それは、バルベルデ共和国大統領を名乗るあの男が、机に広げている地図へと再び視線を巡らせていたときのことである。
叩く間隔がいつもよりも早いノック音が聞こえてきたため、男が「何用だ?」と訊ねると、
「何度も失礼致します。早急にお伝えすべきお話があり、参った次第です」
男が眺めていたものと全く同じであろう地図を手に持ったキャスターが、扉を開けて早足で近付いてきた。
今にも唾を飲み込む音が聞こえてきそうな表情だ。だがそう緊張されても困る。
故に「報告など、何度行おうとも別に構わないだろう。そう畏まるな」と気遣うと、
「恐れ入ります。では手短に」
キャスターはほっとした様子でこう前置きをしてから、
「侵入を許してしまったあの虎共ですが、何の因果か内陸部を真っ直ぐに南下しております」
机の上の地図へと手を伸ばし、人差し指の先で敵が辿ったであろうルートを示した。
なお、持っていた地図は適当な場所に置いた。やはり同じ地図だったのだろう。
「……ほう? 早々に我々の所在地を嗅ぎつけたか?」
「そうでないことを祈りたいものですが……決して楽観視は出来ぬかと」
「だろうな。しかし、何故そのような情報を手に入れられた? 確かな情報なのか?」
「アーチャーが虎共と遭遇し痛み分けに終わった、との報告が上がったのです。きちんと位置も知らせてくれました」
相手の言葉に「なるほど……」と納得した男は、キャスターの指先を注視する。
決して〝ただの偶然だろう〟と慢心すべきではない。男は、キャスターが纏う雰囲気からそう感じ取った。
「ちなみにアーチャー曰く〝パナマとの国境線に向かうのは遅れる〟とのことですが、これについては如何致しましょう?」
「別に構わん……と、言いたいところだが、ティーゲル共の南下は無視出来んな。このままアーチャーにパナマ侵攻を命じるのは危険だ。
いや、奴だけの話ではない。このままティーゲル共を放置して全騎を北上させること事態、悪手だろう。さすがの私でもこの程度は解る」
ここで判断を誤ればただでは済まないだろう。
故に男は、躊躇いもなく「パナマ攻略は一時凍結すべきとみたが、どうだ?」と問いかけた。
「よき選択かと。ですのでここは閣下の身の安全も考え、パナマ侵攻作戦は延期。虎共の駆除を第一とせよと、各英霊に通達しましょう。
また、代わりにホムンクルスを補充し、国境沿いに設置して拮抗状態を保持させておけば、北伐への布石が台無しになることも防げます」
「許す。兵法に関しては私よりもお前の方が数十段は上手だ。各サーヴァントの動かし方に関しても、全て任せよう。文句も言わん」
キャスターからの進言を、男は一寸の間すら置かずに受け入れる。
何せ相手は、こと〝侵略者の排除〟において一級品の逸話を持つ英霊なのだ。
たとえ彼がアーリア人でなくとも、そもそもドイツ人ですらなくとも、その実績はあまりにも大きい。
それ故に男は、手駒を動かす権利の全てすらもキャスターに与えたのである。
「勿体なきお言葉! なればこれより我が軍の目標は、北伐から虎共の駆除へと変更致します。ホムンクルスの補充に関しましては……」
「解っている。私がやるから安心していろ」
「御意に! では早速、内陸部に残るホムンクルスに斥候を命じます。虎共の位置を特定出来れば、相応しき者を送り込みましょう!」
「頼りにしているぞ、キャスター」
「ははぁっ!」
深々と礼をして部屋から去って行ったキャスターを見送った男は、溜息をつく。
落胆からではない。安堵からだ。
「あれが〝当時の我ら〟の同胞であればよかったのだがな……ああ、まったく、惜しいとしか言えぬ話だ……」
そう呟く男は、うっすらと笑みを零していた。
一方その頃、立香達はというと……例の〝丈夫そうなビル〟へと侵入すると、高階層の角部屋に身を潜めていた。
先だって散々目撃したホムンクルス達の運動能力を警戒しつつ、外の動きを即座に把握出来るようにと考えた結果である。
ちなみに車はというと、きちんと駐車場に停めている。敵地で堂々としたものだが、その方が悪目立ちしないはずであるからだ。
そして未だに意識を取り戻さないケツァル・コアトルは、本人(本神?)に申し訳ないと思いつつも仕方がないので床に寝かせた。
ベッドでもあればよかったのだが、いかんせん部屋にあるのは机と椅子と仕事用らしきデスクトップパソコンばかり。
ケツァ姉、すまん。立香は心の中で謝った。
