「新しく入社しました! 篠原と言います! 本日よりよろしくお願いします!」
「はじめまして。これから、よろしくお願いしますね」
期待していた。
「いつまでも気合とやる気だけじゃあどうにもならないね?」
「俺の基本はそれですからね」
「そんな篠原君、私はかっこいいと思うよ」
楽しかった。
「ま、毎朝俺と一緒に味噌汁を作ってください!」
「ちょ、ちょっと……篠原君、古いし、少しおかしいよ……」
嬉しかった。
「生まれましたよ! 女の子です!」
「勝己君、私、頑張ったよ……」
「ああ、よく頑張ったな、頑張ったなぁ……!!」
幸せだった。
「今日の晩御飯、何が食べたい?」
「えーっと、はんばーぐが食べたい!」
「お、ハンバーグかぁ。いいなぁ! ママの作るハンバーグは一級品だからな!」
平和な日曜日の午後。家族で買い物に出かけていた。
穏やかな時間。ありふれた、人並みの幸せ。
別に何が悪いというわけではない。誰が悪いというわけではない。強いて言うなら、ただ運が悪かっただけだった。
3歳になる娘を、肩車してあげた時。彼女はこうすると、いつも大きい父や母より大きくなったと、よく喜んでくれた。
「どうだ、空まで手が届きそうか?」
返事はない。目の前に、何かが落ちてくるのを感じた。
どん、と足元に何かが転がった。ボールのように転がっているそれは、自分の脚に当たって転がっていった。
ほどなくして、温かい何かが上から降ってきた。首周りからも、生温かい液体が伝ってくるのがわかる。……転がった瞳が、己に起きたことが理解できないことを告げていた。
転がる娘の頭。降りかかる紅い血の雨。辺りは瞬く間に破壊され、蹂躙されていく。
悲鳴は聞こえない。悲鳴を上げる前に倒れるか、立っていてもその状況を飲み込めず、声をあげることもできない。
目の前にいるのは、返り血を浴びた、見たことのない生物。どこの動物でもない、物語でも見たことない形状。化け物としか、称することはできない。
そいつが今、先ほどまで隣で買い物袋をぶら下げていたはずの妻をわしづかみにしている。右手で妻の頭を持ち、左手は彼女の脚先を掴む。
妻の顔は恐怖で竦み、固まったようだった。その顔がさらなる苦痛と恐怖に歪む。
――やめろ、やめてくれ
懇願の言葉が頭の中で再生される。殺すなら、自分でいい。そいつだけはやめてくれ。
声にならない。口も、手も、脚も、身体も動かない。
化け物が、唸り声をあげ、両手を広げ手に持った者を引きちぎる。
「うあああああっっっ!!!!」
身体が動いた、ようやくに。全て、終わった後だというのに。
それでも何かが俺を突き動かした。向きは変わらず、その化け物に向かっていく。
今自分の中に恐怖は無かった。それ以上の黒い感情が心を支配している。
誰もが一度は抱いた心。日常でも普通に思う考え。純粋たるその心が、俺を動かす原動力だった。
――殺す、殺してやるッ!!!
俺は俺の身体の変化にも気付かず、その怒りの衝動に任せて、拳を振るっていた。
相手が自分のことを砕こうとする。その拳が俺に当たっても、痛みはなかった。
自分が相手のことを砕こうとする。その拳が奴に当たった時、奴の身体がひしゃげ、砕けていく。
殺す、殺す、殺す、殺す
こいつを殺し、地面にハラワタ踏み躙って、頭蓋を粉々に砕いて、脳髄を己のケツの穴にブチ込んでも怒りが収まる気がしない。
それほどまでに、俺の心は晴やかになっていた。
「おーおー、やってるやってる。こりゃひどい。片付けも補填も大変だあね」
「これはひどいわね。二流画家が赤ペンキぶちまけたみたいだわ」
……誰だ、こんなところに入ってくる奴は。
「ジャーム発生で暴走派生ってところかな? ジャームはもう砕けてるけど。……あのお兄さん、救出対象で。ここでさらなる犠牲者にするには」
「他は?」
「後ほど」
男とガキの二人組。何でこんなにあっけらかんとしているんだ。
こっちは最愛の妻と娘を殺されたんだ、こんなふうに。こんなふうに!!
「お前らもこうしてヤるッ!!」
怒りの衝動が収まらない。成すがままに拳を向ける。
獣の鉤爪のような手。さっきまでの化け物のような腕。頭に残る怒りの感情。のうのうと来たこいつらに憤怒を覚える。
疑問は挟まない。ガキの方を一撃で貫く。俺の腕はどてっ腹を貫き、辺りと自分の腕を赤く染めた。
「がぶふ、ぐ、自分から近づいてくれるとは、仕事が楽ね」
おかしい。
貫かれたはずのガキが死なない。むしろ、笑っているかのようにも見える。
男の方も全く顔色が変わらない。次に起こることがわかっているかのように。
何故だ。
……何故? ちょっと待て、俺はいつから恐怖を与える存在になった?
