第一節:赫讐の伏魔殿(2)

「ジャック・ザ・リッパーは二人いるのよ」

 キャスターは、そう言った。
 その意味が、わたしにはよく解らない。
 彼女曰く、この殺戮都市の支配者はジャック・ザ・リッパーだという。
 これから会いに行くジャックは、わたしの知っているアサシンの方だとも言っていた。

「そもそもね。"ジャック・ザ・リッパー"という存在自体が、無限の可能性を秘めているの。
 召喚するマスター、土地、或いはクラス。
 ほんの僅かに条件が変わるだけで、全く別な可能性のジャックが召喚されることもある……言ってしまえば、"ジャック・ザ・リッパー"という概念には正解がないってことね。
 俗っぽく言うなら迷宮入り。どれが本物でどれがフェイクか、もうどこの誰にも解らない」
「へえー……ってことは、此処を支配してるジャックはばいんなお姉さんだったりするの?」
「んー。それが、ちょっと特殊でね」

 ――ジャック・ザ・リッパーというサーヴァントについてわたしが知っていることはあまり多くない。
 第四特異点で戦った時はそこまで深く関わったわけじゃないし、カルデアには彼女は居なかった筈だ。
 だからわたしは、キャスターの語る全てが初耳だった。
 そもそも切り裂きジャックの事件自体公的に解決されておらず、今日に至っても有力説から珍説まで様々な仮説が論じられ続けているほどだ。
 そんな英霊だから必然、召喚の可能性も分岐していくのだろう。……合っているかどうかは自信がないけれど。

「殺戮都市のジャックは、あなたの知ってる可能性のジャック"の"別可能性なんだ。
 特定の可能性の存在を前提としている……って言ってピンと来る?」
「うーん。正直微妙だけど、すごく特殊だってことは解ったよ」
「ならよし。自分で言っててこんがらがってくるくらいにはややこい話だから、フィーリングでこう、ばーん!! って理解しておいてくれればおっけーよ」

 可能性がどうとかいうと途端に面倒臭く聞こえ始めるが、要はクー・フーリンのようなものだろう。
 キャスターのクー・フーリンとバーサーカーのクー・フーリンのような違いがジャックで生じている、それだけのこと。
 とはいえ、あの子がバーサーカーで召喚されたらどうなるかなんて想像も付かない。
 倫敦で難儀させられた情報抹消のスキルが狂戦士のしっちゃかめっちゃかな破壊と組み合わさったなら、その時はまさに悪夢だ。
 自分で想像しておきながら、そのあまりの恐ろしさに背筋がちょっと冷えた。頼むから杞憂であってほしい。

「でも、キャスター以外にもサーヴァントの協力が得られるとなると少し気が楽になるなあ。
 こんなおっかない特異点で二人旅だなんて、いくら何でも無茶が過ぎるってもんだしね」
「だねー。まあ、あっちは多分まだ話の通じる方だと思うし……」

 ――ん? 今このロリ娘、"話の通じる方だと思う"と言ったか?

「あの。キャスターさん」
「どしたの改まって」
「つかぬことをお聞きしますが、アサシンのジャックと面識は?」
「ないよ? ……いだっ!? ちょ、無表情でチョップするのやめて!? こわいんだけど!!」

 出会ってから一時間も経ってない相手だけど、よく解った。
 このキャスター、確かに情報は沢山持っているのだろうが、根っこの部分が向こう見ずの直進思考なんだ。
 言葉からありとあらゆるオブラートを取り払うと、頭がよく見える馬鹿なんだ、こいつ。
 さも面識があり、協力を得られるのが確実みたいに話を進めていたのに、なんと彼女がジャックを一方的に捕捉していただけらしい。

 その何が不味いかなんて、改めて語るまでもない。相手はジャック・ザ・リッパー。稀代の殺人鬼である。
 倫敦の時はモードレッドがいた。マシュもいた。彼女と戦えるだけの戦力があった。
 しかし今はそれがない。戦闘に発展したなら、自分とキャスターだけで彼女を退けなければならないのだ。
 無言でチョップを落とし続けられて涙目になりながら、キャスターは抗議の声をあげた。

