夏の夜。
古びた木造校舎。
月はもろくも雨雲に隠れ、電熱の途切れた暗闇の中にいた。薄明るい灯篭のように瞬く度に、瞬間の光と闇を瞼(まぶた)に焼き付ける。白いワンピースの女がハンドバッグを片手にして歩いていた。
ジ、ジィー……、彼女が歩く度に音がする。寿命を終えて落下した蝉の断末魔だろうか。喧しくも、朽ちてしまった木のきしむ音をかき消す程度に敷き詰められているというのだろうか?
いいえ、そんな地獄のような光景ではありえない。これは古い映写機が立てる音、からからと回るリール音。白と黒、自然にはあり得ないモノトーンの女性が不自然と歩いてくる。
西洋人らしく鼻梁が通り、手足も長い。けれど、彼女の周囲は古い映画のように白黒だけで構成され、人間部分も時々ノイズらしきものが走っている。この世のモノでないことは明白だ。
「リュドミラ様。現地に到着しましたわ。鮫氷しゃちらしき者は見当たらず……」
「それはそうだろうね。あの気分屋め、ここを隔離したことすら忘れているに違いない」
女が手に持った写真に向けて語り掛けている。誰か――たとえば潜望鏡で観察している誰かとかなら、訝しむと同時に分析を進めていただろうか。けれど、写真からはアルト! 若い女の声がした。
(「おそらく、通信系の能力……?」)
複数立てた仮説を棄却、ひとつに絞る。
先の唐橋弥子のとの戦いでは後の先を取ることで勝利した伊六九だったが、相手の命を取ることまではしなかった。出来なかったというより、したくなかったというのが正しいかもしれない。
合理的に考えれば、必要なものが勝利だけというなら対戦相手を殺す必要は無い。もしかすると彼女は相次ぐ生と死の中で、戦いを倦んでいたのかもしれない。
「対戦相手は伊六九という方だそうですが。缶娘……ってなんなのですの?」
「それは私が聞きたい」
二人は敵地にあって、眼下の伊号缶娘を知る由もないのか呑気にも会話を進める。伊六九も情報を出来る限り拾い上げるべく聴音の精度を上げていた。
ごぽり。
木と肉、アルミとスチールが同化する。伊六九のパーソナルスペースは極端に狭い。小柄な体躯、密室に耐えられる恵まれた精神、潜水缶乗りには丁度いい。
一人と一枚が歩みを進め、一缶がそれを追う。音と音、反響と残響、暗闇の中で時折浮かび上がる真珠の瞳。白黒の女、風月(ヴァントーズ)ペルルが手を振る、足を振る。
歩いていく。朽ちた学舎を舐めたのか、履いてきたサンダルが滑り落ちて足の裏を埃が黒く汚した。
白と黒、鮮やかな世界を知らないのか、ペルルは気に留める素振りも見せずにサンダルを拾い上げると、正しい位置に戻す。
この間、伊六九は付かず離れずで理想的な距離を保っていた。
『暦』、『カランドリエ』、『蓮柄円』、『鮫氷しゃち』、『皐月咲夢』、『卯月言語』、『高二力フィールド』、『転校生』、『口舌院焚書』。
様々なキーワードが漏れ出でては消えていく。これがたゆたう水の中というのなら、魚たちに掻き消されてしまっただろう。吸音タイルを兼ねた黒いスク水は、余計な音を立てず潜航速度を保つ。
2.0kt/h(時速2ノット)。
丁度、女性の歩く速度に合わせ低速で回す。
空中に舞い上がった埃が『ペルルのキネマ』と外界との境界線上を四角く縁取りしては、平行に流れていく。足元の砂利が押し出されて溜まっていった。
解除しようと、瞬時。いや、考え直す。解除し実体なき映画の住人と化してしまえば写真を取り落とすことは確実だ。本来、彼女は物質世界の住人ではないのだから。
夜半の風が生ぬるく感じ、風月ペルルは、自分が壁の中に閉じ込められた女優でないことにほっとする。
渡り廊下を風雪雨から守るトタンの屋根が夏の嵐の予兆に、べコリと音を立てる。幻でしかない我が身を精一杯振るい立てて自己主張するようだった。
ペルルは、現のモノでない校舎と時折姿を見せる霊魂のことを少し哀れに感じたけれど、今は足早に道を急ぐ。
教室棟からグラウンドを横目に大回り、歩むルートから推察するに目指すはプールだった。
(「缶娘を探している……?」)
「缶」は元来水に浮くもの、対戦相手を探す発想としてはごく自然だ。
無論、前提として背後から土遁でニンジャが忍び寄っている事実に目をつぶっての話となるが。
風月は炎天下に晒され続けた名残か、枯れ草を踏みしめて水の香りがするプールへ足を踏み入れる。
重ねて言うが敵に背後を向け、隙だらけだ。
ここに来るまで偏差射撃を駆使すればクリーンヒットは容易いだろう。だが、それを伊六九はしなかった。なぜか?