「止まれ、おとなしくしていろ」
ガキが腕に触れて何かをつぶやく。それとともに、俺の意識が薄れていく。
頭が急に冷えていく。俺はどうしてこんなことをしているんだろう。
「げほっ、ごほっ、後は、お願いします」
「ああ、治療に専念すると良い。僕はこの人を保護するよ。後は専門部隊に任せよう」
倒れゆく身体、腕から、脚から、全身から力が抜けていく。
最後に妻と娘が居たはずの場所に目が行く。そこには赤い肉塊しかなく、それらしい姿は無い。
誰がこんなことしたんだっけ。
電子音が聞こえる。自分の呼吸音が聞こえる。
意識は虚ろ。規則的な音が自分の脳を覚醒していく。
眼を開ける。白い天井、白い壁。少し見まわすと医療機械が動いているのが見える。他にベッドもない個室で、全ての機械が自分に使っているのがわかる。
自分の身体を動かす。腕がギプスで固定され、不自由だが動かすには問題ない。
「ここは……?」
どうしてここにいるんだ? 自分に何があったか……
ガチャリ、と扉が開く音が聞こえる。音がした方に向くと、そこには少女が居た。
ぱっちりしたスーツを着込んだ変な少女だ。そのせいで、少女特有の雰囲気が全く無い。
「眼が覚めたようね、篠原さん」
「誰だ……? それに、俺は今」
「いろいろ質問があるでしょう。でも、その前に確認したいことがあるわ。これを」
少女が近づき、右腕のギプスを取る。
「お、おい」
「うん、治ってるわね。ちょっとこれを握って。思いっきり力を込めて」
不思議だった。ギプスがついていた場所は痛みもなく、動かすのにも何の支障もない。骨折はそう簡単に治る物じゃないって言うのに。
そしてそこに、手のひら大の丸い何かが乗せられる。かわいらしい紙に包装されていて中身は何だかわからない。が、伝わる冷たさ、大きさの割に重い。
何をさせたいんだ。よくわからないが、とにかく握る。それほど力を込めず、ぐしゃと形を変えた。それを見て、俺は驚愕した。
「な、鉄!?」
紙越しに伝わる金属特有の冷たさ、高い密度は高い硬度に。普通の人間では形を変えることすらできない。
それが今、俺の手によって飴細工のようにひしゃげている。
「陸上競技で正式に使われている物よ。鋳鉄製でおよそ7キログラム。大きく投げられたそれが地面についても、形が変わるのは地面の方。それが普通」
「おい、どういうことなんだこれは!?」
「冗談でも何でもないわ。自分で起こしたことよ。ようこそ、世界の真実へ」
信じられない。
でも、俺の手で実際に起きた変異。形は変われど重さも変わらず、手のひらにのしかかってくる。
「世界には知らされていないことがたくさんある。平穏な人生を送る上で知る必要のないことが。でも、その真実が時として表に出てくることがある。不運ながら、あなたはその真実に当たってしまった」
頭によぎる。映画か何かだろうか、この記憶は。
「それに当たってしまったものは死ぬか、その力に目覚めるか。力に目覚めたら、次は飲み込まれるか、飼いならせるか。飼いならしたら次は共存するか、反逆するか」
ドクンと、胸が高まる。映像が強く鮮明に映し出される。赤い赤い景色。『誰か』の首が転がっている。『誰か』の身体が引きちぎられている。
「臨むにしろ望まないにしろ、既にあなたは巻き込まれた。残念だったわね。心中察するわ」
「……て、ことは……」
「過ぎたことよ。忘れるなとは言わない。でも引きずるな」
頭が何かに打たれたかのように揺れる。力が入らない。
「あれ……夢でも、何でもないんだな……」
視界がゆがむ。人間、何も考えられない時にこれが出てくるのはなぜだろう。
恐怖、絶望、後悔、悲哀。全てが壊れていくような感覚。
「あの場で生きていたのは誰もいなかった。力に目覚め、立ち向かっていったあなた以外はね」
力。あの陰惨な光景を生みだした、絶望的な存在。それはまさしく力の暴走だった。
「それが……俺にも……」
「力に取り込まれればああなる。けれど、力無きものはそれに怯え、伏すしかない」
娘の頭が転がり落ちて来た時。もし力があればそれに気づけ、肩車なんてしなかったのだろうか。
妻の身体が引き裂かれる時。立ち向かう力が最初からあったなら先に行動できたのだろうか。
「力を持ってしまった以上、捨てることはできないわ。共存を目指すか、死を選ぶだけ」
「……」
「私からはどうしたいのかは問わない。どんなに辛い現実に当たろうと、決めるのはあなたなのだから。あなたは教育を終え、仕事に就き、家庭を持つまでに至ることのできる、大人なのだから」
少女がタバコに火をつける。病室に嗅ぎ慣れたにおいが充満する。
