一体、何が起こったのか。わたしは霧吹きとシャベルを手に呆然と立ち尽くしていた。
楽しい楽しい臨海学校をブッチして学園に残り、、花壇の手入れに勤しんでいた……はずだった。
強い日差しが麦わら帽子の上から容赦なく照りつけてくる。お昼を少しまわったころだったろうか、一息つこうと立ち上がった瞬間くらりと視界がねじれた。
すわ立ち眩みか!と、わたしは頭を振った。
一回、二回。日差しが陰る。今までの暑さが嘘のように、ヒヤリとした空気が足元を這う。
三回、四回。慣れ親しんだ土と草花の臭いがさよならして、木の臭いとカビ臭さが辺りを支配した。
気付けばわたしは見知らぬ教室の中にいた。古ぼけた木造の校舎はどこまでも薄暗く、しんと静まり返っていた。顔に咲き誇るゼラニウムの花も不安げにしゅんと萎れ、花びらの色が赤から青に変わった。
非常識の裏に魔人能力あり。それがこの世界の常識だ。
この非常識な現象、夢でなければ魔人能力に他ならない。しかし、妃芽薗学園内には特殊なフィールドが張られており、一部の例外を除いて魔人能力は行使できないはずだ。では夢か。試しに腕をつねってみる。痛い。痛いが……そもそも、誰が言ったか『痛かったら夢じゃない』なんて眉唾だ。
「あなたの考えていることは、半分正しい」
淡々とした少女の声が静寂を裂いた。ジジッと視界にノイズが走る。わたしは花を見開いた。いつの間にかフードを被った小柄な少女が、教卓にちょこんと腰かけていた。突然の出来事に花を白黒させていると、再び少女が口を開いた。
「あなたは選ばれてしまった。あなたは戦わなくてはならない」
……何を言っているんだろう。謎の現象と突然の登場と要領を得ない物言いに、わたしは霧吹きで答えることにした。
シュッシュッシュッシューッ!
「……ここは現実から隔離された空間。勝者のみがこの悪夢から脱出する権利を得る」
顔を水滴だらけにしながらも、表情一つ変えずに少女は続けた。負けるものか!
シューーッシューーーッ!
「また勝しうッ……勝者は新たな力を得て転校生になれるだろう」
シュシューッシュシュシュシューーーッシュッ!シューーーーッ!!
「……」
しばしの沈黙。ぽたりぽたりと少女の顎から水滴が垂れる。怒ったかなと思いきや、やはりその表情は変わらない。そして教卓の上にハガキ大の紙を置くと、「健闘を祈ります」と言い残し、再びノイズと共に姿を消した。
しまった。つい霧吹きに夢中になってしまっていたが、先の沈黙はどうやら『質問タイム』だったようだ。確認したいことがいくつかあったのに……迂闊だった。教卓の上の紙っぺらを手に取る、写真だ。そこに写っている女は見覚えがあった、たしか同じ学園の生徒だったはずだ。これが『選ばれてしまった、わたしの戦わなければならない相手』というわけだ。
顔面が水滴だらけの少女の言葉を信用するわけではないが、とりあえず殺して、駄目ならまた考えよう。とにかくこんな薄暗いところに永住するのは真っ平ゴメンだ。わたしは帰る。帰って――
花壇の水やりの続きをしなければならないのだ。
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ねえ、この子、どう思う??……ええ、ええ、そうでしょう!とても――よねえ!あ――もやっぱり――と思うでしょう!
えっ?……もう!すぐそうやって――るんだから!ち、違うわよ!私はただ――るだけ!……ふふ、アハハ!まあいいわ!
さあ早く、この子の――って、お――しましょ!
