それの人相も服装も、外からは全く解らなかった。
白濁した霧のヴェールで全身を覆い、解るのはアサシンのジャックとほぼ同じ背丈、体格をしている事だけだ。
だが、そんなものは全体で見ればごくごく瑣末な特徴でしかない。
何より驚嘆すべきは――その纏う霧が、触れた全ての有機物を、シュレッダーに掛けたみたいに崩壊させていること。
「――バーサーカー!!」
簡潔な詠唱と共に、キャスターが風の矢を放つ。
然しバーサーカーの霧鎧を、それはほんの僅かすら掘り進められない。
有機、無機、実体、非実体問わず、接触した何もかもを崩壊させる攻防一体の装甲。
彼女風に言うならば、"自動解体システム"とでも言うべきか。
それに驚いている余裕すら、バーサーカーは与えてくれなかった。
わたしと、キャスターと、ジャック。
三人の居る座標へと全く同時に、スコットランドヤードの屋根をぶち抜きながら、天井を破って霧の槍が落ちてくる。
わたしは二人の心配も忘れて、殆ど転がるようにその場を逃れたが、判断が後コンマ数秒遅れていたら確実に死んでいた。
天井も、非実体の槍が突き刺さった床も、片っ端から解体されていく。
自動解体システムの搭載された魔霧を、あんな風に放つ事も出来るのか。
いや、その程度では済むまい。
彼女はきっと、体に纏い、発しているあの霧を、自由自在に操れるのだ。
蛸が自分の触手を自在に動かすが如く、意のままに霧々を動かす事が出来る。
本体からどれだけ離れていようが全く同じ殺傷能力を発揮出来るというのは、何とも理不尽な話だった。
「どうするの、キャスター!」
「どうする、って――!!」
キャスターの目が、今自分の横を通り抜けていった"彼女"を追う。
無数のナイフをスカートみたいなホルダーに納めた霧の殺人鬼は、道を違えた自分自身を殺す為に止める間もなく駆け出していた。
霧鎧と真っ向かち合っておきながら、ナイフが即座に崩壊していないのは、彼女達が元々同一の起源を持つ存在故か。
自分同士の殺し合いという奇特な状況が、隙間なき自動解体システムへのある種の耐性として機能しているのかもしれない。
かと言って、それはジャックが優勢に立ち回れるという意味ではない。
恐るべき自動解体を貫通する手が有っても尚、バーサーカーのスペックはジャックを数段上回っていた。
狂化という代償を支払っている為か、それともアヴェンジャーによるバックアップか何かがあるのか。
どちらにせよ、ホムンクルスを喰らいまくって魔力を肥やしているバーサーカーに、つい先程まで死に体も同然だったジャックが敵う道理はない。
――彼女ひとりならば。わたしはキャスターとお互い全く同タイミングで顔を見合わせ、うん、と頷いた。
「ジャックを援護だ、キャスター!」
「もちのろん! "迅剛なる飴色の風"……!!」
迅く、剛い飴色の烈風が、バーサーカーを霧ごと吹き飛ばさんと迸った。
だが、霧の鎧は小動もしない。
続いてさっきと同じ風の矢を、威力を減らして貫通力に極振りした、鎧貫通の為だけの一矢として放つが、これも同じ。
キャスターの猛攻が全く効き目を見せてくれない光景は、まるで水面に石を投げ込んだのに、波紋も飛沫もあがらないような、何ともいえない心地悪さを与えてくる。
次は岩だ。
頭上から、都市部には不似合いな巨岩がバーサーカーへ降り注ぐ。
此方も一瞬で解体されてしまうものの、狙いは傷を与えることじゃない。
ジャックが一気に距離を詰め、すれ違いざまに一閃。
決まったか、と人間のわたしは安直に思ってしまうけど、それが間違っている事はジャックの苦い顔を見ればすぐ解る。
駄目だ。
全く、通っていない。
暖簾に腕押しと言えるならまだいい。
押し付けた腕そのものが消えていく有様なのだから、力技に訴えることすら出来やしない。
これが――これが、殺戮都市のバーサーカー。
これは、まさしく獣だ。
人類悪なんて仰々しい物ではないけれど、故にこそ人の身にとっては居るかどうかも解らない神などより余程恐ろしい暴食する猛獣。
鉄砲は通らず、罠は踏み抜いた上で破壊し、人里を我が物顔で食い荒らす化け物。
こんな存在が後三体居ると考えるだけで気が遠くなるが、今は兎に角、目の前の状況を解決する事に全力を注ぐべきだ。
「■■■■■!!」
とはいえ、どうするべきか。
わたしは血が出そうなほど強く唇を噛んだ。
痛みで脳を刺激してやれば、何か妙案が思い付くかもと考えたからだ。
