――真・日本妖怪大全、第444ページ
絡新婦。
日本各地に伝承の伝わる妖怪で、美しい女の姿に化けることができる。
かの鳥山石燕は自らの《画図百鬼夜行》にて、これを火を吹く子蜘蛛を操る蜘蛛女の姿で表現した。
これは善の対極、悪を地で行く妖怪である。
女の姿で人を巧みに騙し、その肉を喰らって肥え太る。
跳ね除けるには彼女の言葉を無視し、正体を看破する強い精神力が肝要となる。
兎にも角にも、絡新婦は狡猾で悪辣だ。そこに温情など全くない。
無数の子蜘蛛で人を追い詰め、弱り目にそっと寄り添い、実食の時を待って涎を垂らす獰猛な捕食者。
相互理解などとても不可能な悪性。
触れれば人は生きていられない。さながら蜘蛛の巣に掛かった紋白蝶も同じ。
人を嵌め、喰らい殺す大蜘蛛の怪。
ここは《如月》。永劫に酩酊する無間の町。
これもまた、無間を彷徨う虜囚の一。
終わらぬ夜の住人。罪深き蟲の大母。
アサシンの霊基を持つ、サーヴァントである。
■
「だ、ゔぃ、ちゃ……?」
舌が回らない。
口が思うように動かない。
目の前の光景が、あまりにも衝撃的すぎて。
「ん? ああ、ひょっとしてまだ騙されてくれるのかい?
そうだよ、私がキミのダ・ヴィンチちゃんだ。ほら、賢そうな顔だろ?」
牙をガチガチと鳴らして、複眼の一つ一つをギョロギョロ動かす。
何もかも、わたしの知るダ・ヴィンチちゃんとは違っていた。
顔さえ、もう原型らしいものがかろうじて残っているだけ。
なのにその声だけは、わたしに何度も難しいことを教えてくれた彼女のままで。
それが、余計に恐ろしい。いっそ、いっぺんに全く違う怪物になってくれた方がよかった。
「……離れなさい、藤丸立香。その、蜘蛛から、今すぐに」
ウォッチャーが、ぺっと口に溜まった血を吐き捨ててわたしに言う。
この人は最初から、気付いていたらしい。
わたしの傍にいるのが、一体どういうものであるのか。
ただ一つ、彼にとっても予想外だったのは。
ダ・ヴィンチちゃん――絡新婦という妖怪が、とっくに《番人》達にさえ糸を結びつけていたということ。
「それ、は、《如月》の中でも、最も、タチの悪い、輩です。
何せ、酔いがあまりに薄い。この永遠に、ありながら。ほとんど、そいつは素面に近い!!」
「まだ喋るか。職業病かな?」
絡新婦は呆れたように笑った。
そして、ぎょろんと複眼をウォッチャーの方に向ける。
「耳障りだから、爺はさっさと死んどけよ」
その直後だった。
ウォッチャーの体を、無数の糸が棘になって内側から突き破る。
ハリネズミのように胴を穴だらけにされた彼は、ぐらりと仰向けに倒れて、動かなくなった。
あまりにも、あっさりと。蜘蛛は、この町の番人を殺してしまった。
「さ、これで邪魔者は消えた。
後は、愛しい者だけが残ったわけだね」
わたしは何も言い返せない。
この町で迷子になって、色んなことがあった。
てけてけに追い回された。
剣の妖怪に絶望した。
疱瘡神の祟りは思い返すのも嫌なくらい痛くて苦しかったし、小泉八雲とあそこに倒れているウォッチャーもとてつもなく怖い相手だった。
けれど、この蜘蛛と、そこにいる魔王は格が違いすぎる。
自分が生きているということを忘れてしまいそうになる、魔王の冷たい怖さ。
背中を無数の虫が這い回るような、絡新婦の生理的な怖さ。
二つは決して一緒にはならないけれど、別々にわたしの心を攻め立てる。
――くるしいなら、やめていいと。そんな声が、わたしの中から聞こえ出してくるくらい。
「……りっかから――」
「りっかからはなれろ!
……って? あはは、そう怖い顔をしなくても、"今はまだ"立香ちゃんに手を出すつもりはないさ。
何事も順序ってものがある。その点から行くと、私が一番最初に食うべき者は」
ギチギチ。笑い声のように、蜘蛛が音を奏でる。
ひーちゃんを、食べる。
蜘蛛は、そう言った。
知的な声色のまま、欲望にまみれた言葉を吐く。
「そんなことだとおもったよ。
ウォッチャーがおまえのなまえをよんだときから、ねらいはぼくだろうなっておもってた」
「当たり前じゃないか。だってキミは、あの伊邪那岐と伊邪那美の長女なんだろう?