「さて、我が主……まずは謝罪をさせてほしい。思えば、心の隅にどこか慢心があった。本当に申し訳ない」
「いや……そもそも俺が燕青に甘えすぎてたのがまずかった。慢心って言葉を使うべきなのは、俺の方だ」
そんな幾分シュールとも思える図の中で、立香達は真剣な対話を始めることとなる。
「だから謝る必要は全然ない……その代わりに、教えてくれ。お前が見たことの全貌を、きっちりしっかりと」
「……承知した。では聞かせよう。突飛すぎて笑ってしまうかもしれないが、今から話すのは全て事実だ」
適当に選んだ椅子に座った立香は、同じく近くの椅子へと腰掛けた燕青の言葉を待った。
通信越しに、唾を飲み込む音が聞こえた。恐らくはマシュだろう。
「まず、これは今更マスターに言う必要もないことだが、俺は一対のホムンクルスの片割れを真っ先に処理した。
理由は言うまでもない。片割れの手の甲に、くっきりと令呪が刻まれていたからだ。故に俺はマスター殺しを完遂した」
「ああ。活躍はよく見てた。あの動きは鮮やかで、あんな状況じゃなかったら拍手してたところだった」
「そりゃどうも……だがその直後、俺は気付いたんだ。まだ生きている方のホムンクルスの手にも〝三画の令呪が〟刻まれていることに」
ゆっくりと座したまま最後まで話を聞こう……そう決めていた立香が、無意識に立ち上がる。
燕青を嘘つき呼ばわりするためではない。驚きのあまり、身体が勝手に反応してしまったのだ。
「しかも、それだけじゃない。片割れが死んだ瞬間……〝もう片方の手にまで三画分の令呪が刻まれた〟のを、しっかりと見た」
今度は両脚の力が抜け、逆に椅子へと強制的に腰掛ける羽目になった。
「つまり、奴らは〝どちらもマスター〟であり……そしてどちらかが死ねば〝使われなかった令呪〟が生き残った方へと移る。
俺は〝あの一対のホムンクルスのどちらかがマスターだ〟と認識していたが、それはとんでもない間違いだったというわけだ」
「なんて、こった……」
「そして令呪が刻まれる光景を間近で見た俺は硬直し、その隙を突かれたというわけだ。まったく、魔星の生まれ変わりが聞いて呆れる。
ちなみにこれは言い訳だが、屋根から蹴り落とされたときには、残ったマスターが令呪を使っていた。恐らくアーチャーを強化したんだろう」
「唐突に〝してやられた〟のは、それが理由か。ああ……納得いったよ、燕青」
両の肘掛けを力強く握り締めながら、立香は呟くように答えた。
だがそれ以上のリアクションは返せなかった。話の内容が、あまりにも衝撃的であったがためである。
『なるほど。ならばあの邪剣使いのセイバーが宝具を使う際に、豪勢に令呪を二画も使わせたことにも納得がいく。
あの少年少女ホムンクルスの両方が、それぞれマスター権を所有している……というのなら、単純計算で令呪は六画分。
加えて片方の生命活動が停止した際に、残った令呪が生き残った方に移されるとなれば、使用への忌避感も薄れるだろう』
一方でダ・ヴィンチは今までの敵の行動が理解出来たためか、静かだったのが嘘だったかのように饒舌になる。
といっても、その表情は不愉快そうではあるのだが。
「ちなみにだけども、アーチャーからの蹴りを受けたときには何画使われた?」
「一画だ。つまりセイバーのマスター達は四画、アーチャーのマスターは五画も残してるってことになる」
「そんでもってアヴェンジャーや、まだ知らないサーヴァント達のマスターは六画と……おいおい、インフレ漫画かよ」
『ぞっとするな……』
まったくもってその通りだ……と、立香は頷いた。
「……なぁ、ダ・ヴィンチちゃん、マシュ。例のメンゲレって奴は、ここまで出来るほどの技術持ちなのか?」
そして沸いて出た疑問を即座にぶつける。
ダ・ヴィンチは『うーん』と小さく唸ると『〝記録上では〟そこまでではない。ただの医者だからね』と答えた。
『だが、この粋まで至れる可能性など一切ない……などと断言するのは早計だ。それに……』
「それに?」
『仮にあの〝アーネンエルベ〟が何かしらの収穫を得ており、なおかつその収穫をメンゲレが手にしたとしたら、話は変わってくる』
「アーネンエルベ? 喫茶店か?」
『いや、そっちじゃない。先史時代や神話時代の北欧人種が世界を支配していた、という説を裏付けるために設立された機関の名だ。
