「っ、マスター!」
真横から、キャロルがわたしに飛び付いた。
勢いのままに押し倒されるわたしの心臓があった場所を、魔王の凶弾が通り過ぎていくのが見える。
背筋どころか、全身に冷たいものが走ったのは言うまでもない。
今、織田信長は間違いなく自分を殺すつもりだった。あれは、酔狂の発砲ではなかった。
「ふむ、良き臣下と巡り会える性は変わらずか」
信長の火縄銃と、銀のナイフとが火花を散らす。
キャロルがわたしを助けたのを見て、真っ先に動いてくれたのはジャックだ。
あまり好ましい言い回しではないけど、彼女はロンドンを震撼させ、第四でわたし達を苦戦させた殺人鬼なのだ。
相手が自分達の敵だと解った時、その刃は何の淀みもなく放たれる。
最高ランクの敏捷性から繰り出される奇襲じみた反撃に苦もなく対応してのける辺りは、流石の第六天魔王だ。
わたしは地面を転がった衝撃で肺の空気を幾らか逆流させながら、口許を拭って信長を睥睨する。
……何でこんなことになった? わたしは、わたしに問いかける。
わたしは、それほどまずいことを言っただろうか?
解らない。
わたしの知らない何かを別な誰かが知っているなんて事態は慣れっこだけど、今回はそのどれとも毛色が違う気がする。
何か、こう、わたしとあちらの認識にものすごく大きなズレがあるみたいな。
噛み合わないと解っている歯車の回転を見守っているみたいな気持ち悪さが頭の中でぐるぐると渦巻いている。
「――おかあさん。こいつ、殺しちゃっていいんだよね?」
「で、出来れば殺すまではしないでほしいかな……!」
別にわたしは、信長を倒したくてわざわざ此処までやって来た訳じゃない。
寧ろその逆。彼女と同盟を結んで戦乱都市、ひいてはアヴェンジャー打倒の為の準備をしたい考えだ。
それに、彼女が何に気付いたのか……そこら辺を確かめてみたいという気持ちがないといえば、嘘になる。
いずれにせよわたし達としては上手くこの場を切り抜け、改めて交渉のテーブルに持ち込みたい。
とはいえ、織田信長は紛れもない強者だ。
あのベオウルフを敗走させたという話からも、その事実は読み取れる。
殺さないように加減しながら戦って倒せる相手かどうかは極めて微妙と言わざるを得ない。
殺すつもりで行くしかないだろう。無用な犠牲を避けつつ最善の結果に近付くには、それが尤も妥当なやり方の筈だ。
「ん。わかった、できたらね」
嵐が吹くみたいに、ジャックが攻める。
手数重視の戦い方は、単純に獲物の小回りと速度のスペックで劣る信長にはそれなりに有効だ。
まして今回のように近接戦に持ち込んでいたなら、十分押し切れる可能性はある。
ただ、重ねて言おう。
織田信長は、紛れもない強者なのである。
実力もさることながら、それ以外の点においても。
例えば――彼女は一度勝つと決めたなら、どんなものでも利用してみせる。
「ぬう。その気配、お主さては化生の類じゃな?」
「むずかしいことは知らないよ。
わたしたちは、おかあさんを殺そうとしたあなたを……そうだね。程々に解体するだけ」
「ほう、それは恐ろしいの。ではわしも、生き残る為に手を凝らさせて貰うとする」
ギン! と、ジャックの斬撃を銃がお釈迦になるのを覚悟した乱雑な切り払いで相殺。
バックステップで歩幅にして三歩分後退を果たしながら、迅雷が見える程の堂々たる動作で信長はわたし達を指差す。
瞬時に意図を理解したキャロルがわたしの前に立ち、わたしはロビンの方を見た。
「かかれい」
号令と同時、動き出すのは何百というホムンクルスの軍勢。
正確な総数はこの一瞬じゃ数え切れないが、下手をすれば四桁近い。
ただの人間ではなく、アヴェンジャーによって製造されたホムンクルス達だ。
サーヴァントに比べれば弱いとはいえ、それを傷付けられるくらいの神秘性と力は持っていると見て間違いないだろう。
「ロビン、キャロルの援護お願いできる!?」
「俺もそのつもりだが、霧の嬢ちゃんはいいのか?」
「そっちは大丈夫よ」
わたしの代わりに、キャロルがロビンを振り向いて答えた。
その顔には、実にこの娘らしい自信満々な笑みが浮いている。
わたしに任せなさい、と言わんばかりのそれだった。
ロビンは「本当に大丈夫なのかねえ」と肩を竦めて零すが、彼もキャロルの芸達者ぶりについてはよく知っている。
憂いを引きずる事なく、任された仕事に早速打ち込み始めてくれる辺り彼は本当に頼りになる。
ましてわたしは、この目でロビンフッドという英霊の凄まじさを見たことがあるのだ。
だから彼については何も心配しない。
ややうっかり気質で不測の事態に弱いきらいのあるキャロルの方が、今は余程心配すべきだ。
「要はモブどもを景気よく一掃しながら、ジャックを後方支援してあげればいいんでしょ?
