たちまち、清州城は大混乱となった。
城内外は怒号で満たされ、血霞は霧となり視界を奪う。
吹き荒れる瘴気と土煙を孕み、混沌色に染まった大気は、闘志に酔ったもののふでなければ、命すら奪われる致死毒と化した。
髑髏が嗤う防衛戦。魍魎が跋扈する死線。地獄と呼ばずに何と呼ぶかと、雄叫びと悲鳴が物語る。
「何してる、次の矢束がないぞ!」
「ランスロット殿がまた仕留めたぞ! 援護を!」
「東側が手薄だ、こっちを先げぇっ!」
二つ隣の持ち場の男が、投げ槍を頭部に食らって死んだ。
弓矢を携えた射撃部隊は、城壁に守られてこそいるものの、撃つには窓から身を覗かせねばならない。
そこをものの見事に突かれて、脳天を深々と貫かれたのだ。
槍の勢いに引っ張られて、壁に貼り付けられた血肉の塊。そういうものを目にしたことは、何も今回が初めてではない。
それでも、慣れるものではないのだ。我知らず、立香の口からは、ひっと息を呑む声が漏れた。
「主殿、当たっては危ない! もう少し身を隠してください」
城壁を駆けていた風魔小太郎が、窓から覗き込み立香へと言った。
「小太郎殿の言う通り! 弓が引けるわけでもないんでしょう、さぁもっとこっちへ!」
「ああ、分かった……!」
武士の一人に促されるまま、壁内の奥の方へと下がる。
ダレイオスの手勢の槍が、またしても地上から迫ったのか。小太郎が手を振る動作と共に、かんと乾いた音が鳴った。
そうして、主の無事を確かめると、一瞬赤毛の下で笑んだのち、再び視界の外へと消える。
あれなら小太郎は平気だろう。わざわざ危険を冒してまで、状況を確認し指示を出さずとも、自分の判断で戦えるはずだ。
立香とは、自分とは違うのだ。何だかんだで世界を救い、英雄と持て囃されてはいても、自分は一人ではこの程度なのだ。
もどかしい。サーヴァントの助けがなかったならば、敵一人倒すこともできない。そんな無力に腹が立つ。
(マシュも、こんな気持ちなのか……)
カルデアで状況を観測している、マシュ・キリエライトの顔を思い出した。
無責任に慰めはしたが、戦う力を失った彼女も、きっとこんな気持ちを抱いて、唇を噛んでいるはずなのだ。
ああ、それでもだ。だとしても彼女は、決してふさぎ込むことはなかった。
オペレーターの任務に就いて、自分にできる新たな仕事を、懸命にこなし続けているのだ。
(腐ってなんかいられない……か!)
だとするならば、負けられない。
元よりマシュとは違って、己は、戦えないことには慣れっこなはずだ。今更周知の事実などに、膝を折ってはいられないのだ。
両の頬を、平手で叩く。一発気合いを入れ直し、意を正して戦況へと向かう。
「何か手伝えること、ありませんか!」
「矢を持ってきてくれ! 全然おっついてないんだ!」
「こいつが肩やられてんです! もう弓も引けない! 奥の方まで!」
弓を引けなくたっていい。それ以外ならできることはある。それ以外を望んでいる者も、きっと山ほどいるはずだ。
声を上げれば求める返事は、あちらこちらから返ってきた。
であれば動ける。戦える。自分にできるだけのことでも、十分に力となることができる。
屈してなぞいられるものか。ふんと鼻息を強く吹くと、立香は求める声に応じ、矢の束を取りに駆け出していった。
◆
走る。駆ける。疾風を纏う。
石壁の上をたんたんと蹴り、時に重力に逆らって、横伝いにもなりながら。
眼下におびただしく広がる、悪鬼羅刹の大軍団を、見下ろしながら小太郎は走った。
人手は確かに足りていない。しかしこの場の目的は、反撃ではなく、時間稼ぎだ。
援軍が到着する時までは、適度に温存しなければならない。闇雲に宝具を発動して、主に負担をかけてはならない。
「せい――ッ!」
故にこそ、小太郎は裏方に徹した。
地上をランスロットに任せ、自身は壁面へと下がり、火器による後方支援を引き受けたのだ。
気合は裂帛し、爆ぜる。投擲された火薬玉が、どうっと轟音を響かせ燃える。
命を持たないアンデッドでも、バラバラに砕くことは可能だ。爆薬に吹き飛ばされた髑髏は、継ぎ目を失い爆裂四散し、ばらばらと無惨な骸を晒した。
(現状、壁で持ちこたえてはいるけど……!)