彼らは研究に際し、科学的な視点のみならず魔術的な視点からもアプローチをかけていた。だから彼らが何らかの収穫を得ていれば……』
「医術と魔術を合体させて、凄いことが出来る様になっててもおかしくない……と」
『そういうことだ。あり得ない話ではない。だが南米での逃亡生活中にそんな暇があったかどうかは怪しいところだが……ね』
「おいおいダヴィンチちゃん、随分と歯切れが悪いじゃんか。どうした?」
立香の言葉に便乗するように、燕青も「おう、そうだそうだ」と茶々を入れるかのように声を上げる。
するとダ・ヴィンチは『頭の痛い話なんだが……相変わらずこちらでも、意見が割れているところなんだ』と溜息交じりに答えた。
『特異点で何を、という話だが……そもそもヨーゼフ・メンゲレは、1979年に死亡している。その特異点が1995年だから、十六年前だね』
『更に情報を付け加えますと、1992年に遺骨をDNA鑑定に出したところ、見事にメンゲレ本人のそれと一致しています』
「……そこらへんの無理ゲー部分を、聖杯で解決させたんじゃ?」
「いや、待てマスター……俺も今思い出したところだが、カルデアの連中は〝メンゲレが黒幕だ〟と断定しちゃいなかった」
「そ、そういえば確かに、言われてみれば……」
燕青から指摘を受けるまですっかり忘れていた。
カルデア側は〝ナチスドイツが関わっている〟と考えているだけで〝メンゲレが黒幕だ〟と断言してはいない。
むしろメンゲレありきで質問してしまったのは立香の方である。
『そもそも彼が大戦中に行った〝双子を使った人体実験〟は全て失敗に終わっている。医者としてはともかく、研究者としては〝ヤブ〟だ。
仮に潜伏中に、燕青を出し抜くほどの特殊なホムンクルスを製造出来るまでに成長したとしても、そのまま〝次〟に繋がるとは思えない。
それに黒幕は〝大統領〟だ。私は、メンゲレの意志を継いだ者か、ナチスに罪を被せて情報を攪乱させている別人が黒幕では、と思っている』
『運命づけられた死を乗り越え、潜伏中に腕を磨き、魔術の仕組みをも理解し、政治を学んで大統領というポストに就き、特異点までも作る。
更にそこに至るまでには、まずアーネンエルベが収穫を得ており、メンゲレの手に渡っていなくてはならない……まず前提が厳し過ぎるんです』
「ありとあらゆる運命を味方につけないと、そもそも黒幕になれる器じゃない……ってことか」
「それに潜伏なんていう〝人間不信に陥りそうなほどに気を張ってなきゃいけないようなこと〟を続けながら、となるとなぁ」
「こうなると、ホムンクルスの服装もフェイクに思えてきたな……」
頭痛を我慢するかのように額に手を当て、立香は「何を信じりゃいいんだよ、もう……」と呟く。
『責任は、断言出来ない内に中途半端な情報を晒したこちらにある。そうしょげないでくれ……代わりに、いいことを教えてやるから』
「……まさか」
『先程の対アーチャー戦を見た上でケツァル・コアトルの状態を把握した結果、アーチャーの真名が明らかになった』
「マジか!」
『ああ。これは黒幕問題と違って、安心して報告出来る。加えて、あのセイバーのときよりも確かだと断言しよう』
だがそうして嘆いている内に、喜ばしい報告が飛び込んで来た。
なんと、二度目の真名判明である。溜息交じりに嘆いている暇などない。しっかりと頭に刻みつけておかねば。
立香は「で、一体!?」と急かす。するとダ・ヴィンチはまず、
『〝アドニス〟だ』
と、短く答えた。そしてマシュに『では解説を頼もうかな』と話を振る。
立香は彼女が準備をしている間に〝アドニス〟なる人物に覚えがないかと考えたが、すぐに諦めた。
マシュの解説が、思いのほか早く始まったためである。
『アドニス。彼はギリシャ神話に名を連ねる人物です。母はキプロスの王女ミュラー、父はそのミュラーの父親です』
「ん? 父親が父親ってのは……えっと、祖父ってわけじゃなくて……あー、なるほどね。つまり……」
「近親相姦だねぇ」
『ですがその近親相姦を、ミュラーの父は望んでいませんでした。そうして父の怒りを買ってしまったミュラーは逃亡を強いられます。
終わりの見えない日々。それを哀れんだ神々は彼女を樹木に変え、逃亡の手助けをします。そしてその木から産まれたのがアドニスです。
そんな彼を見た美の女神アフロディーテは一目で恋に落ちましたが、冥界の神ハデスの妻である女神ペルセポネに、彼の養育を任せました』
