「――宴の後というのはいつの時代も寂しいものね。
神が支配する世も、人が支配する世も。楽しい時間に永遠であって欲しいって願いは、どうやら普遍であるみたい」
深夜二時を回った天文台で、穏やかな女の声がした。
わざわざ顔を検めずとも絶世の美女であることが窺い知れる、上等な楽器で奏でたみたいな声だ。
故に当然、声の主は人外的ですらある美貌の持ち主だった。民族衣装に似た南国特有の装束を纏い、瞳は翡翠を思わす美しい綠色。
女性離れした背の高さも手伝って、俗な劣情すら掻き立てさせない、人間の枠を超えた魅力がその像からは醸し出されている。
「寂しいかどうかは別として、後半は否定しないわ。
あまり認めたくないけれど、此処で過ごした時間はそう悪くないものだったし。……一回とんでもないコトやらかしたのは置いといて」
そんな彼女と語らうもう一人の女もまた、美女という形容が陳腐に思えてくるほどの別嬪である。
東洋系の顔立ちと露出の多い召し物は本来噛み合う筈のない要素だが、いざ実際に彼女を前にして違和感を覚える者は絶無だろう。
器となった少女の元々良かった容姿に美しいものを入れたことで、ただでさえ可憐だった見た目が異次元の域にまで跳ね上がっている。
聖性と神々しさに溢れた女達であった。それもその筈だ。何故なら彼女達は――人類史にその名を刻まれた、正真正銘の神霊であるのだから。
「ああ、夏のあれデスネー? 今思い返しても愉快な馬鹿騒ぎでした、アレは!
流石のイシュタルちゃんもあの一件があった後は暫く借りてきた猫みたいになってましたっけ。
フフ、今思い出しても微笑ましくて表情筋がゆるゆるになりマース!!」
「う゛、うるさいわね! 置いとくって言ったでしょ、いちいち突っついてんじゃないわよこの馬鹿神!!」
善神ケツァル・コアトル。そして、金星神イシュタル。
いずれも並の英霊が束になっても敵わない、圧倒的な力を宿した神霊だ。
もはや語るまでもない常識ではあるが、神霊は原則、サーヴァントとして現界することの不可能な存在である。
それはカルデアの彼女達も例外ではない。つまりこの二柱の女神はカルデアにやってくるにあたり、霊基を英霊並のそれにまで劣化させることを余儀なくされているのだ。
そしてその上で尚、前述した桁違いの力を振り回す。並み居る魔獣や幻想種を薙ぎ払い、或いは撃ち抜いて、マスターである善良な少女の下に勝利の二文字を持ち帰ってくる。
紛うことなき、カルデアの最高戦力。神の気性を人間が制御するなどおこがましい話であるが、何も彼女達は、無理やりこの天文台に繋ぎ止められているわけではない。
自ら望んで召喚に応じた。カルデアのマスター、藤丸立香という少女を神の視点から買った上で、自ら進んでカルデアの地を踏んだ。
"その気になった"神は強い。何より頼もしい矛として、隣人として、魅入られた人間を未来へ導いてくれる。今回の場合、もちろん比喩でも何でもない形で。
「……ま、あんな騒ぎももう一回くらいならいいかなとは思ってたけどね。流石にそう妙ちくりんな事にはならないか」
彼女達だけではない。
藤丸立香の下には、あまりに多くの戦力が結集していた。
天下のブリテンから極東の島国に至るまで、人類史という宝箱をひっくり返したとしか思えないような数の英霊達を使役して。
あの善良な少女は折れることなく戦った。人理救済を成し遂げ、仕留め損ねた魔神柱を屠り、人理の破綻を阻止し続けた。
終わらない戦争というものは存在しない。敵がいなくなれば必然やって来るのは戦の終わりだ。
兵も、指揮官も、民も、誰もがそこから解放される。カルデアに集った者達にとっても、それは例外ではなかった。
彼女達のマスターであるところの藤丸立香は今、すっかり酔い潰れて眠りこけている。
カルデアのサーヴァント達と別れるにあたり、彼女自身の希望で開かれた"お別れ会"兼"お疲れ様会"。
カルデア総出で行われた盛大なパーティーの中、悪戯心を起こした酒呑童子に巧みな手腕で酒を飲まされたのである。
怒髪天を衝いた頼光に追い回されながらも妖艶に笑ってみせる姿たるや、イシュタルをして対抗意識を燃やしかけた程だ。恐るべし、極東の鬼種。
結局、カルデアらしいすっちゃかめっちゃかな形で終わったパーティー。宴が終われば現実がやって来る。
即ち、別れの時だ。少なくともこれから三日後までには、全てのサーヴァントがカルデアから退去する手筈になっている。
「貴女は、明日?」
「そうね。美しい女は去り時を見誤らないものよ。あの子が起きてくる前には帰っとくつもり。
わざわざお涙頂戴なやり取りをすることもないでしょ? 夏の一件以降舐められっぱなしだった気がするし、最後くらい、女神ってのは思い通りにならないものだって思い知らせてやらないと」
ふふ、とイタズラっぽく笑うイシュタルに、ケツァル・コアトルは「素直じゃないわね、アナタは」と苦笑しながらため息一つ。
――"帰る"。既にこの世から消えた存在であるサーヴァントにとって、その言葉は特別な意味を持つ。
マスターとの契約を終了し、英霊の座に帰る。戦いに勝利しようが敗北しようが、サーヴァントとマスターの行き着く結末は決まって離別だ。
カルデアより始まった救済神話においてもそこは変わらなかった。これは、ただそれだけの話。ありふれた別れの一景色である。
「それに、エレシュキガルなんか絶対帰る前に一騒ぎ起こすじゃない? それに巻き込まれてぐだぐだになるのもちょっとね」
「目に浮かびますネー。あの子は経緯が経緯ですもの、分からなくはないけれど」
この場にはいない、カルデアのもう一柱の神霊。冥界の女主人エレシュキガルの話題になると、二人とも表情は違えど呆れを織り交ぜる。
イシュタルとカラーリング以外は鏡に写したように同一の姿を持つ彼女だが、性分はイシュタルとは似ても似つかない。一言で言えば、乙女だ。
彼女を救うために立香がやってのけた聖夜の大立ち回りは記憶に新しい。あんなことをされては、それはもう好感度は偉いことになっていよう。
……何よりエレシュキガルが召喚されたのはつい最近のことなのだ。召喚されて間もないというのに、さあもう帰る時間だよと言われて、あのエレシュキガルが素直に受け入れるとは思えない。
尤も、それはきっと呼ばれたのがイシュタルだったとしても同じだったろうが、この世には言わない方がいいことというのもある。口は災いの元だ。
「――ねえ、ケツァル・コアトル」
そんな話をしていると、不意にイシュタルの声色が真剣なものに変わる。
それを感じ取るなり、ケツァル・コアトルも浮かべる笑みの質を変えた。
親愛と楽観の色を消して、女神らしい威厳と風格ある笑みを浮かべてみせる。
何かしら、と改めて問うことはしない。一から十まで口にしなければならない程、バビロニアの創世神話を共にした神々の縁は浅くない。
「これで終わりだと、本当にそう思う?