『不死の一万騎兵(アタナトイ・テン・サウザンド)』は、個々人の攻撃力には乏しい。巨大な城壁を前にしても、砕く術を持ち合わせていない。
故にこそ、人数の不利があっても、石壁で食い止めることはできている。
このままアグラヴェインの援軍が来るまで、耐え忍ぶことがかなったならば、必然状況も打開しうるだろう。
問題は、それがかなうかどうかだ。不死の軍勢であるダレイオス軍には、恐らくは疲労の概念もない。
夜襲を警戒するあまり、寝不足で自滅したという、間抜けな逸話も彼にはあった。しかしながら、当時と今では、まるきり状況が違っているのだ。
仮にこのまま本当に、根比べの持久戦となったら、果たして先に倒れるのはどちらか。
「……! ランスロット殿!」
その時、小太郎は見てしまった。
見てしまったが故に役目を放棄し、のこのこと前線へと降り立っていた。
否、そうせざるを得なかったのだ。この時が来てしまった以上、人ならぬ英霊である己には、もはや高みの見物など許されないのだ。
「来たか、小太郎!」
「はい……彼が、動いています!」
来たか――と確かめたものは当然、風魔小太郎の所在ではない。
より恐ろしく、巨大なるものが、迫っていることを確認したのだ。
忍の鋭敏な聴覚が、地鳴りの響きを捉えている。奴が来たと、近づいていると、確かに警告を発している。
屍踏み越え抵抗を嗤い、見下しながら驀進するのは、天まで届かんばかりの巨体だ。
異国の怪獣・象(エレファント)――それを更に倍加した、恐るべきアンデッド・ビーストが、遂に前線へと踏み出したのだ。
野生の王者に跨るものは、当然王でなければならない。そこには奴の姿がある。バーサーカー・ダレイオス三世が、自ら戦場に乗り込んでくる。
「やれますか、ランスロット卿」
「生身同士でやれるのならば。しかし、あれはさすがにな……」
王は『不死の一万騎兵(アタナトイ・テン・サウザンド)』の、唯一と言えるアキレス腱だ。
宝具たる不死者の軍勢が、サーヴァントの手足である以上、大本のサーヴァントが打倒されれば、連鎖反応式に全滅する。
痺れを切らし乗り込んできたのは、自ら弱点を晒すのと同義。普通なら好機と見なすべきだろう。
「■■■■■■■……!」
しかし当然、そのサーヴァントは、最強の戦力に他ならない。
身の丈三メートルをも凌ぐ、黒鉄のごとき巨大王は、そこらの骸骨などよりも、遥かに頑健な強敵だ。
鬼火を伴う漆黒の斧は、幾千の敵を薙ぎ倒すだろう。呪詛が刻まれた鋼の皮膚は、幾万の刃を弾き返すだろう。
そしてそれ以上に、象が怖い。一対一の斬り合いならば、円卓最強にも勝ち筋はあるが、あの巨体を相手取ってなお、そうするだけの余力はあるか。
「……僕が獣を撹乱し、ランスロット殿が挑んで五分。あと一人でようやく優勢、ですか」
「何にせよ、壁に届かせるわけにはいかん。信玄公に連絡を!」
あれを城壁に届かせれば、さしもの清州城も崩れるだろう。
大きい、重い、質量がある。それもあのサイズまで極めれば、十二分の脅威となり得る。
攻めるにも度胸の要る相手ではあったが、なればこそ躊躇っている余裕などなかった。
陣頭指揮に専念している、武田信玄を呼び寄せてでも、食い止めねばならない相手だったのだ。
唸りを上げるダレイオスは、こうしてまごついている間にも、一歩また一歩と迫ってきている。
なればこそ迷ってはおれぬと、小太郎達も腹を括り、行動を起こそうとしたのだが。
「――■■■■!?」
彼らが動くよりも早く、戦場の光景は一変した。
◆
輝けるもの、天より注ぐ。
燦々煌めく日輪の光が、雷雨となって大地を穿つ。
神の威光にかなう者なく。それが魔であれ人であれ、全能者の権能の前では、いずれも等しく塵芥だ。