「だ、大丈夫だって! わたしは作家の中でもこう、割と武闘派な方だから!!
 ジャックなんてこう、ちょちょいのちょいといけちゃうし!? もうキャスターちゃん最強って感じで!!」

 威勢のいい台詞の後に「……たぶん」と明らかに自信なさげな声が続いたのを、わたしは聞き逃さなかった。
 全くもって頭が痛くなってくるが、冷静に考えてみると、ジャックの懐柔に賭ける以外に選択肢はないのも確かだ。
 三都市の制覇。伏魔殿の攻略。それを成し遂げる上で、安心して戦える戦力の存在は必要不可欠といっていい。
 キャスターの言を信じるならば、彼女はそこそこ出来るみたいだけど――その辺りを確かめる上でも、一度戦闘を経ておくのは悪い話ではない。
 もちろんジャックが素直に協力してくれるなら万々歳だし、此処は一つ、図太く挑んでみるのも手かもしれない。

 ……ただ、それを口にするとキャスターが調子に乗りそうなので言わないことにした。
 彼女にはもうしばらく、藤丸立香怒りのチョップ攻撃に怯えていて貰おう。ふふふ。
 そんなやり取りを交わしつつ、わたし達はジャックが根城にしているという警察署へ向かって歩き続ける。
 例のバーサーカーと出くわさないかという不安はあったが、キャスター曰く、「あれと遭遇するかどうかは完全に運みたいなものだから気にするだけ無駄」とのことだった。

 程なくして見えてきたのは、また見覚えのある建物。
 確か、名前は――そうだ、スコットランドヤード。
 辺りには、やっぱり死体が山のように散らばっている。
 但しその量は、これまでに通ったどの道よりも多い。
 バーサーカー……もとい、ジャック・ザ・リッパーにとって此処は何か因縁のある場所なのだろうか。

 こういう時、カルデアとの通信が生きていればすかさず教えてくれるんだけどな。
 聞き慣れた彼女達の声がしないことに一抹の寂しさを覚えながら、わたしは更に足を進めていく。

 正門を通り、血の匂いを抜けて建物内部へ。
 死体と臓物の山は中まで続いていたが、数は僅かに目減りしている。
 数だけでなく、鮮度も外と若干違っていた。
 具体的に言うと、死骸が古い。
 乾いて水気が消え、強烈な腐敗臭を放っている。
 ……流石に顔を顰めそうになるが、我慢、我慢だ。

「ジャック、本当に此処にいるの?」
「しっ」

 キャスターが、鼻の前で人差し指を立てる。

「此処はもう、あの子の巣なんだよ」

 霧夜の殺人者。
 ロンディニウムの悪夢。
 その猛威は、第四特異点・魔霧都市でしっかりこの目で見ている。
 此処に潜んでいるのは、前と状況は少し違うとはいえ、"あの"ジャック・ザ・リッパーなんだ。

 確かに、ちょっと気を抜きすぎだったかもしれない。
 カルデアの知識もサポートもない、少なくとも現状は、キャスター以外のサーヴァントの助けも期待できない状況。
 そのことをちゃんと理解していなければ、容易く命を落としてしまうことにもなりかねないのだ。
 おまけに此処は、キャスター曰く異形の特異点。
 もっと、気持ちをしっかり引き締めておかなきゃ。
 そんな風に、自分の中で少し反省して――


「――くえすちょん」


 聞き覚えのある、けれど親しみのある相手ではない、子供の声がした。
 前からでも隣からでもなく、その声は、わたしの後ろから響いていた。
 そう、後ろだ。ずっと前に向かって歩いていた筈で、誰かに尾けられていたなんてこともない。
 つまり声の主は前進するキャスターとわたしの横を――わたし達に気付かれることなく通り抜けて、後ろに回った訳だ。
 そんなこと、当たり前だけど、あるスキルを持ったサーヴァント以外には不可能だ。