ふふ、簡単じゃない! 天才にして唯一無二の魔術を持つわたしの敵じゃな――ひゃああ!?」
「ほら言わんこっちゃない」
無い胸を張って調子に乗るキャロルのすぐ真横を、さっきわたしに向けて放たれた弾と同じものが駆け抜ける。
発砲の主が誰であるかなんて、改めて語るまでもないだろう。
信長だ。ジャックの猛攻を先程確保した距離を活かして抜刀した刀で凌ぎつつ、片手で此方に狙撃を飛ばした。
あのジャックを相手取りながらこんな真似が出来るなんて、本当にめちゃくちゃな奴だと思う。
「奴はキャスターじゃ」
そして、その意図はキャロルを屠ることにはない。
今のは単純に、示す為の一手だったのだ。
敵のスペックと、それを崩す為の手段。
キャスタークラスの脆さを露呈させる為の――狡賢い策略。
「あの通り、反応速度も身体の強度もたかが知れておる。
弾さえ当たれば貫ける等、いつもに比べればイージーゲームじゃろ?」
それを聞いた織田のホムンクルス達が、一斉に銃を構えた。
筒先は一つ残らずわたしとキャロルの方を向いており、容赦の色はどこにも見えない。
ロビンの方に向かっている者も当然ながら居る為、全員でないのがせめてもの救いだが……そんなのは瑣末な違いだ。
わたしは人間、キャスターは虚弱。魔術概念を内包した弾で蜂の巣にされれば、どっちも等しく死んでしまう。
「ねえマスター、わたし、もしかして今すご~~く舐められてないかしら?」
「いやあ、もうぺろっぺろじゃないかなあ。
見なよ、あの兵士達の目。一人残らず全員「やれる!」って目だよ。ワンチャンを確信してる目だよあれ」
「ぷっちーん……」
しかしそれは、妙案のように見えて迂闊。
キャロルは魔術師であって魔術師じゃない異端なのだ。
おまけに、このロリ娘はとにかくちょろいのである。
こうして焚き付けてやれば、簡単にパフォーマンスの質が二段ほどは向上する。
「撃て」
ホムンクルスの一人が言った。
火を噴く銃口、ざっと数十。
流石に最新式の銃に比べて速度は劣るものの、英霊さえ貫く威力を秘めた弾丸が空を裂く。
だが――その到達よりも、うちのキャロルの詠唱の方が早い。
「ばかにすんなあっ、このモブキャラ集団めええええええ――――っ!!!!」
"粘滑なる黒鉄の壁"!
文法的なあれこれや性質の理屈を無視したかばん語詠唱が幻想を容易く紡ぎ上げる。
粘り気と滑りやすさの両方を併せ持った壁が地面からせり上がり、織田軍の銃撃を完全にシャットアウトした。
でも、安心するにはまだ早い。わたしには、それが解る。
さっき、織田兵士達はたったの数十人しか引き金を弾いていなかった。
当然、残りの何百かは銃を構えたまま木偶の坊みたくその場で硬直していたということになる。
一見すればそれは只の怠惰。これなら仕留めきれるという驕りの現れ。
然し、わたしは知っている。織田信長という英霊の十八番である、その戦法を知っている。
「"三段撃ち"だ、キャロル!」
「えっ? 三段……なに!?」
「ああもう、とにかく壁貼り直して!」
――三段撃ち。
火縄銃という武器は言わずもがな強力無比な威力とリーチを持っていたが、同時にある大きな欠点も抱えていた。
それが次弾発射までのタイムラグだ。
火縄銃はその名の通り弾の発射に火縄という、現代人に言わせれば欠陥もいいところの安全装置を用いる。
引き金を弾くと火縄が落ち、それが導火薬に引火、弾丸が発射されるという仕組みなのだ。
その前にも色々と面倒な手順があり、それら全てがタイムラグという形で担い手の脚を引っ張ってくる。
其処を見事に改善したのが、織田信長という武将の生み出した陣形戦法"三段撃ち"である。
理屈としては至極簡単。
人員を文字通り三段階に分割し、前段の兵士が発砲したなら次の兵士が出て撃つ。
その間に後ろが装填を澄ませ、前段が発砲したなら同じく前に出て撃つ。
あまり歴史に詳しい方ではないわたしでも知っている、日本史の定番と言ってもいい逸話だ。
織田信長が長篠の戦いを制するに至った最大の要因とされる、大うつけと呼ばれた将が打ち出した大奇策。