降り注ぐ光弾は戦場自体を、まるまる包み込む暴風雨だった。正体不明の飽和射撃は、天頂から垂直に降り注ぎ、群がる敵を撃ち貫き尽くした。
そうだ。敵だ。全ての敵だ。ダレイオス三世の軍も、武田信玄の軍ですらも、その煌めきにとってはいずれも、取るに足らない敵であった。
「何が起きた!」
馬に乗り、壁から飛び降りて、前線へ赴こうとしていた信玄が叫ぶ。
それを内側から聞いていた、立香もまた身を乗り出して見据える。
そして遂に目の当たりにしたのだ。現れた何者かの正体を。この凄惨な裁きを一瞬のうちに、実行してのけた者の姿を。
『上空にサーヴァント反応確認! 識別はアーチャークラスだけど、この霊基パターンは……!』
「そんな……そんな、馬鹿な!」
その姿にも、見覚えがあった。
輝きを放ち舞い降りた者は、自身も輝くほどの美貌を、全天に振り撒く麗しの姿だ。
翡翠のごとき緑の長髪。高貴なる紫の瞳の光輝。身にまとう純白のマントも、飾り気のないものでありながら、シルクの仕立てかと見まごうほどだ。
そしてその姿を、立香は、間違いなく過去に目撃していた。
緩やかな動作で地に降り立ち、呻く有象無象を一瞥する姿は――見まごうことなき、天の鎖だ。
ランスロット達の次の時代――第七特異点で目の当たりにし、激しく火花を散らし合い、最後には共闘したはずのサーヴァントだった。
「……!」
かざす掌が、金色に光る。人の姿をした神器は、全身そのものが神秘なる兵器だ。
次の瞬間、薙ぎ払う光が、阿鼻叫喚の呼び水となった。大ぶりに振り回した黄金の鎖が、軌道上の敵を四散させたのだ。
倒したのではない。斬ったのでもない。細腕からは想像もつかぬ、剛烈の一言に尽きる神風は、触れる者全てを慈悲容赦なく、砕いて肉片へと貶めたのだ。
巻き添えを食った城壁が、がりがりと爆音を立て削られるのが、五感の全てで感じ取られた。
まるで地震か何かのように、揺れ動く石壁の内側の武士は、あっという間に狂乱し、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「■■■■■――ッ!」
光は闇を絡め取る。目を潰すほどの白光は、暗黒をも飲み込み蒸発させる。
鎖の終着は巨大王だ。ダレイオスが腰を預けていた、巨大な象を絡め取ったのだ。
空いたもう片方の手からも、光。二本となった金の鎖は、左右の前足をそれぞれに掴み、巨体を悠々と持ち上げてみせる。
投げ飛ばし、地に落ちた山の震えは、音となり立香の耳にも届いた。前線に立っていた小太郎達は、鳴動を触覚ですらも感じただろう。
これだけのことを成し遂げたのだ。ただ一人の身でやってのけたのだ。
それでもなお、アーチャーの顔には、汗の一つすら浮かんでいない。超越者たる天の鎖は、ここでも相も変わることなく、涼しい面持ちを保っていた。
「■■■■■■……!」
ダレイオス三世は狂戦士ながら、仕切り直しのスキルを有するという。
それは幾度も撤退しながら、なおも抵抗を続けたという、生前の在り方の具現なのか。
いずれにせよ、理性を失った王は、しかし引き際だけは誤らなかった。
この者と戦ってはならないと。少なくとも三つ巴になれば、確実に無事では済まないと。
恐らくは本能的に直感し、残った兵士を引っ込めると、すぐさま象を反転させ、ダレイオスは撤収した。
後は武田のみが残る。集結した三名のサーヴァントと、半数以下にまで削られた、前線担当の侍達が、遠巻きに乱入者の姿を見据える。
「聞きしに勝る狼藉ぶりだ。貴様がアーチャーのサーヴァントだな」
「エルキドゥ……いや、キングゥなのか!?」
刀を手に問う信玄と、身を乗り出して叫ぶ立香。
自らの名を声高に叫ばれ、アーチャーは――紫の瞳の神器は、ふ、と皮肉げに笑った。
