【1】
カルデアスに生じた微弱な歪みが、事の始まりだった。
1940年の日本に、新たな異常が観測されたのである。
その時代の日本で、歴史を揺るがすような騒動が起こった事はない。
せいぜい、開かれる予定だった万国博覧会が中止になった程度だ。
日本史の教科書でも大きく描かれないような、小さな出来事である。
にも関わらず、カルデアスはその時代に歪を感知した。
となれば、行ってその異常を修復するのが、カルデアの役目である。
そしてそういう時こそ、カルデアのマスターこと藤丸立香の出番であった。
『警戒するに越した事はないが、それほど危険なものではない筈さ』。
カルデアの知恵袋ことダ・ヴィンチちゃんは、いつもの調子でそう言っていた。
これまで発生した数々の特異点に比べれば、今回生じたのはちっぽけなものでしかない。
今の立香達ならば、さして苦戦もしないだろう、との事だった。
されど、油断は禁物だ。
異界と化した過去の世界では、何が起こるか分からない。
万全の準備を整えて、立香は変異に立ち向かう。
彼が従えるは歴戦のサーヴァント達。
いずれも共に人類悪に立ち向かい、そして打ち破った猛者である。
そして同時に、立香と絆を深めた仲間であった。
危険の予感はある。だが彼等がいれば大丈夫だ。
今までもそうだったし、そしてこれからも、きっと問題ない。
そうした意思を胸に、レイシフトを行った立香。
そんな彼が、今どうなっているかというと。
彼は重力に逆らう事なく、東京の空を落下していた。
【2】
『――デアに――ピュータウ――ス!?あり――い、そんな――!?』
途切れ途切れに聞こえてくるダ・ヴィンチちゃんの声は、いつになく焦っていた。
カルデアの通信機能に異常が生じたせいで、何故彼女が動揺しているのかが分からない。
ただ一つ明らかなのは、現状が非常事態であるという事だった。
『――――先――――――ます――――今ど――――』
今聞こえてきたのは、マシュのものだろうか。
音声がぶつ切りになっているせいで、何を伝えたいのかさっぱりだ。
そしてその音さえも、少しした後に聞こえなくなってしまった。
(……ひょっとして今、大ピンチなんじゃ)
地へ向けて真っ逆さまに落ちていく、自身の肉体。
このままいけば、地面との衝突は避けられないだろう。
いくら修羅場をいくつも乗り越えたといえど、身体は常人の域を出ない身だ。
大地に落ちれば最後、呆気なく頭蓋は粉砕され死に至るだろう。
手の甲に刻まれた令呪は、何故だか色褪せてしまっている。
カルデア側の異常により、令呪のシステムが機能してない証拠だった。
これでは、サーヴァントを呼び戻す事さえままならない。
(ヤバいよねこれ、ヤバいよね!?)
周囲に人の影はなく、完全に孤立した状態にある。
パラシュートも無いスカイダイビング、ゴールは天への旅立ちだ。
このままでは非常にマズい、だがどうしろというのか。
繰り返すが、立香はただの人間だ。空を飛ぶ事など出来る筈もない。
ダ・ヴィンチちゃんの声も、ましてやマシュの声も聞こえない。
こんな所で独りで死ぬのかと、死の恐怖が現実味を帯び始めた、その時だった。
後ろ襟を誰かに捕まれ、何処かへと引っ張られ始めたのは。
視線を上に上げると、そこには翼をはためかせるイーグルの姿が見えた。
それがその立派な鉤爪で襟首を掴み、立香を運んでいるのである。
立香には、その鷲の姿に見覚えがあった。
シャーマニズムに則た魔術より現れた、自然の精霊の一つ。
闘いの中で幾度も見てきたそれは、頼もしい仲間の従者である。
鷲に運ばれた先にあった一軒家の屋根に、やはり彼はいた。
褐色の肌に、かのアパッチ族特有の衣装に、そして蒼い瞳。
立香と共にレイシフトしたサーヴァントの一人、『ジェロニモ』である。
「九死に一生だったな、マスター」
「……助かったよ、ジェロニモ」
「礼には及ばない。同胞を救うのは当然の義務だ」
やけに安堵した様子でそう言うジェロニモに、立香は力なく笑った。
彼の助けが無ければ、今頃地面に鮮血をまき散らしていたのだ。
カルデアのキャスターの一人、もといジェロニモがいなければと思うと、ぞっとする話である。
「それで、他のサーヴァントは?」
「此処には私と君しかいなかったな。レイシフトの際にはぐれてしまったのだろう」
「……そうだ、確かカルデアにアクシデントが起こって……」
冷静になった頭で、改めて己の身に起こった事を振り返ってみる。
突如何者かの攻撃を受けたカルデアに、使用不能になった令呪。
詳細は不明だが、予想より遥かに危険な旅路になる事は明らかだった。
「令呪も使えなくなってる……マシュ達が無事かも分からないなんて……」
「それより自身の心配をすべきだ、君。我々の戦力は分断された状態にあるのだからね」
マシュの安否の不明に歯噛みする立香を、ジェロニモが宥めた。
そのサーヴァントが言う通り、今のカルデアは戦力の低下を強いられている。
ひとまずは、別の場所に移動してしまった仲間を探すのが、第一の目的となるだろう。
とはいえ、令呪が使えない以上、今はサーヴァントの召集すら満足に行えない。
それはつまり、自らの脚で仲間達を探さねばならないという事であった。
「でもそう都合よく見つかるかな。目立つ場所なんてどこに……」
「それがあるのだよ、見てくれマスター」
そう言ってジェロニモが指さした方向に、それはあった。
現存の地を上書きしたような広大な敷地に、立ち並んだ西洋造りの建物。
1940年の東京――西洋の要素を排除していた時代には、ありえない物が存在していた。
「あれは一体……」
「私にも分からないが、あれこそが今回の元凶である事に間違いはないだろう」
「なら行こう。もしかしたら他の皆もいるかもしれないし」
「本来いきなり敵地に飛び込むのは危険だが……虎穴に入らずんば虎子を得ず、という諺もある」
立香の意見に賛同したジェロニモ、二人は謎の領域に足を踏み込む決意をする。
では、ここから場面はそこに変わるのか言うと、実はそうではない。
屋根を降りた二人を、見知らぬ一人の青年が待ち受けていたからだ。
「そう焦らないでさ、まずは生まれ変わったこの街を見ていきなよ」
長い水色の髪は髪留めで一つに結ってあり、頭には刺繍の刻まれた鉢巻きが巻かれている。
身に着けたワイシャツとジーンズは、現地で調達したものだろうか。
どこか軽薄そうな男というのが、立香達が抱いた第一印象であった。
ジェロニモが咄嗟に前に立ち、ナイフを構える。
それを目にした青年は、不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「初めましてだね来訪者。歓迎するよ、この"セイバー"がね」
最終更新:2017年06月16日 03:05