【1】
地獄とは、まさしくこの世界の事であろう。
そう思わせる光景を、立香達はこの地で目の当たりにした。
例えば、日本人が拷問を受ける光景。
例えば、日本人が凌辱されている光景。
例えば、日本人が四肢を削がれている光景。
悪夢めいた景色のそのどれもが、日本人が嬲られるものであった。
面白おかしく、まるで玩具か何かの様に破壊されていく人々。
そうした残虐が行われる様を、立香達はただ見ている事しか出来なかった。
助けに行こうと思えば、いつでも助けに行けた。
ジェロニモと共に兵士達を打倒すれば、目の前の命を救えただろう。
だが、無計画に出ていったとして、その後はどうする?
仮にここで暴れれば、またサーヴァントに見つかる恐れがある。
もしそうなったとしたら、今のジェロニモ一人で果たして対処しきれるだろうか。
相手の戦力が未知数である以上、こちらが下手に動くべきではないのである。
だからこそ、立香達は動かなかった。動きたくても動けなかった。
拳を強く握りしめるのが精いっぱいで、それ以上何も出来なかった。
頭では分かっているのだ。納得だってした上での行動だ。
けれど、それでも。噛んだ唇からは血が流れ出てきそうで。
ただひたすらに、己の無力を嘆くしかなかったのである。
そしてつい先程も、立香達は兵士達を見逃した。
楽し気に日本人を殺した彼等に、何をする事もなかった。
物陰に隠れ、奴らが去るのをじっと待ち続けたのである。
「……辛いだろう。マスター」
ジェロニモにそう聞かれ、立香は小さく頷いた。
同じ民族の血が流れ続ける様を、ただ見届ける他無い。
その辛さは、ジェロニにも容易く理解できるものだった。
「君はよく耐えている。母国を蹂躙されるのは耐え難い屈辱だというのに」
「それでもやっぱり……堪えるよ、これは」
立香の産まれた国の人々が、為す術なく死んでいく。
ただの人間でしかない自分は、それを見つめる事しか出来ない。
その精神的負荷は、立香自身にも解る程に大きかった。
「今は耐えるんだ。特異点を修正すれば、この惨劇も消えるのだから」
ジェロニモの言う通り、特異点が修正されれば、現在の惨状は歴史から消し去られる。
サーヴァントによって喪われた命は、ひとまず戻ってくるのである。
けれどそれは、殺された日本人達の無事を意味するものではなく。
「でも、無かった事にはならない。消えた命は……」
「……その通りだ。此処で死んだ命は、いずれ消える運命にある」
特異点により消えた命は、それの修正によって一応は復活する。
けれども辻褄合わせとして、別個の要因による死が決まるのである。
出来事を無かった事にできても、命の終わりそのものを無かった事にはできないのだ。
此処で死んだ者達は、恐らくはこれから先に起こる戦争によって、皆命を落とすのだろう。
「それでもマスター。決して絶望しては――」
「解ってるさ、ジェロニモ。此処で音を上げてちゃいけないって」
これまでの特異点で、立香は何度も直視し難い光景を目にしてきた。
円卓の騎士による虐殺、ラフムによる蹂躙など、その最たるものだろう。
けれども、立香達はそれを前にしても決して屈せず、悲劇を打ち破ってきた。
だからこそ、今の惨劇を目にしたとしても、彼の心は折れてなどいない。
「……我が儘を言うとだね、君にはこんな景色を見せたくなど無かった。
君にこんな風景を、かつての私が得た痛みなど、知ってほしくはなかった」
そう言ってジェロニモは、無念そうに顔を顰めた。
きっと彼は、かつてのアパッチ戦争を想起しているのだろう。
彼もまた、夥しい数の同胞を理不尽に奪われた身である。
立香と同じ民族が、今まさに命を奪われていたように。
「痛みに耐え切ってほしくなどなかった。
君にはどうか、無垢な少年でいてほしかった……本当に我が儘な話だがね」
「それなら、言うのがずっと遅いよ。ジェロニモ」
確かにその通りだと、ジェロニモは苦笑する。
無垢な少年でいるには、立香はあまりに多くの事を経験しすぎた。
今の彼は一人の人間であると同時に、世界を救ったマスターなのである。
もう、ただの少年には戻れない。
「……ん?」
と、そんな時であった。
立香の瞳が、何か怪しげな物体の姿を捉えた。
人型であるのだが、顔面の構造が歪な存在である。
あんな風な形を、立香は美術の教科書で見た覚えがあった。
確か、キュピズムとかいう名前だったか。
「ジェロニモ、何だろうあれ」
「あれは……ふむ。恐らく使い魔の類だろう」
使い魔と思しきそれは、ジェロニモ達の視線に気付くと、足早に立ち去っていく。
まるで、こちらについて来いと言わんばかりの行動である。
いかにも怪しげな行動に、立香とジェロニモは目を見合わせた。
「……ジェロニモ、追ってみよう」
「あのあからさまな出方だ、敵の罠かもしれんぞ?」
