昏い、昏い空間だった。
チクタクと、無機的な金属音だけが響く其処は伏魔殿の最奥。
其処に佇む、口許と鼻を覆い隠した陰鬱な目付きの男。
超然とした褐色の肌と、闇夜を思わせる漆黒の短髪がよく目立っている。
黒の外套の下、着込んだ白銀の鎧は力を込めた卵の殻みたいに亀裂が走っていた。
滅び、怨念、未練、後悔、殺意。
そんな負の概念を余す所なく全身から発している彼の姿を常人が目視しよう物なら、それだけで精神を冒されよう。
これは人と呼ぶには猛毒過ぎる。然し、神と呼ぶには俗過ぎる。彼は、そんな存在であった。
「童話作家め、尚も足掻くか」
「しゃあないさ、ありゃ餓鬼だ。
自分より大きなモノには抗ってみたくなる、幼稚な衝動を抱えたまま生涯を全うした子ども大人。
ひとえに力で平伏させようとするから、尚の事反骨心を煽っちまうんだろう」
然し怪物めいた男に、まるで十年来の友人のように気安く語り掛ける剣を提げた偉丈夫が一人。
鳥の羽をあしらった黒い帽子の下からぎらついた眼光を覗かせ、椅子に腰掛け足を組む。
その口許は、嘲笑の形に歪んでいた。無謀にも大義に背いた童話作家を、馬鹿めと嘲笑っているのか。
――いや、違う。彼は誰に対しても、こういう顔しかしないのだ。出来ない、と言ってもいい。
彼は愛も情も人並み以上に心得ている。
その上で、笑い物にしか出来ない人格を抱えていた。
彼にとって人とは踏み台で、他人とは轢き殺して爆笑する哀れな蛙でしかない。
紛うことなく、外道の呼び名に相応しい人物。悪魔の如き男だった。
「ただ、まさかあんな真似をするとは予想外だったね。
浅知恵にも程がある。幾ら縋れるモノがないからって、よりにもよって藤丸立香とは――」
「ライダー」
底冷えするような声が、馬鹿笑いをあげかけた黒帽子……冒涜都市のライダーを諌める。
文字通り神をも恐れぬ略奪の悪魔が、その声にピタリと動きを止めた。
相手が格下ならば、ライダーは水を得た魚のように生き生きと煽っていたに違いない。
だが、この復讐者にそんな真似をしてみろ。次の瞬間には、ライダーの首は胴を離れている。
彼は自信過剰で傍若無人な男だが、彼我の実力差が解らないような間抜けではなかった。
歴史を地に貶め、加護を粉砕し、嗤いながら文明を奪い尽くした征服者(コンキスタドール)。
其処には当たり前だが知性があり、致命を回避する立ち回りの技が存在した。
「二度と気安くその名を口にするな。弁えるがいい、ライダー」
何の事か解らないと言う風に口笛を鳴らすライダーから視線を外し――己を裏切った忌まわしい娘に思考を馳せる。
英霊召喚システムを暴走させて逃げ去ったルイス・キャロルに対し、アヴェンジャーが抱くのは言わずもがな赫怒だ。
反逆には痛みを与えねばなるまい。自我が溶け、殺してくれと懇願する程の痛みを。
そしてその時は、急がずとも訪れる。アヴェンジャーは、そう踏んでいた。
「……愚かな真似を。そんな茶番で、盤面を変えられるとでも思っているのか」
アヴェンジャーは自分の敵を許さない。
自分の敵に与する者も許さない。
だが、童話作家に対する言葉には一抹の哀れみが込められていた。
嬲られ、内臓の飛び出て痙攣する子猫に向けるような、最上の哀れみが。
ルイス・キャロルは禁忌を冒した。
自ら勝利の可能性を零にするような、最悪の悪手を打ってしまった。
それに気付いていないのか、気付いた上でいじらしく勝利を信じているのか。
どちらにせよ、アヴェンジャーに言える事は一つしかない。
「オレには理解出来ないよ、キャロル」
一度は共に紅茶を啜りながら語らった、この世界で唯一気を許した女の心根が――アヴェンジャーには解らない。
少女の心一つ推し測れないほど、彼の脳髄は復讐の劫火に冒されきっていた。
最早、童話作家と"彼"の後継が穏やかな時間を共にする事は決してないだろう。
光なき玉座を背後に、聖櫃の王は紫雷の瞳を煌めかせる。
最終更新:2017年06月27日 21:43