「理解が早いのは助かるよ。こちらとしても、いちいちと、名乗りを上げるのは面倒だからね」
その口調は、間違いない。斜に構えたような台詞と、尊大に過ぎるほどの自信は、紛れもなくあのキングゥのものだ。
人類史最強のサーヴァント――神代のランサー・エルキドゥ。
ギルガメッシュ王叙事詩において、名高く語り継がれた勇者の、死後の肉体を利用することで、生み出されたのがあのキングゥだ。
人類絶滅の尖兵と生まれ、用が済んだら母親に捨てられ、最期にはいかなる心境の変化か、母に牙を向いた存在であった。
まさか、再びまみえるとは。サーヴァントとして現界するとは。
あるいは彼とはもう二度と、巡り合うことはないかもしれない。謎の心理は謎のままに、闇に葬られるかもしれない。
どこかでそう思っていただけに、この衝撃的すぎる再会は、立香の声を一層張り上げさせた。
「幸い、言葉は解している。なれば弁明もかなうだろう。貴様がこの清須の城へ、乗り込んできた理由は?」
「人間というのは相変わらずだね。幾千年後の英霊であっても、平然と分を見誤る。何ならキミが想像している、その通りの理由を言ってあげようか?」
小太郎も、あのランスロットですら、実はこの状況に愕然としていた。
しかしながら、その一言で、ようやく我に返ったのだろう。殺意をほのめかすキングゥの言葉に、緊張し得物を構え直す。
対する武田信玄は、無言だ。最初から対話のテーブルに立ち、警戒を発していた信玄だけが、変わらぬ姿勢を保っていた。
しかしながら、遠目にあっても、汗を滲ませる彼女の顔は、ありありと想像することができた。
「何で……どうしてだよ、キングゥ! バビロニアでは俺達と一緒に、ティアマトと戦ってくれたじゃないか!」
「ああ、誤解があったようだ。別にボクは人間達と、お友達になったなんてことは、一言も口にしていなかったはずだけど」
「……!」
事も無げに言い放つ、キングゥの口ぶりに愕然とする。
確かに彼の本心は、結局最期まで聞かされていない。
気付いた時には乱入し、気付いた時には逝っていた。それだけしか知らなかった立香は、結局彼の胸の内を、推し量ることなどできなかったのだ。
あれは過信だったというのか。通じ合ったと思っていたのは、結局独りよがりに過ぎなかったのか。
「………」
緊張感が戦場に満ちる。遥か彼方からも可視化できるほどに。
あるいは舞い降りたキングゥは、ダレイオス以上の強敵だろう。神の力を授かった器は、人間霊とは次元が違う。
果たして、無事に済むものなのか。あるいはそれこそ、どうしても、戦わなければならないものなのか。
「――何をしているのです、アーチャー」
その、瞬間だ。
聞いたこともない声が、またしても新たに耳を打ったのは。
静かでありながら、凛として。穏やかさの裏に、厳然を滲ませ。
決して大きくなかったはずの声は、しかしその瞬間、確かに、戦場全土に響き渡っていた。
「……!」
『新たな霊基反応です! でもこれは、そんな、まさか……突然、索敵範囲に出現した……!?』
その瞬間の感触を、生涯、忘れはしないだろう。
遥か遠くにありながらも、藤丸立香はそう感じていた。
新たに現れたのは、武者だ。文字通り漆を塗ったような、見事な黒毛の馬に跨る、美しき女武者の姿だ。
被るのは兜ではなく、烏帽子。結い上げられた黒髪は、椿の光沢をつやつやと放つ。
身に纏う鎧の隙間からは、女の柔肌が見え隠れしていた。どことなく、信玄よりも印象深く、それらが目についているのは、露出のし方の違いだろうか。
程よく実った両の乳房も、浮き出るしなやかな腰のラインも。
遠目にも瑞々しさが分かる、馬に預けられた太ももも、いずれもこんな状況でなければ、男の本能を融かして狂わす、魔性の魅惑であることだろう。
(でも、何だ……何だアレは……!?)