あの子達……立香とマシュが、そしてカルデアが向かい合うべき敵は全部いなくなったって――本気で思ってる?」
創世の母ティアマト。魔神王ゲーティア。時間神殿を逃げ延びた四柱の魔神。
話に聞いただけの存在を含めるならば、愛欲の獣なんてものも立ちはだかったと聞いている。
して、本当にそれだけか? めでたしめでたしで締め括られてくれるのか、この数奇な救済神話は?
イシュタルがそれについてどう思っているのかは、彼女のような女神がこんな話を切り出したという時点で容易に推測出来よう。
金星の女神はこう思っているのだ。自分達が消えた後、事を起こす何者かが……何者か"達"が存在するのではないかと。
もしもその奇襲に遭った時、立香達は、カルデアは、対処することが出来るのか。
サーヴァントを失ったマスター。戦う力のないマシュ。ダ・ヴィンチはもう暫くは残るのだろうが、彼女だって戦闘がメインの英霊ではない。
為す術もなく大きな力と大きな悪意の前に磨り潰される可能性は十二分に存在しよう。
そこがイシュタルにとって、唯一の懸念事項だった。
……かの英雄王が見たなら、「こんなことを考えている辺り、貴様もエレシュキガルのことを言えないくらい"絆されている"ではないか」と笑ったろうが。
「微妙なところね」
対するケツァル・コアトルの答えは何とも煮え切らない。そんな回答に反して、浮かべた笑顔は余裕に満ちたものであった。
自分は何も心配していない、とでも言いたげな表情に思わず怪訝な顔をするイシュタルだが、そんな彼女に善神は続ける。
「確かにあの子達は、悪意というものにまだまだ慣れていないわ。
支えになっていた英霊達が去った後、いきなりそういうモノがやって来たなら……遅れは取るかもしれない」
「だったら――」
「あら、イシュタルちゃんったらお忘れかしら? あの子達はいつだって、遅れを取るところから始まったのよ」
ケツァル・コアトル達と縁を結ぶ遥か前。全てが始まった日から、ずっと変わらない。
レフ・ライノールに不覚を取り、特異点はいつだって聖杯を手にした黒幕達の圧倒的優勢下で始まった。
ティアマトは無限に近い軍勢と莫大な神威を振り撒き、魔神王は魔術王の献身なくしては決して打ち倒せなかったろう。
いつだって崖っぷちからカルデアの物語は始まってきた。それでもなんだかんだ勝ってしまうのが、藤丸立香という人間の最大の強さなのだ。
「私達が必要になれば、またお呼びが掛かることもあるでしょう。縁は繋がれているのだから、困難ではあるでしょうけど、不可能ではありません。それに――」
「……それに?」
「いきなり不意打ち食らってリングアウトなんて間抜けな結末を許してくれなそうな御仁が一人、カルデアにはいマース!」
その顔はイシュタルの脳裏にもすぐ浮かんだ。
あの、どうにもいけ好かない男。知的なのはいいが人間的に色々と問題のある、ダ・ヴィンチと並んでカルデアのブレインを担っている名探偵。
確かにあの男がはいそうですねと退去するとは思い難い。こっそりとカルデアに残って、やって来る査問に備えるくらいはしていそうだ。
もしもその最中、或いはその後に何かあったとして、彼ならば少なくともやられっぱなしでは終わるまい。
何しろ相手は天下の名探偵。神ですら悪巧みの道具にする老獪な"教授"と肩を並べる、神の難問すら鼻で笑う知恵者なのだ。
もちろん万能の人、ダ・ヴィンチもいる。腹立たしいが、イシュタルも納得した。
これなら確かに即死はない。致命傷は負ったとしても、十分にそこから立て直せる。それだけの力が、カルデアには残るのだから。
「……はあ。らしくない心配なんかして損したわ。やっぱりあの子、"持ってる"わね」
加護を授ける側の神性としても認めざるを得ない。
藤丸立香は天に愛されている。そして、寵愛に足るだけのものを彼女自身が持ち合わせている。
事を構える敵としては堪ったものではないだろうが、そこは自業自得と諦めていただこう。
とにかく、これで懸念は消えた。そもそもこの危惧自体杞憂に終わるやもしれないが、仮に現実になったとしても、カルデアは簡単には潰れない。
それさえ分かれば後腐れの悪いものも残らない。安心して、余裕たっぷりにこの天文台を去れるというものだ。
「にしても、流石にこの私も寂しくなってしまいそうデース!