この国に連なる神々。八百万のクズ共の中でも、キミは最も血が濃い。偉大な始祖の血が、その矮躯には流れている」
ポタ、と大蜘蛛の口から何かが地面に溢れる。
溢れたものに触れた地面は、煙をあげながら溶けた。
それが涎だと気付くまで、そう時間はかからなかった。
はしたないなんて感覚は、この蜘蛛にはきっとないんだろう。
だってこの妖怪は、食べることが大好きなんだから。
「一体どんな味がするのか、考えただけでこの通り涎が溢れてくる。
いや、味だけじゃない。なんたって神を喰らうんだ。そんな偉業を遂げてしまったなら、私の身体は一体どうなってしまうんだい?」
「……さあ。あんがい、たえきれなくてしんじゃうんじゃない?」
「そうかもしれない。でも、試す価値はあるさ」
目の前に、最高のごちそうが湯気を立てている。
それを前にして我慢できるなら、ウォッチャーはあそこまで言ったりはしなかっただろう。
我慢できないから、この蜘蛛は危険な妖怪と呼ばれているのだ。
話の通じない、聞いてくれない、悪いもの。
「ぼくにかてるとおもうの?」
「無理だろう。そこの作家は私を大袈裟に評したが、この身はあくまで普通よりちょっと強いだけの一怪異でしかないんだ。
キミどころか、キミが倒した疱瘡神にすら真っ向勝負じゃ勝てないだろうね。それに、するつもりもない」
「……まさか」
「ああ、その通りだ。
世の中、賢く生きないとね?」
裂けた口が、笑みの形にゆがむ。
悪意に満ちた、悪魔のような笑顔。
そうやって微笑んだまま、またぎょろんと複眼が動いた。
今度視線が向かう先は――もうひとつの、恐怖。
「魔王陛下はご健在だよ。
血書の呪詛を封じられた程度で、想い一つで天狗に成った男を木偶にできると思わないことだ」
そこには。
一羽の、鴉がいた。
烏帽子と平安衣装。
冷たい瞳、整った顔。
その姿形はさっきまでと、ある一箇所を除けば何も変わらない。
ただ一箇所――背中から吹き出すように生えた、鴉の翼を除けば。
「使えるものは使う主義なんだ。
キミ達がさっきやったことに、私も倣うとしよう」
かりそめの共同戦線。
それは何も、ひーちゃん達だけの特権ではない。
まるで、悪い夢のようだった。
ひーちゃんがひとっ飛びでわたしの前まで駆け付ける。
着地と同時に、水の槍で蜘蛛を昆虫標本に変えんとした。
素早い身のこなしの前に簡単に躱されてしまうけれど、ひーちゃんは安心したように口元を緩める。
「ごめんね、りっか。こわいおもいをさせちゃった」
「ひ、ひーちゃん。ひーちゃん、ごめん、わたし――」
そうだ、謝らないと。
ダ・ヴィンチちゃんを、絡新婦を信じ切っていたわたし。
わたしがもう少し警戒していたなら、こんな状況にはきっとならなかった。
わたしが悪い。バカなわたしが。わたしが――
「ううん、いいんだ」
そんなわたしに。
けれどひーちゃんは、いつもどおりに微笑んで。
「すぐにおわらせる。
そして、ぼくとあのトンネルのむこうにいこう」
「……、ひーちゃん」
「りっか」
「……そう、だね」
そうだ。
わたしたちは、行かなきゃいけない。
あのトンネルの向こうに。
伊佐貫トンネルの先にある、人間の町に。
だから、今は――
「ごめん、ひーちゃん。
わたしには、みてるだけしかできないけれど」
「うん」
「しんじてる」
「うん」
それしかできない。
「じゃあ、こたえないと」
ひーちゃんが、この壁を壊してくれることを、信じるしか。
■
鴉の翼が宙に舞った。
それと同時に、地面をひび割れさせながら神通力がひーちゃんに向かう。
これは攻撃ですらない。
わたしにも、そうだと分かる。
例えば、人が腕を振るった時に風が起こるみたいに。
何かをした時、どうしても外側に向かって生じてしまう現象のひとつ。
要するに、魔王はまだ本気を出そうとしている途中なのだ。
では、本気を出させてしまったらどうなるのか?