甘えや迷い、と一言で片づけられれば随分楽になっただろう。
だが、合理的に考えて相手を倒す前に、ローリスクで確度の高い情報が手に入る現状を崩すつもりはなかった。
もうひとつ、街灯、そこから来る光と影に違和感を感じる。白いワンピースの女性「風月ペルル」の周囲の空間が独立しているフシがあった。
さらに、写真がこちらをちらちら見ているそんな気がしたから。いいえ、事実、写真の主は意志を持っている。写真そのものと言うより、そこを小窓にして覗き込んでいる何者か、だったが。
鍵は、壊れていた。
先客がいたから……だろうか? 写真に向けて不安をささやきながらも、そこから勇気をもらったのか歩みを進めていった。
瞬き、明滅を繰り返し、今にも息絶えようとする照明がペルルを照らす。
未だ地に潜ったままの伊六九はここが終着点であることを、実感した。
風月はところどころが罅割れたプールデッキに恐る恐る腰を掛けると、ほっと息をつく。生ぬるい水がパシャリと跳ねて指先を濡らした。
風月ペルルは写真の少女、芽月リュドミラの声を待つ。息をひとつ、ふたつめ。
「いない……か」
「逃げてくださっていると助かるのですが」
「そちらは望み薄だが、我らの目的は別に勝つことじゃあない。さて、鮫氷(さめすが)しゃち召喚の儀式をはじめようか」
風月ペルルはその場に跪くとハンドバッグから何かのパウチを取り出す。
続いて、その中身を盛大にプールサイドにぶちまけると、反応を待った。
なにかの干物と言うべきか、白い破片は水を吸って高級食材の片鱗たるその姿を取り戻す。
「フカヒレで呼び出せなかったら、次はズワイガニ。ズワイガニでダメだったらフォアグラ。フォアグラでダメだったら以下略」
明らかにハンドバッグに収まる量ではないが、これも何らかの魔人能力によるものか。
誰かが誰かを呼び出すために盛大に高級食材を不法投棄している。
接近。地中から水中に。
水中は、銀の帳(とばり)が降りない。空間系能力でも十中八九、光学系の能力原理と推測。
接近。
伊六九はスコープを覗きロックオンを開始する。これ以上の事態の進展が望めないなら。
いつでも撃てる、とりあえず撃ってから考えよう。そう、兵装のロックを解除した瞬間だった。
ソナーに感あり!
何かが私を目がけて浮上してくる!
ああ、誰が予想しただろうか、毎度毎度飽きるまで食べ続ける鮫氷しゃちのマイブームがトコブシであったことに。もし、予算がもう少し潤沢であったらアワビを採用し、無反応であったのに。
水泳部兼シンクロ部所属、もうひとりのスク水少女。鮫氷しゃちは猫のように笑った。
浮上する少女、深海から大口を開けて食らいつく気まぐれな女神、転校生を相手にかつてのスペックとは程遠く、死を覚悟する。
死。
(「ちがう」)
遠隔。魚雷手裏剣。投擲。
(「違う」)
起爆。水煙。ソナーON/OFF間に合わず。
身体が軋む。航行に支障なし。聴感が死。
「違う!」
女と目が合う。
驚き、勇んだのか、女が砕かれた足元の陶片を手に取る。
「よせ!」
写真から制止する声も届かずに、鎖分銅を投擲。
地上を航行、走る。
12.0kt/h(時速12ノット)。
並の人間よりは、速い。
足を水面から抜く。飛び出す。瞬間。
背後で爆音が響き、私は意識を手放した。
再び意識を覚醒させてみると、そこは真っ白な空間だった。
空。
からっぽ。
圧倒的になんにもない。無色であって透明でなく。
“ある”けど“ない”。そんな存在感。世界が一枚の紙だとするなら、伊六九はその上にただ一人転がされた人形だった。
「一六九、これは……?」
何もかも見知ったといいたげな“彼女”が戸惑うことに、付き合いの長短を問わずともまずは小気味よさを感じるべきなのだろうが、そのことより伊六九は現状把握に徹することにした。
恐れを抱いていないわけではない。
だから、何気なく歩いていって、ぶつかっただけだった。
パタリ、パタリ、目の前からドミノ倒しのように真っ白な立割が倒れていく。先に、少女は世界の広さを知った。
視界の許す限り、宇宙空間。星が留まり、闇を切り裂き、明滅する。
そんな中をやたら個性的な文字が空気を読まずに自己主張をしていた。
≪ごきげんよう。≫