ちなみに歴史の授業では後世の脚色の可能性が高いって話だったけど……其処はほら、論より証拠。
目の前の信長が当然のように使ってきたのだから、三段撃ちは本当にあったと見るのが妥当だろう。
大体織田信長が女だったという弩級の新事実がある以上、戦法の実在性なんて本当に、呆れるほどどうでもよく思える。
キャロルの再生成した壁に、再び撃ち込まれていく弾丸の雨。
当然ながら、この次もある筈。
これで粘られるとやや厳しいが、然しこれだけで押し切れるなどと考えられていたなら心外だ。
それは――幾ら何でも、ルイス・キャロルを舐めすぎというものである。
「日本では、御伽草子なんてのがあるそうね」
壁が消え、コールタールのように溶け去った後。
いざ第三波と引き金に指を掛けていた兵士達が瞠目する。
何故なら、壁の向こうから姿を現したのは、わたしとキャロルだけではなかったからだ。
勿論、ロビンでもジャックでもない。今まで確かに居なかった筈の新顔が、待っていたとばかりに立っている。
「でも、英国の御伽話も――なかなか捨てたものじゃなくてよ?」
それは、トランプの体を持ち、剣を携えた兵士だった。
此処に来る道中でキャロルから聞いていた、彼女の持つスキル"幻想作成"。
詠唱すら必要なしに、自分の描いた幻想の民を作成した結果がこのトランプ兵達だ。
総合的な物量で圧倒的に劣っている現状、手数が増えるのは一番ありがたい。
「勿論これだけじゃないわ! "煌冷たる野苺の星"……!!」
虚空に出た手の平サイズの野苺太陽が、熱とは真逆の概念、寒波を敵軍へ容赦なく見舞う。
可視化された蒼の冷気を物ともせず、織田の兵達へ疾走していくのはトランプ兵だ。
彼らはあくまでスキルで作り出しただけの存在。
サーヴァントに比べれば当然弱いが、それでもホムンクルスの一兵卒程度ならば簡単に薙ぎ払える。
「凄いね、キャロル。見た目は多少シュールだけど、あれなら相当あっちを混乱させてやれそうだよ」
「当然よっ。……まあ、実は結構魔力の消費が厳しいスキルだから――早いとこ"本命"を片付けちゃいましょ」
「……だね」
そう、兵士達を幾ら倒そうと戦いは終わらない。
真にどうにかしなければならないのは、蹂躙されるだけのホムンクルスに意味を与えた張本人。
戦国三英傑が一、織田信長――
「ほう」
感心した風に声を漏らす信長の頬に、一筋の赤線が走った。
余所見している暇があるのかと指摘するように、驚く程の速さでジャックが放った斬撃だ。
否、それだけではない。
彼女が何処かのタイミングで発動した宝具『暗黒霧都』も、着々と戦場を蝕み始めていた。
毒性に満ちた倫敦の魔霧に晒されたホムンクルス達は一様に歩みを止められ、既に倒れている者さえある。
信長も、無傷ではなかった。
硫酸霧によって徐々に体力を削られ、尚且つジャックによって小さい傷を幾つも負わされている。
ジャックの方もかすり傷なら幾らか受けているが、概ね戦況は織田軍劣勢と言っていい。
刀とナイフ。
由来も性質もまるで異なる両者の刃が、武器同士の激突とは思えない程鮮やかな火花を散らす。
切り払いからの後退という"仕切り直し"の動作と絡めた銃撃を、ジャックは俊敏な獣の如き動作で躱す。
その脇腹に滲む血は初めてこれをされた時の物だが、彼女は元より魔性、同じ手は二度通じない。
第二宝具を使えば確実に殺してしまう。
それは、立香の望むところではない。
だとしても、このリーチを保っていられれば確実に勝てる。
静かにそう確信するジャックだったが、然し。
「三段撃ちも、急拵えではあれが限界か」
彼女はこの場で最も近い距離で、魔王と呼ばれた女の殺気が爆発的に膨れ上がるのを感じ取った。
闇夜に潜んで殺し、喰らい続けた霧都のシリアルキラーをして、一瞬怯んでしまう程の圧力。
何か、致命的なものが放たれる予兆であるのは明らかだった。
それも、自分を狙うだけのものではない。
この女は今、自分ごと、藤丸立香とルイス・キャロルを屠り去らんとしている……!!
