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行けや松風、修羅を一騎駆け(3)

 雨が降る。
 灰の空からしとしとと、水の雫が降り注ぐ。
 焼け付く青に焦がされた、黒く狂った己の五体を、天よりの雫が覚ませていく。
 いいや、違う。寒く思うのは、雨に濡れたが故ではない。
 すぅっと己の血の気が引いて、肌の温度が下がっていくのを、果たして何度味わっただろうか。
 生きていた頃に、一回。思い返すのも億劫なのだが、少なくとも蘇った後に、二回。
 熱が冷まされ、闘志が覚めて、静止しゼロになっていく感触――歩みの終わりを迎える気配が、すぐそこにまで迫ってきている。

「■……■……」

 ついぞ、この手は届かなかった。
 何度か霊の体を得ても、望む結末は掴めなかった。
 だからこそ己は、聖杯に従い、願いをかけて戦ったのだ。
 この異郷の大地の遥か彼方に、幾千万の敵の彼方に、手に入るのだと信じたからだ。
 それでも、どうしても叶わなかった。
 此度の戦いも、結局は、負け戦として終わってしまった。
 手を伸ばしても、もがいても、己が望むべきものには、最早決して、届かない。

「Is……kandar――」

 雷の王。荒野の征服王。
 己が双角を打ち砕き、ズルカルナインの称号を、欲しいままにしたイスカンダル。
 願わくば、今度こそ決着を。
 先延ばしにされ続けてきた、再戦の機会を、この地でこそ。
 届かぬと分かっていながらも、手を伸ばさずにはいられなかった。
 最早己はここで終わりと、それを理解しながらも、求め欲さずにはいられなかった。
 虚しくも、空を切るその手は。
 雨に打たれ、熱を失い、やがて落ち行く宿命の手は。

「――すまんな。わしは貴様に応えてはやれん。貴様が求める宿敵は、この日ノ本の地にはおらぬ」

 しかと、固く握られた。
 霞む視界のその彼方、己の前に立っている、赤い人影が受け止めていた。

「故に貴様は、ここで眠れ。せめて貴様の夢を断った、我らの名こそを手向けとして」

 覇を争った敵。
 三度軍を交えた者。
 見果てぬ夢の終わりを見せた、その女の言葉を聞き、バーサーカー・ダレイオス三世は――






 雨が降る。
 ぐずついた空は遂に泣き出し、大粒の雨を注がせている。
 山間のぬかるんだ泥を進む、戦士達の足音は、鈍い。
 あるいは一世一代の、大いくさを終えた帰路なればこそ、足取りも重いのかもしれない。

『雨……止みませんね』
「一度天気が乱れれば、な。この国では珍しくもない話だ」

 マシュの通信音声に、武田信玄が応じた。
 二日連続で降り出した雨は、手傷を負った信玄の体も、慈悲なく冷やして力を奪う。
 大なり小なり痛めた体を、引きずる武士たちの顔には、大勝の歓喜の色はなく、辛勝ゆえの疲弊のみがあった。
 苦しかったが、ようやく終わった。なればこそ、帰って休みたい。一刻も早く帰りたい。
 誰もの足取りが一様に重く、誰もの面持ちもまた、暗いものだった。

「藤丸よ。貴様は、イスカンダルを知ってはおるか」
「ええ……前に、一度」

 マケドニアの覇王、イスカンダル。
 ダレイオス三世にとっては幾度と戦い、そしてその果てに敗北した宿命の敵だ。
 そこまでは、信玄にも分かる。聖杯から呼ばれた信玄は、知識として彼のプロフィールに触れている。
 だが、それだけだ。実際のところかの征服王が、どういう人となりの男であったのか――それを知るまでには至らない。
 なればこそ、立香に問うたのだ。冠位時間神殿にて、数多のサーヴァントに助けられた、人類最後のマスターへと。

「ひょっとすると、その男は……わしに似ていたりはしなかったか?」
「は……?」
「いや、深く考えんでいい。どことなくそれらしくあったような、だとか、その程度の話でよいのだ」

 怪訝な顔をする立香に対し、訂正する。
 そんな信玄の問いかけに対し、しばし、立香は考え込んだ。

『イスカンダル王に、ですか……確かにあの人もライダーでしたし、馬には乗っていましたが』
『あと、全体的に赤かったね。彼も赤い王様だった』
「それもそうですし、なんというか……佇まいや雰囲気は、信玄公に近いような気がしました」

