まず、感じたのはそよ風だ。
次に感じたのが、草の匂い。
瞳を開けば――――草原と、森。
耳をすませば、遠くに川のせせらぎも聞こえてきた。
見上げれば青空。
雪山の上に立つカルデアからは、決して見ることのできない風景。
つまり、これは――――
『――――聞こえますか、先輩』
どこからか、声が聞こえてきた。
声の主は、カルデアから通信を飛ばす後輩。
「うん。聞こえてるよ、マシュ」
『はい。レイシフトは無事に完了したようですね。周囲の状況はどうなっていますか?』
「周囲の状況、と言っても……」
改めて、立香は周囲を見渡した。
やはりあるのは草原と、森と、小川と、空。それと野の獣がちらほらと。
ついでに言えば……
「花、鳥、風……月が足りぬが、実に心地のよいところよな」
「ええ、やはり本物の自然の中というのは心が澄むようです。南無」
……共にレイシフトをしたサーヴァントが、ちゃんと二人。
「……ひとまずは異常なし、かな」
実のところ、立香が特異点修復のためにブリテンにやってくるのはこれで三度目である。
一度目は第二特異点ローマにて、遠征地の一つとしてブリテン島を訪れた。
そして二度目は第四特異点ロンドン。時代は19世紀まで下るが、ブリテンの主要都市だ。
当然、雰囲気で言えば1世紀である第二特異点の空気に近い。
というより、ほとんど違いが感じられない。
広がる雄大な大自然……ただ、それだけだ。
…………逆に言うと、目印になるようなものがまったくない、ということでもあるが。
『とりあえず、こちらでキミの現在地を割り出しておこう。その間、周辺の探索を始めて欲しい』
「了解」
ダ・ヴィンチちゃんの指示に短く返し、立香はもう一度二人の従者を見る。
「じゃあ、二人とも。護衛と探索をお願い」
「心得た。と言っても、斥候の真似事が得意というわけではないが」
「ははは、アサシンの小次郎殿が言うと、性質の悪い冗談のように聞こえますな」
和やかに交わされる軽口。
実際、小次郎はアサシンとしては落第生に近い。
暗殺の心得など無く、ただ無念無想の境地として気配を断つ術を心得ているのみ。
その性質は、どちらかと言えばセイバーに近いと言えるだろう。
それはすなわち、彼の剣術が無双のそれである、ということでもある。
事実上のセイバーである小次郎と、法術を心得たランサーである弁慶。
少々サポート面での不安は残るが、頼れる仲間には違いない。
ひとまず何か目印になるものか、あるいは人を探すため、川沿いを歩くことにした。
とりあえず川を下って行けば、何かしらにぶち当たるはずだろう。
「ちなみに、二人は何か気付いたことはある?」
確認のためにそう話を振ると、ふと弁慶が小難しげな顔をした。
「ふぅむ……おかしなこと、というわけではないのですが……」
「ん。なんでも言ってみてよ」
「実は、普段より力が漲っているような感覚があるのです」
「力が……漲る?」
頭に疑問符を浮かべながら、立香は小次郎の方へと視線を移す。
小次郎もまた、静かに頷いた。彼も、ということだ。
単純に考えれば、サーヴァントの力が漲るというのは良いことだ。
良いことなのだが……
「……ダ・ヴィンチちゃん。今の聞いてた?」
『うん。言われてこちらでも少し調べてみたけど……確かに、二人の霊基がカルデアに登録されたものより僅かに強化されているようだ』
「…………原因は?」
『残念だが、今の時点ではわからない。どうも霊基パターンからなにか変化しているようなんだけど……』
「…………………………」
……原因不明ともなると、不安が勝る。
なぜ、急に二人が強化されたのか?
その強化に――――なにか代償は無いのか?
それがこの特異点の特性、ということなのだろうか。
あるいはいつぞや、鬼ヶ島で鬼の酒を飲んで強化された弁慶のことも思い起こされるが……今回は“酒を飲む”というアクションも取っていない。
原因不明の強化。もしもその原因が悪性のそれであった場合、被る被害はどれほどのものだろうか?