 その名は、"気配遮断"。
 夜陰に乗じて命を断つ、アサシンのクラスのサーヴァント。
 後ろの子供の真名を、わたし達は知っている。

「立香!!」
「キャスター!!」

 わたし達は全く同時に互いのことを呼ぶ。
 背後から銀の一閃が迫っているのが、見てもいないのにはっきりと解った。
 人間のわたしじゃ、どうやっても避けきれない。
 だから、サーヴァント(かのじょ)に頼る。
 今日会ったばかりで、まだ真名も戦い方も知らない相手だけど――そんなのは慣れてるんだ、こっちは。

わたしごと(・・・・・)、吹き飛ばして!!」
「――りょーかいッ!」

 キャスターは作家らしい。
 アンデルセンやシェイクスピアの例を見るに、作家系サーヴァント達は基本、あまり火力の高い英霊ではない。
 だから魔術礼装を起動させ、"瞬間強化"……今まで何十回と使ってきた十八番の強化(バフ)をかける。
 狙いは、襲撃者の攻撃への対処と同時に、わたし自身も吹き飛ばして距離を取ることだ。
 そうなると無論、強化されたサーヴァントの攻撃は、わたし自身にも結構なダメージとなってしまう。

 そう、これはある種のギャンブル。
 信用の置けない相手には絶対出来ない、命をチップにした博打。
 それをわたしが躊躇なく選択出来たのは、こういう事態に慣れているからという理由もあるものの……正直なところ、説明しろと言われたら困ってしまう。
 よく解らないし、自分でも流石に安易な判断すぎるとは思う。
 でも、何となく"彼女なら大丈夫だ"という確信があるのだ。
 今は――それを信じるしかない。
 臆病風に吹かれて何もしなければ、此処まで散々見てきた惨殺死体の一個に成り果てるだけなんだから。

「"迅剛(・・)なる飴色の風"――!」

 迅く、剛い。
 キャスターが吹かせたのは、二つの概念を併せ持った突風だった。
 風は飴色……比喩ではなく、本当に飴みたいなきれいな色を薄っすら帯びている。
 それはわたしのオーダー通り、わたしと、そして襲撃者の彼女を吹き飛ばすことに成功する。
 乱暴に廻る視界の中、わたしが見たその顔は、やっぱり予想通りのもの。

「あなたたちは、なにしにきたの?」

 ジャック。
 アサシンの方の、彼女。
 その姿を見た時――思わずぎょっとする。
 第四で会った時のそれとは比べ物にならないほど、今のジャックは弱々しく見えたから。

 胴体に何箇所か酷い傷があり、手足からも血が滴っている。
 顔も明らかに憔悴の色に染まっていて、その傷が浅くないことを物語っていた。
 いや……これは多分、浅くない、なんて次元じゃない。
 わたしみたいな木っ端魔術師でも解る。

 今のジャックは、消滅寸前だ。
 霊核こそ無事のようだけど、それ以外の傷が深すぎる。
 今すぐにでも回復をしないと、あっさり消えてしまいそうなくらい。
 そんな状態にありながら、けれど彼女の目には確かな戦意が灯っていた。

「勘違いしないで、ジャック……! 
 あなたも知ってるでしょ、この子はカルデアのマスターだよ!
 わたしが呼んだの――だからもう、ひとりで頑張る必要はないの!!」
「……そんなの、どうでもいい」

 キャスターの説得も虚しく、ジャックは引き続きナイフを構える。
 その動作はあまりにも淀みないもので、少なくとも無血開城は絶対に不可能だということが一発で理解出来た。
 ……前に会った時とは、随分雰囲気が違う。
 まるで何か、焦ってるみたいだ。