この気持ちを紛らわすためにも、最後にいっぺん私とルチャってみないかしら?」
「絶対御免よ。燕青なりレオニダスなり、あの辺のファイターっぽい奴にしてちょうだい」
「ンー! 分かってないデスネ、イシュタルちゃんは。同じ神性同士で戦ることに意味があるっていうのに」
「どんな意味よっ!?」
……本来相当に奔放で、他人を振り回してナンボの筈のイシュタルをして高確率でツッコミ役に回るのを余儀なくされる。
最早慣れ親しんだ光景であるが、彼女をよく知るギルガメッシュなどは今でも空から槍が降るのではないかと思うことが度々あるという。
そんなやり取りも今夜で見納め。そのことに改めて一抹の寂しさを感じる、ケツァル・コアトルなのであった。
「勿体ないなあイシュタル神。美女と美女が絡み合って繰り広げるキャットファイトなんて、現代のギーク達にしてみりゃ需要の塊だぜ?
刑部ちゃん辺りに頼んで一部始終を描き起こして貰えば、それだけであら不思議五百円玉のエビフ山が出来上がりさ。
まあ、コアトルの姐さんはちと責め役にしてもアグレッシブ過ぎるきらいはあるけどさ」
「捨てるプライドと得られる対価がまるで釣り合ってなーい!!」
口角泡を飛ばして突っ込みを入れるイシュタルと、微笑ましそうにそれを見つめるケツァル・コアトル。
そんな二人の様子はまるで姉妹か何かのようでもあったが、その団欒を楽しむことが出来たのはほんの数秒間でしかなかった。
二人の顔色が再び変わる。今度はどちらにも余裕なんてありはしない。驚愕と動揺が一瞬で駆け抜けて、次の瞬間には敵意に変わる。
全く気配を感知させることなく、当然のように割り込んできた見知らぬ誰かに対する――"神/英霊"としての敵意だ。
華やかな男だった。服装自体は特筆すべきものではないが、兎にも角にも造形が良い。
色素の薄い金髪は繊糸と呼ぶに相応しく、中性的な顔立ちは男としても女としても一級品以上の水準に達している。
瞳の黄は浜辺から眺める夕焼け、黄昏時を思わせるそれだ。どんなに貞操の硬い女でも、彼が甘く囁けばコロリと落ちてしまうに違いない。
二柱の女神をしてそう確信させるのだから誇張ということはあり得ない。
当代を生きる人間ということも、市井から世界にその名を刻んだ英霊ということもあり得ないだろうと、イシュタル達は全く同時に理解していた。
これは神の美貌だ。超越者として生き、超越者として世界から消えた存在。カルデアと交わることのなかった、何処かの神。
「あり、もうバレちゃった? 全開で諜報スキルを回して、なるだけ自然に紛れ込もうとしてみたんだけど」
「……女神を舐めて貰っちゃ困るわね。視界の隅でニコニコしてるだけならまだしも、わざわざゲスな声で喋ってくれたんだもの。
これで気付かないようなら、私は神核捨てて零落するわ。お分かりいただけた? ガワだけ立派な不法侵入者さん」
こりゃ手厳しい、と自分の頭を小突く"神"。
そのおどけた様子にも一切の油断を見せることなく、ケツァル・コアトルが口を開いた。
温和で陽気な彼女が放っている、冷たい敵意。
それはこの男が、ケツァル・コアトルほどの神性を以てしても油断ならぬ相手であるという何よりの証左だった。
少なくとも友好的な相手ではあり得ない。居場所を求めてカルデアに接触してきたとか、そういう手合いかもと考えるだけ時間の無駄だ。
これにそういう救いらしいものはない。善神と金星神、それぞれの神核がそう告げている。警鐘を鳴らしている。
「アナタ、何処の悪神かしら? 随分育ちがよろしくないみたいだけれど」
「……分かっちゃいたが、流石にこのレベルの神に猿芝居は通じないか。
オーケーオーケー、これ以上はオレの風格を下げるだけと見た。読者の皆々様に舐められる前に、大ボスらしいとこ見せてくとしますか」
ニヤニヤと笑いながらよく分からないことを宣う"神"に、苛立った様子でイシュタルが弓を向ける。
何か一つでも怪しい挙動を見せたなら、即座にブチ抜く算段だ。後始末だとか、そんな小さなことは言ってられない。
これを野放しにしておくよりかはずっとマシな有様なんだから我慢しろと胸を張って言える自信がイシュタルにはあった。
そんな彼女達の心中を知ってか知らないでか、或いは知った上で気にしていないのか。
兎に角触れる様子もなく、"神"はケツァル・コアトルの問いに応じる。一切のぼかしを取り払った、自らの真名というアンサーで。
「オレは閉ざす者。それでいて終わらせる者。
神の敵たる巨人の血を引いて神に取り入り、当たり前のように裏切ってやった大悪党」
「――まさか」
「そのまさかさ。北欧神話にこの人ありと恐れられしトリックスター、ロキとはこのオレ様のことよ」
「ロキ……成る程ね、納得したわ。そりゃろくでなしのわけよ」
ロキ。
その名はイシュタルよりも、下手をすれば主神であるケツァル・コアトルよりも広く知れ渡っている。
言わずもがな、悪名の方で。北欧神話最悪の悪神にして、神々の時代を終わらせた大戦犯。
トリックスターという言葉は彼のためにあるのではないかと言うほど、単語の意味を地で行く神性。
そんな大物が、よもやこのタイミングでカルデアに乗り込んでくるなど――予想しろという方が無理な話だ。
「座のシステム上そうってるだけとはいえ、こんな別嬪さんに認知して貰えてるってのは男冥利に尽きるね。
正直なところ股座に悪いよ。今すぐ組み倒して熱い夜を過ごしてやりたい衝動と、こう視えて結構真剣に戦ってる」
「戯言はいいわ、吐きなさいよロキ。あんたは一体何をしに、こんな場所まで遠路遥々やって来たのかしら」
「そう脅かさなくたって教えたげるよ。オレは紳士なんでね、なるだけ任意同行に留めたいと思ってたんだ」
任意同行。その単語だけで、イシュタル達の最も知りたかった事柄の説明としては事足りる。
「端的に言うと、キミ達には藤丸立香を誘き出すための釣り餌になって貰いたいんだよね。
直接拉致ってもいいっちゃいいんだが、後の調整が面倒なんだよ。難易度調整的な意味で。
だから、出来れば婉曲な手を使いたいんだ。その方が色々都合がいい」
「……それで私達を人質に選んだ、と。オー、これは参りまシタ!!」
天を仰いで大笑するケツァル・コアトル。彼女は遠慮なく、大きな音を立てて隣の金星神の肩を叩いた。
イシュタルもまた、一本取られたとでもいうように笑っている。向日葵のように美しく、可憐な笑顔が二つ並んでいた。
「聞きました? イシュタル! この坊や、私達二柱をマスターを誘き寄せる人質にするんですって!!」
「くくっ……! 聞こえなかったとシラを切るには、ちょっと愉快が過ぎるわね……!
