じりり、と目覚ましの音が鳴る。一日の始まりを告げる音がする。
一日の始まり、というが近代のこの社会では就寝に入る時間が、厳密な一日の始まりなんじゃないかとも思う。
……居間で、パタパタと音がする。昨日から、今日の始まりまで必死に何かを準備していた妹の姿を思い出す。
その行動に対する謝礼は、いつもやっていることなのだが。イベントごとでやってもらうことに意義がある。同じ性、気持ちはわかる。
私が出掛ける時間に静香は起きてくる。故に、朝は基本的にすれ違いだ。
でも、いち早く渡したい気持ちがあるのだろう。毎年こういった時期は遅寝早起きだ。学校で居眠りをしていないか心配になる。
洗顔を済ませ、眠気を飛ばす。歯を磨いて、身支度を整える。
寝起きのままの姿では雰囲気も出ないだろう。少し整え、彼女の期待を裏切らないようにする。
「おはようっ、お姉ちゃん!!」
居間に来るなり、太陽のように明るい笑顔が私に向かってくる。
「お姉ちゃん、あのね、今日はね、あのね」
「落ちつきなさいよ。好きな男の子に渡すわけじゃないんだから」
「そんなことないよ! 一番、お姉ちゃんが好きだもん!」
まったく。好いてくれるのはいいが、君に向けている男子の眼はどうしてしまうんだ。
余計なことを考えながら、静香の頭を撫でつつ、先を促す。
「で、何かな? 昨日、遅くまで作ってた物でもくれるのかな?」
「うんっ!」
満面の笑みと共に、小さな小包が手渡される。ピンクの包装紙に青いリボン。ハートの形の容器。これじゃあ完全に本命だ。
「かわいらしいわね。あなたの努力と心、受け取ったわよ」
「ありがとう! それでね、ねぇ……」
恥ずかしそうに顔を俯く。すぐにでもお返しが欲しいのだろう。一度、そのお返しをしてあげたら彼女はその虜になってしまった。
少し、身体をかがめ、彼女の頭に顔を近づける。彼女の額に、私の唇を近付ける。
ほんのわずか、彼女の体温が唇に移る。
「これは、学校に持っていってみんなに自慢するわ。私の可愛い妹のチョコだってね」
「……ふあ、うん……」
キスしたおでこを押さえ、静香はぱたぱたと部屋に戻る。嬉しさにとろけた顔を見せたくないんだろう。変なところで恥ずかしがり屋だ。
甘いにおいがキッチンに残っている。母もこの様子を見て苦笑い。まったく。あの子のお姉ちゃん好きはいつか治るんだろうか。
とりあえず、楽しいイベントがあっても、学校が終わったりはしないし、一日の長さが変わったりしない。
時間に余裕はあるが、今日は早めに家を出よう。彼女と自分の幸せのために。
仕事のカバンと買い物袋を提げ、家に帰る。会議が長引いてしまい、すっかり帰るのが遅れてしまった。今から料理という気にもなれない。故に、レトルトを買って簡単に済ませるとする。
……今日は、バレンタインだった。友人にいくつかチョコを渡したし、いくつかもらった。
一部、本気のように装丁に気合の入った物がある。本当に私はもらってよかったのだろうか。甘いものは、年を重ねるうちにどうでもよくなってきた。
暖房を入れ、牛乳を温める。寒い中を歩いて来たんだ、温かい飲み物が欲しい。
温まった牛乳に、もらったチョコを加える。ホットチョコレートの完成だ。時間に余裕があればもう少し手を加えておいしくするのだが、何だか今日はそこまでやる気が無い。
……冷蔵庫を開ける。作り置きの料理、飲み物。調味料。その中に並ぶ、私のコレクション。
といっても、ここに並んでいる物はそこまで質の良くなかったものだ。環境だろうか、使いこまれた物は何か、艶が無い。しかし、老いた者の中にはいい物もある。研究したい。
適当につまみ、チョコレートの中に入れる。確か、この眼は新聞配達の青年の物だったか。
このマンションに住んでいる人に羨望と好奇があったんだろう。仕事に出る前の私を舐め回すように見ていた。
私を見つめるその眼に、胸が高鳴った。私の目に気付くと、そそくさと立ち去ろうとした。
でも、それはできなかった。私がさせなかった。入口を出て、カメラの視界から外れた瞬間に、余計な物は削ぎ落とさせてもらった。
カップの中から視線が刺さる。それを一つ、温かいチョコと共に口の中に流し込む。体が温まる。心が充足感で満たされる。
見えないところで感じる。美しい造形。これの模造品はたくさんあるが、”本物”が一番美しいだろう。
口内で丹念に味わった後、形を変えずに飲み込む。一つの物で、一度しか味わえない感覚。……一人の人間から三つと取れない、究極の美。
そういえば、あの子もこのイベントごとが好きだった。肌身離さず持っている我が妹を、手のひらに乗せながら想う。
チョコなんて無くても、彼女が一言頼んでくれれば、私はいつでも相手をしてあげたのに。
少し下らない逡巡をする。だって、彼女は私のそばにずっといてくれると約束してくれたのだから。
静香の眼を見つめる。言葉に表せないほど美しい。いつも私のそばに、私を好いてくれて、今も私のことを愛していて。
胸の鼓動が高まる。周りに聞こえてしまうかのように。
体温が上昇してくる。まるで人の体に触れているように。
身体の奥が疼く。心が暴れだすように。
私ははしたない女かもしれない。一人でいる時、静香の眼を見ているときにはすぐ衝動が抑えられなくなる。
私は自分の左目に指を入れる。身体に走る激痛すら、今の私には心地よい。
静香はまだだ。メインディッシュは最後に。まだ他にも味わえる物はたくさんある。
でも、他を食みつつ、静香に見つめられているだけなら。
左指が私の形を変えていく。静香は机の上から私を見ている。
右手が私を弄る。静香は机の上から私を見ている。
今日が終わり、明日の始まりを告げる鐘の音がなる。それでも私は私を止められない。
最終更新:2011年02月20日 22:35