……考えたくもない。そしてそれは、ひーちゃんも同じ。
――速攻で片を付ける。
ひーちゃんの目は、そう語っていた。
絡新婦を倒して、魔王も今度こそ倒す。
そしてわたしと一緒にトンネルに行って、隣町に出る。
如月を出てやるんだと、強い闘志が燃えている。
「安直な考えだね。
やっぱり親に捨てられた出来損ないってのは、神様だろうと馬鹿に育っちゃうもんなのかい?」
そんなひーちゃんの意思を嘲笑う、蜘蛛。
悪意たっぷりに吐かれた言葉に、わたしの体もかあっと熱くなる。
何も知らない癖にと、自分のことを棚に上げてでも言ってやりたくなる。
わたしは、ひーちゃんのことを何も知らないけれど。
でも、ひーちゃんがどんな子かは知っている。
ひーちゃんはいつだって諦めなかった。
そのひーちゃんの心を馬鹿にするなんて、許せるわけがない。
でも、ひーちゃんは動じなかった。
相手にするだけ無駄と言わんばかりに槍を奮って、絡新婦が吐いた糸の束を一瞬で千切り飛ばす。
絡新婦が口笛らしい音を鳴らした。
八本の足で後ろに退いて、ひーちゃんの投げ槍を回避。
すると今度は、くいと何もないところで足の三本を動かしてみせる。
すると――戦闘に巻き込まれてすらいない筈の彼方から、弓矢のように白い糸が奔ってくる。
ひーちゃんに向けて、わたしに見えただけでも八ヶ所。実際にはその三倍は確実にあるだろう、鋭い殺意。
こんなの避けられるわけがない。でも、これだけたくさん異常な戦いを目にしていれば、分かってくることもある。
ひーちゃんはこれじゃ死なない。
こんなので死ぬほど、弱くない!
「私が言うのも何だが、親が親なら子も子とはこのことだ」
糸の矢を、ひーちゃんは自分を囲むように吹き出させた水の柱で遮り、超えてきた分も槍で切断する。
結果、かすり傷すら負わない。絡新婦の攻撃は多分、結構な下準備のもとに放たれたのだろうけど。
ひーちゃんは物ともしなかった。ぶっつけ本番で、こうまで完璧に対処できてしまう。
「不具の子が生まれたら海に流そうと即断する、神の体を持つだけの屑!
成程、そんな輩の胤と卵からであれば、キミのような罪深い生き物が生まれ落ちるのも頷ける!!」
「おまえはさ」
絡新婦は饒舌だ。
ひーちゃんを、戦いながらどこまでも嘲笑う。
「そうやってじぶんをつよくみせないと、なにもできないの?」
それでも、ひーちゃんは分かっている。
何を言われたって、所詮こんなのは虚仮威し。
力で劣っているから、言葉でどうにかするしかない弱い者のやり方だ。
「おまえなんかに」
「……!」
地面を這うように迫る糸。
ひーちゃんはそれが自分に触れる前に、槍で地を叩いて大きく跳躍。
四散した槍の代わりを空中で二本生み出せば、そのまま地上の蜘蛛目掛けて擲った!