「"あの子"を殺すのはわたしたち。あなたたちのちからなんて、いらない」

 絞り出すような声に、キャスターの顔が曇る。 

「やっぱり、あなた……バーサーカーと戦ったのね」
「…………」
「いや、"まだ戦ってる"というべきかしら」

 こくんと、ジャックは小さく頷いた。
 わたしにも、段々話が見えてくる。
 要は彼女は――この街を支配する狂戦士のジャックを殺したい、その為に行動しているらしい。
 で、戦った結果あんな酷い傷を負う羽目になったという経緯のようだ。

 アサシンとしての戦い方に徹したなら、霧都のジャックはとんでもない性能を誇る。
 そんなこの子がこんなにボロボロにされたなんて、件のバーサーカーはよっぽど強いのだろう。
 いや、それとも……ジャックにとってバーサーカーは、冷静に戦えないような相手なのか。
 その答えは彼女しか知らないけれど、きっと両方だろう。なんとなく、そんな気がする。

「とりあえず手当てをさせて。そうしないと、ほんとに消えちゃうわ」
「いらない」
「ジャック――」

 何しろ、あんな状態なのだ。
 彼女自身、キャスターの言う通りなのは解っている筈。
 それでもこうまで頑ななのは、やはり譲れないものがあるからなのか。

「そこまで言うならわたし達は邪魔しないよ、ジャック」
「ちょっ、マスター!」
「でもキャスターの言う通り、このままじゃきみが消えちゃう。
 だから――ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから信用してくれないかな?」

 確かに、前は敵だった。
 今も味方ではないけど、でも今回は前みたいに"絶対に手を取り合えない"訳じゃない。
 そんな相手が、無念のまま目の前で消えていくのは……わたしは、嫌だ。
 どうにもならないこと、止められないものが世の中にはある。それは知っている。
 ……それでも、結末をよくするために働きかけることは出来るんだから。

「……やだ」

 そしてそれは何も、彼女の為だけじゃない。
 わたしと、キャスターの為でもある。
 伏魔殿攻略――ひいては殺戮都市のバーサーカー打倒。
 それを成し遂げる上で、彼女の力があるのとないのとでは大違いなのだ。

 ナイフを下ろさないジャックに、わたしは怯まない。
 「キャスター」と傍らの彼女に呼びかければ、キャスターは力強く頷いた。
 まるで何年も一緒に過ごした相棒みたいに、意思の伝達が完了する。
 そう、此処からは身勝手な武力行使。力づくで、アサシンのジャックを助けてみせる。

「"粘滑なるゼラチンの小川"!」

 キャスターの、呪文とも詩ともつかない詠唱が響くや否や、今度はゼラチン質の濁流がジャックへ襲いかかった。
 粘らか且つ滑らかという不思議な特性を持った波は、物理攻撃で迎撃すれば肌や武器に貼り付く"戦術殺し"。
 そういった事実がすらすらと頭に入ってくる。これも、彼女の行使する魔術の特性なのだろうか。
 とはいえ、ジャックもその程度のことは一目で見抜いたのか、接触すらせず署内のオブジェクトを利用して回避する。
 ひゅんひゅんと足場とすら言えないような物々の上を跳び回る姿は、まるで身軽な兎か何かのようだ。

「まだまだ行くよ! "煌冷たる野苺の星"!!」

 攻勢には入らせぬとばかりに、キャスターが追撃する。
 今度出現したのは、苺の形をした真っ赤に波打つ手のひらサイズの太陽だ。
 それは薄暗いスコットランドヤードの廊下を向こう側まで照らしてしまえるほど、眩しい。
 なのに発せられているのは熱気ではなく冷気だ。
 本物の太陽ほどの勢いではないにしろ、猛吹雪の日に外を歩いているくらいの寒さはある。
 そして無論、野苺の星が持つ効果はこれだけではなく。