 マシュの言うとおり、戦い方もある。
 ダ・ヴィンチの言うとおり、色合いもある。
 単純に豪快な口ぶりも、似ていたような気がしないでもない。
 それでも立香は、それ以上に、その魂のあり方が、似ていたような気がしたのだ。
 イスカンダルと話したことは、実はそれほど多くはない。ひょっとしたら主義や主張は、全く違っているのかもしれない。
 それでも、性格や性分――あるいは心意気と言うべきか。ともかくもそうした根の部分では、何となく、似ていたような気がしたのだ。

「左様か」

 武田信玄は、噛みしめるように、その回答を受け止める。
 ダレイオスとその男の間に、一体いかなる感情があったか、それは正確には計り知れない。
 それでも、彼の手を取った時、最期の瞬間、あのバーサーカーが、事もあろうにほんの僅か、納得したような顔をした気がした。
 あるいは己の中の何かが、征服王の記憶を起こし、想起させていたのかもしれない。
 僅かなりとも、楽しい戦で、幕を閉じることができた――あの時見せたダレイオスの顔は、そういう顔のように見えたのだ。

「ある意味では、な。分からんでもないよ。あ奴が聖杯に……恐らくは、かけていたであろう願いは」
『ライバルとの再戦、そして決着か。甲斐の虎が認めるとなると、確かに重いものがあるね』

 歴史のあり方が歪められ、人類史そのものが崩れ去る。
 そんな前提がなかったならば、あるいは己も同じように、動いていたやもしれぬのだ。
 長尾景虎――上杉謙信。越後の龍との決着は、遂につけることができなかった。
 己の病死という下らぬオチで、終生の好敵手を置き去ってしまった。死ぬまでに倒したかった相手に、引導を渡すことが叶わなかった。
 もしも、もしもと考えてしまう。あるいはもしも、聖杯に願えば、この未練を断ち切ることも、遂に叶うかもしれないと。

(だが、だとしても)

 それでも、それは叶えられない。
 個人の勝手なこだわりは、世界の存亡とは引き換えられない。
 それは一国の主として、多くの命を預かってきた己が、引かねばならない一線なのだ。
 一線である、はずなのだ。この場に集った誰も彼もが、ことごとくそれを無視したとしてもだ。

「――思ったよりも、お早いお着きでしたね」

 そして刹那、その思考を。
 りん――と鈴の鳴るような、何者かの声が遮った。

「……何者か」
「信玄公、あれは……!」

 声のする方を、信玄が向く。
 風魔小太郎がその周囲こそに、注意を向けろと声音で示す。
 武田軍のやや斜め上。木々を縫うように山肌を覆う、白い一団の姿があった。
 雨音と山の木に隠れ、ここまで接近してきたというのか――大軍とは決して呼べないが、それでも無視していたことを、恥じねばならない数ではあった。
 髷とは異なる、奇妙な髪型。質素な白ずくめの衣服。
 間違いない。これはキャスターの軍の特徴だ。これまで散発的に行動していた、魔術師の軍勢が行動を起こしたのだ。
 そう断言してよいだろう。何故なら一団の先頭には――見知らぬサーヴァントの姿がある。

「お目にかかるのは初めてですか。此度の聖杯戦争に参戦しました、キャスターのサーヴァントと申します」

 ゆったりとした動作で例をするのは、二十歳にも満たぬであろう少女だ。
 絹のような肌。漆の黒髪。セイバーとは異なるタイプの美貌。
 言うなれば、一流の職人が仕立て上げた、繊細華美なる日本人形。ほっそりとしたスタイルは、そう形容するのが正しいか。
 白と赤とに身を包み、額に日輪を思わせる、金を掲げるその姿は、明らかに周囲とは一線を画していた。
 たとえサーヴァントでなくとも、たとえ外見年齢からは信じられずとも、それでも信玄は確信しただろう。
 こいつが王だ。敵の頭だ。あれこそが倒すべき敵なのだ、と。