だというのに、そう感じられない。
美しいはずの容姿なのに、それを客観的にしか見られない。背後に滲み出る気配が、瞳が語るその鋭さが、見惚れることを許してくれない。
あれは何だ。何なのだ。これだけ距離があるというのに、それでもなおも両足が竦む、この凍えるような感覚は何だ。
青く煌めく双眸は、吹雪の空のように冷たく、遠い。何を見据えているかもしれず、しかし何かを睨んでいるのは、確かに伝わる不気味な瞳だ。
あれを直視してしまったら、恐らく見る間に失禁し、情けなく崩れ落ちるのではないか。
そこまで考え、立香は察した。ああ――この感覚は、恐怖だ。
桁違いのものなればこそ、そうだと認識できなかった。常識で考えられないほどに、立香はあのサーヴァントを恐れているのだ。
恐怖を恐怖とすら認知できない。そうした感覚に陥らせる、そういうサーヴァントなのだ、あの女は。
「まどろっこしいのはいいよ、セイバー。コイツらにはボクの正体は割れてる」
「ふむ……なるほど、ふむ、なるほど。つまりは、そういうことでしたか」
これまでの嘲笑はどこへやら、途端に不機嫌になった様子で、キングゥが吐き捨てるように言う。
セイバーのサーヴァントは気にもとめずに、周囲を見渡し納得する。
そしてしばらく周囲を探り、何かの目星をつけたのか、城壁の方を向いて、言った。
覚悟ができていなければ、目を合わせた瞬間どうなっていたか。無論そんなことは、考えたくもなかった。
「お初にお目にかかります。人類最後のマスター殿。私、キングゥと同盟関係にあります、セイバーのサーヴァントと申します」
表情は、確かににこやかだった。
だとしても、目は全く笑っていなかった。
それは殺意によるものではない。本質的には、あのサーヴァントは、こちらのことを何も見ていない。
取るに足らぬ路傍の石ころ、あるいは小さな虫けらか芥。そんな風に感じている目だ。
敵意すらも抱いておらず、何の関心すらも抱いていない。そんな目をして笑えることが、立香には心底恐ろしかった。
「同盟、か。己が身一つで世すらも滅ぼす、そう驕るかのような男が、よくもまぁそんな気になったものだ」
「無論、聞き分けてはくれませんでした。なので手ずから躾けたのですよ。私は一騎討ちにて、彼に勝利し――彼の全てを譲り受けたのです」
「なんと……!?」
これにはさしもの信玄も、驚愕も露わな声を上げた。
立香にとってはその事実は、なおのこと大きな驚きとなった。
倒したというのか。あのキングゥを。あれほど苦戦を強いられて、あれだけの手を尽くして退かせた敵に、敗北すら認めさせたというのか。
それもあのセイバーが、たった一人だけで彼に挑み、それだけの戦果を掴んだというのか。
あり得ない。普通では考えられない。直接対峙し、刃を交え、苦しめられた立香だからこそ、そんなはずがないと否定したくなる。
あれほどのおぞましい寒気は、それだけの力を持つ英霊なればこそ、身につけたものだったのかと――そんな事実は認めたくないと、全細胞が拒絶してしまう。
それでも、キングゥは否定しない。苦虫を噛み潰したかのような、不機嫌面を一層濃くし、ふんと鼻を鳴らすだけだ。
そこで気分を害したことが、何よりの状況証拠として、事実を色濃く裏付けしてしまう。
「それで、何でしたか。何の目的があったか、でしたね。彼が何を思っていたか、それは知るところではありませんが、少なくとも今の私には、貴方がたをどうこうする気はありません」
「いつでも潰せるような相手を、わざわざ気に留めるつもりはない、と?」
「そのあたりは、ご自由に。とはいえ敵意の有無自体を、疑われるのは本意でもない。ですからここは友好的に、挨拶に来たと締めくくりましょう」
どの口が友好的とほざく。
あれほど冷たい気配をまとって、そんな暖かな言葉を何故に選べる。
もはや寒々とした闇が、輪郭すら覆い隠すような、そんなセイバーの有様を見て、立香は内心で否定を続けた。
口に出すことも出来ない罵声を、脳内で延々並べ続けたのだ。
「それでは、マスター――ごきげんよう」
最後に、にこりと笑みを浮かべて。
キングゥが飛び立つのと同時に、セイバーの姿は霧散した。
文字通り姿を消した彼女を、詳しく見届けることなどできない。しかし立香は、キングゥの方には、あるはずのない何かを見たような気がした。
長い髪とネックレスが、それを隠していたおかげで、今まで気付かずにいたのだが――あの時光って見えたあれは、動物の首輪ではないのか。
飾り気のない、質素な輪だが、それでもあれはそういうものだと、朧気に立香は察していた。
そんな屈辱的なものを、プライド高いキングゥが、わざわざ黙って嵌めている。そのあり得ざる行動が、意味するものは、果たして何か。
「最も厄介な敵……か」
ぽつりとひとりごちた、信玄の言葉を、立香が聞き届ける術はない。
それは距離だけが理由ではない。心理的な理由の話だ。
汗を吹き出し、床に手をつき。ぜいぜいと呼吸を繰り返し。
無限に等しき悪夢から、ようやく目を覚ました藤丸立香には、そのことを噛みしめる余裕すらも、しばらくは、許されなかったのだから。
最終更新:2017年06月17日 12:53