「……んぅ」
目を、ゆっくりと開ける。
あれほど苦しかった身体は嘘みたいに軽くなっていた。
服は汗でぐっしょり濡れて気持ち悪いけど、だるさの欠片も残っちゃいない。
何がなんだかわからないまま、わたしは目を擦った。
ええと、わたしは、何をしてたんだっけ。どうなったんだっけ。
たしか、ひーちゃんを担いで逃げてきて。
ダ・ヴィンチちゃんと出会って、お話して。
それからすぐ、《かみさま》に襲われて――
「っ、ひーちゃん!」
わたしは事の次第を理解するなり跳ね起きる。
そうだ。わたしはあの時、神様に祟られた。
身体中がぶつぶつだらけになって、ものすごい熱が出て。
神様の中に飲み込まれる前、ダ・ヴィンチちゃんに託したんだ。
ひーちゃんをお願いと。もう、目を覚ますことはないだろうなと思っていた。
なのにこうして目が覚めた。それはつまり、誰かが助けてくれたということ。
ダ・ヴィンチちゃんはこっちに手を出すことは出来ない。
となると、そんなことが出来るのは一人しかいなくて。
あの子はどうなったのかと、心臓が騒ぎ始める。
「……りっか!!」
けれどそれは、結論から言うと杞憂だった。
むぎゅうと、わたしの真横から飛び付いてくる誰か。
ひーちゃんだ。彼女は涙さえ浮かべて、わたしが目を覚ましたことを喜んでいる。
「よかった、よかった!
からだはなんともない? できものはぜんぶきえてる?
ごめんね、ぼくがいながら、きみにあんなおもいをさせて――」
「う、うん。
だいじょうぶだよ、ひーちゃん。
……また、たすけてくれたんだよね?」
わたしの問いかけに、ひーちゃんじゃない声が答える。
『そうともさ。
その子は勇敢に戦って、あの恐ろしい疱瘡神を見事撃退した!
凄いものだったよ、キミにもぜひ見せてやりたかった。
神をも恐れぬとは、まさにその子のことだ』
「……うるさい。しずかにしてよ」
ひーちゃんを絶賛するダ・ヴィンチちゃん。
けれどひーちゃんの態度は冷たいものだった。
照れているとか、そういう風でもない。
純粋に嫌いな相手に対して取るような、そんな態度。
……仲悪いのかな、この二人。
出来れば、仲良くしてほしいんだけどな。
「たしかに、そこのやつがいうとおり。
きみをたすけたのは、ぼく……ってことになるとおもう。
でも、おれいをいいたいのはぼくのほうだよ、りっか」
「……? どうして? わたし、なにもしてないのに」
「きみは、ぼくをみすてないでくれた」
そんなの、当たり前だ。
だってひーちゃんは、わたしの大事な友達なんだから。
この悪い夢みたいな夜を一緒に進む、相棒みたいな存在。
そんなひーちゃんを見捨てて、一人で逃げられるわけがない。
そう伝えると、ひーちゃんはくすりと微笑んだ。
「わたしだけじゃたたかえないから、とはいわないんだね」
あ。
そういえば、それもある。
言われるまで、気付かなかったけど。
「うれしかったよ、とっても。
ぼくは――みすてられるのは、もういやだから」
ひーちゃんはそう言って、窓越しに遠くの方を見つめる。
そこにはなんとも言えない悲しげな、複雑な感情が灯っていた。
きっと此処に来る前に、いろいろ辛いことがあったんだろう。
ひーちゃんは強い。わたしなんかじゃ、足元にも及ばないくらい。
でも、この子もわたしと同じ、小さな子どもなんだ。
特別な存在なんかじゃ、ないんだ。
「……えへへ、どういたしまして。
でも、わたしのほうからもありがとうっていわせてね。
わたし、あのままじゃしんじゃうところだったよ」
「うん、かなりあぶなかったね。
そのかんしゃは、つつしんでうけとっておきます」
「あはは、なにそれっ」
笑い合う、わたしとひーちゃん。
わたしたちはあの家じゃなく、別な家の中にいた。
多分、あの神様のせいで前のところは壊れてしまったんだろう。
……思い出すだけでも、ゾッとする。
死んじゃうところだったというのは、大袈裟でもなんでもない。
ひーちゃんがいなかったら、わたしは本当に死んでいた。
この街にいたら、命がいくつあっても足りない。
改めてそう実感すると共に、早く此処を出たいという気持ちが強まっていく。
そんなわたしの心を見透かしたように、ダ・ヴィンチちゃんが口を開いた。
『さて、仲睦まじいところ悪いが、今後の話をしよう。
実のところ、キミ達が目指している場所には見当がついているんだ』
わたしたちの目指す場所。
この恐ろしい街から抜け出す、唯一の出口。
『――《伊佐貫トンネル》だね?』
「……! あたり……」
『そう驚かれるほどのことでもないよ。
此処についてある程度知っていれば、簡単に予想できる範疇だ』
せめて人間の街にさえ出られれば、後はどうとでもなる。
公衆電話、警察署、コンビニエンスストア。
最悪、タクシーの運転手さんに頼んだっていい。
家に帰るめどは一気に立つ。妖怪もお化けも、まさか人の街にまでこんな調子で出ては来ないだろうし。
そう思っていたのだけど。どうやら、わたしたちの考えはまだまだ甘かったらしい。