「はねなさい!」

 プロミネンス――太陽が日常的に発生させている天体現象。
 またの名を紅炎とも呼ぶそれを、キャスターの創った赤星も有していた。
 ただ、それは炎ではなく……冷気。
 周囲に見境なく発している極寒を一点に凝縮させたような、指向性を持った極小の寒波。
 意思を持った蛇のようにジャックに襲い掛かっていくそれは、一本や二本ではない。
 全部で三十六本。虚空で煌めく野苺の太陽から、色合いや輝きとは対照的な冷たさを撒き散らしながら、哀しい殺人鬼の少女を絡め取らんと迫る。

 アンデルセンやシェイクスピアといった、わたしの知る前例(作家)と違い、彼女の戦いは攻撃的だった。
 エンチャントではなく多種多様な詠唱から、現実離れした光景を作り出しての中距離戦。
 それがキャスター……ハートステッキの彼女のスタイルであるらしい。
 流石に威力はこれまで見てきた強者達に一歩劣るものの、あの手数の多さは純粋にかなりの強みと言えるだろう。

 中でも特に妙なのは、その独特な詠唱だ。
 幻想的で非現実じみた内容を実現させるそれの先頭には、最初のときも今回も、二文字の耳慣れない言葉が付いていた。
 詠唱の終わりと共に放たれた魔術はどれも、その言葉にちなんだ特性を宿している。

 剛く、迅い風。
 粘らかで、滑らかな水流。
 煌めく、冷たい星。

 キャスターの紡ぐ魔術は、まるでおとぎ話の一ページ。
 彼女のスキルなのか、或いは宝具なのか。
 そこまでは判然としないけれど、あれは普通に行使された魔術ではないと(ほぼ)素人目にも解る。
 誰でも手順次第であんな魔術が使えるなら、とっくに科学と魔法の地位は逆転している筈だ。

 絵面的には、派手な攻撃の釣瓶撃ちでキャスターが追い立てているように見える。
 しかしその実、ジャックはあの状態にありながら、一撃たりとも被弾していなかった。
 堅実に回避し、捌けるものは捌き、反撃の好機を待ち兼ねている。
 多分、キャスターの戦いは見た目こそ派手だけど、それを扱う彼女自身があまり戦い慣れていないんだ。
 その証拠に、彼女の愛らしい顔立ちが、ちょこまかと動き回るジャックに対しての戸惑いの色を湛え始めている。
 あれは間違いなく、戦い慣れした人物の浮かべる表情じゃない。

 そして、それは心の中で浮かべるならまだしも、戦いの中で相手に見せてはいけない顔。
 ジャックはキャスターが思い通りに攻められていない様子を目敏く察知し、高い敏捷性を活かして一気に接近していく。

「――解体するよっ」
「わっ!? ちょ、ちょっとタイム!! タイムって言ってるじゃん!!!」

 そんな懇願が聞き入れられる筈もなく、一閃、振るわれたナイフがキャスターの肩口を切り裂く。
 斬られた箇所から上等なドレスにじわりと血が滲むのがわたしには見えて、思わず声をあげていた。

「大丈夫、キャスター!?」
「いったあ~~~っ……な、なんとか! まだやれるよ!」

 傷は浅いようだが、脅威は依然として去っちゃいない。
 ジャックは近接戦、それも相手の動けない間合いでこそ輝くサーヴァントだ。
 特に攻撃にも防御にも詠唱というプロセスを挟まねばならず、接近戦の心得などあるわけのないキャスターにとって、この間合いは鬼門以外の何物でもない。

 ……かくなる上は! わたしは、礼装に秘められた第二の機能、もう一つの十八番を迷わず切った。

「……あの時とおんなじ」

 第四特異点での出来事を思い返してか、ジャックはつまらなそうな声を漏らす。
 無理もないだろう。
 彼女の刃は今、絶対に当たる筈の間合いで、完全に無反応のキャスターへと放たれたにも関わらず、空を切ったのだ。
 キャスター自身の力による回避ではない。
 今のは、魔術礼装・カルデアによる緊急回避機能。
 瞬間強化と同じく一戦に一度が限度なものの、使い所によっては絶大な効果を発揮出来る虎の子だ。
 斯くしてキャスターはマジシャンの脱出ショーさながら、絶体絶命の窮地を脱することに成功した。
 自身の無事を確認するや否や、反撃の為にその桜色の唇が動く。幻想の世界を取り出すための、奇妙な詠唱が紡がれる。

