第三節:『パンズ・ラビリンス』(2)

【1】


 少女の家族は、間違いなく良い人であった。
 聖人の様な慈悲も、悪人の様な卑劣さも有してなどいない。
 されど、彼等は必要最低限以上の優しさなら持っていた。
 客観的に見れば、きっと善人の部類に入る人々だっただろう。

 朝起きて、家を出て、義務を果たし、家に帰る。
 家で並んで飯を食い、風呂に入り、そして眠る。
 祖父も祖母も父も母も、そして娘自身も、それ以上の事はしなかった。
 それ以上を望まなかったからこそ、恨まれる事も無かった。

 中でも少女の母は、よく笑うと評判であった。
 あの笑顔を見るとこっちも元気になるとは、近所の人の言葉である。
 少女自身、彼女の笑顔を見ると、何だか嬉しくて仕方がなかった。

 どこにでもあるような家族に、どこにでもあるような生活。
 少女の日常はそれこそ平凡だったが、幸福に溢れたものだった。
 いつまでもこんな日が続けばいいと、子供ながらに思っていた。

 けれども、運命はそんな彼等を悉く弾圧するのである。
 無辜の民である一家は、容赦なく嬲られる事となる。

 祖父母が天然痘に罹り呆気なく亡くなったのが、最初だった。
 悲しんでいる暇もなく、父が兵隊に連れ去られたとの報が入る。
 数日間無事を祈ったが、その結果は無残なものであった。
 少女の父は、道端でゴミの様に棄てられる形で帰ってきた。

 けれど、愛すべき夫と親を失ってもなお、少女の母は絶望しなかった。
 いや、絶望こそしたのだろうが、そこから引き上げてくれる希望を有していたのだ。
 自分の娘という何よりの希望が、彼女の生きる活力となっていた。

 兵隊の機嫌を損ねれば、何をされるか分かったものではない。
 母は娘共々、逃げ隠れするかの如く暮らすようになる。
 食料を空き家になった家から盗む、なんて真似さえ行うようになっていた。
 兵隊が街を占領したせいで、食料のルートさえ断ち切られていたからだ。

 その頃になっても、母は娘の前ではよく笑っていた。
 ここで挫けてはいけないと、多少無理をしてでも笑みを作っていた。
 空き巣同然の行いをしてでも、母は娘の為に生き続けた。

 けれども、その苦難の日々もそう長くは続かなかった。
 兵隊の一人が、少女達に目を付けたのである。
 今の東京では、彼等に関わった時点で死が確定するようなものだ。
 言うなれば、兵士達は地獄の鬼も同然の存在であった。

 兵隊に囲まれ、絶体絶命の状態に追い込まれた母子。
 母は自分の身を顧みず、娘を逃がそうと必死に抵抗した。

 彼女の決死の行動により、娘は逃亡に成功する。
 その間際に振り返った彼女は、母の最期の笑顔を見る事となる。
 「せめて貴方は生き延びて」という言葉に添えられた、涙交じりの笑みだった。



【2】


 意識が覚醒する。目が覚める。目蓋を開く。
 コンクリート造りの、知らない天井だった。
 少女がよく知る、自宅の木造造りのそれではない。

 横たわっている物も、布団の感触ではない。
 確かこれは、ベッドという名の西洋の寝具である。

 寝ている少女の横には、椅子に座る赤毛の女性の姿があった。
 目を覚ました彼女に、暖かな視線を投げかけている。
 少女は少し目蓋を擦った後、女性とは初対面でない事に気付く。
 この女性は、つい先程自分達を助けてくれた人だ、と。

 身体を起こして周囲を見渡すと、ベッドから少し離れた場所に、あの黒髪の女戦士の姿が見えた。
 彼女も椅子に座り込んで、心配そうに少女の様子を見ているようだった。

「目覚めたんだね。調子は……いい訳ないよね」

 赤毛の女性が、憂い気に少女へ問いかけてきた。
 彼女がこの様な事を言うのも無理はない、何しろ東京があの有様なのだ。
 この状況で調子がいい者など、狂人かあの兵士達くらいしかいないだろう。