そんな閃きに縋りたくなるほど、これは絶望的な状況だった。
礼装の機能は全てリチャージ待ち、ジャックとキャスターの攻撃はどちらもまるで通っていない。
ガンドを撃てる戦闘服を着ていたならと一応思ったが、あれでも通ったかどうかは疑わしいものがある。
上段からの振り下ろし。
それをひょいと躱し、隆起した霧の棘がジャックへ襲い掛かる。
対するジャックも、未来予知でもしたような即断で動き、穴だらけの解体死体となる未来を巧みに退けた。
彼女達は同一存在。性能ではバーサーカーが優るが、理性を持った上で相手の動きを読むという点では、アサシンの彼女が優っているようだ。
にも関わらず――同等の勝負は成り立たない。
こうして戦っているのを見ると、解る。二人は同じ存在でも、彼我の間に膨大な力の差がある事が。
「跳んで!」
キャスターの声に、ジャックは素早く反応した。
瞬間、二体の殺人鬼を隔てるように出現する砂糖の大壁。
視界を遮られたバーサーカーの動作が一瞬停止するが、理性あるジャックにはその停滞がない。
壁のジャック側にちょこんと飛び出ている登頂用の出っ張りを、小さな足がひょいひょい蹴っていく。
登った壁から素早く飛び降りて、ナイフの切っ先を突き立てに掛かるジャック。
今度は、きちんと彼女の刃がバーサーカーの鎧を貫いていた。
それでも、やはり暴食により常に万全の状態を保っているバーサーカーには、その程度の痛みなどなまっちょろすぎるのだろう。
一切の痛痒を無視した、バーサーカーの鋭い蹴りが少女の腹腔を打ち据え、バットで打たれたボールさながらに矮躯を跳ね飛ばす。
ジャック! わたしは思わず声をあげた。
バーサーカーは、霧との接触をトリガーにした無差別な解体能力を持っている。
如何にジャックがその性質上、彼女にある種の耐性を持っているとはいえ、冷静に見送れる程わたしは利口じゃない。
結果、ジャックは腹部に打撲によるダメージを負っただけで済んだようだが、被弾部は若干爛れた風に見える。
やはり元が同じの存在とはいえ、それだけで完全に無効化出来るほどあの霧は優しくないらしい。
「倫敦に暁はなく、我が悪霧は永遠なり」
幼くて甲高い、なのに不思議と背筋が凍り付くような空寒さを含んだ声が、霧鎧の内から響いてくる。
その声は台本を読み上げているかのように淡々としていて、だからこそ聞く者に否応なく、相手がまともじゃない事を理解させてくれる。
宝具発動のコマンドワード――真名解放。
それが全員の鼓膜を叩くや否や、針鼠のようにバーサーカーの鎧が無数の棘を生み……一気に弾ける。
全方位に向けて放たれる解体の霧槍。
これは視界に入る全ての獲物を腹に収める舌であり、歯でもある死の槍衾だ。
直撃すればどうなるかなど、考えたくもない。
わたしは生きる為、躊躇いなくキャスターを呼ぶ。
キャスターはそれに頷いて、ばっとわたしの前に躍り出てくれた。
「"頑粘たる洋菓の檻"!」
わたしとキャスターを囲うように落ちてくる、ドーム状の菓子製檻。
相変わらずやりたい放題な戦い方だけど、今はそのめちゃくちゃさに心から安心する。
何せ、相手が超弩級のめちゃくちゃなのだ。
荒唐無稽で馬鹿馬鹿しい力に対抗するには、こっちも同じものをぶつけるしかない。
霧槍にお菓子の檻はあっさり食い破られるも、それも含めて想定の内。
キャスターが瞬時に出現させたファンシーな大砲で、バーサーカーに砲弾の三連射を見舞ってやる。
それに対してバーサーカーが、若干鬱陶しげな様子を見せたのは果たして気のせいか否か。
「倫敦に暁はなく、我が悪霧は永遠なり」
霧が巨大な口になって、大砲の弾を噛み砕いた。
唾液の代わりは悪霧に含まれている特濃の硫酸だ。
幻想さえ溶かすそれは、こちらの繰り出す神秘を悉く台無しにしていく。
――なんて、出鱈目。
「キャスター、宝具は」
一年前ならいざ知らず、今やわたしも素人ではない。
サーヴァントの中には、一定以下の神秘をシャットアウトするだとか、そういう力を持つ手合いが存在する。
わたしは、バーサーカーの纏う霧鎧はそれだと読んだ。
根拠と呼べる程のものはないけど、事細かに分析していたらその間に全滅しかねない。
神秘殺しの迷彩を破壊する手段を、どうにかして見つけ出す必要がある。
そこで浮かんだアイデアが、宝具の使用によるゴリ押しでの解決だ。
「うん、勿体ぶってられないわね……!