「もう怒ったんだから――今度はうんと意地悪にやったげる! "迅粘な白クモの巣"!!」

 ふわっとキャスターのドレスがたくし上げられたかと思えば、そこから勢いよく飛び出したのは蜘蛛の巣。
 目にも留まらぬ速さで出現したそれを前に、今度ばかりはジャックが近距離の間合いに居たことが仇となった。
 その手や足に、蜘蛛糸がべっとりと絡み付いていく。
 余程触感が気持ち悪いのか、不快そうにジャックは顔を歪めていた。

「さ、これでもう動けないでしょ? 観念しなさいっ」
「……しつこい」

 が、ジャックはまだ終わらない。
 彼女の背後から猛烈な勢いで溢れてくる、霧。
 見ればいつ出現したのか、廊下の隅にランタンが灯されている。
 あれを起点として、この霧が放出されているのは間違いないようだ。
 第四特異点の魔霧に限りなく近い性質を持つ霧の前に、折角結び付けた蜘蛛糸が解けていく。
 この霧は高濃度の硫酸を含んでいる、幾ら粘り気が強かろうが、蜘蛛糸程度ならば簡単に溶解させられるらしい。

「えっ――」
「おしまいだよ、キャスター」

 兎にも角にも、これはまずい。
 まずい、展開だった。
 まさかジャックが霧をああやって出してくるとは思わなかったのか、キャスターは完全に虚を突かれた様子だ。

 ……表情を隠すのが下手すぎる!

 あまりにもどかしくて、思わず声に出てしまう。
 そうこうしている間にもジャックは再び、今度こそ確実にキャスターを()る為に駆け出している。
 どうする。回避も強化も品切れだ。マシュの助けも今はない。
 まずい。まずい。このままでは、キャスターが死んでしまう。殺されて、しまう。
 それだけは回避しなければならない。どうする。どうにかして。あの子を助ける、手段を。
 自分でも不自然なくらいに、この時わたしは、キャスターを助けなければと焦っていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。それ以外の何もかもを全部忘れ去って、頭を必死に回していた。

 わたしの今纏っている礼装にはもう一つ機能がある。
 応急手当――本格的な治癒魔術には大分劣るけれど、サーヴァントの傷を素早く回復出来る優れもの。
 ただ、それを今キャスターに使ったとして、ジャックの攻撃に彼女が耐えられるだろうか。
 この機能では、攻撃そのものをどうにかすることは出来ない。
 攻撃を受ける、ないしは受けた前提で、被害を軽くする為のものである。

 それでも、ないよりはマシだ――!
 わたしは魔力を集中させ、礼装の補助で練り上げ、キャスターに回復を飛ばそうとして……そこでふと、あることを思い付いた。

 ……うまくいく確率は、すごく低い。
 根拠も全くないし、勘に基づいた一手もいいところだ。
 でももしかしたら、そのほんの僅かな確率で――うまくいくかもしれない。
 うまくいかなかったらその時は、わたしもキャスターも終わり。
 けれどそれは、定石通りの手を打っても殆ど同じ……そんな状況なんだ、今は。
 だったらわたしは、藤丸立香は、たとえリスキーでも最高の結果を得られるかもしれない方を選ぶ。

 一瞬の逡巡の後、わたしは意を決して応急手当を視界の端のサーヴァントに向けて行使した。

 ――壊れかけの身体で必死に戦っている、ジャック・ザ・リッパーに。


「「……え?」」


 声と声が重なる。
 キャスターとジャックの、驚きの声。
 驚くのは当たり前だろう。
 彼女達にしてみれば、今わたしがやったことは奇行もいいところだ。

 追い詰められている自分のサーヴァントを無視して、ボロボロの敵を回復させる。
 裏切りにしても唐突すぎるし、悲観の果てにヤケになったと言われても何も文句は言えない。
 そう理解した上で、わたしは賭けに出たわけだったが……案の定、キャスターはわなわなと肩を震わしていた。