並み居る英霊の中からわざわざ私達を選んで、分断すらせずに声をかけて。おまけに自分の魂胆を偽りなく全部吐いてしまうなんて!!」
花咲くような笑顔と、それを見つめるロキの乾いた笑顔。
笑顔だけがある空間には、一瞬ながら確かに暖かな空気が流れた。
だがしかし。それが絶対零度の冷たさに変化するのもまた、一瞬の出来事。
「――舐められたものね。腸を引き出しても飽き足らない侮辱だわ」
「ええ、本当に。少しばかり、引退沙汰に片足突っ込んだ容態になって貰わないといけないみたいデース」
神を侮った者の末路はいつだって一つだ。
それは人であれ、神であれ、何も変わらない。
善神とされるケツァル・コアトルも、善とは程遠い気性の持ち主であるイシュタルも。
これほど舐めきった侮辱に晒されて、笑顔で聞き流せるほど矜持のない神格ではなかった。
それを抜きにしても、明らかに捨て置けばカルデアに――藤丸立香に害を成すであろうこの悪神を逃す道理はない。
「うん? これは――フラレてしまった、ってことでいいのかな」
「ええ、残念ながらアナタのラブコールには応えられません。
でも安心なさい? その何処ぞの蜘蛛ヤローを思わせる腐りきった性根、私達で矯正して、座に叩き返してあげマース!!」
そもそもケツァル・コアトルには、トリックスターと呼ばれるような性根の持ち主に対していい印象が全くない。
彼女の宿敵にして、善神の対極を行く邪神。黒き太陽と称される毒蜘蛛もまた、ロキと同じ称号で呼称される存在であった。
だからこそケツァル・コアトルに関して言えば、ロキがどんな立ち位置でこの場に現れたのだとしても、どの道いけ好かない奴という判定を下すのは必定だったのである。
その上で、こうして敵対することになったのだから都合がいい。きちんと叩きのめして、立香に危害が及ぶ前にお帰りいただくとしよう。
弓を構え、瞳を黄金色に煌めかせるイシュタル。今にも地面を蹴り、ロキを叩き伏せんとしているケツァル・コアトル。
双方を交互に一瞥ずつして、ロキは心底億劫そうに嘆息した。こんなことをしてる暇はないんだけどな、とでも言いたげな面であった。
「じゃあしょうがないな。平和を願うオレの心は無碍に踏み躙られたわけだ。
こうなると、後は血で血を洗う戦いしかない。……まあ、流れるのは君ら二人の血なんだが」
ほざけ、と。吠える代わりにイシュタルが矢を放った。ケツァル・コアトルが地を蹴り、イシュタルの矢とでロキを挟むように打撃を繰り出す。
女神と女神の本気の攻撃による、世にも豪勢なサンドイッチの出来上がりだ。もしも直撃しようものなら、並の英霊であれば粉微塵となる威力。
ロキはそれに反応すら出来ていない様子だった。速い、と口が動くのを、確かにケツァル・コアトルは見ていた。
故に二柱は確信する。取った、と。それを以ってロキもまた確信する。――取った、と。
血飛沫のあがる音。骨が砕ける音。その代わりに響いたのは、ぱぁん、という何とも間の抜けた音であった。
既存の概念には例えようもない奇妙奇怪な音に驚いている余裕はしかしない。それ以上の驚くべき事象が、二柱の女神の前に顕現していた。
必殺の腹積もりで放った女神達の攻撃を、ロキは両の手で受け止めていたのだ。
イシュタルの矢を指の二本で掴み取り、ケツァル・コアトルの打撃を子供と戯れるように手のひらで止めている。
危機を悟って後退するケツァル・コアトルの口が「あり得ない」と小さく動くのを、イシュタルは見逃さなかった。ロキも、見逃さなかった。
「不可解かな。自慢の神体で放った攻撃が、神秘の度合いのそう変わらないだろう相手に軽々止められるってのは」
「――宝具……いや。"権能"かしら」
「ご名答。流石に直撃してやる義理もないんでね、自前の権能で躱させて貰ったよ」
権能――それはサーヴァントが持つ固有のスキルとは似て非なる力。
通常のスキルは"このような理屈でこういう事が出来る"というものだが、権能は"ただ、そうする権利があるのでそうする"だけのもの。
要するに、人智どころか真っ当な英霊の枠組みからも外れた超越者にだけ許された理不尽の極致。それを指して魔術の世界では権能と呼ぶ。
イシュタルやケツァル・コアトル、此処にはいないエレシュキガルも、皆等しく神としての権能を所持している。
そしてそれは、このロキも例外ではなかった。予想出来た話ではあるが、よもや防御型の権能だとは。