ここまで聞いて、立香は「おっと、嫌な予感がするぞ」と呟いた。
『するとペルセポネまでもがアドニスに恋をしてしまいます』
「嫌な予感当たった!」
『やがてアドニスが美少年に育つと、大方の予想通り、二柱の女神は美しいアドニスを巡って喧嘩を始めてしまいます……。
そこで天界からの審判を仰ぐことになったわけですが、なんと天界はアドニスのスケジュールをきっちりと定めるという解決法に出ました。
一年の三分の一はアフロディーテと共に、また三分の一はペルセポネと共に、残る三分の一はアドニスが自由に過ごす、というものです。
こうして一応は秩序が生まれましたが、当のアドニスはあるとき趣味の狩りを楽しんでいると、巨大な猪に襲われて命を奪われてしまいました』
「かーらーのー安定の猪! いい加減にしろ!」
立香の脳裏に、とあるランサー達の顔がよぎる。
本人達の名誉のために、名前は伏せておくが。
『そしてアフロディーテが悲しみに暮れる中、アドニスの身体から流れる血からアネモネの花が咲き乱れたといいます』
「…………え? 終わり?」
『はい』
などと考えている内に、アドニスの物語は唐突に終わった。
女神の争いに巻き込まれた挙句、安定の猪で死亡……あまりにも悲運であると言わざるをえない。
『ちなみに、死因となった猪の正体は〝アフロディーテに嫉妬したペルセポネによってけしかけられたアレスだった〟という説もあります』
「聞きたくなかったそんな説」
だが話が短いおかげで、アドニスの宝具が持つ効果に当たりは付いた。要は、エウリュアレの逆バージョンだと考えればいいのである。
加えて二柱の女神を虜にしたという逸話まで持っているというのだから、神性を持つ者に対しては更なる効果を発揮するのだろう。
そしてケツァル・コアトルは神性がどうのこうのという以前に正真正銘の女神なので、相当なダメージを負った……というわけだ。
「困ったな……」
『そうですね……』
「ところでマスター。カルデアに猪のサーヴァントってのは」
「いない」
「よなぁ」
立香と燕青は、なおも意識を取り戻さないケツァル・コアトルを眺め、再び〝困った〟と溜息をついた。
「きらめくなーみーだはふふふ~ん♪」
誰もいないはずの寂しい町の一角から、小鳥のさえずりを思わせる可愛らしい鼻歌が聞こえてくる。
声の主は、紅色のドレスをまとう可憐な乙女だ。陶器のような白い肌に、くりっとした翡翠色の瞳が印象的である。
「かぜにのりーふ~ふふふふふ~ん♪」
優しい羽毛を思わせるふわふわな癖毛は腰まで伸び、陽の光を浴びて金色に輝いている。
女の好みが相当斜め上でない限り、世の男性は彼女を〝美しい〟と思うであろう。当然、全会一致でだ。
「つきあかりーふ~ふふふふふ~ふ~ふ~ん♪」
だが、そんな乙女の背後には……例によって男女一対の幼いホムンクルスが無表情で立っている。
何故なのか。答えは単純だ。この可憐な乙女の正体が、サーヴァントであるが故である。
「ふ~ふ~ん♪ ふ~ふふふ~ん♪」
「お待たせしました、バーサーカー」
「あっ、やっと来たぁ~」
そんな彼女の前に、一人の少年が現れた。
手の甲に令呪が刻まれていない、純粋に少年兵として生み出されたホムンクルスだ。
その彼にバーサーカーと呼ばれた乙女は、鼻歌を止めて「ねぇねぇ。斥候、終わったのぉ?」と訊ねた。
そして相手が「はい」と答えると、乙女改めバーサーカーは「うふふ、お疲れ様ぁ」と間延びした声で相手を労った。
「それじゃあ、案内お願いねぇ」
「はい」
「戦うのは手伝わなくていいから、始まったらすぐに逃げてね~? キャスターさんと大統領さんも、そう言ってたし~」
「はい」
斥候役のホムンクルスが歩き出すと、バーサーカーはコンクリートの地面に〝突き刺していた〟大剣を「よいしょっとぉ」と抜いた。
得物の長さは彼女自身の背丈を軽く超えているため、常人が見れば〝何故その細腕で持っていられるのか〟と疑問に思うことは必至であろう。
だが相も変わらずホムンクルス達は顔色一つ変えずに歩く。当然だが、バーサーカーも同じだ。自身の膂力に一切違和感を覚えていない。
「カルデアの虎さんかぁ。どんななのかなぁ。可愛いのかなぁ?」
大剣を手にバーサーカーが呑気な言葉を発する。
だがホムンクルス達も誰もいない町も、しんとしたままであった。
最終更新:2017年12月09日 01:07