人は愛によって狂い、神は愛を生む。
◆
それはとても心地のよい目覚めだった。
ベッドから上体を起こし身体を伸ばすと、たちまち開放感が体内を駆け巡る。
昨夜は遅くまでシミュレーションによる訓練を行っていたせいか、身体は想像よりも疲れていたようだ。
まだ寝たり無いのか眠たい瞳を擦る。このまま二度寝をしたいが生憎そうもいかないのだ。
記憶が正しければ今日はカルデア全体ミーティングが行われる日だ。ダヴィンチちゃんの司会によりカルデアの状況を把握する内部打合せである。
特異点の観測は最早当たり前になっているが、他にも各職員のメンタルや業務状況の把握、サーヴァントを探る意味も込められている。
多くの聖杯が集うカルデア。思いたくも無いけど、目先の欲に囚われた英霊が反旗を翻す可能性もある……と、彼が言っていた。
そんなことよりも、重要なのは顔合わせだと思っている。そんなことで片付けてはいけないことも分かっている。
結果として僕は人里修復を成し遂げた魔術師となっているが、奇跡の積み上げによって生まれた夢のような話だと自覚している。
僕一人の力で成し遂げたなんて思っちゃいない。マシュが、ダヴィンチちゃんが、フォウくんが、サーヴァントが、カルデアの皆が――ロマンが居てくれたから。
共に戦う仲間が、傍で支えてくれる大切な存在が、帰る場所で皆が待っていたから僕は戦えた。
だから、そんな皆と一堂に介す時間が僕は大好きだ。この日常こそが僕の守る場所であり、家族でもある。
二度寝すれば確実に間に合わない。絶対に嫌だし、後で何を言われるか分かったもんじゃ無い。
このネタで僕はしばらく弄られ続けることになるだろう。特にカエサル、パラケルスス、シェイクスピア辺りはこれを機会に強気に出るだろう。
たまったもんじゃない。自分の想像ながら厭らしい笑顔を浮かべる彼らの姿が目に浮かぶ。
それならばクーフーリンやヘクトール、フィン辺りにネタにされる方が百倍マシだ。先輩風弄りならまだ耐えられる……と思う。
……幸せだと思う。僕は幸せ者だ。
他人からすればくだらないことだとも思われるかもしれない。でも、僕はこの日常を守りたい。
どんなに辛いことが起きても皆で乗り越えて、笑って、明日を迎える。こんな当たり前のことが僕は大好きだ。
手に入れたこの平和を守るためだったら、僕はなんだってしてやる。例えこの身が――なんて言うのはちょっとかっこつけすぎかもしれない。
「先輩? 中にいますか?」
少し強めに拳を握り決意の表し感を出していた僕を呼ぶ声が扉の向こうから届く。
マシュの声に僕は我に返り、一人で拳を握っているのが恥ずかしくなってしまった。朝から何をしているんだろう。
時計へ目を向けるとミーティング開始五分前。マシュは呼びに来てくれたのだろう。優しいなあ。
ちょっと待って! 扉越しに聞こえるように若干声を張り上げ僕は急いで洗面台へ向かう。
蛇口を捻り普段よりも勢いよく水を出して顔を洗おうとしたが、水が流れてこない。
不思議に思い蛇口を覗くように身体を横に倒すと、小さな泡のようにシャボン玉が飛び出す。
何故、蛇口からシャボン玉が飛び出すのか。有り得ない謎に対し僕はマシュを待たせている焦りからか、水を流すために更に蛇口を捻る。
するとどうなるか。蛇口を捻ったのだから水が飛び出し、普段よりも多く回していたため覗いていた僕の顔目掛け水流が放たれた。
「どうしましたか先輩!? せんぱ……い? な、なにをしているんですか……?」
水流に驚いた僕はそのまま床に倒れ、情けない大声を上げてしまったため、心配したマシュが部屋に入る。
真剣な表情で顔色は悪く、優しい彼女のことだから僕を本気で心配してくれたのだろう。
なんでもないよ、ははは……。なんて笑って見せたが顔から首に掛けて濡れた僕は端から見れば締まらない姿だ。
恥ずかしい。穴があったら入りたい。部屋に帰りたい。その部屋が此処であり、僕に逃げ場は無かった。
固まっていたマシュは呆気に取られていたが、肩の荷が下りたかのように優しい笑顔を僕に向ける。
原因を追及せずに放置してくれるのは有り難い。だけどその優しさが逆に辛い。情けない先輩で本当にすまない……。
優しく微笑むだけで口撃しないマシュはすたすたと歩き始め、タンスに折り畳んで収納されていたタオルを手に取った。
引き出しを元に戻すと僕の前までやって来てそのタオルを差し出した。今日はマシュが女神様のように見える。
「これで顔を拭いてください。濡れたままだと外へ行けませんから」
タオルを受け取ると布を挟みマシュが僕の掌を握る。
小さくて柔らかい掌から伝わる暖かさが濡れている僕を溶かす勢いで鼓動を加速させる。
マシュの突然の行動に僕は恥ずかしくなってしまい、大丈夫と短く聞こえないように呟くとタオルで顔を拭いた。
顔が赤くなっているのがバレたのだろうか。そんなことを気にしていると急に身体から力が抜ける。
自分の身体なのに、何が起きているかわからずに気付けば、ぼすっと柔らかい音が部屋に響く。
視界はタオルで覆われているため、過程は分からないが結果は分かる。僕はマシュに押し倒されベッドの上で仰向けになったのだ。
えええええええええええええええええええええええええええええ!?
