぎるが、頭を振って否定する。あまりにも感触的すぎた夢はもはや夢じゃない。

(私が普通に生きるには、やはり死ぬしかないんだろうか……)

 あの静寂、あの暖かい食事、あの魚の目。ひとつひとつを思い出し、久利は泣きたくなって小さくうずくまり、そのまま寝てしまった。

 ——古びた校舎の夢以来、久利はかつて以上に、廊下を回遊する紙たちを警戒するようになった。羞恥だけではなく、恐怖によって。

最終更新:2016年07月25日 22:40