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屋上から見える空は、どこまでもどんよりと黒ずんでいて今にも泣きだしそうだ。学校と思しき敷地の外側に広がる黒い森は果てが無いように思えた。
件の対戦相手は案外とあっさり見つかった。
とりあえず一番高いところから周囲を確認しようと、木造校舎の屋上に上ったら、いた。同じ思惑だったか、待ち伏せをしていたふうではない。こちらに気付くとヒラヒラと能天気に手を振ってきた。
初対面だが、わたしは彼女のことを知っていた。向こうも、そうだったのだろうか。お互いに学園では(まことに遺憾ながら)悪目立ちしているから、知っていてもおかしくはない。
彼女は、わたし以上に学園で孤立していた。常に見えない何かと会話するかのようにブツブツと独り言を呟いてはほくそ笑むといった気色の悪い一面もそうだが、さらに、仲良くなろうと寄っていった物好き達がもれなく失踪するというオマケつきだった。物好きが一人減り二人減り、そして誰もいなくなった。
名前は……興味がなかったので忘れてしまった。ちゃんと覚えておけばよかった。魔人能力というものは、往々にして名前から能力内容を類推することができるからだ。
ほんのちょっぴりだけ他人に興味を持とう、と心に少しだけ刻み付けて、独り言女を見やる。時折こちらをちらちらと見ながら虚空とのおしゃべりに勤しんでいるようだった。笑ったり頬を膨らませて口を尖らせたりと、大層盛り上がっているようだ。全力で関わり合いになりたくない。
さっさと終わらせてしまおう。気持ちを研ぎ澄ますと、わたしを中心に渦を巻くように花びらが舞う。顔面に咲いていた赤いゼラニウムが散り、白い可愛らしい花が散房花序をつくり、ギザギザとした攻撃的な葉が生えた。学名アキレア、和名ノコギリソウ。学名の示す通りその名の由来はギリシア神話の英雄アキレス、戦いを象徴する花だ。魔人能力がわたしの体の隅々まで根を張り、増強されていくのを感じた。相手の能力はまだ不明だが、この距離なら一瞬で詰め――
何か、違和感を感じた。ほんの少しの、何か。それが魔人同士の戦いでは致命になりうるのだ。わたしは花を凝らした。
……ッ!!『消滅して』いる!!花吹雪が彼女の体に触れた瞬間、音もなく消え去っていくのが見えた。原理は分からないが、物理攻撃無効+即死相当の非常に強力な魔人能力か。気づかずに突っ込んでいればわたしもあの花びらと同じ末路を辿っていたかもしれない。冷や汗が葉を伝った。
戦い方を変えなければならない。ノコギリソウの小さな花が散ってゆく。あまり、気は進まないが……。散った下から、六つの弁が合着した禍々しい管上の赤い花が顔を見せる。そして、ノコギリソウのそれよりも遥かに攻撃的で肉厚な葉が敵意をむき出しにした。
「うふふ、ねえ、そこな顔面お花畑七変化な人。よろしければ、私と――」
独り言女が、はじめて虚空ではなくこちらに向かって声を発していた。が、これから殺す相手の言の葉など聞く花を持たぬ!わたしは彼女を言葉を待たずに花の贈り物を行使した。
「とも、だ……ア゛ア゛ア゛アアアアアアアァァァァアア゛アアッッッ!!!!!」
突如もだえ苦しみのたうちまわる。闇雲に能力を振り回しているのか、ボコンボコンと屋上に穴が開く。わたしからの贈り物は『苦痛』!アロエの、それが花言葉だ!
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ア゛ア゛ア゛アアアアアアアァッッ!!!――い!!――しい!!――い――ついいいい!!!!ねえ――ん――てる!?
――情ッ!!!ンア゛アアッ!!これが!!!友――んだ!!!ねえ!!――が――でさあ!!やっと私本当の――を――たんだ!!
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無差別な不可視の消滅攻撃をなんとか躱しながら、苦痛をプレゼントし続けた。魔人として体術に優れているわけではないわたしは、いくつかの攻撃は避けきれず左手首の先と右の脇腹が消失してしまったが、痛みはない。やがて無差別消滅がぴたりと止み、永遠にも感じた攻防が終わりを告げた。
わたしは、痙攣して白目を向いた女の元に慎重に足を進めた。木造の校舎は崩落していないのが不思議なほど穴だらけになっていたが、崩れる様子はなかった。勝敗は決していたが、念だ。わたしは、シャベルを振り上げ――
突如、失われし左手と右わき腹からボンッと花が咲いた。赤い赤いゼラニウム。それだけではない。そこらじゅうに空いていた校舎の穴も赤で埋め尽くされていた。草花の香りが、私の大好きな香りがその場を支配した。
そう、彼女の能力は物質を消滅させる能力ではなく、変換する能力。この花の、赤いゼラニウムの意味する言葉は――――
まあ、それはそれとして、わたしは痙攣するそれにシャベルを振り下ろした。
べシャリと、屋上にもうひとつ大きな大きな赤黒い花が咲いた。