「あの、ここ……どこ?」
「東京で知り合った人の隠れ家でね。此処にいる限りは安全だって」

 曰く、赤毛の女性――ブーディカは、黒髪の戦士――牛若丸の助けに入る前、とある人物と接触していたのだという。
 なんでも、自身を天才であると言って憚らない、キャスターと名乗る少年だったそうな。
 そしてこの空間は、その少年が拠点として使っている場所の一室だそうだ。

「変な人だけど、うん、良い人には違いないから。安心していいよ」
「ブーディカ殿、一つ聞きたいのですが、やはりその人物は……」
「うん、野良サーヴァントの一人みたいだけど、あいつらとは敵対してるって」

 彼女らの言うサーヴァントが何なのかは知らないが、きっとそういう名の戦士の総称なのだろうと、少女は認識する。
 思えば、牛若丸の戦いぶりときたら、まるで活劇に出てくる武士のようであった。
 ブーディカやキャスターなる人物も、ああいった風に立ち回れるのだろうか。

 そうして過去を振り返って、少女は思い出してしまう。
 自分が母親の手を借りて逃げ延び、そしてその母親が行方知れずである事に。

 少女はポケットから、紐の付いたペンデュラムを取り出した。
 透き通るような水色の宝石が組み込まれた、見惚れるような一品であった。

「……それは?」
「お母さんがくれたの。昔貰ったお守りだって。
 お揃いだったの。お母さん、これがあるなら、いつでもお互いの場所が分かるって」

 ペンデュラムは、ダウジングの道具として用いられる事がある。
 その他、失くした物を探す、二択の内から正しいものを選ぶといった用途も存在している。
 少女の母親は、"失くしものを探す"為にこれを娘に授けたのだろう。
 互いの居場所を見失ってしまったとしても、すぐに見つけ出せるように。

「……お母さん、あの人達に捕まって。それから、それから……」
「それ以上言わなくていいよ。きっと、思い出すのも辛いでしょ?」

 少女の眼から零れ落ちたのは、大粒の涙であった。
 無理もないだろう。ずっと寄り添ってくれた者が、今や生死すらはっきりしていないのだ。
 母親を喪った子は、大抵はあまりに脆いものだ。

 ブーディカは何も言わず、少女を抱き寄せた。
 今のこの子に必要なのは、人の優しさである事を知っているからだ。
 彼女自身、家族を喪失する辛さは痛い程理解している。
 つい最近まで平凡に生きていた子供が、堪えられるそれではない。

 少女は彼女の胸の中で、ただただ泣きじゃくるばかりであった。
 狭い室内に、幼い嘆きだけが響き渡った。 


【3】


「……その、ブーディカ殿」

 「こんな時に言うのも難だが」、そう言いたげな語調だった。
 ブーディカが目を向けると、申し訳無さそうな顔つきの牛若丸の顔があった。
 確かに、泣いている子供がいる手前、話題を切り出しにくい状況である。

「この家の主は何時になったら現れるのですか?
 じきに来ると聞いてから随分と経っているのですが」
「確かにそうね。すぐ戻って来るって言ってたけど……」

 牛若丸も少女も、この部屋の主が誰なのかを知らない。
 本人曰く席を外しているようだが、果たして何時になったら出てくるのか。
 ブーディカ本人も心配になりつつある、そんな時であった。

「お待たせしたね、諸君ッ!」

 部屋の入口に、何時の間にやら第三者の影があった。
 女性寄りに中性的な、線の細い黒髪の美少年である。
 新たな人物の唐突な登場に、牛若丸の表情が強張った。

「何奴だ」
「えっ!?ちょ、ちょっと待ってくれないか!?いきなり敵意を向けないでもらいたいんだが!?」
「今の私は気が立っていてな。信を得たいならまず名乗る事だ」
「わ、分かった分かった!唐突に出てきたのは謝るからもう少し落ち着いてくれ!」

 コホン、と。少年がわざとらしく咳払いをした後、

「私はブーディカ君を此処に招き入れ、そして牛若丸、君を匿った張本人!」

 両腕を広げ、仰々しい口調で少年は語る。
 自身がこの空間の主であり、同時に牛若丸達の味方である事を。

「私はキャスターのサーヴァント!
 真名はピカソ!天才、パブロ・ピカソさッ!」






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最終更新:2017年11月14日 03:05