「ならば是非もなし。正真の三段撃ちを見せてやろう」
瞬間、ジャックは信じられないモノを見た。
魔王信長の背後に出現する、百や二百では到底効かない数の火縄銃。
それは現在の織田軍の総員数の三倍以上もの量であり、たった四人の敵を殲滅するにしては明らかな過剰火力だ。
三段撃ちは織田信長という英霊を代表する逸話。ならば当然、彼女がそれを宝具に昇華させていても不思議ではない。
「いまいち刺さる相手が居ないのがわしとしては不服なんじゃが……
何、単純に三千の一斉砲火は脅威じゃろう? それともそなたが全て落としてみるか、霧の物の怪よ」
信長の言う通り、この宝具が真の効果を発揮する手合いは此処には居ない。
武田軍の騎馬隊を葬った逸話による特攻効果の適用条件となる騎乗適性は、童話作家や殺人鬼には無縁の概念である。
だが――純粋に三千丁の一斉射撃が規格外の脅威であるというのもまた事実。
バーサーカーのジャックならばいざ知らず、アサシンのジャックにこれをどうにかする手段はない。
三千世界の鉄風雷火。
戦場を蹂躙する地獄の焔。
まさしくこれは殲滅攻撃だ。
蜂の巣は愚か、こんなものをまともに受ければ大概の生命体は肉塊に成り果てよう。
「おか――」
遅い。
遮るように、三千の引き金が弾かれる。
魔銃の咆哮は最早熱線に等しく、宛ら焦熱地獄に吹き荒れる灼熱の嵐だ。
三千の銃声を前に、ジャックの声などノイズにもならない。
硫酸の霧を引き裂きながら、魔王の三段撃ちが迸る。
ジャックのみならず、立香とキャロルの双方も轢き潰さんと奔る。
『三千世界』。
古き神秘と騎馬を駆る者を粉砕する、鏖殺という単語を具現化するが如き対軍宝具である。
「な――」
「うそ――!?」
わたし達が"それ"を認識した時、漏れたのは素っ頓狂な声だった。
単にジャックを倒そうとする、だけではない。
ジャックごと、わたし達までも粉砕しようとする対軍殲滅砲撃。
無論、その威力はホムンクルス達の銃撃なんかとは桁が違っている。
トランプ兵と戦っていた筈の織田兵達は流石に見慣れているからか、宝具発動を察知して皆後退を始めていた。
出遅れたトランプ兵は火縄銃の一斉砲火へ見事に直撃し、文字通り紙切れみたいに破けて宙を舞い、燃え尽きていく。
……あれは数秒後のわたし達の姿だ。
信長の宝具については見たこともあるから、その恐ろしさはよく知っている。
あれは断じて、気合や根性で凌げるものではない。
何か、何か手を講じなければ――確実に死ぬ。
キャロルも、わたしも、一瞬であのトランプ兵のように消し飛ばされることだろう。
どうする。
普通に避ける? 動きの速いジャックならいざ知らず、わたし達二人では避け切れずに蜂の巣にされるのがオチだ。
正面から打ち破る? そんな大火力・高貫通力の手札があれば一も二もなく切っている。
キャロルの固有結界で有耶無耶に? 発射前ならいざ知らず、引き金が引かれてしまっている以上間に合う筈がない。
――どうする。
どうする、どうするどうするどうするどうするどうするどうする……!!
何をすれば解らないけど、解らないままでは確実に死ぬ。
何か、何か考え出さなければ。ああでも、そうして頭を捻っている間にも"その時"は迫ってきているのだ。
「……ダメもとで壁でも作ってみるわ、マスター!
間に合うかからして微妙なラインだけど、何もしないよりはマシだと思うから!!」
キャロル自身、それではどうにもならない事は解っている筈だ。
キャロルのかばん語で作れる壁は、魔力は安くてもそう強固な物ではない。
少なくとも、あの宝具攻撃を受けられる程の強度は絶対にない。
つまり、このままじゃ結末は変わらない。
奇跡でも起きない限り、延命は不可能だ。
「うそ、だ――」
嘘だ。
こんな幕切れ、嫌だ。
わたしにはまだやりたいことが無数に有って、帰りたい場所も有って、それを待ってくれている人も居るのに。
こんなところで、こんなあっさり終わってしまうなんて――
どこか、逃げ場はないものか。
でも、戦場は見渡す限り平地。
遮蔽物になるような民家は全て、わたし達が来る前に焼き払われてしまっている。
どこにも逃げ場はない。状況の全部が、わたし達の詰みを告げている。
……いや、待て。
逃げ場は、ない?
見渡す限り平地で、隠れる場所はどこにもない?
――違う!
ある、一箇所だけ!
一箇所だけ、信長の宝具をやり過ごせるかもしれない死角がある!