……いずれにせよ、万能の天才たるダ・ヴィンチちゃんが今の時点ではわからないと言っている以上、凡人たる立香に答えがわかるはずもない。
「奇妙な感覚ではありますが……強化は強化と、前向きに考えるしかありませんな」
「……だね。一応、力を出し過ぎないように気を付けて」
「承知した」
不安をぐっと押し殺し、歩を進める。
あからさまな異常――――とは言い切れない程度の、僅かな異常。
これがむしろ僅かな不安となってしこりとなるが、気にしていても始まらないのだから。
だから不安を押し殺すために、関心を別の方向へと向けた。
「ところで、この時代のアーサー王……ブリテンって、どんな状況だったの?」
『はい。そもそもブリテン島は、1世紀ごろには大半がローマ帝国の支配下にありました』
この手の知識に強いマシュが、素早く解説を返す。
『しかしローマは異民族の台頭により国力を大幅に減衰させ、ブリテンの支配を維持することが徐々に困難になります。
そのため、5世紀前半にローマ帝国は事実上ブリテンの支配を破棄。
それまでローマ軍と共に北方の異民族と戦っていたブリテン人は、独力での防衛を強いられることになりました。
元々ブリテンはそれぞれの土地に住む豪族たちの集まりであり、完全な指導者というのはいません。
そこで地方の豪族たちを統一し、強力な王としてピクト人などの異民族に立ち向かったのが――――』
『話の途中ですまない、藤丸君!』
マシュの丁寧な解説を遮る、ダ・ヴィンチちゃんの声。
こういう時にこういう声色で挟まる台詞は、数多の経験から立香にも予測がついた。
同時に、森の向こうから獰猛な獣が唸るような声。
『複数のエネミー反応――――ワイバーンの群れだ! ウォーミングアップとでも思って対処してくれ!』
「了解! 小次郎、弁慶!」
短く声を呼べば、二騎の武人は即座に得物を手に取る。
「あいわかった!」
「承知いたした!」
ただそれだけで意図を把握したか、あるいは最初から自らの役割を理解しているからか。
弁慶は立香をかばうように立ち、小次郎は物干し竿を手に前に出る。
素早い小次郎が前線を担当し、守りを得手とする弁慶はマスターの護衛。当然と言えば、当然の布陣。
次いで現れるは、予告通りのワイバーン。
その数、ひの、ふの、みの――――後続を数えれば、両の手にも余るだろう。
空高く布陣し、鷹がそうするように空中からこちらの様子を伺っている。
呼応するように小次郎が物干し竿を下段に置けば、いのいちにと二頭のワイバーンが猛然と飛び込んできた。
空飛ぶトカゲの牙と爪は鋭く、並の人間であれば容易に八つ裂きにしてみせるだろう。
それが、二体。
最下級とはいえ、竜種の端くれが二体!
竜種――――幻想種の究極。
そこにあるだけで世界の法則を歪めることすらある最悪の怪物たち。
さらに言えば、上空には未だ無数の飛竜が旋回している。
例え突撃をかわそうと、次から次へと飛竜たちは飛び掛かってくるだろう。
それが、群れの狩りというものだ。
故に回避は無意味。ならば侍が取るべき道は一つ。
「石火春雷――――――――」
飛竜が螺旋の軌道で襲いかかってくる。
小次郎は下段に構えた物干し竿を――――
「―――――――― 一刀にて証を示すッ!」
――――二閃。
地上に描かれた上弦の双月。
淀みなく振るわれる長尺。一瞬の芸術。
双子の半月は過たず飛竜二体の首と胴を断ち、断末魔もなく飛竜が絶命する。
そのまま巨体を落下――――させるその前に、小次郎が地を蹴った。
侍は刀と共に飛竜の脇を蹴り、背を蹴り――――跳躍。
自らが仕留めた飛竜の亡骸を足場に、上空で旋回する飛竜の群れ目がけての大跳躍。
飛燕を断つ男である。巨躯の飛竜など、巻藁を断つが如く容易いこと。
この流麗な侍の瞳には、まさしく止まっているように見えるのだろう。
神速に至った男の脚力が、剣を遥か高くまで持ち上げる。