「な、な、な――なんてことするのよーーーーーーーっ!!
 わ、わたし、頑張って戦ってたのにっ!! ちょ、ちょっと追い込まれたからって、そんなあっさり見捨てるなんてひどいじゃんっ!! マスターのばかあああああああーーーーーっ!!!!」
「どうどう。落ち着いて落ち着いて」

 地団駄を踏みながら抗議してくるキャスターを宥めつつ、わたしはジャックの方に視線を移す。
 応急手当が効いてか、傷だらけの身体は幾らかマシになり、重傷一歩手前くらいまでは回復しているようだった。
 あの様子なら、自然に消滅するということはないだろう。
 そしてその顔は、理解できない、とでも言いたげな困惑に染まっていた。

「……どうして?」
「さっきキャスターも言ったけど、わたし達は別に、ジャックと戦いたいわけじゃないんだ」
「………」
「むしろ、出来れば協力したいと思ってる。それに――」

 あのまま行動を続けていたら、ジャックは遠くない内に力尽きてしまっていただろう。
 ひとりきりで傷付きながら戦って、最後まで誰も味方がいないままひっそりと消えてしまう。
 それはとても、悲しいことだ。サーヴァントとはいえ幼い女の子がそんな目に遭うなんて、決していい気分じゃない。
 キャスターのことも心配だったけど、わたしがそういう意味で彼女に思うところがなかったと言えば、嘘になる。
 あんなことが思い付いたのは、それも手伝ってのことだったのかもしれない。

「助けたいと思ったんだ。わたし、きみのこと」
「――わたしたち、を?」

 きょとんとした様子のジャック。
 彼女とわたしを交互に見て、キャスターは溜息をついていた。
 しかしその顔には確かに笑みが浮かんでいて、「それでこそあなたよ」と言われているような気分になる。

「別に、信用してくれなくてもいいよ。
 でも、少しだけ手伝わせてくれないかな。わたしと、キャスターに」

 ――アサシンのジャック・ザ・リッパーは悪意には残酷に応じるが、好意には脆い。

 そんな情報を、この時のわたしは知らなかった。
 一切の打算抜きで、とんでもない大博打に打って出たのだ。
 わたしがキャスターでも怒るし、わたしがジャックでも、答えはどうあれ呆れて硬直してしまうのは間違いないだろう。

「とと、返事の前に傷は治させてね。なんだか見てるこっちまで痛くなってきちゃうし。キャスター、お願い」
「ねえもっとなにか言うことがあるんじゃない」
「もう、まだ怒ってるの? ごめんごめん。だから、ね?」
「ふん」

 ふいっ、とそっぽを向きながらも、キャスターはジャックの返事を聞くことなく、治癒魔術を施していく。
 応急手当では治しきれなかった負傷が、優しい春風の若草色に包まれて少しずつ、だが確かに消えていく。
 ジャックはそんな自分の身体を、何が何だか解らない、といった様子で見つめていた。
 やがて治療が終わると、彼女はおずおずとわたしの顔を見上げる。
 その顔にはまだ、戸惑いと疑問の色が残っていたが。

「へんなの。全然、意味わかんないよ」
「あはは、よく言われる」
「でも――」

 ジャックは、そっとその場に座り込んだ。
 張り詰めていた糸が切れたみたいだと思った。
 そして、初めて。

「……ちょっと、うれしかった、かも」

 そう言って、表情を綻ばせてくれた。
 その顔を見て、ようやく、わたしは「勝ったんだ」と心から思うことが出来た。


BACK TOP NEXT
第一節:赫讐の伏魔殿(1) 特異点トップ 第一節:赫讐の伏魔殿(3)

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2017年06月24日 22:47