尤も、"今は"ない。其処を使って生き延びる為にはまず其処を"創る"必要があって、その為にはキャロルの力が要る。
「キャロル!!」
驚いてこちらを見るキャロルの肩をがしっと掴んで。
わたしは、一言だけ耳打った。
わたしの言葉にキャロルは目を丸くしている。
もう時間はない。死はすぐそこ。そんな状況だから、一周回って冷静さが戻ってきたのか。
わたしは、自分でも驚くくらい余裕たっぷりな笑い混じりの声で――
「どう、出来る?」
そう訊いた。
キャロルはそれに、同じ余裕たっぷりな声で答える。
「勿論。誰だと思ってるのさ」
――三秒後。世界の全てが真っ赤に染まった。
◇
「ちとやり過ぎたかの」
信長の視線の先には、片膝を突いたジャック・ザ・リッパーの姿があった。
肩や胴、脚に銃創を刻まれ、血を流して荒い息を吐く姿は子供の外見と相俟ってひどく痛ましい。
誰が見ても戦闘不能寸前の容態で尚敵を睥睨する闘志は見上げたものだが、彼女の背後には残酷な現実が広がっていた。
三千の鉄風雷火が通り過ぎた跡には、藤丸立香の姿も、ルイス・キャロルの姿もない。
「そう睨むでない。
わしも正直、それなりに期待はしておったのじゃ。
これしきなら跳ね除けてみせる筈、とな。じゃが、あやつはそれに応えられなかった。ならば、是非もない」
「―――うるさい」
弱かったから死んだだけだと、そう語る信長にジャックの中で激情が燃え上がる。
さっきのジャックと今のジャックでは、既に話が全く違う。
戦いにおいて重要な手足にさえ弾丸を受け、体力を大きく損耗した彼女では信長は倒せない。
あの一斉砲火を防御札なしで、純粋な回避能力のみで生き延びただけでも賞賛に値するが、結果として未来は潰えた。
現に今や、ジャックは立って姿勢を保つことさえ覚束ない有様だ。
出来ることといえば、精々『暗黒霧都』による魔霧で信長の余力をちまちま削るくらい。
無論削りきられるまでの間に、信長の方はジャックを数度は殺せる訳で、結論から言うと話にもなりはしないのだが。
それでも、ジャック・ザ・リッパーはナイフを握る手を緩めない。
母と呼んだマスターに、自分を助けてくれた童話作家。
自分には無縁である筈の優しさをくれた彼女達を塵のように殺した魔王が許せない、それだけの感情で立ち続ける。
「……良かろう。そうした姿勢は嫌いではないぞ」
静かに笑みを浮かべ、信長は火縄銃をジャックへと向けた。
避けることは可能だろうが、仮にそうされたとしても、逃れた先に踏み込んで一閃するまでの流れが既に出来ている。
それでも殺せなかったなら、殺せるまで同じことを繰り返すのみだ。
織田信長にはそれが出来るだけの余力があり、ジャックにはそれを破れるだけの余力もない。
敵の殺意を認めるからこそ憐れまず、信長の繊指が引き金に掛かる。
ジャックは撃たれる前に終わらせようと踏み込むが、それでも遅い。
この瞬間、ジャック・ザ・リッパーの敗北と、織田信長の勝利が決定した。
倫敦を震撼させた悪霧は、戦国を叫喚させた悪夢によって滅ぼされる。
何とも因果で、皮肉な結末であった。
――が。
「それで勝ったつもりか、ノッブ!」
「ぬッ……!?」
その時響いた声は、あり得ざる人物のそれ。
何処からか聞こえた声は紛れもなく今しがた消し飛ばした筈の藤丸立香のものだった。
だが、彼女の姿は何処にもない。
其処でつまらない幻聴と切って捨てなかった事が、織田信長に敗北を回避させた。
地の底から、地面を食い破って現れる無数の毒蛇。
件の声で立香、及びキャロルの生存を確信した信長は咄嗟にそれを銃撃で撃ち落とすが、さしもの彼女もそれが限界。
今まさに引導を渡さんとしていたジャックの未来が蛇への迎撃で繋がれたことにより、排除出来る筈だった殺意が襲う。
「やああああっ!!」
幾多の母を解してきた凶刃が、織田信長の胴を袈裟懸けに切り裂いた。
「ち……! 宛ら手負いの熊か、抜かったわ……!!」
流石に無視出来るダメージではなく、距離を取る事を余儀なくされる信長。
憎き魔王に一撃入れた事で、余力を使い果たしたようにジャックがその場に座り込む。
然し彼女は、もう信長の事など見てはいなかった。
今しがた響いた、聞こえる筈のない声。
生きている筈のない母の声と、童話作家の幻想攻撃。
あれは何だったのかと振り向いたジャックの目に写ったのは――
不敵な笑みを浮かべながら、地面から顔を覗かせている、立香とキャロルの姿だった。
◇
「おかあさん!」
喜びに満ちたジャックの声に、わたしは親指を上向きに立てたグーサインで返す。
本当ならよくがんばったねと頭を撫でてあげたいところだが、それはこの戦いに勝ってからだ。
信長は驚いた様子でわたし達を見つめ、それからしてやられた、とばかりに口を歪める。
本当に、間一髪だった。
わたしが気付いて、キャロルが実行する。
そのどちらか片方がほんのコンマ数秒遅れていたら、こうはならなかった。
どくどくと心臓の鼓動が高鳴って鬱陶しいけど、今はそれすらどこか愛おしい。
間一髪の、奇跡に等しい確率と連携で掴んだ生の証なのだ、この鼓動は。
「成程――下に逃れたのか!
