砂塵とホコリの積もった廊下。
木製である校舎は時の重みに潰れ、ササクレや傷痕ばかりに満たされている。
私は今、この廊下よりも汚く穢され、そして傷ついている。
裸足の足の裏に刺さるのは、木の裂け目から伸びるトゲや、錆びた釘。
ジクジクと熱に似た痛みが私の身体を苛み、足裏に増えていく穴からは血が流れ出ていく。
それでもまだ、この苦痛をも上回る苦痛が、私を生かしていた。
◆宍月左道◆
宍月左道、15歳の夏。
思いも寄らぬ形で、私の純潔と貞操は傷つけられた。
確かに
先に仕掛けたのは私だった。
レズセックスしようなんて思いついたのは私だった。
無理矢理襲いかかったのもわたしだった。
けれども
私は左手を奪われた。
私の能力の存在価値は貶められた。
挙げ句の果てに、唇は奪われ、肉体を弄ばれ、身体をバラバラにされた。
現在の自分の身体が、実際に自分のものであるかどうかも分からない。
このような恐怖を感じたくなんて無かった。
まさか直接戦闘に及ぶわけにもいかなかった。
私はこれまで、自分が死なずに済むと保証された状況でしか、危険に赴いたことは無かった。
それが、急に1人で戦えと言われたら、混乱もする。
本来、私の他人とのコミュニケーションは直感と経験に照らし合わせたギャンブルにも近いものだったけれど、安易に他人から聞いたデータだけを信じたのが失敗だったのだろう。
もっと自分の直感を活かせばよかった。
言葉が通じない相手に、ハグをしたり距離を詰めて話したり、スキンシップを取ったりして、友人らしい関係を結んだことはあったが、虚本は明らかにそれらの人間とは別物だったのだ。
焦ってレイプに及んだのは、より強固な相手には、より過激な方法を用いるべしというバトル漫画並のインフレが脳内で起きた結果だった。
本当にあの時の自分を殴りたい。
蓮柄円は私をまた何処かに転送した。
虚本来無先輩は私を本来の学校校舎に戻そうとしたようだが、案内人はそれを許さなかったのだ。
これ以上、虚本先輩が追ってくることは無いようだ。
だとしても、また誰かに襲われたなら。
怖い。
嫌だ。
気持ち悪い。
とはいえ私は、思い出の収集を辞めるつもりは無い。
小さい頃、誰かに教えて貰ったのだ。
遠い親戚の言葉だっただろうか。
名前も知らない他人の言葉は、私が生きる上での目的をくれた。
「人は僅かな時の流れでも変わってしまうけど、何があったかは変わらない。
友情や人間関係も変わってしまうけど、思い出はいつまでも色褪せない」
全くその通りだ。
中学でヤンキーだった私の兄は、高校でオタクに、成人する頃は姉になっていた。
母親は何度か顔が変わっていた。
変化は悪いことでは無い。
姉はより広い価値観を持つことができたし、母親は美貌を得た。
老いていく人々は、その間にも様々な経験を通して成熟を続けている。
だから、私は今のことだけを考えない。
たとえこの身を汚されても、心を傷付けられようとも、楽しい過去を思い出し、輝く未来を予想して、強く気丈に生きるのだ。
そのためにも
「ジ・アダナス」
生き残る、絶対に。
◆ ◆ ◆
蓮柄円が唐橋哉子を他世界の校舎に再転送した時、彼女は一つ、重大な発言を残していった。
「唐橋哉子、お前の能力名は『クリーピング・エアー』ではなく『クリービング・エアー』だったと思う。
間違えてたらスマン」
◆唐橋 哉子◆
それだけ言って、案内人は自分の帰るべき世界に帰って行った。
私は顔が熱くなるのを感じ、思い出したくもないことを思い出した。
「風紀委員会の鬼畜眼鏡」
「放っとくとあの子延々ワイヤートラップ増やし続ける」
「アンタ待ちゲイルし過ぎでお腹にプニプニついてきたんじゃない」
そして
「Creeping(卑劣な)・Air」
どれも、私を呼ぶのに使われた名前だ。
「クリービング・エアー」
私の魔人能力、そして私だけの武器の名前は、1年生の時点で間違えたまま伝えられた。
私の戦術もあいまって、「卑劣な」「忍び寄る」などといった意味で能力の解釈をされることも少なくなかった。
最初の内は訂正もしたが、悪意ある者は故意に能力名を間違え、それどころか誤った名称を広めていた。
風紀委員としての仕事をこなす度に、私に敵意を抱く生徒も増えていき、私の噂は相当デンジャラスなことになっていたと思う。
