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あれは、なんてことのない月曜日の朝のことだった。
わたしはいつもと同じように朝四時に起きて、学園中の花壇の世話をしていた。
太陽が東の空から顔をのぞかせ、じょうろから零れる水滴が日光を反射しきらきらと光る。その様子はとても綺麗で、わたしの顔の花、寝起きで蕾だったそれらも八分咲きになった。
その時。花壇に侵入する不届き者が現れた。
「ウオオオオオーーーーーーッッッ!!!暗殺ーーーーーーッッッ!!!」
わたしはそいつをやっつけた。腐葉土に足をとられたそいつの頭を鉢植えで動かなくなるまで殴り、そのまま花壇の中に埋めた。花を大切にしない大馬鹿者だが、これでいい肥料になるだろう。
一仕事終えたわたしは園芸用品を片付けると、教室に向かうべく廊下へと続くドアを開けた。花の世話をしていたとはいえまだ始業時間には早く、校舎内にはわたしの他に生徒など居ない。
居ないはずだった。だが、彼女はそこに居た。
わたしはとっさにロッカーの中に隠れた。別にやましいことがあったわけではない。だが、隠れざるを得なかったのだ。
……彼女は綺麗だった。わたしには彼女が夜明けの太陽にも負けないほど、否、それを遙かに上回るほどに輝いていて見えた。直視するには、そして直視されるには眩しすぎて、思わず隠れてしまったのだ。
あれこそまさしく大輪の華。わたしの顔の花が満開になった。
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妃芽薗学園が園芸部員のひとり、ゼラニウムは現在、どこともわからない旧校舎の空き教室のひとつで座り込んでいた。
一人ではない。彼女の横にはもう一人女学生が座っている。どことなく存在感が薄い、なんだかほわほわした雰囲気の女子。その名を虚本来無と言う。
ゼラニウムは彼女のことをよく知っていた。それは案内人・蓮柄円に教えられたからではなく、それ以前、この校舎に来る前から知っていたのだ。
「ど、どうしよう……私から話しかけるべきなのかな……?」
来無は虚空に向かって話しかけている。考えていることが口から出てしまうタイプなのだろうか、先ほどから独り言が多い。だがそんな彼女の癖もゼラニウムはよく知っていた。
(ぐわああああああああああああかあああわあああいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!)
何を隠そう、ゼラニウムは虚本来無ファンクラブの会員なのである。それもただの会員ではない、会員ナンバーひと桁の古参兵だ。だれよりも来無を好きだという自覚すらある。来無のことは何から何まで知っている。スリーサイズだって知っているのだ。
それもこれもあの日あの朝、廊下でばったり来無と出くわしたことが原因である。あの時ゼラニウムは来無に一目ぼれし、猛スピードで彼女の事を調べ上げると当時はまだ草の根運動レベルだった来無ファンクラブ(通称KFC)に入会。異常ともいえる熱狂的活動によりKFCを学園内ファンクラブランキング一位にまでのし上げた。
それらはすべて来無のためだ。彼女に寄り付く害虫を『駆除』し、その美しさ、完全さを保つ。そのためのには圧倒的な組織力、そして完全な統率力が必要だ。KFC鉄の掟にも『来無との接触は可能な限り避けること』とある。遠くから眺めるのが乙なのだ。
その活動ゆえに来無に友達ができないという結果も招いてはいたが、悪い虫がつくのに比べたら何のことはない些事である。
そんな手練れのKFC会員であるゼラニウムが今、彼女の崇拝する来無と同じ空間に存在し、同じ空気を吸っている。あまつさえコミュニケーションを図られている。彼女の脳はすでにキャパオーバー、処理能力の限界を超えオーバーヒートしていた。心臓はうるさいほど高鳴っており、顔の花はまばゆいほどの狂い咲きだ。
(やばいやばいやばいやばいやばい!!!このままだと死ぬ!!!幸せ死ぬ!!!)
かろうじて表面上の平静を保っているが、それもいつまで保つかはわからない。来無が積極的にコミュニケーションを取ってくるタイプであったら既に心停止していたことだろう。そこまで追い詰められていた。
(おちつけえええおちつけわたしいいい!!!)
ゼラニウムは『フラワーギフト』を発動した。咲かせる花は赤いアザレア。花言葉は「節制」。彼女のまわりに花弁が舞い散り、よこしまな感情を「節制」する。
(お、おち、おちついた……!これで耐えられる……!)
「えっと、大丈夫ですか……?」
顔のアザレアが爆散した。
「節制」の効果を受け、迷いを断ち切った来無がコミュニケーションを図ってきたのだ。ゼラニウムは自分の事でいっぱいいっぱいになっていたがために横の来無にも『フラワーギフト』の効果が及ぶことを失念していたのである。想定外の出来事に付け焼刃の「節制」は跡形もなく吹き飛んだ。
(うわあああああああああああああああああああ!!!!!!)
もはやまともな思考すらままならない。彼女は感情のおもむくままに来無を押し倒した。鉄の掟など知ったことか。据え膳食わぬは女の恥よ!
床に仰向けに寝そべる来無の上に、ゼラニウムが日を遮る屋根がごとく覆いかぶさる。顔に咲く花はヒルガオ。花言葉はそのものずばり「情事」だ。ヒルガオの花弁が散り、ゼラニウムの花弁が濡れた。
「あっ、やぁ……」
ゼラニウムの身体の下で、来無が身を悶えさせる。彼女にもヒルガオの『ギフト』が効いているのだ。その顔は赤く紅潮している。
堪らずその唇にキスをしたくなったが、残念なことにゼラニウムの顔は花で覆われているため口づけをする事ができない。キスは諦めるしかない。
次に彼女は激しく上下する胸の手をかけようとした。その双丘を侵略し、思うがまま蹂躙しようというのだ。それはどんなに愉悦で、そして残酷であろうか!
