藤丸立香が安らぎの城と見立てた家が、痘だらけの皮膚に飲み込まれて崩れていく。
土砂災害もかくやの勢いで侵食する神の猛威から、
《ひーちゃん》は弾丸のように飛び跳ねることで逃れ出た。
その右手には、一度は四散したはずの水の槍。
アンカーのように電信柱の側面に切っ先を突き立て、体の座標を固定。
真っ直ぐに地面へと着地して、未だ縮む気配を見せない神を――怨敵を睥睨する。
『煩いと言われても、これが私の役目だからねえ。耳障りだろうが、語らせて貰うよ』
ダ・ヴィンチの声に少女は一切反応しない。
聞くことに何一つとして益などないと言わんばかりの頑なな態度だった。
そもそも、彼女のことを快く思っていないようにも見える。
ダ・ヴィンチが二の句を継ぐ前に、神の皮膚が不気味に脈打った。
《ひーちゃん》が標的でなかったのはあくまで先程までの話。
彼女の童女らしからぬ濃厚な殺意は、狂神に存在を改めて知覚させる。
獲物の傍に転がる石ころから祟り殺すべき不敬者へ、認識のランクを跳ね上げて。
『天然痘。キミも知ってるだろうが、人殺しがとにかく上手い疫病だ』
この病が奪った命の総数がどれほどかはとても数え切れない。
文明水準が現代に比べて著しく劣る時代から、この現在に至るまで、現実的な脅威として天然痘は人の傍にあり続けた。
治療法と対策法の確立された先進国ならばいざ知らず。
それらの整備が追い付いていない地域では、今も尚誰かの命を無慈悲に奪い去っている。
『自然のままにあるだけでも一騎当千だった病原菌が英霊の武器になったんだ、もはやあれに殺せないものなど存在しない。
まして相手は神。零落しているとはいえその神格は健在だ。凡百の英霊では、まず間違いなく敵わないだろう』
弾けた疱瘡から鏃のように膿が飛ぶ。
腐って黄緑がかった内容物は、それそのものが億単位の病原菌の塊だ。
天然痘ウイルス。
人命の簒奪者。
祟りの疱瘡。
直撃はおろか、掠っただけでも死に至る。
何しろ膿の原液だ。
あの痘の内部は地獄の釜にも等しい。
黙示録の騎士が如く。
不敬なる命を、成敗する。
『だがキミならば話は別だ。
キミほどの、恵まれた血を宿す者ならば!』
四方八方から、夥しいほどの腐汁が降り注ぐ。
質が悪いのは、その全てがあくまで液体であるということだ。
標的に近付いた瞬間、鏃の形を忘れたように弾け飛ぶ。
飛散した滴の一粒一粒が、当然致死。
合計して何千にもなろうかという死の膿を完全に避け切るのは、武の極致に達した者でもない限りは至難だろう。
「それは違う。恵まれてなんか、いない」
だが、《ひーちゃん》はそれを避けすらしない。
ただ、槍を一薙ぎしただけだ。
その瞬間地面から湧き出した水が彼女の周りにドーム状に展開され、全ての腐汁を防ぎ切る。
それどころか、湧き水の檻に染み込んだ膿は瞬く間に浄化されていき、程なく清らかな水檻の一部と成り果てた。
たった一滴でバケツ何杯分もの水を汚染できる、工場廃水の何百倍もの毒素が犇めく劇毒。
それをこのように無効化するなど、一体どれだけの聖水を用いれば可能な芸当なのか。
「ぼくは――」
檻を消せば、今度は吶喊。
防戦一方などくそ食らえだ。
こんな腐れ神は許しちゃおかない。
ぼくの友達を殺すというのなら、その前にお前から殺してやる。
そんな剣呑な意思が、彼女の一挙一動全てに宿っていた。
「ただの、出来損ないだ。
価値のない、命と呼ぶのもおこがましい肉塊だよ」
痘痕蠢く神の肉を抉る水槍。
ただただ理不尽な存在であった疱瘡神が明らかな苦悶を見せたのが、《ひーちゃん》にもダ・ヴィンチにも分かった。
効いている。落ちぶれているとはいえ八百万の一角である神格に、彼女の矛は届いている。
『……なるほど、相性か』
《ひーちゃん》の水は清浄の象徴だ。
絶え間なく流れ行く大海原の一風景を、そのままこの如月に切り出している。
この水が持つ特性は流転。何物も留まることを許さない性質の前では、特濃の天然痘ウイルスでさえ無力。
流れるままに毒が薄れ。流れるままに水と相成る。
疱瘡の祟りは水の祝福を貫通できない。
「おまえは流れ着いた存在だ」
《ひーちゃん》は目前の神をそう称する。
断固たる排斥の念を込めて、言い放つ。
「お母様にもお父様にも連ならない神威。
それなら容赦も呵責もいらないね、本当に助かるよ疱瘡神。
襲ってきたのが、おまえで良かった」
槍を握る手に力を込めて。
「心置きなく殺せる」
乾坤一擲、清浄の槍を遠投する。
鉄砲水と流星の間の子は、疱瘡神の巨体を無情無慈悲に貫いた。