情けない話だけど、このままじゃ明らかにジリ貧、いいやそれ以下よ。
出来ればもうちょっと出し惜しみしたかったとか、そんな諸々はこの際押し殺します!」
キャスターはさっき言っていた。
自分の真名はこの世界では劇物で、今明かすわけにはいかないと。
彼女が渋るのは、十中八九それ関連だろうと想像が付く。
解放しようものなら真名が即バレする――きっとそういう代物なのだ、彼女の宝具は。
然し、彼女も自分で言っていたように、勿体ぶっている余裕はない。
たとえ多少この後の状況が悪化するとしても、"今"を生き抜かない事にはこの後も何もないのだ。
自動解体システムを貫通出来る神秘でもって、バーサーカーに一矢報いる。
そしてその上で、もう一人許可を取っておきたい相手がいる。
「ジャックも、それでいい!?」
「――うん。いいよ、おかあさん」
自分の手でもう一人の自分を殺す、そこに強く執着していたジャックに断りもなく事は動かせない。
勿論何か強制力があるわけではないが、彼女という英霊とこの世界で付き合う為には、そこを無視してはならない筈だ。
少し不安では有ったけど、ジャックはわたしの目を見て、力強く首肯してくれた。
それを確認し――キャスターの桜色の唇が、彼女が夢見、その手で紡いだ"物語"へと続く道を奏で始める。
「"二人の漕ぎ手はつたなくて、か弱い腕でオール漕ぐ。
小さな両手でデタラメに、我らの遊びを案内する――"」
どこかで。
遠い昔、どこかで聞いたような詩。
何なのかは思い出せないのに、とても懐かしくて泣きそうになる。
母に抱かれていた頃みたいな安心感に、心の中にあった大小様々な傷や不安が消えていく。
いや、"みたい"じゃない。
わたしは今、幼い日の記憶を思い出しているんだ。
子供の頃――多分小学校にも上がっていない頃に。
わたしはこれを、聞いたことがある。
この童話に触れ、現実を知らない豊かな想像力で夢を描いたことがある。
「"ものすべて 金の光の昼下がり"――さあ、煌めく不思議に還りましょう!!」
壊れ、溶け、崩れ果てたスコットランドヤードの壁の向こうに、有り得ない景色が見えた。
錆色の空と見果てぬ霧の廃墟はそこになく、暖かな黄金色の太陽と青空と、限りない緑の地平があった。
そこに佇む長方形の兵士達。
トランプから手足が生え、各々のスートを胸に刻み、三叉槍を携えた幻想の住人達。
鋭い爪を持つ巨大鳥を傍らに侍らせた、赤い王冠の美女が居た。
眼鏡を掛け、杖を突いた青い鳥が人語で何やらブツブツと呟いていた。
「軍勢の、召喚――」
「軍勢召喚? 違うわ、マスター。
わたしのは、"物語"を繋ぎ合わせているの。
時系列も、起承転結も、登場人物の間柄も善悪も全部無視した、作り手にだけ許される唯一最高のご都合主義!」
――胸を張って言えることじゃないけど、わたしは歴史にあまり詳しくない。
知ってるのは本当の常識レベルのことばかりで、現にいつもダ・ヴィンチちゃんやマシュのお世話になっていた。
でも、流石にこれは解る。これを見せられたら、解ってしまう。
キャスターの真名。世界で一番有名な童話作家。幻想世界の創造主。
「弾けなさい! 『幻想迷宮――」
◇ ◇
「ストップだ」
キャスターの固有結界、幻想迷宮。
彼女の紡いだ物語を、時系列、作品の垣根さえ無視して凝集させる奥の手。
それが完全にスコットランドヤードを覆い隠す前に、これまたどこかで聞いた男の声が響いた。
今度は昔じゃない。七つの特異点、その五番目で聞いた声だ。
「ったく、なんて奴と事構えてるんだおたくら。
道は作ってやるから、さっさと退いちまえ。その化物とやり合うのは、あくまで最後の最後だ!」
「っ――その声……!?」
次の瞬間だった。
キャスターとバーサーカー、双方の足元が突然音を立てて崩れ始める。
「わひゃっ!?」と素っ頓狂な声をあげて仰け反り、結界の展開を妨害されてしまうキャスター。
固有結界を展開されれば、外部からの手出しのしようがなくなる。
それを警戒して、バーサーカーの足止めと同時にキャスターの結界展開を力ずくで止めに掛かった、というところか。
真横から驚いた顔で跳ねたジャックが、穴に落ちかけたキャスターを抱え、逃してやる。
わたしはその(この状況でなければ)微笑ましい絵を横目に、声の方へと視線を向けた。
だがそこに、あの英霊の姿はない。
……さっさと逃げて、こっちまで来いってこと?
