ギシリギシリと床が鳴り、汚れた蛍光灯は意地の悪い点滅を見せる。
窓は割れ、剥がれ落ちた木材がその一部を覆い影を作っていた。
脚立の上に立ち、天井裏の様子を見ている作業着姿の男性が一人。彼に足元の道具を手渡している男が一人。
近づいて声をかけてみる。彼らは作業に夢中でこちらの姿に気付かない。
さらに近くへ寄ってみる。
「困ったなあ、これほど酷いのは初めてだ。一度潰して建て直さなくてはいけないよ」
「ん? どうしたんだい君。今はお仕事中だから、近づいたらダメだよ。
それにこの校舎、だいぶ古いね。劣化していて足場にも気をつけなくちゃいけない。
そういう事だからおうちに帰りなさい。夏休みだろう?」
「おい、懐中電灯をくれ、って誰かいるのかい? ああ、ここの生徒か。
生徒の夏季休業中の立ち入りは禁止になっていなかったっけ?」
二人とも優しそうな、普通の大人の男の人だ。
体が透けて、背景が見えている事さえ除けば。
「待てよ……? 俺達はいつからここにいたんだ? ずっと何をして来たんだ?」
「変なことを言うなよ…
ん? 確かにさっきまで何してたか思い出せない。そして君、その制服、どこの学校の物だったかな?
今いる場所すらも分からないなんておかしいぞ…」
「そうだ……!! そこの女の制服、なんとなく思い出した…
俺達はあの時、あの学校で……
GRRRRrr‥
俺達は……!」
作業服の男達の見開かれた眼は血の色に染まり、大きく破れた口の端から黒い液体が流れ出す。
服を突き破って骨が全身から飛び出し、人間らしかった原型の一切は失われた。
「「ARRRRRRRRRRRRGH!!!」」
顔面中に開いた深い空洞から不気味な音を上げ、二体の怪物は牙を剥いた。
ーーーーー
廊下では横一列で並ぶ制服の女子学生達が、ゆっくりと自分達のペースで歩を進めている。
時々上がる笑い声も、自然で優しく、聞いている者を安心させる穏やかな響きだ。
透き通るように美しい女子学生達が歩く時に、廊下は一切音を立てない。
まるで彼女達の周りに音がついて行かないかのように、足音すらも立てられることは無い。
ギシリと音を立てたのは、そのような完全な肉体を持たない者、この学校への闖入者だ。
「あら、どなたかしら?」
「存じ上げない顔ですわね」
「転入生の方でしょうか…」
「…………GRRRrrr…」
女学生の内の一人が呻き声を上げ、全身から肉の棘を生やす。
「何事です!?」
「ああーっ! お姉様、どうなさったのですか!? 何ゆえそのようなお姿に、ああッ!! 私の声が聞こえないのですか? お姉様ッ、お姉様ーー!!」
友人の声を聞く素振りも無く、紅いハリネズミは闖入者に向かって、一直線で突進した。
ーーーーー
保健室。ここは劣化と損傷があまり進んでいない。
最近までまるで人が使っていたかのように清潔な白い部屋。
何か役に立ちそうな物が無いかと棚の中を漁っていると、ドアが開く音がした。
入って来たのは白衣の女性で、歳は恐らく20代後半。
そして姿は半透明。女保健医(ここからは女医と略す)の幽霊ということらしい。
「あらあら、ダメよ、イタズラしたら。お薬や包帯は必要な人が使う者なんだからね。
あら、あなたケガしてるじゃない。おいで、手当てしてあげる。」
襲われないかと逡巡し、近寄るか否かで迷っていると、女医の幽霊は笑った。
「大丈夫よ、私は自分が死んだことぐらい分かっているわ。
噛み付いたりしないから、安心して」
おずおずと傍に寄り、腕に消毒をしてもらう。
よく見れば女医の手は消毒液の瓶を掴んでおらず、ピンセットも脱脂綿も宙に浮いていた。
「ポルターガイストってやつかしら…
自分が使う分には、怪奇現象なんて物、怖くもなんとも無いものね、意外と。」
幽霊は優しく微笑み、この部屋を訪れた生者に尋ねた。
「自分が実際の所生きてるのか死んでるのかも分からない私が聞くのもなんだけれども、あなたは何者なの?」
「宍月 左道と、申します。
申し訳ありません、私はこの学校に何故自分がいるか、その理由は自分でも分からないです。
ただ、他にここに来た相手と闘えと、そう申し付けられています。
相手も私と闘うつもりでしょう。
私は既に悪意を持った霊に襲われて、殺されかけている身です。
戦意のある魔人などを相手にしたならば、生存可能かも分かりません」
「棄権したらいいんじゃないの?」
「棄権した後にどのような状態に置かれるかの説明は受けておりません。ただ、学校の外の森は、一度入ったら出ることができないと聞きました。
勝利すれば外に出してくれるとは聞いたのですが…」
左道は必死に状況を説明した。
戦いへの怯えと緊張で、舌が上手く動いていない。
冷や汗が服を湿らせ、口の中が渇く。
ここで勝利したいとは思っていても、今まで完全な状況の中だけで戦ってきた彼女には焦りのような感情が生まれていた。
「……ですから、私はここで勝たなくてはいけないのです」
嘘も少々織り交ぜたが、一応は矛盾無く説明を終えられた。
女医の様子を見ると、何かを考えているようだった。
「まあ、よく分からないけど、いいわ。
私も協力してあげる。ちょっとしたポルターガイストなら任せ」
言葉を紡ぎ終わらない内に、彼女のいた場所が、保健室の一部が丸々大きな赤く大きな肉の塊に変わっていた。
それは筋肉だった。筋肉は脈動し、徐々に膨らんでいた。
左道が保健室を出ようとドアに向かうと、そちらもいつの間にか肉の壁に変わっている。
左道は試しに肉の壁を殴ってみた。
拳に痛み。
見ると、手の甲が、箱状に抉られている。傷口からは真っ赤な血液がチョロチョロと流れ出していた。
「何これ? これがサトちゃんの戦う敵の能力ってことかしら?