しかし、その手は来無の体に触れる前に停止した。
《やめなさいゼラニウム……やめるのです……》
南無三!良いゼラニウムだ!白い羽を背負った幻覚が錯乱したゼラニウムに語り掛ける!
《来無ちゃんを遠くから眺めて楽しんでこそ一流の来無マニア。直接手出しするなんて百合の花を炒め物にするがごとき暴挙!さあ、やめるのです!》
(しかし……!)
《しかしもかかしもありません!やめるのです!》
良いゼラニウムはゼラニウムを叱りつける。その主張は実際正論だ。
《さあ、手を退かして……距離を取って、陰からこっそり愛でるのです》
《おっと、それはどうかな?》
別の声!なんとなく不良っぽい幻覚、悪いゼラニウムだ!服が黒く見るからに邪悪!
《見ろよ来無ちゃんの顔を!怯えと興奮の入り混じった表情!たまらねえぜ!》
(確かに……!)
なんて悪いやつだろうか!わざわざ相手の嫌がる事をして、そのリアクションを見て楽しもうというのだ!さしもの筆者も戦慄を隠しえない!
《なにを言うのです悪いゼラニウム!来無ちゃんはぽやぽやしたアホみたいな笑顔が似合うのです!あたま空っぽの方が夢詰め込めるというでしょう!?》
《だが体育の授業で二人組できなくてオロオロした顔もそそる!そうだろう良いゼラニウム!?》
《ぐっ、それは……そうですが……しかし!》
ふたりの幻覚ゼラニウムは来無の可愛さを巡り討論を始めた!
実在ゼラニウムはその様に混乱し動きが止まってしまう。オロオロ顔はたしかに良いものだ。体育の授業の盗撮写真を思い出し、うんうんと頷く。
「え、えーっと……なにこの状況……?」
固まった彼女の身体の下で、来無は虚空にむけて呟く。ヒルガオの花は既に散っていた。
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十数分後、空き教室。
ゼラニウムが土下座していた。
床に這いつくばる彼女の前では来無がオロオロしている。無理もない、自分を押し倒した相手が無言で立ち上がり、そのまま流れるような動きで土下座したのだ。しかもその行動の理由説明はない。まったく訳が分からないのだ。
「その、私は大丈夫ですから、怪我とかしてませんから、頭を上げてください……」
おずおずと話しかけるが返事はない。それどころかさらに頭が下がった。ほとんど床にこすりつけるような体勢である。
「どうしよう……怒らせちゃったのかな?」
虚空にむけてそう話しかける。返事はない。
「そう?でも私は怪我とかしてないし、レスリングはいままでにないくらい興奮したし……私が怒る理由はないよ?」
だが来無はそんな事を意に介さず会話を続けた。まるでそこに誰かが居るかのように。どうやら押し倒されたことはレスリング勝負を仕掛けられたと理解したらしい。
その時!
「こんにちは虚本さん」
「ひゃい!?」
教室の扉を開け、ひとりの女生徒が現れた。白いフード付きパーカーを着たセミロングの女子、案内人・蓮柄円だ。
「な、なんでしょうか……?」
来無がおずおずと訊ねる。彼女と会うのは初めてではないが、しかし特別仲がいいというワケでもない。コミュニケーションに多大な労力を必要とする来無にとって会話するだけでも一苦労だ。
「いえ、虚本さんが勝利されたようなので。そろそろ帰りますか?」
「はあ……勝った?」
「ええ。あなたの勝ちです」
案内人は平坦な口調でそう告げる。来無の勝利だと。
「え、でもレスリングまだ終わってないし……」
「レスリング?いえ、そういうことじゃなくって」
そう言うと彼女は、床に張り付くように土下座するゼラニウムを蹴ってひっくり返した。
「あっなにを……っ!?」
「ほら、この通りです」
潰れたカエルのような姿勢のままひっくり返された彼女は、
「し、死んでる……」
既に息絶えていた。
その顔にはもう花は咲いていない。だが、もう隠すもののないその表情は、花が咲くかのような満面の笑みを浮かべていた。来無に心配され、あまつさえ直接声をかけられるという幸せに堪え切れず幸福死したのだ。それはきっと天にも昇る心地だったことだろう。
「分かりましたか?じゃあ帰りましょう」
蓮柄は淡々とにそう言った。その言葉の響きには感情がなく、まるで事務仕事をさっさと終わらせたいかのようだった。
「ち、ちょっと待ってください、ちょっとだけ、やっておきたい事が……」
そんな彼女を来無は止めた。帰りたくないわけではない、だが、やりたい事はまだ残っている。
「なんですか?死姦するならさっさと済ませてください」
「しか……っ!?違います!ちょっと物を置いていくだけです!」
「まあ別にそれなら……粗大ゴミじゃなければいいですよ、たぶん」
興味がなさそうに案内人は言い捨てる。それを聞くと来無は空中から花を作り出し、仰向けに横たわる女生徒の亡骸の上に置いた。
「じゃあね、名前も知らないあなた。短い間だったけど、あなたは私の……」
それだけ言うと、彼女は案内人に連れられて現実世界へ帰還していった。
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誰もいない旧校舎に、ひとりの女生徒の骸が横たわっている。その手には花が一輪。
その花の名前はゼラニウム。花言葉は「真の友情」―――
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【勝者・虚本来無】