ははは、これは考えたものじゃなあ!!」
「お褒めに預かり恐悦、ってね」
そう、此処は見渡す限りの平地で、信長の一斉砲火を凌げるだけの遮蔽物は存在しない。
そんな状況だから思わず詰みだと確信した。
でも、違ったんだ。
逃げる場所はあった――地面の下という、確実に攻撃を躱せる場所が。
気付けば後は早い。
それでもギリギリだった。
キャロルの"かばん語"は、魔術の詠唱を可能な限り短縮し、出鱈目な概念同士を繋ぎ合わせる想像力の異能。
地面を一瞬で掘り進め、崩落を防ぐ飴の膜で穴の内壁を覆う。
意図した事ではないが、わたしが気付くのが遅れたせいで信長はわたし達の死亡を確信した。
後は簡単、タイミングを見て動揺を誘い、地中からの不意打ちとジャックの一閃の二段構えで畳み掛ける。
どちらかは対処されてもどちらかは必ず当たる……我ながら少々強気過ぎる考えだったけど、上手く行って何よりだ。
信長の傷は致命ではないものの、小さくない。――そろそろ、頃合いだろう。
「教えて、信長。
わたしは、どうしてきみと戦わなきゃならないの?」
それだけが、ずっと疑問だった。
攻めている時も、守っている時も、死にかけている時も。
何故あの信長が、わたしに銃を向けたのか。
その理由を聞きたくて堪らなかった。
「――ふ」
そんなわたしに――
織田信長は、答えるのではなく、笑った。
「――ふはははははは! これは驚いた、やはりそなたと居ると退屈せんのう!!
よもやわしの三段撃ちをそんな手段で破るとは! いやはや、この信長、一本取られたわ!!」
胴の傷に触れた事で血に濡れた手。
鉄味の雫が垂れるのも厭わず、信長は静かに己が刀を鞘へと戻す。
そして、自身の被った兜へ手をやり、帽子のように深く被り直した。
その時、影になった信長の双眸が湛えていたのは――初撃と同じ、ぎらついた光。
「じゃが、これまでよ。――やれい、"アサシン"」
……え?
高鳴った心の鼓動がそのまま停止する錯覚を、わたしは覚えた。
今、信長はなんと言った?
アサシンと、そう言った。
ジャックの事を言っているのではない、何故なら彼女は今も座り込んだままだ。
「……何度やっても、武士などに顎で使われるのは苛立ちますね」
ほらその証拠に、わたしの背後から、この場の誰のものでもない声がする。
一メートルにも満たない間合いから、突然に響いたのは少年期特有の甲高さを残した男の声。
聞き覚えのあるそれだった。
それでいて、この異形特異点では聞いた事のないそれだった。
「ですが、申し訳ありません。
今回に限っては、魔王の方に正当性があると判断しました」
錆び付いた機械みたいなぎこちない動作で、わたしはゆっくりと振り向く。
すると、其処に立っていたのは……ああ。
本当に、予想通りの顔だった。
赤髪で前髪を隠し、古風な和の装束に身を包んだ少年の暗殺者。
否――
「お覚悟願います、藤丸立香さん」
忍者――風魔小太郎。
その手に握った刃が、まっすぐにわたしの胸へと伸びる。
「いやいや、させねえよ。
何処の田舎もんか知らねえが、そんなのをオレが黙って見逃すとでも思ったのか?」
それがわたしの心臓を貫かんとする寸前に、小太郎がその場を飛び退いた。
その一瞬後、つい今まで彼の体が有った場所を、何発もの銃弾が通り過ぎていく。
跳ねた小太郎が地面に着地した瞬間を目掛け、今度は鋭利な一矢が飛来。
素早く叩き落として、小太郎はこれまでずっと戦場の影に潜み続け、気配を消し続けていた緑衣の弓兵を睥睨する。
「……遅いよ、ロビン……!」
「悪いね、マスター。
オレの十八番はあくまで事前準備も含めての破壊なもんで、ちと時間が掛かっちまった」
アーチャー、ロビンフッド。
わたし達をこの戦乱都市まで導いてくれた彼。
彼は最初からわざと活躍せず影に徹する事で、信長が"本気で詰めに来る"瞬間に最適の行動を起こすのを狙っていた。
『三千世界』の時は肝を冷やしたけど、彼があそこで干渉してこなかったのは、わたしがそれを乗り越えるだろうと信じての事なんだろう。
その信用が、最悪の場面で最高の結果を生んでくれた。
気配遮断スキルは隠密性にすごく優れるけど、攻撃に移る瞬間だけはランクが落ちる。
その一瞬を見逃さずに放った彼の一手で、わたしは詰みを逃れる事が出来た。
織田信長の"隠し玉"は、斯くして不発に終わった訳だ。
「弓兵が……目障りな真似を」
「おおっと。言っとくが、オレはこのまま続けても構わねえぜ?