無体過ぎない?」
筋肉は、触れたものを分解しては自らの身体として作り直しているらしい。
女医に、ポルターガイストという名の念力で、筋肉の中を走る血管などを切ってみるように頼んだが、すぐに再生してしまった。
「ああ、ダメだったわね、でも悪くない作戦だと思うわ。筋肉だって体の一部だもの。代謝を行っているはずよ。
栄養を断ち切れば活動は停止するはず」
ふと思い立ち、自分の拳から流れる血液を、筋肉塊に垂らしてみた。
分解されない。そう、この筋肉は外側に自分の血液だか誰の血液だか分からないものを纏っている。
左道の血液を浴びせられた所で、それが誰のものかも分かっていないらしい。
今度こそ、女医に頼んで、血液を浴びせた箇所の血管を切開してもらった。
女医の念力は弱小で、本当に小さな穴しか開けられないが、それでも左道の血液が血管内に混じり込んだことだろう。
か
『ジ・アダナス』でこの筋肉を「宍月左道」アレルギーにする。
アナフィラキシーショックだろうか、一度痙攣した筋肉は、動きを止めて、溶解していった。
天井まで肉に変わっていたので、壁が溶けたところで天井が落ちてくるようなことは無かったが、校舎は大分ボロボロになったことだろう。
保健室の窓から飛び降り、校庭に出た。
空は青い。地面は焦茶に、緑の草花。
そして、校舎の半分以上が、赤く溶けかかっているのが分かる。
無事なのは、体育館、テニスコート、プールの辺りだろうか。
ボーッとしていても仕方がない。
左道と女医は、敵の動きを警戒しながら、まずはテニスコートに向かった。
ーーーーー
「来無様ッ!
あなたは必ず■■■■■を支配できまするッ!
もっと! もっと! 存在しているもの全てを■■■■■に変換できると思いなさいッ!
空気を吸って吐くことのように!
ビッチが男の顔面からビチャッ!と射精させる事と同じようにッ!
できて当然と思う事ですぞ!大切なのは認識することですぞ!
魔人能力を操るという事は、出来て当然と思う精神力なんですッ!」
虚本来無の隣にいるのは、彼女が学校の掃除用具や机椅子から作り出した人間。職業は軍師だ。
彼女は以前、■■■■■から自分の身体を作り出したことがある。何度か失敗したが、他人を作り出すことも不可能ではないようだ。
彼女はこの能力で、人間の友達を作り出そうと思っていたが、結局作られた人間は外見が他人なだけで、知識も考え方も来無の持っている物と殆ど変わらなかった。
軍師は、基本的に知識としては来無も知っていることしか喋らないが、極稀に知識と知識を組み合わせて、来無本人も思いつかないことを考え出す。特別に脳を大きくしたので、その恩恵なのだろうか。それでも、友達とするには色々と自分と似ている部分が残り過ぎていて不満が残る。
校舎を来無自身の身体に変えてしまうというのも、軍師のアイデアだった。
自分の身体をモデルにしているとはいえ、直接脳に接続していない肉の部品を自分自身と認識することは簡単では無かった。
しかし、何となく一度思い込んでしまえば、肉の塊は彼女の一部だった。
彼女自身が触れた物は■■■■■に変わる。
■■■■■は彼女の身体、筋肉や肉に変わる。
肉が触れた物は■■■■■に変わり、■■■■■は肉に変わる。
無限の分解攻撃である。
とはいえ、彼女がはっきりと自分の触れているもの認識できるのは質量を持っている物の中でも、しっかりと形を持っている物に限られた。
彼女の感覚器官では、空気と真空の違いも分からない。
自分の汗と外から垂らされた液体の違いも明確でない。
そこを突かれ、毒を撃ち込まれたようだ。
彼女の肉と筋肉は死んだ。臓器はないものの、栄養や酸素はしっかりと彼女の身体と接続しながら供給していたのだ。
肉塊と化した校舎と接続していた彼女も少なからずダメージを受けたが、自分の全身■■■■■に変えて、それから■■■■■を健全な状態の虚本来無に変換することで、ノーダメージ状態に戻ることができた。