「……道化の神と呼ばれるだけはあるわね。そうやって躱して、いなして、おちょくり回すのがアナタの権能ってわけ」
「まあ、間違っちゃいない。この上なくオレらしい力であるってところに関しては否定しないよ。
ただ、躱して逃げるだけの力と言われると少々語弊があるね。詳しく話せば長くなるんだが、そうだな。オレの権能は――」
最後まで聞いてやる理由など、どこにも存在しない。
まして相手は悪名高きトリックスター。語らせれば語らせるほど、息をさせればさせるほど事態を悪化させる悪神だ。
ほんの僅かでも全貌を明かさせないままに仕留め、英霊の座に叩き返してカルデアを護る。
二柱の女神の考えは完全に同一のものであった。先程の初撃とは比べ物にならない威力をお互い込めて、再び挟撃に打って出る。
また躱すというのならそれでもいい。躱せないようにケツァル・コアトルが追い詰めて、どう足掻いても回避不能となったところでイシュタルが撃ち抜いてやるまでのことだ。
そう考えて動いた彼女達だったが――しかし。この時ばかりは、それは悪手だったと言わざるを得ない。
ロキが自ら言ったように、彼の権能は回避なんてありふれたものでは納まらないのだ。圧倒的な理不尽。徹底的な異端。この世のあらゆる神を嘲笑いながら転倒死させる、凝集した悪意の如き権能。
「――"無敵"。オレはさ、絶対に負けないんだ」
ニヤァ、と、悪魔のようにロキは嗤って。
「イエスだろうが、仏陀だろうが、アッラーだろうが、オーディンだって。誰にもオレは殺せない」
傲岸不遜に過ぎる決め台詞を吐き出した。
無論、こんなものはただの世迷い言。実力を過信した間抜けの戯言と切り捨てることは簡単である。
しかしイシュタル達には、それを下らないと切って捨てることが出来ない。
彼女達は身を以って知っているからだ――少なくとも、この神は口先だけの演出家ではないのだと。
伊達や酔狂で女神の挟撃を止められて堪るものか。まして片や戦神、片や主神。決して戦闘能力に悖る神性ではないというのに。
「藤丸立香はオレを召喚すれば良かったのにね。まあ、魔神王の堅物はオレには声を掛けなかったんだ。縁を結ぶもクソもなかったのは確かだが。
オレならば第一から第五まで一瞬で片して、第六で円卓騎士を踏み躙り、ティアマトをブチ犯してラフム共に土下座だってさせられたぜ。
モリアーティを欺いて、シェヘラザードを殴りつけ、剣豪共を鎧袖一触。アビゲイルを八つ裂きにして肥溜めに叩き落としたさ」
「…………」
「後はそうだね。オレだったなら、あんな無様は晒さなかったかな」
ペラペラと並べ立てた言葉には重みというものが一切存在しない。まさに道化の謳い文句であるとイシュタルは感じた。
要するに、これの口にする言葉は蝿の羽音と同じなのだ。耳を傾けるだけ無駄。鬱陶しいな、くらいの感覚で振り払うのが利口。
本気で構えたところでこの悪神は、そう怒るなよと悪意満点に微笑んでおちょくるだけなのだから。
「魔術王ソロモン! 人理を燃やす魔神を生み出した元凶が、よくもまあぬけぬけとお涙頂戴の三文芝居をやれたもんだよ!!
恥知らずにも程がある、オレは思わず爆笑してしまったね! 無様が過ぎるわロマニ・アーキマン!! お前、それで恥ずかしくないのかよと――」
だからこそ、ロキは躊躇なくそれを踏んづけることが出来るのだ。
カルデアのマスターとその相棒、そして彼らをずっと支えてきた万能の天才。天才の下で働く職員の一人ひとりに至るまで。
誰もが脳裏に刻んだある男の生き様を。人理救済を成した時間神殿での戦いに於いて、ただ一人だけ未帰還者が存在することの意味を。
ロマニ・アーキマン/魔術王ソロモンが打った、この世で最も恐ろしい/気高い選択を。
部外者として、観劇者として、好き勝手に嘲り笑い貶めることが出来る。
あいつは馬鹿だ、あいつは滑稽だ、オレならもっと上手くやれた。
眺める者の視点からあり得もしないイフの可能性を論じ、役者の価値をゴミと断ずる舞台そのものへの侮辱。
かつてマシュと立香の逆鱗に触れた語り部の物言いと比較することすら躊躇われる、純度百パーセントの"悪意"。
「悪いけれど、そこまでよロキ。そこから先を口にすることは、あの子のサーヴァントとして――
かの王の選択を知る者、あの神殿に立った者の一人として看過出来ません。少なくとも、この天文台でそれを言うのは許されない」
幸いにして、この場には藤丸立香もマシュ・キリエライトもいない。
