【1】
少女の家族は、間違いなく良い人であった。
聖人の様な慈悲も、悪人の様な卑劣さも有してなどいない。
されど、彼等は必要最低限以上の優しさなら持っていた。
客観的に見れば、きっと善人の部類に入る人々だっただろう。
朝起きて、家を出て、義務を果たし、家に帰る。
家で並んで飯を食い、風呂に入り、そして眠る。
祖父も祖母も父も母も、そして娘自身も、それ以上の事はしなかった。
それ以上を望まなかったからこそ、恨まれる事も無かった。
中でも少女の母は、よく笑うと評判であった。
あの笑顔を見るとこっちも元気になるとは、近所の人の言葉である。
少女自身、彼女の笑顔を見ると、何だか嬉しくて仕方がなかった。
どこにでもあるような家族に、どこにでもあるような生活。
少女の日常はそれこそ平凡だったが、幸福に溢れたものだった。
いつまでもこんな日が続けばいいと、子供ながらに思っていた。
けれども、運命はそんな彼等を悉く弾圧するのである。
無辜の民である一家は、容赦なく嬲られる事となる。
祖父母が天然痘に罹り呆気なく亡くなったのが、最初だった。
悲しんでいる暇もなく、父が兵隊に連れ去られたとの報が入る。
数日間無事を祈ったが、その結果は無残なものであった。
少女の父は、道端でゴミの様に棄てられる形で帰ってきた。
けれど、愛すべき夫と親を失ってもなお、少女の母は絶望しなかった。
いや、絶望こそしたのだろうが、そこから引き上げてくれる希望を有していたのだ。
自分の娘という何よりの希望が、彼女の生きる活力となっていた。
兵隊の機嫌を損ねれば、何をされるか分かったものではない。
母は娘共々、逃げ隠れするかの如く暮らすようになる。
食料を空き家になった家から盗む、なんて真似さえ行うようになっていた。
兵隊が街を占領したせいで、食料のルートさえ断ち切られていたからだ。
その頃になっても、母は娘の前ではよく笑っていた。
ここで挫けてはいけないと、多少無理をしてでも笑みを作っていた。
空き巣同然の行いをしてでも、母は娘の為に生き続けた。
けれども、その苦難の日々もそう長くは続かなかった。
兵隊の一人が、少女達に目を付けたのである。
今の東京では、彼等に関わった時点で死が確定するようなものだ。
言うなれば、兵士達は地獄の鬼も同然の存在であった。
兵隊に囲まれ、絶体絶命の状態に追い込まれた母子。
母は自分の身を顧みず、娘を逃がそうと必死に抵抗した。
彼女の決死の行動により、娘は逃亡に成功する。
その間際に振り返った彼女は、母の最期の笑顔を見る事となる。
「せめて貴方は生き延びて」という言葉に添えられた、涙交じりの笑みだった。
【2】
意識が覚醒する。目が覚める。目蓋を開く。
コンクリート造りの、知らない天井だった。
少女がよく知る、自宅の木造造りのそれではない。
横たわっている物も、布団の感触ではない。
確かこれは、ベッドという名の西洋の寝具である。
寝ている少女の横には、椅子に座る赤毛の女性の姿があった。
目を覚ました彼女に、暖かな視線を投げかけている。
少女は少し目蓋を擦った後、女性とは初対面でない事に気付く。
この女性は、つい先程自分達を助けてくれた人だ、と。
身体を起こして周囲を見渡すと、ベッドから少し離れた場所に、あの黒髪の女戦士の姿が見えた。
彼女も椅子に座り込んで、心配そうに少女の様子を見ているようだった。
「目覚めたんだね。調子は……いい訳ないよね」
赤毛の女性が、憂い気に少女へ問いかけてきた。
彼女がこの様な事を言うのも無理はない、何しろ東京があの有様なのだ。
この状況で調子がいい者など、狂人かあの兵士達くらいしかいないだろう。
「あの、ここ……どこ?」
「東京で知り合った人の隠れ家でね。此処にいる限りは安全だって」
曰く、赤毛の女性――ブーディカは、黒髪の戦士――牛若丸の助けに入る前、とある人物と接触していたのだという。