首無しの飛竜を蹴り、飛び込む一刀がさらに上空の飛竜を一閃にて殺傷。
鮮血が雨の如く地上に降り注ぐ――――より早く飛竜の亡骸を蹴って小次郎が再跳躍。
繰り返し、繰り返し。
飛竜の群れそれそのものを足場に、跳躍と斬撃を幾度となく繰り返す。
地上の立香からすれば、青い風が吹き荒ぶごとに飛竜が墜落していくようにしか見えない異様な光景。
しかし、立香に驚きはない。
この光景は以前……第一特異点オルレアンでも見た光景だからだ。
第一特異点、邪竜百年戦争オルレアン。
竜の聖女ジャンヌ・オルタの尖兵として無数に召喚されたワイバーンの群れ――――それを討ち果たす、長尺使いの侍。
竜殺しの聖人ゲオルギウスや大英雄ジークフリートと共に邪竜に立ち向かった彼の雄姿は、未だ立香の記憶に深く刻まれている。
これはその再演だ。
瞬く間にワイバーンが数を減らし、鮮血を撒き散らしながら次々と大地に墜落していく。
形勢不利と見たか、ワイバーンが困惑の色を見せる。見せる、が――――退きはしない。
仮にも竜種の端くれとしてのプライドか、あるいは何か別の理由か。
それでも打開策を模索するように彼らは旋回し、問題なく青い風に撃ち落されて行く。
また一匹、ワイバーンが墜落――――否。これは、急降下。
小次郎への対処を困難と見たか、ワイバーンが地上の獲物に狙いを定める。
すなわち、立香と弁慶。
見れば片方は武装もなく、随分と貧弱そうだ。もう片方は屈強そうだが、竜種の膂力には敵うまい。
弾丸の如くワイバーンが急降下し、応じるように弁慶が立ちはだかる。
――――その立ち姿、まさしく仁王。
ただ大薙刀を手に立つだけの姿が、背に立つ立香に信頼を確信させる。
咆哮と共に、飛竜が爪を開いた。
「――――南無ッ!」
弁慶はそれを真っ向から受け止める。
薙刀の柄が飛竜の爪をガッチリと受け、留める。
急降下の勢いを乗せた一撃である。
竜種の膂力による一撃である。
只人では受け止めること敵わぬ一撃を、不動にて受け止める――――この僧兵は、只人ならざる“武蔵坊”であるが故に。
「ぬぅんッ!」
そのまま万力にて飛竜を押し返し、捻り込むように大地に叩きつけた。
ワイバーンの喉から絞り出すような悲鳴が漏れる。
次いで飛竜が体勢を立て直すより早く、弁慶の頭上で大薙刀が大回転。
「南ァ無ッ!」
ぶぉんぶぉんと空気を引き裂く音を鳴らした大薙刀は、裂帛の気合いと共に振り下ろされる。
竜種の鱗をバターのように切り裂き、勢い余って大地を砕くその一撃。
轟音と共にワイバーンの肉体が千切れ飛び、不動の明王は略礼を飛竜に手向けた。
「ふむ。一匹抜けたか」
「小次郎」
声の方を向けば、涼し気な顔で物干し竿を担ぐ小次郎が顎に手を当てて立っている。
どうやら、飛竜の掃討は終わったらしい。
見ればその背後には無数のワイバーンの亡骸が横たわっており、戦の結末を物語る。
「なに、そのための拙僧。むしろただ立つのみで事が終わってしまえば、怠惰の誹りを受けるところでした」
「ははは、違いない」
「お疲れ様、二人とも。助かったよ」
軽口を叩く二人に礼を述べつつ、立香は周辺に視線を巡らせた。
第二波の気配は――――無い。
「ひとまず、これで一通り仕留めたようですな」
「うん。でもこれ、野生だったのかな?」
「さてその辺りはカルデア側で確認が取れていればいいのですが……」
『お疲れ様です、先輩。ですが……すみません、こちらからはただのワイバーンとしか』
「うーん……」
いずれにせよ、このままここにいれば血の匂いに誘われてさらなる脅威がやってくるか。
そう結論し、一行は速やかな移動を開始する――――――――
◆ ◆ ◆
「――――やはり、ワイバーンでは相手にならんか」
「そりゃあ、仮にも人理を救った勇者たちだ。この程度ではね」
――――彼らは、立香たちを見ていた。
遠視の魔術を通し、丘の上から遠くの彼らを見ていた。
男女である。
鈍い鉄色の鎧を着た男が顎髭を撫でて唸り、白いローブを纏った女が杖を撫でる。