ただその場合、仮に負けるとしてもおたくか魔王殿、最低でもどっちかは道連れにさせて貰う。
"さっきおたくに最初に飛んでったのは、そっちの兵士共が撃った流れ弾だ"。
まさか意味が解らねえ、とは言わねえよな? 同業者なんだしよ」
流れ弾の飛ぶ位置を自在にコントロールする。
どんな優れた策士だって、そんなのは至難の業だろう。
然し策士ではなく、生粋の工作家であるロビンフッドにはそれが出来る。
破壊工作スキルの応用。兵士の心理を自分の立ち回りで上手く操っての、疑似的な戦場の掌握。
尋常ならざる場数を踏んだ事で得た経験と知識を最大限に使って、彼は戦場の影で全ての準備を整えていたのだ。
――とはいえ、それで勝負が決まる訳ではない。彼自身言っていた通り、此処から負ける可能性だって普通にある。
だが……
「これ以上はお互いに痛いだけだよ、信長。それに、小太郎も」
わたしは毅然と、震えを押し殺して二人の"敵"へ言う。
たとえ負けるとしても、ロビンも、キャロルも、ジャックも、――わたしも。
皆、最大限に抵抗する。
織田軍に取り返しの付かない爪痕を残した上で死んでやる、それだけの闘志がある。
「……如何します、アーチャー」
小太郎は苦い顔で、信長へ判断を仰いだ。
ごくりと、わたしは生唾を飲み込む。
彼女の答え次第で、今後の未来がそれこそ180度変わるのだから緊張しない筈がない。
全員が固唾を呑んで見守る中、信長は――
「やれやれじゃ。
其奴を使っての奇襲攻撃は、あのベオウルフをも敗走させたとっておきだったのじゃがなあ」
肩を竦めて、そう言った。
「……是非もなし。試すような真似をして悪かったの、立香」
「――え、それって、じゃあ……」
「うむ」
一つ頷いて、ひょいと火縄銃を投げ捨てる。
刀は既に鞘へと納まり、銃は捨てられた。
その所作が意味するのは、一つ。
でも、信長自身の口から聞かない事にはやっぱり安心出来ない。
唇を噛み締めているわたし。
じっと信長を見つめるキャロル。
ナイフに手を掛けているジャック。
一見無防備な姿勢ながらも、何かあればすぐにでも行動を起こせるよう頭を巡らせているロビン。
……あと、「早く決めろ」と言いたげな催促の目線を無遠慮に送っている小太郎。
そんな四人+一人に業を煮やしてか、信長は口角泡を飛ばして叫んだ。
「あーーーもう、解った解った!
わしが悪かったわ! 試すような真似をして悪かった、のところで察せんかのうこの現代っ子は!!」
「えっ、わたしが怒られるの!? 今回最初から最後までノッブに振り回された結果なんだけど!?!?」
「ええい、喧しい! 話を聞いてやるから、このままわしらに付いて来るがいいわ!!」
そういつもの顔で怒鳴り散らして、信長はスタスタと踵を返して歩いていってしまった。
「……ねえ、キャロル。これって――」
「まあああすたああああああああああああああああああああああああああっっっっ!!!!」
がばっ! と、キャロルが抱き着いてくる。
どうどうとそれを宥めながら、わたしはようやく実感し始めていた。
……どうやら、わたし達は今、死線を超えたらしいということを。
「もう、どうなることかと思ったよう!
何さあのジャップ! 戦国武将なんて今時流行らないっての、べーーーっだ!!
わたし決めたわ、決めちゃったわ!!