「……他にも、ああいったことは起きているのか?」
「この1ヶ月で3回はあった」
「……そのたびに、あんなに人は死んでいるのか?」
「まちまち。被害の出る前に何とかできることもあるわ」
「……あんなに大きいのに、聞いたことないぞそんな事件」
「そのままの力だけじゃあない。魔法のような力もあるし、SFのような力もある。直接的なものだけじゃあないのよ」
「どういう、ことだ?」
「相手の脳に作用する力がある。それを使った記憶操作なんかも出来るわ。そういったもので起きている事件を隠蔽している。……あんな力が世間に広まっていたら今頃こんな平和になってないわよ」
「……俺には、どういう力があるんだ?」
「おそらく、肉体強化の力。人間の常識を超えた、自然界でも、機械でもあなたの出した力に追いつける者はいない程に、肉体を強化できる。キュマイラ、と呼ばれている力よ」
「……」
「他に、質問は無いかしら」
聞きたいことは山ほどある。けれど、何から聞けばいいのか言葉に出ない。
その中、ふと湧いた疑問。
「なあ、確か俺は、君を、ええっと……」
「あんなに大きいのは久しぶりだったわ。すっごく痛かったわよ」
「……痛かった? その程度なのか……?」
「その程度に抑えたのよ。見て」
そう言って、少女がスーツを脱ぐ。迷いも恥じらいもなく。
ワイシャツのボタンを取ると、開いて身体の前面を見せた。綺麗な肌の中、腹部に巻いてある白い包帯。
次はその包帯を取る。
「……うっ」
「力を使った戦いに損傷は抑えられない。だから各々それを小さくする方法を心得ている。私は自分で痛み止めを作って痛覚無いようにしているわ」
穴が開いた痕。それは今も元の形に戻ろうと脈打っている。それを見ただけで、少女もただの人間とは違うことを思い知る。……気持ち悪い。
「それでも損傷が直接なくなるわけじゃない。けれど、力がその傷を癒すのよ。普通と違う、恐ろしいスピードで。力に目覚めた者は、不死性にも目覚める。それでも、死ぬ時は死ぬけどね」
「……ッ!!」
死。そうだ、それだ。
「力と力の解決って、要は殺すってことだろ! 人が人を殺すってことだろ! そんな簡単に人を殺せるかよ!」
「殺せるわよ、人なんて簡単に」
「あんたはそうかもしれないけどなッ! こっちはさっきまで普通の生活送ってた一般人なんだ! そんな奴に人が人を殺すような世界に連れ込もうってのかよ!」
「連れ込むも何も、あなたはもうこちら側に足を踏み入れてるんだけど」
「うるせぇッ! そんなことになるんだったら、あの時死んだ方がマシだったじゃないか! あの時、家族と、一緒に……ッ!!」
「じゃあ死になさいよ。別に止める権利は無いわ」
「なら殺してくれよ! そうだ、殺してくれ! あんなこと、なかったことにしてくれよ……!!」
「あなたが死ねば、同じことが起きて、あなたと同じようにで苦しむ人が出てくるけどね」
「どういうことだよ! 起きたとしても、俺に何ができるってんだよ!」
「あなたには力がある。それをむやみに振るうだけじゃなく、弱者を守る力として振るえばいいのよ」
「~~ッ!! 何なんだよ、何なんだよぉ、何でこうなっちまってんだよ……!!」
どうすればいいのかわからない。悔しさと、悲しみと、憤り。
何もできなかった自分に、いったい何ができるというのか。
「さんざん悩みなさい。結論はまた後でいいわ。けど、これだけは言っておく」
少女はスーツを正し、俺の右手から形の変わった砲丸――俺の力の象徴――を取る。
「我々は世界を守る者だ。この力を知らない者たち、弱きを守るための者。あなたには強い身体と、それに宿る強い精神を持っていると思っている。他の人たちに、奥さんや娘さんと同じような末路を辿らせたくないのなら、一緒に来てほしい」
それじゃ、と言って、少女は去っていった。
……俺は、どうすればいいのかな。
夢みたいだ、あの時から、今の今まで。
家族が亡くなったのも、化け物に立ち会ったのも。
俺、本当、どうすればいいんだろう。
想いと熱意だけで生きてきた。その二つがあれば、曲がらないと思ってた。
でも今じゃ、ぽっきりと折れそうだ。
あいつだったら、何て言ってくれるんだろう……
『そんな篠原君、私はかっこいいと思うよ』
……そんな声が、聞こえてくる気がする。思えば、俺が惹かれたのもその一言だった。
ここで引かず、前に進む道を選んだ時、あいつはまた俺にそう言ってくれるだろうか。
いや、きっと言ってくれる。きっと……
最終更新:2011年04月09日 19:28