『安直に山越えで逃げるなんて方針を持ち出さなかったことは評価しよう。
キミ達の推測通り、山には此処と大差ない数の魑魅魍魎がうごめいている。
それ以前に体力的にも、子ども二人ではまず越えられない。中腹あたりで息詰まるのが精々だろうね。
だが……伊佐貫が辿り着けさえすれば容易に通れる希望の道かというと、そういうわけでもないんだよ。
あのトンネルの前には厄介なヤツがいる。人の子から魔縁に堕ちた、とんでもないろくでなしだ』
「ま、まえん? ど、どんなようかいなの?」
『月並みな言い方をすればだね。この如月で最強の妖怪だ』
端的に言って桁が違う。
ダ・ヴィンチちゃんは、呆れたように言う。
『仏教思想によれば、人は死んだ後六種の世界のどれかに転生するといわれている。
天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、そして地獄道。
しかし、この六道に含まれない魔界が存在してね。天狗道という、最もおぞましい世界だ』
ダ・ヴィンチちゃんの話は相変わらず難しい。
でも、言いたいことはなんとなく分かるからすごいと思う。
『諸説あるが、魔縁とは天狗道に堕ちた者の総称だ。
人を魔道に導く魔物。外法様。キミが昔話で読んだような、面白おかしい天狗とは全く違った連中さ』
確かに、天狗と言われても怖いイメージはあまりない。
不思議な扇子なんかを持った、長い鼻の妖怪。
山にいて、時々人を攫うけれど気まぐれに返してくれる、憎めないやつら。
そんな程度のイメージしか、わたしは彼らに対して持っていなかった。
でもダ・ヴィンチちゃんの話を聞くに、その認識は間違いらしい。
『伊佐貫を自分の神域にしたそいつは、その中でもいっとう凶悪な《大魔縁》。
人として生まれながら、余りにも強い怨みの念で死後に魔王となった存在。
サーヴァント・アヴェンジャー。神魔併せ持つ上皇の、魔の側面!』
ぎゅっと、わたしはひーちゃんの手を握った。
それは多分、わたしたちが越えなくちゃいけない最大の壁。
伊佐貫の前で待つ門番――如月の終わり。
『真名を崇徳院。首塚の彼や菅公と並ぶ、日本三大怨霊の一角だ。
八百万ですら関わり合いになろうとしない日本大魔縁陛下が、如月の孔を塞いでいる』
■
――そして。
これは、少女達の預かり知らぬ物語。
一つの神の顛末。流転の理に呑まれた狂神は、這いずるように如月の街を彷徨っていた。
疱瘡神。
ある者には善神と、ある者には悪神と呼ばれる流浪の神。
人を病ませ殺す者と恐れられながら、人を病から遠ざける者と崇められた二律背反的存在。
神とは信仰に左右される存在だ。人の想いは神を象る。人の想いは神を狂わせる。
その在り方がまったくの対極であるのならば、尚のこと。
神は自らの正しい姿を見失い、狂気のままに行動する祟り神へと成り果ててしまう。
これが元々、いかなる神であったのか。
その正確なところを知る者は、少なくともこの如月には存在しない。
永久に、彼が惑いの迷宮を抜けることはありえない。
何故なら彼は、見失ってしまったのだから。
自分の神体。自分の、神威というものを。
見失ったから酔いに溶けた。狂い、腐ってしまった。
おぞましき病みの化身へと、堕ちてしまった。
故にこれが救われることはない。
流転の清流によって神体のほとんどを喪失してもなお、これは病みの拡散のみを求めていた。
祟りを。
祟りを。
赤子の癇癪のように災厄を撒き散らす。
祟ることに、神への礼の有無すら関係ない。
視界に入ったから。
認識したから。
それだけで十二分だ。
破落戸よりも遥かに質の悪いその有り様、まさしく災禍の化身。
故に、報いの時は静かに訪れた。
いや。あるいはそれは、自分の真実をも見失った哀れな神に向けられた、八百万の慈悲なのか。
正しいところは、これまた分からない。
分からないが、神の行く手を阻む死神が現れたというのは、事実であった。
「▆▆▅▆▅▆▆▅▆▅▅▇▃▇▇▅」
それは、水面色の身体を持つ剣妖だった。
のたうつ神の前で、ひび割れた声を響かせながら。
彼は剣を振り上げる。その背後では、顔のない女が見守っていた。
疱瘡神の霊基が強く脈動する。
死を前にした獣のように浅ましく。
否、生きたいという渇望ですらない。
ただの反射だ。不徳な何かが迫っているから祟り殺そうという無感情な動作だ。
皮膚を突き出て伸びる膿の糸。
喰ろうてやるぞと、醜い水音を響かせて。
「▆▄▇▇▅▆ ▇▆▇▇▅▆▆▇」
そうして伸びた神の舌諸共に。
疱瘡神の神体は、剣妖の一閃で両断されていた。
美しい水面色に染まる傷口。
そこに灯った魔の波動が、神の狂気を蒸発させていく。
尊厳を保つ介錯の一閃が如く。
剣妖の一振りは、瞬く間に病の兆しを消し去った。
それから、彼は目を向ける。
続いて顔のない女が、その方向に身体を向けた。
如月の大孔。伊佐貫トンネルの方角であった。
最終更新:2018年01月22日 18:42