なんでも、自身を天才であると言って憚らない、キャスターと名乗る少年だったそうな。
そしてこの空間は、その少年が拠点として使っている場所の一室だそうだ。
「変な人だけど、うん、良い人には違いないから。安心していいよ」
「ブーディカ殿、一つ聞きたいのですが、やはりその人物は……」
「うん、野良サーヴァントの一人みたいだけど、あいつらとは敵対してるって」
彼女らの言うサーヴァントが何なのかは知らないが、きっとそういう名の戦士の総称なのだろうと、少女は認識する。
思えば、牛若丸の戦いぶりときたら、まるで活劇に出てくる武士のようであった。
ブーディカやキャスターなる人物も、ああいった風に立ち回れるのだろうか。
そうして過去を振り返って、少女は思い出してしまう。
自分が母親の手を借りて逃げ延び、そしてその母親が行方知れずである事に。
少女はポケットから、紐の付いたペンデュラムを取り出した。
透き通るような水色の宝石が組み込まれた、見惚れるような一品であった。
「……それは?」
「お母さんがくれたの。昔貰ったお守りだって。
お揃いだったの。お母さん、これがあるなら、いつでもお互いの場所が分かるって」
ペンデュラムは、ダウジングの道具として用いられる事がある。
その他、失くした物を探す、二択の内から正しいものを選ぶといった用途も存在している。
少女の母親は、"失くしものを探す"為にこれを娘に授けたのだろう。
互いの居場所を見失ってしまったとしても、すぐに見つけ出せるように。
「……お母さん、あの人達に捕まって。それから、それから……」
「それ以上言わなくていいよ。きっと、思い出すのも辛いでしょ?」
少女の眼から零れ落ちたのは、大粒の涙であった。
無理もないだろう。ずっと寄り添ってくれた者が、今や生死すらはっきりしていないのだ。
母親を喪った子は、大抵はあまりに脆いものだ。
ブーディカは何も言わず、少女を抱き寄せた。
今のこの子に必要なのは、人の優しさである事を知っているからだ。
彼女自身、家族を喪失する辛さは痛い程理解している。
つい最近まで平凡に生きていた子供が、堪えられるそれではない。
少女は彼女の胸の中で、ただただ泣きじゃくるばかりであった。
狭い室内に、幼い嘆きだけが響き渡った。
【3】
「……その、ブーディカ殿」
「こんな時に言うのも難だが」、そう言いたげな語調だった。
ブーディカが目を向けると、申し訳無さそうな顔つきの牛若丸の顔があった。
確かに、泣いている子供がいる手前、話題を切り出しにくい状況である。
「この家の主は何時になったら現れるのですか?
じきに来ると聞いてから随分と経っているのですが」
「確かにそうね。すぐ戻って来るって言ってたけど……」
牛若丸も少女も、この部屋の主が誰なのかを知らない。
本人曰く席を外しているようだが、果たして何時になったら出てくるのか。
ブーディカ本人も心配になりつつある、そんな時であった。
「お待たせしたね、諸君ッ!」
部屋の入口に、何時の間にやら第三者の影があった。
女性寄りに中性的な、線の細い黒髪の美少年である。
新たな人物の唐突な登場に、牛若丸の表情が強張った。
「何奴だ」
「えっ!?ちょ、ちょっと待ってくれないか!?いきなり敵意を向けないでもらいたいんだが!?」
「今の私は気が立っていてな。信を得たいならまず名乗る事だ」
「わ、分かった分かった!唐突に出てきたのは謝るからもう少し落ち着いてくれ!」
コホン、と。少年がわざとらしく咳払いをした後、
「私はブーディカ君を此処に招き入れ、そして牛若丸、君を匿った張本人!」
両腕を広げ、仰々しい口調で少年は語る。
自身がこの空間の主であり、同時に牛若丸達の味方である事を。
「私はキャスターのサーヴァント!
真名はピカソ!天才、パブロ・ピカソさッ!」
最終更新:2017年11月14日 03:05