『この人も、こちらでの捕捉ができなかった……!?』
『宝具ではなく、魔術によるステルスか。どうか気をつけてくれたまえよ、諸君。その子は相当に強いぞ……!』

 そんなことは承知している。何しろ敵はキャスターなのだ。
 魔術師の器用さがあるとするなら、先のダレイオスとの戦いも、盗み見ることができて然るべきだ。
 あの激戦を目の当たりにして、なおも仕掛けてこれるのならば、それは己の力量に対して、相当な自信があるということ。
 率いる軍はそう強くない。されど個人は無視できない。信玄はそう分析し、遂に現れた敵の姿を、虎の瞳で油断なく睨んだ。

「お褒めに預かり恐悦、ですね。歴史に名高い才人から、斯様に評価していただけるとは」
「奴の真名を知っている、と。なるほど、大した見識だ。なればどこまで知っている?」
「あらゆることを、です。信玄公」

 くすくす、と静かに笑う少女の、その腹の中を探りきれない。
 いかな理屈かは知らないが、レオナルド・ダ・ヴィンチはここではなく、未来から通信のみを送ってきている。
 であるなら、事情を知らぬ部外者が、彼の存在や素性に分け入り、知ることは叶わないはずなのだ。
 気配を隠す魔術に加え、何らかの手口による物見。果たしてこの女の正体は何だ。こいつの手品の正体は何だ。

「たとえば、そう……後ろの方の方々。私としては、もう少しばかり、急がせることをおすすめしますが?」

 刹那、不可解を口走った。
 にやりと笑んだキャスターが、妙なことを口にしたのだ。
 後続を急がせろ、とは何だ。何故そのようなことを口にした。何故わざわざ言われねばならぬ。
 こいつは一体何を知っていて、何を考えてそう言ったのだ。

「……?」

 ちょうど考えていた、その時である。
 何やら妙な胸騒ぎが、信玄の大きな胸に押し寄せたのは。
 異様な緊張を感じる。戦により生じるものではない。殺意とは全く別のプレッシャーだ。
 であれば何だ。これは何だ。キャスターが原因でないとするなら、何が心を騒ぎ立てている。
 このざあざあと注ぐ雨か――否。ちょっと待て。何かがおかしい。
 よく耳を澄ませて聞いてみれば、環境音はこれだけではない。胸を騒がす音の正体は、雨の音とは別物だ。
 これは、むしろ、地面から聞こえる。後方から聞こえるこれは――地鳴りか!

『……! 信玄公、すぐに味方の待避を! これは――』
「者共急げ! 前へ出ろ! ――山の土砂が崩れるぞォッ!!」

 瞬間、襲ったのは激音だった。
 耳を潰さんばかりの音が、後方を勢い良く駆け下りたのだ。
 地上の濁流。土の荒波。二日に渡った雨によって、生じた緩みが引き起こす災害――山の大地の土砂崩れ。
 その正体を悟った瞬間、雨の野山は惨劇を呼んだ。
 ごうっと響く波濤の音が、一直線に駆け抜ける。それ以外には何もない。ないのだからこそ恐ろしい。
 悲鳴すらも塗り潰す災だ。常軌を逸した死の爆音だ。
 最後列の赤武者達が、為す術もなく飲み込まれ、命を潰され流されていく。悲鳴すらも届かせることなく、最強の騎馬武者達が死んでいく。
 大軍の弓とも、豪傑の刃とも。いずれとも違う大自然の牙。
 さしもの風林火山と言えど、この光景には肝を冷やした。これまでとは明らかに次元の異なる、天変地異がもたらした被害に、顔面蒼白となったのだ。

「まさか、自然を操ったのか……!?」
『違うぞ、藤丸君。あれに魔力の気配はなかった。すなわち今の土砂崩れは、キャスターの魔術によるものでなく……純粋な自然災害だ!』

 あり得ない。そんなことがあるはずはない。
 後方の立香とダ・ヴィンチの会話が、荒唐無稽なものであることは、信玄も十分に理解している。
 今まさに起きた土砂崩れが、本当にただの偶然であるなら。
 軍勢の最後尾を勢いよく飲み込み、残る者たちを恐怖させている、この現象が偽りもなく、ただの偶然でしかないというのなら。
 それならば奴は――眼前で笑う黒髪の術師は、何ゆえこの状況を言い当てられた。
 狙い澄ましたようなこの惨状を、事前に知っていたからこそ、己を嘲笑えたとでも言うつもりなのか。