どんな衝撃でも吸い込み、少々の痛手ならすぐに修復する皮膚の肉体に風穴が空いた。
呻き声。大気が軋むほどの悲鳴。噴き出す極彩色の鮮血が、この神が最早詰みかけであることを如実に物語っている。
「死ね」
とどめを刺す。
擲ったはずの槍を再度手元に創造して、今度は空中から、物理法則を全く無視した突撃を敢行。
槍を逆袈裟に構え、狙うのは一刀両断の水流斬撃だ。
疱瘡神をその体ごと両断して中の立香を引っ張り出し、その上で後腐れなく殺す。
その算段で仕掛けた《ひーちゃん》だったが――
『いやあ、実に見事。
……だが。過信はよくないな、《ひーちゃん》』
彼女は勝利を確信していた。
逆に言えば、油断していた。
疱瘡の神が毒さえ封じられれば何も出来ないと高を括っていた。
『勝ったと思った瞬間が、神に付け入られる一番の隙だ。
キミが一番よく知っているだろうに、そんなことは』
「……っ!?」
まるで蜘蛛の巣にでも掛かったように、《ひーちゃん》の全ての動作が停止する。
体がびくともしない。何かに、厳重に捕らえられている。
疱瘡神はそんな彼女を嗤うように、全身の痘痕を開かせて、傷の下の赤い肉を覗かせた。
そう、疱瘡神はまだ終わってなどいなかった。
詰んだ風に見せかけて、《ひーちゃん》が勝利の確信に気を緩める瞬間を待ち受けていたのだ。
体表面から糸を引かせた極細の腐汁を、その粘性に任せて蜘蛛の巣とした。
彼女が見誤ってしまうのも無理はない。その理由は二つ存在する。
一つは、蜘蛛の巣などと言いつつも、これは今しがたの数秒間で製作された代物であること。故に、読みが効かなかった。
もう一つは、純粋に腐糸が細すぎること。その細さたるや、なんとナノの領域だ。目視など、余程優れた目を持つ者でもない限り不可能である。
そしてこの時、疱瘡神の勝利条件が整った。
彼あるいは彼女にとって、己の皮膚は、己の膿は、己の体液は――その全てが捕食器官に他ならない。
藤丸立香を病ませながら己の内に取り込んでみせたように。
だが、それよりも遥かに速く、逃げようのない手段で。
今から疱瘡神は、《ひーちゃん》を喰らおうとしていた。
「くっ、この、はな、せ――ッ」
神性。
水の加護。
それにより毒素の影響は一切受けていない《ひーちゃん》だったが、直接の捕食となれば話は別だ。
神の牙に噛み潰されても五体を保てるほど、彼女の霊基は強くない。
詰ませたと信じた側が、一瞬にして詰まされた。
神の悪意が、そこにはあった。
――宝具、発動。
――有病猛災・御霊痘痕
これなるは対人捕食宝具。
平時は天然痘――疱瘡を撒き散らし拡散させる対民宝具だが、それだけが能ではない。
取り込んだ命を己を覆う疱瘡の一つに変える、八百万で最もおぞましき宝具。
敵が英霊であろうが人間であろうが、例外はない。
食われた魂は神の痘痕に生まれ変わる。
そして、神が人を殺すための動力源となるのだ。
哀れ、少女達の夜はこれで終わる。
ふたり揃って神に食われ、如月から生ける命は消え果てる。
なんと救われない結末。
なんと悪趣味な顛末。
されど敗れてしまったのなら、それも運命。
「……ああ、お母様。お父様」
そう、敗れてしまったのなら。
「不肖の娘があなた方の神器を穢す罪を、どうかお赦しください――」
敗れていないのなら、結末は変えられる。
指の一本も動かすことが出来なくても。
助けてくれる存在が誰一人としていなくても。
《ひーちゃん》は己の力だけで、この袋小路をぶち壊せる。
始まりの子どもである、彼女ならば。
「――押し流せ」
根の国まで。
愛しく、懐かしく、それでいて何より憎らしい母の膝下まで。
流れた末に安息を見るがいい。
この清流は、あまねく魂を下らせるもの。
「国産神産・天之瓊矛」
拘束されたままの《ひーちゃん》の眼前に出現した、槍。否、矛。
それはしかし、先程まで彼女が振るっていた無形の水矛とは全く違っていた。
玉で飾られた、見るも麗しき黄金の矛。
その威容を直視した瞬間、疱瘡神は一瞬だけ、全ての狂気を忘れ去った。
大いなる景色を見たからだ、その矛の背後に。
やがて運命に引き裂かれ、永遠に離別する双つの神の睦まじき姿を見た。
漂着者であれど、この日本におわす神。
故に知らない筈がない、その顔を。その神気を。
ああ。これはまさしく、全ての神の祖たる――
「さよなら」
狂気が神に戻るのを待たずに。
『……凄いな。これほどとは、正直思ってなかったぞ』
殺到した流転の理は、疱瘡神の総体の七割を消し飛ばした。
万能の人を自称する女が驚愕に苦笑したのも、詮無きことであろう。
最終更新:2018年01月19日 01:42