「では――――――――仕方あるまい。抜くか」
「もちろんそのためのキミだ。このまま帰ってもらっちゃあ困るとも」
男が剣を抜いた。
金と青の二色で描かれた、美しい鞘から宝剣が滑り出す。
それは――――黄金の剣。
鼓動するかのように明滅する黄金の光を纏う、絶世の聖剣。
ドクン、ドクンと波打つように。
まるで生物であるかのように、その剣は息吹を漏らす。
「――――束ねるは、竜の息吹」
輝きが、強くなった。
「輝ける運命(さだめ)の奔流」
隣に立つ女が、不敵に笑う。
「受けるがいい――――――――」
剣を構える。
暴力的な魔力が渦巻き、暴虐的な輝きが周囲を焼き尽くす。
曰く――――騎士王の聖剣は、松明百本の輝きを放ち、ひと振りで千の敵を打ち倒すのだと言う。
男が、大上段に構えた剣を振り下ろす。
「――――――――――――――――――――『■■された勝利の剣(エクスカリバー・■■■■■■)』」
――――――――――――閃光。
◆ ◆ ◆
「――――――――――――――――ッ!」
一番最初にそれを知覚したのは、立香だった。
人類最後のマスターとしての経験が成せる技か、あるいは幸運か、ただの直感か――――怖気が走った。
汗が吹き出し、視線を横にズラす。
遥か遠く、遠く遠くの丘の上――――光の渦が、網膜を焼いた。
『ッ、藤丸君! 強力な魔力反応及びサーヴァント反応――――今すぐそこから逃げろッ!』
一拍遅れて、ダ・ヴィンチちゃんの叫びが通信越しに響いた。
「あれは……!」
「いかん、主殿!」
咄嗟に小次郎が立香を乱暴に担ぎ上げ、一刻も早くこの場を離れんと疾走する。
一瞬で誰もが理解した。
あれは宝具の開放――――圧倒的な魔力量による、必殺の一撃。
――――そしてあれは、こちらを狙っている。
『宝具による狙撃だッ! サーヴァント反応は――――三…………に……丸君……』
「っ、通信が……!」
さらに、頼みの綱とも言えるカルデアとの通信が、砂嵐のような雑音に掻き消され始めた。
通信妨害?
何者の手で?
いや、というか――――異なる時代からの通信を遮断するなんてことを可能とするサーヴァントは、誰だ?
疑念が頭を渦巻き、しかしそれどころではないとも理解する。
担ぎ上げられたままに再度視線を丘の上に向ければ、閃光が渦巻き天を衝いていた。
まるでひと振りの剣のように――――まさか、あれを振り下ろすつもりなのか?
逃げ切れるのか?
こちらのサーヴァント――――小次郎も、弁慶も、対軍規模を超える攻撃手段も防御手段も無い。
相手の射程外まで、逃げ切れるのか?
「小次郎殿! ここは拙僧が一瞬でも押し留める! マスター殿を連れてお逃げください!」
「仕方あるまい、承った!」
「ダメだ、弁慶ッ!」
弁慶が反転し、仁王の如く大の字に立った。
これほどの魔力の奔流、身一つで押し留められるものか――――否、やるのだ。
武蔵坊弁慶であれば、この程度は受けきって見せるであろうから。
立香は遠くなっていく弁慶の背に向けて叫び――――――――同時に、閃光が放たれる。
渦巻く魔力が、奔流となって立香たちに迫る。
地形を抉り、飛竜の亡骸を消し飛ばし、全てを飲み込む濁流となって一直線に雪崩れ込む。
これは――――弁慶がどれほど押し留めたとて、逃げ切れるのか?
……逃げきれなければ、どうなる?
つまり――――――――死――――――――?
最悪の想定が脳裏を過ぎったその瞬間――――――――――――立香と小次郎とすれ違うように、騎馬が駆けていった。
騎馬は弁慶も抜き去り、馬上の騎士が突撃槍を構えて奔流に飛び込んでいく。
一瞬、誰もがその光景をぽかんと呆けた表情で認識し――――追い討つように、騎士は高らかに叫んだ。
「――――――――――――『騎士の勇気は風車を超えて(エル・インヘニオソ・カバレロ)』ッ!!」
最終更新:2017年11月13日 05:49