トリックスターの悪意を受け止めたのは強き女神達のみ。だが、それでも許せはしないとケツァル・コアトルはロキの言葉を遮った。
此処は、今や英霊の座にすら存在しないかの王が最後に生きた場所。
このカルデアにおいて、消え去った"彼"を貶める権利は誰にもない。
それを踏み荒らさせないのもまた、"彼"の選択を見届けた少年のサーヴァントとしての役目である。
「やる気なのね? ケツァル・コアトル」
「ダ・ヴィンチや職員の皆には、迷惑を掛けてしまうけどね。
でも、この悪神をマスター達に接触させるリスクを鑑みれば順当な選択肢だと思わない?」
「全く、アナタって奴は」
ふ、とイシュタルは呆れたように息を吐いて。
黄金色に輝く宝石のような瞳を、好戦的に見開き笑う。
「――全くもって同感よ。カルデア最後の大仕事と行きましょう!!」
「オーケイデース! 私のウルティモ・トペ・パターダ……『炎、神をも灼き尽くせ』で、キザな化けの皮を剥がしてやるネー!!」
女神達が本気を出すということはつまり、周囲への影響は一切考慮出来ないということを意味する。
サーヴァントの規格にまで劣化させられても尚、その力は近代兵器が可愛く思えるような次元にあるのだから。
当然カルデアの一区画程度は容易く吹き飛び、復旧作業で職員や他のサーヴァントの手を煩わせてしまうことになるだろう。
数日中にはやって来るという査問官達からの追及も免れまい。だが、それを加味してもロキは放置出来ない。
此処で何としても消し去らなければ、必ずや大変な厄災を齎す。それが分かるからこそ女神達は躊躇わない。
この神は倒す。此処から先には進ませないし、逃げることも許さない。
神々の黄昏を起こせたのはまぐれ当たりであり、お前は所詮一発屋なのだと教え込んでやらねばならない。
「寒いねえ」
軽薄な笑みを消すことなく、ポケットに両手を突っ込んだままの丸腰で佇むは自称無敵のトリックスター。
イシュタルとケツァル・コアトルは間違いなく本気だ。数秒後には、今見えている景色の八割方は変わり果てた姿を晒すことになろう。
ではロキは、それすらも分からない間抜けであるというのか。答えは無論、否である。
彼のそれは油断でも慢心でもない。自分は此処では死なないという眼前たる事実を正しく認識しているからこそ不動なのだ。
「だがまあ、仕方ない。担いで運ぶにはちと骨の折れるじゃじゃ馬のようだし。ひとつ、戦闘不能程度にはなって貰おうか」
善神の炎と金星神の魔力光が、人工の太陽を思わせる規格外の眩さで煌めき出す。
光の全ては黄昏を止めるため。全ての神を激怒させたろくでなし、下劣畜生のロキを滅ぼすため。
相手が神霊でなければオーバーキルにも程がある火力が、非戦場である筈の天文台に吹き荒れる。
美麗な金髪を巻き起こる暴風に揺らしながら、なおも優雅に佇み、不動のままでロキは口を開いた。
「『踊り狂う――」
◆
「ちょっと、時間掛けすぎですよう団長。
四終の堅物に睨まれたらダルいんですから、仕事はちゃちゃっと済ませてくれないと~」
「いやあ、すまないねキャスター。オレも出来れば一撃で終わらせたかったんだが、流石に霊格が高いとしぶとくてさ」
地に臥せった女神達には目もくれず、ロキは両手を合わせて謝意を示していた。
相手は、いかにも"魔女"といった三角帽子を被った紫髪の少女であった。
片手に持っている杖の存在もあって、おとぎ話の世界から抜け出してきたようにも見える。
……その両眼に宿る、隠し切れない性根の悪さ。ロキのそれにもよく似た悪意の光を除けば、だが。
(ッ、何が――起きた、の……!)
這い蹲り、指先すら動かせないようなダメージを抱えながらも意識を保っていたケツァル・コアトルは、そんな彼らを睥睨して自問する。
イシュタルは完全に意識を失っているらしい。ロキの方はといえば、傷一つ負っていない。
あり得ない。驕りだとか、そういう次元の話ではないのだ。
自分達二柱を同時に相手取り、傷跡一つ付くことなく、悠々と勝利を掴み取るなど。
それに、ケツァル・コアトルが疑問視するのは戦いの結果だけではない。
その過程だ。今の戦いは、明らかに異様だった。異形と呼んでも、誤りではない程に。
あれは戦いですらなかった。
戦っているのは、自分達だけだった。
ロキがしたことといえば――なんだ?
あの悪神は一体何をしていた?
何を使って、自分達と向き合っていた?