次にお話を書く時は、悪役はのじゃ口調の下衆外道な東洋人と決めちゃったわ!!!」
「藤丸立香さんもジャップなんだよなあ……」
むきー! とお冠のキャロルの向こうでは、ジャックがすっかり疲れ果てた様子で安堵の微笑みを浮かべている。
ロビンは、肝が冷えたぜ、とでも言いたげなげっそり疲れた顔をしていた。
揃いも揃って疲労困憊のわたし達に声を掛けたのは、それはもうばつが悪そうな――
率先して謝罪すべき将にさっさと帰られてしまった、哀れな忍者少年である。
「……申し訳ありませんでした。
ですが、アーチャーが投げた以上は僕も貴方達とこれ以上争うつもりはありません」
「それはいいんだけど――ねえ、小太郎。信長もきみも、どうしてわたし達を殺す気で攻撃してきたの?」
あの時、信長は間違いなく殺す気だった。
そしてわたしを奇襲した時の小太郎も、確かに"敵"を屠る時の殺気を放っていた。
その理由を知らない事には、わたし達は手放しで彼らを信じられない。
わたしにじっと見つめられた小太郎はややたじろいだ様子で、然し断固たる答えを返す。
「……僕の口からは言えません。知りたければ、アーチャーに聞くといいでしょう」
「……なに、それ。わたし、そんなにやばいことした?」
「…………」
……駄目だ。
これは、聞き出せない。
少年の姿をしていても、彼は風魔小太郎の名を持つ英霊。
小娘一人に問い質されたくらいでぺらぺらと情報を喋ってくれるほど、容易い相手ではないらしい。
「はあ。ねえ、キャロルも何とか言ってよ」
「マスター」
ちょっぴり呆れて、キャロルに同意を求めるわたし。
でも、キャロルは小太郎を質すのではなく、わたしの右手を握った。
伝わってくるどこか懐かしいような温もりが、余裕のなくなっていたわたしの心に落ち着きを取り戻させてくれる。
そんなわたしににぱっと笑って、キャロルは言った。
「……とりあえず、あの魔王さんについていってみましょ? 最初からそのつもりだったんでしょ?」
「それは、そうだけど――」
「大丈夫よ。次に何かあったら、わたしもロビンも、ジャックだって黙ってないわっ」
……それも、そうか。
何より信長は、一度負けを認めた戦いを盛り返すような真似はしない気がする。
信用するには余りにも余りな状況だけど――獅子王が敵と確定している以上は、信長達に縋るしかないのだ。
信じる以外の選択肢はそもそもない。わたしは溜息をつくと、立ち上がって、小太郎の方を見た。
「小太郎、案内してくれる?」
「……そのつもりです。僕に付いて来てください、皆さん。
もしも道中で獅子王軍の襲撃に遭っても、その時は僕が対処しますのでご心配なく」
一番の心配は、寧ろ君達なんだけどな……。
そんな釈然としない想いを抱えながら、わたしとキャロルは小太郎の背中に付いて行く。
後ろには、傷を負ったジャックを背負ったロビンが居る。
斯くして。
――無事とは言い難いけど、なんとか全員生存したまま、わたし達は織田軍との交戦を終えたのであった。
◇
「……さて、どういうことなんだろうねえ。こいつは」
藤丸立香とルイス・キャロルから少し離れた後ろを歩きながら、呟いたのはロビンフッドだ。
マスターの背中を見つめるその眼に敵意はないが、疑問の色は浮かんでいる。
自分には理解出来ない謎を見つめるような、そんな目だった。
「ロビンも、おかあさんのこといじめるの?」
「いじめねえよ、人聞きの悪い事言いなさんな」
首に回した腕に力を込めながら、非難するような声色で言うジャックに思わず焦る。
下手なことを言えば、このまま絞め殺されそうだ。
何せあんな大傷を負いながらも信長へ一太刀入れた殺人娘、下手な言動はそのまま死を招く。
それに、何も嘘は言っていない。
ロビンは信長達のように立香を殺そうとは微塵も思っていないし、彼女と袂を分かつ事も考えていないのだから。
「ただな、解らねえ事があるんだよ。
嬢ちゃん自身気付いてねえみてえだが、織田の二騎が殺しにかかってくるのも無理はねえ。
中身の混濁、外からの細工。可能性は何でも思い付くが――」
「? おかあさんは、おかあさんだよ?」
「ああ、其処は間違いねえさ。
あいつは間違いなく藤丸立香だ。"藤丸立香すぎる"くらいにな」
首を傾げるジャックと、考え込むロビン。
その前方で、立香とルイス・キャロルが仲睦まじく歩いている。
その姿は姉妹のようであり――無二の親友のようでもあった。
出会ってからまだ一日と経過していないとは、とても思えないくらい。
二人は、抜群の相性だった。まるで、何か大いなる運命の下に巡り合ったかのように。
「……ところで、さっきはありがとな」
「? なにが?」
「いや、おたくの霧のお陰で、上手く兵士を踊らせる事ができたんだよ。
オレ一人で何の後ろ盾もなしにやってたら、アサシンの奇襲には間に合わなかった」
「……わたしたち、おかあさんをたすけられた?」
「おう。よくやったよ、ジャック」
「…………えへへ」
最終更新:2017年07月11日 22:40