「読んだか、キャスター。この有様を。よもや未来まで見透かしたとでも?」
「まさか、それは違います」

 雨水に汚れたその頬に、一筋雫を垂らしながら。
 睨み上げる虎の眼光を、魔術師はくすくすと見下ろし嗤う。

「そんな小さなものではない。有り物の未来を眺めるのではなく――私が見据えた道こそが、真に未来となるのですから」

 起きた事象は十分に不可解。なればその様を語る言葉も、複雑怪奇と称するべきか。
 奴が見たものそれこそが、真の未来になるというのは、果たして一体どういうことだ。
 それは未来を予知することと、一体どう違っているというのだ。
 訝しむ信玄。嘲笑うキャスター。籠手の下に汗が滲む。不快な湿気を握り締める。その濡れた手で手綱を掴み、今こそ飛びかからんとした瞬間。

「――奴らに構うな、そのまま進め! この場は争うべきにあらず! 然るに、城へと撤収せよ!」

 その勇み足を制したものこそ、アグラヴェインの号令であった。
 びくりと震えすら見せながら、反射的に振り返る。見れば武士達の有様は、己同様青ざめた面だ。
 それらが全員、我が意を得たりと、行くべきだった道を進む。得体の知れない魔術師などは、相手にできぬと退散する。
 しかし、なるほど――これが道理だ。怖じ気た侍を引き連れたところで、犬死にさせる未来が必定。
 それを分かっていたからこそ、アグラヴェインはああやって、撤収を促したということか。なるほど、さすがに頼もしい男だ。

「然りだ! 背を向けることを恥じるな! 悔しさが一欠片でも残されているなら、万全の機にこそ蓄えておけ!」

 どの面を下げてと我ながら思った。
 しかしこれこそが最善の手だ。否、これ以外に取る道はないのだ。
 恥を忍んで、汚辱に耐えて、武田信玄は背を向けた。数多の英霊を引き連れながら、人類最後のマスターがいながら、たった一騎のサーヴァントの前に、信玄は敗走を喫したのだ。
 追う気配はない。後ろの軍勢は静かなものだ。あるいはこうした未来ですらも、彼女が決定づけたものだったのか。

「ふふ! 帰り道にはお気をつけて! お山の天気は荒れますから!」
「うっ、うわぁあああッ!」

 キャスターの勝ち誇った声と同時に、前方で痛烈な悲鳴が上がった。
 目の前に飛び込んだものは、光だ。全くなんという不幸か。いいやこれもまた必然なのか。
 今まさに一人の武者を呑んだのは――あれはまさに、落雷ではないか。
 なるほどこれを知ったからこそ、深追いする理由はどこにもないと、我らを見逃したというわけか。どこまでもふざけきった女狐だ。

「信玄公……!」
「止まるな、進め! 歩みを止めれば未来はないぞ! それこそ奴めの思う壺ぞ!」

 立香の声に応じるように、武田の武者隊に檄を飛ばした。
 今も暗雲はごろごろと渦巻き、ぴしゃりと光を放っている。いくつかの雷火は軌跡をなして、地表に襲いかかっている。
 さりとて怯えてはいられない。この場にとどまり続けることは、恐らく、雷による死に直結する。
 この雲の下をくぐり抜け、奴の視界から逃れきる他に、生き抜く道はありはしないのだ。

「ぎゃっ!」
「ひぃ――っ!」

 百発百中とは言えない。それでも出鱈目撃ちではない。
 前から横から後ろから、さすがにこれ以上はなかろうと、そう油断した頃に落雷が来る。
 一撃必殺の稲妻は、刀より鋭き凶器となって、武者達の命を確実に奪う。
 さしもの英傑サーヴァントと言えど、光の速さで迫るそれから、仲間を救い出す術はない。

(この屈辱は、必ず……!)

 決してただでは終わらせない。
 尾を巻いたままでいられない。
 あの小娘にはなんとしてでも、反撃の一太刀を浴びせねばならぬ。
 今日この日でないいつの日にか、再び相まみえた時にこそ、逆襲の刃を叩き込まねば。
 手負いの虎こそ恐ろしい。それこそをあのにやけ面に、身をもって教え込んでやらねばならぬと。
 嗚呼――されど心で吠える言葉の、なんと虚しいものだろうと。
 虎ならぬ負け犬の遠吠え全てを、今はぐっと内に堪えて、武田信玄は城を目指した。
 もはや僅かの安堵すらなく、その屈辱の一色のみが、彼女の胸を塗り潰していた。




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最終更新:2017年10月09日 22:55