それすら判然としないのだ。今の戦いには、何もなかった。まるで空間と独り相撲を取ったような気分であった。
ただ一つ独り相撲ではあり得ないのは。相撲を取っていた側の自分達は、いつの間にか敗れ去っていたということだけ。
「言ったろうケツァル・コアトル。オレは無敵だ、誰もオレには敵わない。そういう風になってるんだよ」
三日月状に口角を吊り上げて、ロキは敗者を嘲り笑う。
その姿に血管が焼き切れそうなほどの憤怒が沸き起こるが、体は動かない。
隣で笑うは魔女。そして、彼らの背後の壁には虹色の渦が回転していた。
あれは門だ。神としての叡智が、即座にそれを悟らせる。
此処ではない彼方の異界に入ったものを導く門。あの向こうから、この悪神共はやって来たのだろう。
その手段でなら確かに、カルデアのセキュリティなどあってないようなものだ。
「オレこそはお前達が望んだ通りの全知全能。森羅万象遍く願いを叶える鏡面の王。
だからオレに勝つとか相打つとか、その考え自体がまず愚かしいのさ。オレはただ、勝者たれという願いを叶えてやるだけでいい」
願われれば、それを叶える。
その理屈で動く概念を、ケツァル・コアトルは一つしか知らない。
――聖杯。一つの時代を変革し、人理を終わらせるほどの力を持つ万能の願望器。
それに等しい存在だというのか、このロキという神は。ケツァル・コアトルの目が、更に鋭く細められる。
自分達が敗れた以上、不甲斐ないことだが、藤丸立香が巻き込まれることは必定となってしまった。
ならばせめて、もしも今後彼と再会することがあった時に――この憎たらしい神に一泡吹かせられる、断片でも握っておかなくては。
そう考えて頭を回す。無敵などあり得ない、全知全能の逸話など道化の神ロキには存在しない。
何か。何か、トリックがある筈。ロキを無敵たらしめる何かが……と。
「……臭いな。血と、臓物の臭いがする」
必死に頭を回すケツァル・コアトルの全思考を停滞させる、男の声がした。
「驚いた。来たのか、ライダー」
「お前らあんまり遅えもんだからな……だが、ああ、そうだなクソ野郎。
失敗だった。失敗だった。こんな場所に来るんじゃなかったよ。臭くて堪らん――此処は、臭う……!!」
白髪をオールバックにした、褐色肌の青年が渦の向こうから姿を現したのだ。
陰鬱げな顔に嫌悪の色を貼り付け、くんくんとカルデアの臭いを嗅いでは不快そうに眉を顰めている。
潔癖症なのであろう、それも極度の。拒否反応とでも言わんばかりに指先で首をガリガリ掻いている姿は病的ですらある。
「神の臭いだ。生贄の臭いだ。醜く無価値で穢くて、とことんまで救いようのない腐臭で鼻が曲がりそうだよ。
クソ野郎はともかくとして、キャスター……お前よくこんな場所で平然としてられるな」
「むしろ結構いい匂いするような? いいなーいいなー、私も召喚されたかったなーカルデア。マスターとイチャイチャしたかったなー!!」
「直ぐ側に臭いの根源が二匹も転がってるってのに……おい、早く片付けろ。
"それ"見てると……せっかくのマリンチェの手料理、吐いちまいそうだ……吐いたらお前ら全員殺す……」
その声を、その面影を。
ケツァル・コアトルは知っている。
直接対面したことはなくとも、知っているのだ。
彼女が忌み嫌う蜘蛛に対して向ける感情すら軽く思えるほどの憎悪が沸騰する。
ああ、そう――居たのね、お前。
びり、とケツァル・コアトルは何かが裂けるような音を聞いた。
それが、限界を超えて駆動しようとしたことで筋肉が自壊した音だということを、ついぞ彼女は知り得ない。
「■■■■――――――――――――ッッッッ!!」
――喉と肉を引き裂きながらの咆哮と共に、怒れる善神は■の■たる悪鬼へと全力で以って吶喊した。
◆
「うぅ~……ひっく。
なんでもう帰らなきゃいけないのよぉ……えぐ。
私、まだ来てから一週間も経ってないのにぃ……うぇっぷ、ぐすぅ」
「分かった、分かったって。災難だったなあ、だからそう泣くなよ」
夜も深まったカルデアの廊下に、男女の声が響いている。
声の主はいずれも英霊。片方に至っては、所謂"女神系"の大物サーヴァントだ。
……見る影もなく悪酔いして泣きじゃくりながら、傍らの侠客に慰められている姿からはまるで想像出来ないだろうが。
ランサー、エレシュキガル。アサシン、燕青。藤丸立香の下に召喚された彼女達もまた、近くマスターとの別れの時を迎えようとしていた。
エレシュキガルは元々かなり残念な一面を持つ人物であったが、されど女神は女神。
本心はどうあれ、外面は上手く取り繕ったままカルデアを去れる――その筈であったのだが。
酒呑童子の悪戯が引き起こした騒動でてんやわんやしている中、興味本位でエレシュキガルが、テーブルの上にあった鬼の酒……神便鬼毒酒に口を付けたのである。
坂田金時から聞いた話によると神性を強化する効き目もあるという、この酒。
かつてイシュタルの魔像がそうであったように、エレシュキガルもただでさえ高い力が更に増す好影響を受けて終わりの筈だった。
しかしながら、だ。端的に述べると、彼女は神でありながら超の付く泣き上戸だったのである。
本人すらそれを自覚していなかったからさあ大変。泥酔したマスターとは別なベクトルでこちらもとんでもないことになってしまった。
見兼ねたダ・ヴィンチが、たまたま近くにいた燕青に声をかけ、彼女を酔い覚ましの散歩にでも連れて行ってほしいと依頼した。そういう経緯を経て、今この時に至る。
「ダ・ヴィンチの大将も人が悪い。俺よりもロビンフッドだとか、あの辺りの方がこういうのには向いてるだろうに」
燕青の生前の主は万人が見れば万人が認めるほどのろくでなしであったが、流石に泣き上戸ではなかった。
侠客として、従者として酔っ払いの介抱は何度か経験したものの、こういうのはあまり覚えがないというのが正直なところであった。
何しろあの頃は、男も女も揃って酒に強かった。こういう風に酔い潰れる奴自体、そうそういないような環境だったのだ。
「私帰らないわよぉ……まだ水着の私も実装されてないし、バレンタインチョコだって作ってないのにぃ……。運営の馬鹿……ぐす」
「おっと、それ以上は第四の壁を超えちまう。ストップだぞー、エレシュキガルの嬢ちゃん」