私の理解者でさえも、私を変な渾名で呼ぶことが増えた。
だから、もう訂正するのも諦めたのだ。
私は「卑劣」で良い。
「Creeping・Air」でも構わない。
風紀委員であれば、自由を求める娘達から恨みを買うこともある。
覚悟はしていたのだ。
あとは、それを受け入れるだけだった。
思ったよりも、それは簡単だった。
一般生徒達の求める「卑劣な私の像」と、私の求める「絶対的な風紀委員像」。
それらを重ね合わせて、新しい自分を作り上げていた。
だが、伊六九は強かった。
私の「絶対的な風紀委員像」は砕かれた。
もうこれ以上負けた所で、帰ることができるかも分からない。
もうこれ以上嘘を突き通す意味も無い。
他人のために戦うのではなく。
ここからは風紀委員として、唐橋哉子として戦う。
老朽化の酷い校舎。
割れた窓からは不快な熱風と砂埃が吹き込む。
戦場にしては趣がありすぎる。
戦意が散り散りになってしまわないよう、落ち着いたほうが良い。
思い切って息を吸い込み、吐き出した。
埃を吸い込むと咳が出るが、それでも深呼吸を繰り返す。
私の眼は今、闘志に燃えているのだろうか。
眼鏡を外し、携帯していたクリーナーで表面の汚れを拭き取る。
気合を十分に込め、それをかけ直す。
「私は唐橋哉子だ」
「私は風紀委員だ」
「私の能力はクリービング・エアーだ」
声に出して確認、自分の言葉をゆっくりと噛み締めた。
そして、今度こそ私自身の戦意をしっかりと確認し、戦場への一歩を踏み出した。
◆ ◆ ◆
時は夕刻、古校舎内には怪奇が満ち、現世に在らぬ者が現れ、在る者を傷付けんとする。
その者達の数に限りは無く、校舎が闇に包まれるにつれて、更にその支配を広げていた。
不吉な森からの遠吠え、校舎の屋根に群れるカラスの影、途切れ途切れのセミの断末魔、校庭を包む夕闇。
全てが生者の不安を煽る。
この薄気味悪い建物の中で今、怪異に襲われる女学生の姿がある。
その姿は大胆にも裸体に一枚の薄布を重ねただけのものだ。
「あーーっ、もうやだ帰りたい。何なのここ怖い」
宍月左道、彼女は足裏の怪我に構わず、自らを執拗に追い回す存在から逃げ回っていた。
壁や窓すらも駆ける三次元空間を活かした逃走も、今や追跡者には通じなくなってきている。
今彼女を追い回しているのは、人間の形をした残留思念、言ってみれば悪霊だった。
霊とは言ったが、彼らは質量を持っている。更には複数人が合体したり、変形したりもする。
左道も、最初の内は懐柔、それが駄目でも服従することで生き延びようと考えていた。
しかし、今回は直感で分かった。
悪霊は、未来のことを考えない。
当然と言えば当然である。悪霊は本来、過去の存在であって、そこから先に進むことはできないのだ。
損得感情も何も無く、ただ他人を呪う。
過去の妬み、嫉み、苦しみ、怨みを持ち越して、悪意を全方位に撒き散らすのが、ここの悪霊だった。
夜が近づくほど彼らの数は増え、動きも活発になっている。
足が触れる度に、校舎は軋む。
左道の身体には既に、いくつもの傷がある。
一つ一つの傷は小さくても、痛みは相当のものだろう。
(アレルギーになってくれれば楽だったんだけど……)
悪霊達に、左道の攻撃は殆ど効いていない。
殴る蹴るの攻撃は当たったが、左道の攻撃力は、非魔人同等か、それ以下ですらある。
とにかく、左道には逃げる以外の道が残されていなかった。
全力でダッシュ。
正面の悪霊を蹴って飛び越える。
着地前に奥の一体の肩を踏んで跳躍。
壁に足を付けて数歩走り、慣性が失われる前に壁を蹴る。
空中に飛び上がり、天井を蹴る。
落下の衝撃で手前の悪霊を倒し、再び加速。
彼女が悪霊を圧倒しているようにも見える。
しかし、最後の一撃以外は悪霊に傷をつけるには及ばず、むしろ蹴りつけた左道の足ばかりに負荷がかかっていた。
勢いを殺さず、正面の壁を駆け上がることで、廊下をカーブする。
しかし、曲がった先には高さ4mはあるだろう巨大な肉壁が左道を待ち受けていた。
左道は後方を振り返るが、そちらからも波のように悪霊が押し寄せていた。
「わーわーわー!! 別に転校生とかもうならなくても良いから!