即死攻撃なら危なかったが、今回は校舎の異変に気付いてすぐ接続を切ったので、完全に意識を削がれる前に自身を■■■■■に変えられたのだ。
とりあえずこれ以上アイデアの出そうにない軍師を■■■■■にした後、お菓子に変えて食べた。
「友達ができたら、もっと美味しいお菓子を作れるように練習しないと…」
来無は体育館へ向かった。決戦の準備だ。
毒使いに対してアドバンテージを取るには、身体能力を上げて、尚且つ動き回れる場所でないといけない。
ーーーーー
テニスコートとプールには誰も居なかった。
左道と女医の幽霊は体育館に入る。薄暗い。
「電気のスイッチは確か舞台裏にあったわ。ポルターガイストで付けに行ってくるから待ってて」
女医が左道の側を離れてすぐ、体育館は明るくなった。
電気が点いたのか?
そうではない。体育館を作る材料が変わったのだ。
■■■■■に、次いで特殊な化学樹脂に。
体育館の床から壁、天井には、明るくなって初めて分かったが、肉で作られた触手がツルのように伸びている。
そして、体育館の真ん中にいるのは、ドラゴンの形をした肉だ。
外面は特殊な鱗で覆われ、その頭部と一人の少女の腰から下が一体化している。
「ようこそ! 私のステージへ。
そしてさようなら!
お友達になれなかったあなた!」
虚本来無だ。彼女は、ここで試合を行った相手と友達になるつもりは無かった。
転校生になれば、理想の世界を作る権利が与えられることを知った彼女は、もう出会った相手に対して希望も絶望も持つことを止めていた。
「さあ、行きなさい! 私の忠実なライムドラゴン!
あの子を食い散らかしちゃって!」
ドラゴンが突進する。よく見れば、その鱗は爪で、牙は肋骨から作られている。そう、これの材料も全て来無の肉体だ。
ドラゴンが触れたものは、■■■■■に変わる。
左道は突進を避ける。足下の触手に触れぬよう気を付けながら壁を駆け、ドラゴンの身体に腕を伝う血を振り掛ける。
しかし頑丈な鱗は血液が肉に触れることを防ぎ、逆に巨大な牙と両腕の鋭い爪で左道の逃げ道を無くすように追い回す。
地形を這う触手も少しずつ、太さと長さを増している。
戻ってきた女医は近くの触手から念力で千切っているが、ペースが遅く触手の成長の方が早い。
どうせなら来無本人の脳の血管でもぶち破った方が試合的には良いのだが、それには気付かなかった。
左道は動き回り、壁、天井すらも足場にして駆け、逃げに徹した。
しかし身体中から溢れる血液は、彼女の体力を確実に奪っている。
「ふふふ、そろそろかしら?」
来無が笑った。
彼女はドラゴンと触手以外に何か作戦を考えていたというのだろうか。
そういえば、体育館を透明な樹脂に変えたのは何故だろう。
ドラゴンの攻撃で体育館が崩れ、敵の逃げ場を作らないためだろうか。
答えは否。
樹脂製となった体育館はその内に空気を密閉させていた。
そして、来無、ライムドラゴン、触手の三者は、その空気を次々と■■■■■に変えていたのである。
先程液体や気体に触れているのは認識しづらいといったが、それらを認識できる部位は存在する。
私達はゲップをしたくなる時がある。空気を吸う前と吸った後で、肺の感覚が違うことがある。
そう、体内に閉じ込めれば、気体であっても、知覚できるものだ。
彼女はドラゴンや触手にも肺を取り付け、空気を次々と奪っていたのだ。
左道が倒れた。酸欠だ。
勝負が決まったか、と思われたその時、体育館に入って来るものがいた。
密閉した体育館に入れる者、それ即ち幽霊!
作業服の男×2と女子生徒数人だ。
「大丈夫ですか?倒れていますよ」
「先程は迷惑をかけたな」
彼らは左道によって敵意を無理矢理引き出され、襲った左道に対して罪悪感を感じていたのだ。
「あなた、友達が欲しいんだって?」
女子生徒は言った。
「私達も、ちょうど新しい話し相手が欲しかった所なの」
来無の能力は、質量の無い彼らに通じない。
この日、新たな幽霊がここに生まれた。