「そうかもしれないけど、何か掴めるかもしれない。
ほら、言うだろ?"虎穴に入らずんば虎子を得ず"って」
立香の言葉に、ジェロニモも少しばかり考え込んだ。
彼の言う通り、今は少しでも情報が欲しい頃合いである。
此処で彷徨ってるばかりでは、その少しの情報も得難いだろう。
「君の言う通りだな。此処はリスクを冒す場面と見た」
ジェロニモは周囲に人がいない事を確認すると、使い魔の後を追い始める。
そして立香も、それに続いていくのであった。
【2】
「……で、そうして追ってみたはいいけど」
使い魔の後を追った果てに、小屋に辿り着いた。
一見して何の特徴も無い、木造のものである。
使い魔はこの小屋に入ったきり、一向に姿を見せていない。
「此処に何かあるのかな」
「そう考えるのが普通だろうな。
だが気を付けろマスター。この小屋、恐らく"工房"だ」
ジェロニモのその言葉に、立香は思わず息を呑んだ。
工房とは即ち、キャスターの拠点である事を意味している。
つまり、この古ぼけた建物の中に、サーヴァントがいるという事だ。
「……行こうジェロニモ。行かなきゃ何も始まらない」
立香が意を決してそう言ったのを皮切りに、二人は移動を開始する。
鍵の掛かっていない扉をくぐり、薄暗い内部へと脚を踏み入れた。
その瞬間であった、立香の視界が急激に揺らぎ始めたのは。
「ジェロニモ、これって――!?」
「落ち着けマスター、幻術の類ではない。これは恐らく……」
ジェロニモがそう言い終えるより早く、立香の視界は正常化した。
薄暗いじめじめとした空間から、明かりのついた清潔感のある一室に。
描きかけの絵画が無数に並ぶそこは、所謂アトリエと呼ばれる場所であった。
「外部から判別されないよう、こうしてカモフラージュしていたのだろう。違うか?」
ジェロニモが言葉を向けた先には、一人の少年の姿があった。
立香は直感で理解する、彼こそが、使い魔を操ったサーヴァントである事に。
見た目こそ女性的な美少年だが、あれもまた人理に名を刻んだ英傑なのであろう。
その証拠に彼は、子供とは到底思えないような余裕を滲ませていた。
「万博の奴等は色々と勘が鋭いからね。こうして工夫を凝らすしかないんだよ、ジェロニモ君」
「……何故私の真名を知っている。どこでそれを知った」
「知っているとも。君も、君の仲間のブーディカ君も牛若丸君も、君のマスターである藤丸立香君の事もね」
ジェロニモが懐からナイフを取り出し、臨戦態勢をとる。
急激に空気が張り詰めていくのを、立香は肌で感じ取った。
どうやら、虎穴に入り込んでだ結果、虎を呼び寄せてしまったらしい。
「……此処で暴れられると困るのだけどね」
「此処へ我々を招き入れた時点で、こうなる事は承知の上の筈だが」
「そもそもだね、私は戦う為に君達を呼び寄せた訳では――}
謎のサーヴァントが、不敵に笑いながら言葉を続けようとした、その時だった。
後ろから彼を押しのける影が、彼を横になぎ倒してしまったではないか。
「ぐえっ!?」と声を上げながら、少年は無様に床へ倒れ込んだ。
「――――主殿ッ!主殿ではありませぬか!!」
そう言って立香に駆け寄るのは、彼自身がよく知る顔だ。
それは他ならぬ、探していたサーヴァントの一騎である牛若丸だった。
「牛若丸!?」
「よくぞご無事で!」
マスターとの再会を喜ぶ牛若丸と、それに困惑する立香。
立香がそうなるのも無理もない、何しろこのような場所に探し人がいたのだ。
虎穴に入ったかと思えば、そこで財宝を手にしたような気分であった。
「ちょっと牛若丸君!?私が格好良くキメようって時に君は何なのかね!?」
「格好良くって、空気を不穏にしてるだけだった気がするんだけど……」
身体を起こしてそう抗議する少年に指摘するのは、後からやって来たブーディカであった。
思わぬ人物の登場に、立香はおろかジェロニモまで驚愕してしまう。
よもやこんな場所でカルデアのサーヴァントが全員揃うとは、到底考えていなかったからだ。
「ブーディカまで!?これってどういう……!?」
「どういう事も何も、そこにいるキャスターが皆が集まるよう手を回してたの」
立香達がここに集ったのは、少年――キャスターの働きによるものだ。
彼が使い魔を秘密裏に操った事で、立香は仲間と合流でき、牛若丸は窮地を救われたのである。
「ブーディカ君の言う通りさ。私がここまで頑張ったのに君達ときたら……」
思った通りの展開にならず、見た目相応に不貞腐れるキャスター。
一体これはどういう事だと、当惑したままの立香とジェロニモ。
そんな彼等を前に、ブーディカは困ったように笑いながら、
「とりあえずご飯にしよっか。マスターもお腹空いてるだろうしね」
最終更新:2017年12月01日 21:27