べしべしとエレシュキガルの頭を叩きつつ、散歩を続ける燕青。
疲れの混ざった呼気を吐き出して、泣きじゃくる酔っ払い女神を見ると――否応なく実感させられる。
カルデアに己が呼び出されてから、およそ一年間。マスターと共に戦ってきた日々も、どうやらいよいよ終わるらしい。
自分は人理が修復されてから呼ばれたいわば後発組だ。ずっと一緒に旅してきた英霊にはその点及ばないものもあろうが、されど、感じるものがないといえば嘘になる。
少なくとも、此処で過ごした時間は有意義だった。二度目の生と呼ぶには短すぎる時間だったが、楽しい日々だった。
「……ま、此処から先はマスター自身の人生だ。恋するもよし、遊び呆けるもよし。俺ら年寄りは、けったいな座から見ててやるよ」
くっつくならマシュ嬢以外にはないと思うけどな、と付け足して、更に一歩を踏み出さんとした――その時だ。
――ゴォォォォォォン!!! という、耳を劈くような爆音がカルデアに響き渡ったのは。
「ッ――燕青!!」
エレシュキガルも、この状況で尚酔っ払っているほどだらけた人物ではない。
状況への危機感が酔いを一瞬で吹き飛ばし、普段通りの自分を取り戻す。
変わり身が早いなと突っ込みを入れる余裕は、残念ながらない。
「おう! 急ぐとしよう、こいつぁ明らかな異常事態だ!!」
間違いなく何か、カルデアにとって致命的なことが起こった。
いつもの与太話とはわけが違う。この時点で、既に二人ともそのことを悟っていた。
何故かと問われれば、そういうものだと答えるより他にない。
ただ、どうしようもなく厭な気配がした。心臓を見知らぬ男の手で撫でられるような、無遠慮な悪寒が走った。
今ならばまだ間に合うかもしれない。その思いが、二騎の英霊の足を急がせる。
だが――
「くそ、一足遅かったか」
エレシュキガル達が辿り着いた時、そこには交戦の跡が残るのみだった。
純粋な破壊痕と焦げ跡。その範囲から見るに、相当な出力が振るわれたことは疑いようもない。
やれやれと肩を竦める燕青に対して、エレシュキガルの表情は深刻なものだ。
それもその筈。彼女には、この場所で力を振るったのが誰と誰であるか理解出来てしまった。
故にこそ深刻な顔にならないわけがない。あの二柱が共同で何かと戦った筈なのに、彼女達の姿がない。その、恐るべき現状に。
「……イシュタルと、ケツァル・コアトルね。この魔力は――」
「……マジか」
エレシュキガルの言わんとすることが分からない燕青ではない。
彼女達は仲睦まじい間柄でこそなかったが、それでも喧嘩でこんな有様を作り出すような分別の利かない阿呆ではなかったはずだ。
特にケツァル・コアトルについては、一度手合わせしたことがあるからよく分かる。
あの女神は一見アーパーなようで、その実とても深い叡智を秘めたとんでもない人物だ。
その彼女が、内輪揉めの末に相討ちして消えた? ――あり得ない。そしてその可能性が否定されるのなら、何があったのかはほぼ確定される。
「つくづく厄ネタに事欠かないねぇ、うちのマスター殿は」
外から、何者かがカルデアに侵入した。
迎撃に出た女神達を、襲撃者は撃破……或いは無力化。
そうした上で悠々とカルデアを後にしたのだ。
信じ難いことだが、そうとしか考えられない。
それに、そのことを証明する"証拠"も現場には残されていた。
壁に渦を巻いた、虹色の門。
七色の色彩は芸術品めいた美しさを孕んでいるが、滲み出る破滅的な気配をまるで隠し切れていない。
間違いなくこの先は、ろくでもない空間に繋がっている。
そして正体不明の襲撃者は……無事ならばイシュタルとケツァル・コアトルも、この先にいる可能性が極めて高い。
では何故、用済みになった筈の門がこうして無防備に残されているのか?
ただのミスなのか? いいや、違う。そんなおめでたい発想をする英霊など、まず居るまい。
「なかなかに上等こいてるねぇ、こりゃ。追って来い、ってことだろ?」
「そう以外には、考えられないわね」
――誘っているのだ。
レイシフトの封じられたカルデアに、わざわざ追手を差し向ける道を与えて。
悔しければ追って来い、取り返したければ追って来いと手を叩いている。
まさに神をも恐れぬ所業だ。下手人は相当に胆の据わった人物に違いない。
「……とにかく、マスターを叩き起こすしかなさそうだわ。ダ・ヴィンチ達も直にやって来るだろうけど――」
エレシュキガルは、渦巻く虹の門を睥睨し、唇を噛む。
神である彼女は、燕青よりも強く、そこから漂う凶気を感じ取ることに成功していた。
一言で言うなら、門の向こうから漏れてくる気配は"混沌"だ。
ありとあらゆる色の絵の具を全てぐちゃぐちゃに混ぜたみたいな、均一性という概念からかけ離れたおぞましさ。
一体どれほどの地獄がこの向こうに広がっているのか、冥界の女神をしても全く想像出来ない。
ただ一つ言えるのは――
「……大きな戦いになるわよ、マスター」
……この向こうは、あらゆる意味で規模が違う。
空前絶後の大戦場が、カルデアのマスターを悪魔のような顔で手招いている。
そしてエレシュキガルも燕青も、門の向こうへ同行することになる凶手と鉄心も、知っているのだ。
――破滅への手招きと分かっていても、あの少女は必ず突き進む。止めても、無駄であると。
◆
「さあて、
アバンタイトル未満のオープニングとしては少し長くなってしまったが」
「これにて縁は結ばれた。道は作られた。ヴァルハラへの門は好意で残しておいてやったよ、カルデアの諸君」
「そして悪いな異聞帯! 本来ならもう君達の番なんだが、ちょっと割り込ませて貰ったよ」
「まあ、藤丸立香が消える分には君達も困らないだろう。
汎人類史代表(大爆笑)として、ぶっちゃけかなり好みな麗しき皇女殿に挨拶くらいしておこうかと思ったが――まあそれは置いといて」
「君が来れば全ての条件は達成だ。大聖杯イパルネモアニを巡る聖杯大戦は回り出す!
――天の帝!
――偉大なる英雄神!
――終末の魁!
――災禍の王!
――そして我ら《熾天の冠》!!」
「盛大な花火と行こうか藤丸立香。絶対の力というものを、君は知るべきだ!!」
◆
最終更新:2018年03月06日 20:21