もう本当やめて! 蓮柄円さん、案内人さーん!?
もういいでしょう?
安全な場所に帰してよ…」
左道はその場で腰を落とし、悪霊から目を背けた。
その睫毛が涙に濡れて顔に張り付いている。
悪霊の黒くぽっかりと空いた眼窩はじっと彼女を見つめていた。
そこには同情も嗜虐の喜びも見られない。
ただ、機械的に全ての校舎内への侵入者を殺そうとしているだけなのだ。
巨大な悪霊は全身から触腕状の肉を伸ばし、後方の悪霊は波のようにうねり、左道を飲み込まんとしている。
左道はこの先に来る苦痛の恐怖に身体を震わせ、その場に伏せた。
ビシャリ ブチリ ボーン ボーン
ドゴォッ ミシィ ベキ バキャ
しかし、死は一向に訪れなかった。
彼女が顔を上げると、そこには巨大な手甲を振るい、悪霊を蹂躙する眼鏡の少女の姿が見えた。
その腕の腕章が、微かな灯りの中で少女の身分を証明する。
「風紀委員」
普段の学園生活では、生徒の自由を制限するということで、疎まれ避けられ、憎まれ口を叩かれる役職。
必要とあらば、学園内での魔人暴力すらも鎮圧する強者。
それゆえに、彼女達には精神、肉体の両面の強さが求められている。
悪霊の首を右腕の一撃で刈り、背後の敵は見ることなく蹴りを入れる。
それだけで殺しきれない敵は空気の刃でミンチに変える。
並みの魔人では視認不可能な高速戦闘が繰り広げられている。
左道はそれをボーッと見守っていた。
夢の中の出来事を観察するようなものだった。
やがて視界に入る限りの悪霊が全て血溜まりに変わると、妃芽薗学園の風紀委員、唐橋哉子は、自分が保護した生徒の方を笑顔振り返った。
「大丈夫かい?」
手甲の装着された腕を、左道に差し出す。
その腕は悪霊の血液にまみれており、それどころか哉子の全身は返り血で赤く染まっている。
既に沈みかけている夕日の色を差し引いても、その鮮やかさは類を見ないものだった。
「……やめて下さい、来ないで下さい」
薄布の少女は、哉子の接近を恐れ、後ずさった。
彼女の足はもう限界に近い。それでも、力を振り絞って目の前の風紀委員から逃げようとした。
一切の手加減なく悪霊を殺し尽くし、血塗れのまま、笑顔で武器を突きつける対戦相手。
左道は虚本のことを思い出していた。
感情というものが一切読みとれず、倫理道徳に欠陥のある魔人。
少なくとも、一対一の状況でどうにかできる相手ではない。
これまでのトラウマがフラッシュバックする。
悪霊、レズレイプ、妃芽薗、虐め、その他…
思い出は、全く浮び上がらなかった。
今目の前にあるのは、ただ恐怖と絶望だけだったのだ。
哉子は目の前の少女を見ると、手甲を外し、制服の上着を脱いだ。
レズレイプ再び!?左道は歯を食いしばり、自害すらも考えた。
ふわり
哉子は自らの上着を左道に被せ、着るように促す。
目の前の少女が全くそれを理解していないようなので、結局人形に服を着せるように、無理やり制服の袖を通させた。
◆ ◆ ◆
唐橋哉子は、人への奉仕に努めるよう、風紀委員で徹底的に教えられている。
伊六九相手の時は、とにかく夜の学校の恐怖、突然の戦闘などということで焦っていた。
だが今回は違う。
悪霊を蹴散らす内に頭は冷静になっていたし、「クリービング・エアー」の唐橋哉子として生きることを決めていた。
目の前の弱った少女が、自分の対戦相手だったとしても、救おうという意思が先行した。
もしも「卑劣な」唐橋哉子であったならば、普段の風紀活動の時のように、空気の刃で宍月の身体を覆う布を吹き飛ばして風紀してたかもしれなかった。
危ないところだった。
現在、哉子と左道は廃学校の事務室で休憩していた。
事務室のドアに通じる廊下で悪霊を殲滅し、廊下の端に刃の罠を張ってあるので、侵入されることは無いだろう。
哉子は左道の怪我の手当てを簡単に行い、事務室内の備品を探って服の役割を果たす物を探した。
自分の血みどろ制服では気味が悪かろうと思ってのことだ。
結局、事務室内からは少し大きめのジャージ上下とスリッパを発見することができたので、それを着てもらうことにした。
下着が無いのは仕方が無い、諦めてもらうしかなかった。