突拍子も無く大声を上げたが、突拍子が無いのはマシュだ。
彼女が急に僕を押し倒した……と思う。誰かに押されたのだから、この部屋に居るのは僕とマシュだけ。
必然的に僕を押し倒したのはマシュになる。けれど視界はタオルによって塞がれたままであり、予想は予想でしかない。
「先輩の頬、赤に染まっていて可愛い……」
視界がひらけたかと思えば、更なる信じられない光景が僕を待っていた。
信じられないと言うのは語弊があるかもしれない。マシュが僕を押し倒したとすれば、彼女が上に居ることは何ら不思議では無い。
妖艶な空気を曝け出しつつ、マシュはタオルをベッドの端へ投げると左腕を僕の頬に当てる。
冷たい感触が頬を通じ感性を刺激するが、掌とは真逆に僕の身体が胸の奥から熱くなる。
「驚いちゃって……本当に可愛いんだから、もっと楽にしていいんですよ?」
しゅるるとネクタイを解く。
それが僕の胸の上に落下し、マシュは慣れた手付きで片腕でシャツのボタンを一つ外した。
僅かな隙間から見える鎖骨に対しなんとも言えない感情を抱く。僕の視線に気付いたのか更にボタンを外した。
「どうしたんですか固まっちゃって。自分に素直になりなさいよ」
マシュの右手が僕の脇を掴む。
感じたこともないような、身体の奥が凍るように全ての神経を持って行かれ、脳の処理が現実から距離を離される。
鳥肌が立ったかと錯覚するように、僕の全てがマシュに支配されるようだ。
彼女に何が起きたのか、そして僕がこれからどうなるかなんて検討も付かない。けれど、彼女はマシュなのだろうか。
「ふふ、我慢強いわね」
マシュの顔が近付いたかと思えば、耳元で甘く囁かれ、僕の身体は更に熱くなる。
考えたくても考えが追い付かず、やがて脳がその役割を全うせず放棄するように活動が鈍くなり。
「貴方のその身体……全てを私に委ねなさい。天上への快楽へと導いてあげる。だから貴方の愛を寄越しなさい」
限界だ。
右の掌が頬に添えられ、太股同士が接触し合い、胸には女性特有の柔らかさを押しつけられ、左の掌はそそり立つ何かを握っている。
足掻く必要など無い。苦しい、解放してくれ。僕はこのままだとどうにかなってしまいそうだ。
熱い、身体が熱い。求められているならば、それに応じ、胸の奥から溢れ出る感情を曝け出そう。
マシュの口から唾液が輝きを帯び、僕の口目掛け垂れ始める。
唾液に好印象など抱いたことは無かったけど、この時の僕は思ってしまったのだ。罠とも知れずに。
マシュの唾液を欲していたのだ。そして一滴の輝きを秘めた唾液が彼女の口から落ちた。
「フォウフォウフォウフォォォォォォウッ!!」
僕の顔に落ちたのはとてもふわふわで、もきゅもきゅで、鼻先をくすぐられるような毛先を持った唾液――いや、フォウくんだった。
フォウくんの顔面騎乗によって視界は塞がっているが、暴れているのか瞳や鼻が潰されるようで苦しく感じる。
だけど、僕は結果として冷静さを取り戻し、脳に掛かった曇り空に一筋の蒼が顔を覗かせる。
「キャスパリーグ……牙の抜け落ちた孤狼の分際で私の邪魔をするか」
お前はマシュじゃない……誰だ!