「ごめん、ジャック! ちょっとだけ退いてもいいかな!?」
「どうして?」
「知り合いが近くに居るみたいで――出来ればすぐ合流したいみたいなんだ。
またすぐ戻ってこれるかどうかは解んないけど、お願い! 必ずまた戻ってくるから、一緒に来てくれないかな!?」
大分わがままを言ってるなあ、と心の中で自嘲する。
知り合いが合流したがっているから付いて来いだなんて、それこそ彼女にしてみれば自分に何も関係のない案件だ。
でも、彼のことを知っているわたしには解る。
彼は、わたし達じゃバーサーカーには勝てないと確信しているみたいだった。
そして悔しいことに、そこには一定の信憑性がある。
彼が言うならそうかもしれないと、そう思ってしまう自分が居る。
――取り返しのつかない事になるくらいなら、慎重に動いた方がいい。
わたしはそう結論を下して、一時になるか、長くなるか解らない撤退へと踏み切ることにした。
「……うそじゃないよね、おかあさん?」
「うん。誓って、嘘じゃない。
絶対、一緒に帰ってこよう。
そして……バーサーカーを倒そう。ううん、ジャックに倒させてあげる」
「わかった。おかあさんが言うなら、いいよ」
……第四の時には、戦って倒すしかなかった女の子。
でも今、こうして仲間として接してみるとあの時の事に後悔を覚える。
あの時も――わたし次第では分かり合えたかもしれない。
おかあさんって呼び方は、要らぬ誤解を招きそうだからちょっと勘弁してほしいけども!
「キャスター、いけるよね!?」
「うー! せっかくいいところだったのにー!!
宝具使えって言ったりやめろって言ったり、どっちなのよう!!」
「ごめんごめん、後で説明したげるから! 今は……ええと、鳥かなんか出して!!」
「そんな無茶苦茶な! いや、出せるけどね!? わたしほどの天才になると出せちゃうけどね!?」
バーサーカーの霧が、彼女の落ちた穴から這い出てくるのが見えた。
もう、幾許の猶予もない。
お願い、キャスター! 頼むから早くして、キャスター!!
「"軽硬たる瑠璃色の鷲"――三人一緒に、ぶっ飛ぶわよっ!!」
◇ ◇
足止め用にトランプの兵士を何体か置いて――
わたし達はキャスターが出してくれた瑠璃色の大鷲に乗り、崩れた壁の隙間を通り抜けて空へと一気に飛翔した。
背後からは、ホーミング機能を持ったミサイル弾みたいに、霧の弾頭が追い掛けてきている。
物理的に不可能なレベルのアクロバット飛行でどうにかそれを躱しつつ、"彼"の気配を鷲に辿らせる。
追撃の手が止んだのは、スコットランドヤード脱出から一分ほど経った頃だった。
先頭のキャスターが、大きな溜息を付いて姿勢を楽にする。
ジャックは複雑そうな瞳で、逃げてきた方向を見つめている。
そして、わたしは……いろんな思いを胸の奥に抱えながら、何の気なしに口を開いた。
「ねえ、キャスター。さっきのってもしかして不味かったんじゃない?」
「どの口が言うのさ!?
「う、それはごめん。流石に早まりすぎたよ、反省してる」
「……まあ――不味かったわね。
アヴェンジャーにはわたしがまだ健在だってバレただろうし、ジャックとマスターの存在も感知されたと思う」
「じゃあ、さ。真名呼んでもいい?」
なんてやり取りだと自分でも思う。
でも、わたしは何故だか、それを口にしたくて仕方なかった。
理由は……いまいち解らない。
自分の中に芽生えた欲求に困惑していると、キャスターから「好きにすれば?」と答えが返ってくる。
その声も、不思議となんだか高揚している風に聞こえた。
唾を飲み込んで。
緊張しながら、その名を口にする。
童話の神様とまで呼ばれた、ある冒険譚の創造主の名を。
「――ルイス・キャロル」
「ん。正解」
くるんと、首から上だけでキャスター……キャロルはわたしを見た。
そして、微笑んだ。色んな感情が混ざり合ったみたいな顔で。
「……キャロルって呼んでもいい?」
わたしがそう言うと――キャロルは、本当に、本当に、本当に嬉しそうに笑ってくれた。
最終更新:2017年06月26日 23:22