「ごきげんよう」
≪さわやかな夢の挨拶が、銀河流星雨に木霊する。
ゆらぎ様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚れを知らない心身を包むのは(中略)
もちろん、超光速航行で走り去るなどといった、はしたない征途など存在していようはずもない。
ここは宇宙私立妃芽薗女学園、お姫様の園。≫
エピソード4からはじまる壮大なBGMと謎のナレーションコミコミ字幕スーパーで壮大なモノローグが床から地平線の彼方まで駆け上がっていく。
思わず目で追ってしまっていた。
真っ白な少女が底に立っていた。絶世の美貌を有する六九をして伍すると言い切れる美少女。
呆れるほどに長い紙色の髪と肌色と言うしかないきめ細かい肌。小柄で貧乳、高そうな着物を着ていた。
≪私はこの世とは違う『理系』の宇宙を支配する超銀河日本帝国皇女『口舌院焚書(くぜついん・ふんしょ)』。人は私のことを口舌院家のプリンセス覇王(はおー)と呼ぶ。
ついでに言うと銀河女帝ア・キ・カーンXとは敵対関係にあるわ」
焚書が手を叩く。その瞬間に超プレミア★ティ―セット一式が本体のお嬢様ともどもこの世界に顕現する。
字面はよくわからんが、とにかくすごい自信だった。
ロングストレート黒髪、清楚なお姉様、目を閉じている。
≪こちらの人間もしくは魔人は安全院ゆらぎさん、あなたの時間軸――いや、あなたたちが今いる時間軸でつい最近、眠りについた人で、安全院綾鷹の娘よ。
……どう、驚いた?≫
先から流れているナレーションは彼女の意志だとでもいうのだろうか?
悪戯っぽく虚空に目線を向ける彼女に伊六九はポーカーフェイスのままに、同じところに視線を交差させる。
≪ここは夢。あなたは夢を見ているの。夢と言っても生きている人は起きたままだし、死んでいる人は眠ったまま。要するに『放課後ウィザード倶楽部』、好き勝手に魔法を使える素敵な空間ね。≫
だから、眠り姫「安全院ゆらぎ」はその瞳を開かず茶話会の主人として振る舞うつもりのようだった。手は震え、危うげにティーカップの中身が注がれる。焚書は逸れて指先にかかる熱い液体に何ら注意を払わず、角砂糖を片手に弄ぶ。十に足りない程度だったが、溶かすべく落とし込む。
花園で繰り広げられたはじまりの流血少女、それからわずかばかりの間を置いて巻き起こった血の饗宴に彼女は何を思うのか、ある歴史ではアキカンの女王を戴いた彼女だったが、今の歴史では皇女にかしずいている。
「要するに、夢オチ……と」
鏡写しの六九が思考を代弁する。
≪最初から夢と明言したうえでその前提上で振る舞うなら夢オチとは言わないわ。あなたたちは少々戦う理由が薄すぎたようだったから、お節介なようだけど介入させていただいたわ。≫
「戦闘って前提条件が崩されたようだけど?」
“彼女”の発言に無思考に追随するつもりはなかったが、聴覚と言うより全身に深く染み込んだ共感が否応なしに六九をうなずかせる。
それを見て焚書は少しがっかりしたようだった。
≪もし一(にのまえ)としての意志があなたを生かすのなら、私もそれに乗っかるまで。戦いの歴史なんてちょっと空間を遡(バックスペース)ってみれば幾らでも読むことが出来るのだから。
歴史などいくつでも分岐するのだけど、勝ち負けなく、前の試合の如く無関係の私がでしゃばる歴史があってもいいとは思わない?≫
「思わない。そもそもあなたは誰?」
六九のもっともな指摘に対し、焚書はくつくつと笑うと人の悪そうな笑みで言った。
≪私が誰かなんてどうでもいいじゃない。大事な家族のためと言ったらわかるかしら?≫
「あなたは口舌院と自分で言った」
「ではあなたのことを何といえばいいの? 一六九(にのまえ・ろっく)。七十二通りも呼び名があるって大変ね。私は精々三つだけど!」
言葉と共に改札が降りた。これが夢の魔法だというのか。
運命を乗り換え、過去と未来を振り捨てる。
≪1.21ジゴワットに達するまで私の計算では三日間、長めの休暇を楽しむといいわ。
それと、納得がいかないのなら野試合なんてどう? 夢のようじゃない。≫
文字と共に意識が遠のく。
残り二つの名、わからぬままに。