フォウくんの力によってマシュ――を騙る存在から解放された僕は叫ぶ。
ベッドから飛び退き距離はざっと見六歩の感覚。傍にフォウくんが近寄るも相手を相当警戒しているのか、常に身体が震えている。
ありがとう、助かったよ。言葉を投げ掛け相手の様子を伺っていると部屋に更なる侵入者が現れた。
「無事か、マスター!?」
赤き外套を纏った頼れる仲間――アーチャーが息を切らしながら駆け付ける。
到着早々にマシュを睨むと、険しい表情浮かべ腕に握るは剣。彼は一瞬で戦闘態勢へと移行していた。
「何者か……などと聞いたところで答える訳でも無いだろう?」
剣先をマシュへ向け、自己完結型の質問を投げた。
その問にマシュは口角を上げ彼女らしからぬ悪魔のような表情を浮かべ右腕を天へと掲げる。
「誰かと思えば英霊如きの存在、それも三流に相応しい守護者気取りか。
つまらぬ。元からカルデアに期待などしておらぬが……役者不足だ、消えろ」
「――ッ、逃げろマスター!」
アーチャーの言葉が耳に届いた時にはもう、遅かった。何もかもが手遅れだった。
右耳の横に突如現れたシャボン玉。数分前に蛇口から飛び出したあのシャボン玉と同じ物だ。
マシュが右掌を開き、心臓を握り潰すかのように力強く閉じた時、それに呼応しシャボン玉が破裂した。
パンという軽い音を鳴らし、その音こそが僕がカルデア内で聴く最後の音になってしまった。
身体が乗っ取られた所の話では無く、シャボン玉が破裂すると同時に意識が途絶えたのだ。
後にアーチャーから聞いた所、ばったりとその場で倒れ込み彼を心配させてしまったようだ。
マスターが倒れると同時にアーチャーは狭い室内の距離を一瞬で詰め、手に握る刃を振るう。
対するマシュはつまらぬと口を動かし、あろうことか日本の指で刃を挟み止めたのだ。アーチャーは刃を引き抜こうにも動く気配は無かった。
正面からの単純な力比べで相手が勝り、それも武器と素手だ。マシュの身体を支配する存在は明らかに格上だと認識すべき。
ならばと刃から手を離し跳ぶように後退し、壊れた幻想――ブロークン・ファンタズム。
宝具を爆発させる掟破りの常識知らずの手段により奇を衒う。投影魔術を扱うアーチャーだからこその芸当だ。
マスターの私室だろうとお構い無しに魔力を一瞬で注ぎ込むと、マシュが止める刃が光に包まれ、爆ぜる。
「この程度で私に傷を負わせるなど笑い話にも満たぬ」
ことは無い。
マシュは掌で刃を握り潰し、それだけだ。爆発も発生しなければ血も流れぬ。
最後に残るは赤きシャボン玉。人間の顔一つであろう大きさのソレがマシュの掌の上に漂う。
「人理の修復を成し遂げた貴様らを見に来たはいいものの、とんだ期待外れだな。ビースト如き数体を蹴散らした所で何をいい気になっている。
しかし――それでも尚、諦めぬ姿勢を見せ、奇跡という名の偶然を掴み取り、ぬか喜びをするのが貴様ら人間だったな。ならば今宵も私を楽しませてみせろ」
「何を一人でに……お前の言葉に耳を傾ける必要など――な、に……?」
「貴様如きの魔力では■である私を満足させることは出来ぬ。溺れるがいい」
部屋の中央に陣取った赤きシャボン玉がマシュの言葉の終わりを待たずに弾け飛ぶ。
その瞬間、シャボンの中から溢れ出るは水流。質量は部屋一帯を簡単に飲み込んでしまう程であり、アーチャーは為す術もなく水流に囚われた。
魔力――と呼ぶにも桁外れな濃さを持つ水流の影響かは不明であるが、アーチャーの身体が霊子となり崩れ始め、それはレイシフトと同様の現象だった。
「悔しいか? ならば追って一矢でも報いてみせろ。貴様如きでも救える生命があるかもしれぬ……私に辿り着く可能性があるかは貴様次第だがな」
そして水流がカルデアを飲み込み、全ての意識が水底へと沈む。
最終更新:2017年05月13日 11:42