校舎の遠くから悪霊の呪いの込められた声と、何かの壊れる音が聞こえるが、それらはかなり遠くからのものだ。
事務室内は、電気は通っていなかったが防災用具が置きっぱなしであったため、懐中電灯の光を使うことができた。
あまりにも小さな光を吐き出す懐中電灯だが、何も無いよりはマシだ。
「あの…さっきはすみませんでした。来ないで、なんて言ってしまって……」
「気にしないでくれていいよ。確かに対戦相手の私が血塗れで近寄ってきたら怖いよね。
そういえばあの格好、何かあったの?」
「ごめんなさい、今はまだ聞かないで下さい。まだ自分の中で整理ができていません……」
「…分かった、聞かないでおくよ。
サトちゃんが何があったのか話したくなったら、そのときに話して。
大丈夫、私達はここから2人で脱出するんだから。
いつでも良いからね……」
そう、この2人は、対戦をしないことに決めていた。
風紀委員としての立場を自覚し直した哉子は左道を見捨てられず、左道はそもそも哉子に傷一つ付けられるような力も持っていなかった。
左道は「ジ・アダナス」の、本当の能力すらも哉子に教えている。
彼女は、自分の弱さも強さも吐き出すことのできる相手を見つけたのだ。
哉子はそれに対して「切り裂く空気の刃」の能力名が「クリービングエアー」であることを力説した。
実際、彼女にとって、ほとんど秘密なんて無いようなものだし、その程度しか話せることが無かったのだ。
ギシリ…ベキ……ギシリ…バキ………
廊下をゆっくりと歩き、床板を踏み抜くような音がする。
かなり近い。
哉子は手甲を身につけ、空気の刃をドアに向けて構えた。
ギシリ…………バキリ……ボッキリ………ミシミシ…
ドアの正面に音が聞こえたその瞬間を狙い、哉子はドアごとその後ろにあるものを空気の刃で切り裂いた。
ガラガラと引き戸が崩れ、部屋と廊下を区切るものは舞い散る埃だけになった。
そこにいたのは2人の人影。
哉子の能力が当たったにも関わらず、ダメージが入っているようには見えない。
「ハロー、私。
なかなか乱暴じゃないの? 」
廊下から侵入してきた人影の片方は、メガネ、バンダナ、巨大な手甲を装備している。
これは、唐橋哉子ではないのか。
しかし、彼女が対峙しているのも、間違いなく唐橋哉子である。
「あれあれあれ?
またまた女の人を誑かしてるのかなー??
あんなことされたのに懲りないねー、私?」
もう1人の侵入者は、宍月左道の姿をしている。
彼女らは一体何者なのか。
その正体は後に書くことになるだろう。
とりあえず物語を進める。
「風紀委員だから生徒を守らなくちゃいけないんだー。
うわー真面目だねー」
侵入者哉子が、物語当初から出演している哉子に語りかけながら、距離を詰めていく。
一見無防備な姿勢に見えるが、彼女の目の前には空気の刃が仕掛けられている。
それは両哉子に言えることだ。
もしもこの2人の間に挟まれたなら、全身切り傷では済まないだろう。
「身体ボロボロじゃーん。あはは惨めだねー」
侵入者宍月は、物語当初から出演している左道の座る椅子に近づいた。
侵入左道は懐中電灯を取り上げ、自分の顔を照らしおどける。
「あはは怖い?怖いよね。
何が起きてるか分からないよね。
あんな目にあったのになんで生きてるの?
辛いなら死んじゃった方が楽なのに。
あ、手伝ってあげようか?
あははは」
侵左道は、当初出演左道の首に手を掛ける。
少しずつ力を強め、血流を止めようとしている。
「……生きたい」
「惨め惨め。そんな私見たくない」
抵抗虚しく、当初左道は力尽きようとしている。
スパリ
首を絞めていた方の左道の首が落ちた。
気付けば侵入者哉子の首も落とされている。
ここらで彼女らの正体を説明しておこう。
彼女達は、生霊。
自分自身を否定しようとする意志の現れだった。
左道は、自分の能力で、自分自身を対象にすることで自分を追い詰め、新たな人格を作り上げていた。
哉子は卑劣な自分を辞めようとしていた。
「もう、迷わない」
哉子。風紀委員としての自覚を持った彼女は言った。
「生徒を、守る」
その身体に、左道が抱きつき、唇に接吻をした。
「守ってくれてありがとう。」
ハッピーエンド