「ぼくはまけないよ」
「ぐ……!」
槍の一本は空を切ったけれど。
もう一本は、絡新婦の足の一本を貫いて、地面に縫い止める成果をあげる。
苦悶の声を漏らす絡新婦。
今ならば、どれだけ口を回したって身動きは取れまい。
とどめを刺す。一切の躊躇なく、ひーちゃんは新しい槍を絡新婦の頭へ立て続けに打ち込まんとして。
「――そううまくは行かないなァ!」
「か、ッ……!!」
その瞬間、ひーちゃんが何かに叩き落されたみたいに、真っ逆さまに地上へ墜落した。
絡新婦ではない。あの蜘蛛の糸は繊細だけれど、一本一本ではそれこそただの糸でしかない。
かといって多くを束ねたなら、ひーちゃんが絶対に感知する。
今の不意討ちは、そもそも成り立たない。
……となると、誰が今のをやったのかは明らかだった。
「助かるよ崇徳院! キミに人食いの嗜好がないのなら、ぜひこれの死肉は私に譲ってくれたまえ!」
未だその全貌を見せない、天狗。
彼の神通力が、空中のひーちゃんを打ち落とした。
無感動に、無感情に。
事も無げに、此処までの"流れ"をぶった切る。
「ぐ、この――」
「させないさ。キミは今ので、蜘蛛の巣に掛かったんだ」
槍を生み出し、振り上げた腕が途中で止まる。
絡新婦の糸が、ひーちゃんの細腕を絡め取っていた。
「はな、せ……!」
「くふふふ。月並みな台詞だが、離せと言われて離す者がどこにいると思う?」
蜘蛛がひーちゃんに近付いていく。
まさしく、自身の巣に掛かった蝶へそうするように。
満足げな笑みで口を引き裂いて。
悪意の蜘蛛が、ひーちゃんに触れる。
「あああぁあ、美味そうだ。
キミが如月に踏み入ってからというもの、ずっとこの時を待ちかねていたんだ。
食いたくて堪らなかった。啜りたくて仕方なかった。
穢れに触れることなく放逐された流浪の神、純潔のまま永遠を彷徨うキミを! 私は、ずっと求めていたんだよ!?」
「し、るか。そんなの……っ」
ひーちゃんの足が、もう片方の手が。
するすると糸に縛られて、動かなくなる。
後は牙が触れれば、全部おしまいだ。
わたしは、思わず叫んだ。
「ひーちゃん! ひーちゃんっ!!」
「り、っか――」
目と目が合う。
けれど、何もできない。
ウォッチャー達からひーちゃんを助ける為に知恵を貸してくれたダ・ヴィンチちゃんは、今一匹の蜘蛛としてひーちゃんに覆いかぶさっている。
「いじらしいねえ。そう今生の別れみたいな顔をしなくても大丈夫だよ?
キミほどではないにしろ、あの子も人間の中では相当な上物のようだから。
食後の甘味がてらに平らげて、腹の中でまた再会させてあげよう。
嬉しいだろ? それでキミは今度こそ完全にひとりじゃあなくなるんだ」
怖くはない。
ただ、ひーちゃんが死んでしまうことだけが怖い。
わたしが帰れなくなるからというのも、ないと言ったら嘘になる。
でもそれ以上に、わたしは、ひーちゃんという友達がいなくなるのが怖い。
「ああ、いや。
ひとりじゃなくなるのは二度目かな?」
「っ」
「さっき自分でも言ってたもんね、友達がいたと。
道理でおかしいと思ってたんだ、見たところどこの漂着説にも基づいていない、"漂流し続けている筈の蛭子神"が何故、この町を訪れられたのか」
絡新婦は悪意ではなく、本当に心から納得したという声色でそう言った。
「手引きをした何某かがいたんだね。
どういう経緯で行き逢ったのかは知らないが、随分と規格外なことをやれる奴がキミに触れたらしい」
わたしの知らない話。
わたしとひーちゃんが出会う前の話。
ひーちゃんが――この街に来るまでの話。
「しかしそいつも酷いろくでなしだ。おまけに間抜けだ」
キミには心底同情するよと、絡新婦。
ひーちゃんは俯いていて、どんな顔をしているのかは分からない。
分からない、けれど――わたしにはなんでか、ひーちゃんがどんな顔をしているのか分かった。
「何を目論んだのか知らないが、送るだけ送って後は放置とは。
半ばでくたばりでもしたのかな? こればかりは、煽り抜きでキミに同情するよ蛭子神。
無能な共犯者のせいであるというのなら、キミの計画がこうも不出来なことにも説明がつく。
運が悪かったね、キミ」
――ああ、きっと。
「……れ」
「ん?」
「だま、れ」
――今の、ひーちゃんは……
「ぼくのともだちを―――オロバスを、ばかにするな…………!!」
――ものすごく、怒っている。
■
「な――!」
絡新婦が驚愕の声をあげた。
それもそのはずだ。
ひーちゃんは、腕に巻き付いた糸を勢いよく引き千切ってみせたのだから。
腕が一本自由になれば、ひーちゃんにとってそれは完全な自由と同じ。
槍を生み出して、そのまま伸ばし。
足を纏めて戒める糸を断つまで、一秒にも満たない。
「はああああああ……!!」
動けるようになった足で地を蹴り。
間近の絡新婦へと、槍の一撃を突き込んだ!
「ギィィィッ!?」
醜い悲鳴。
蜘蛛の脇腹を、ひーちゃんの水槍が掠め、斬り裂いていた。
溢れる虫の体液。化け物らしく歪んだ顔が、さらなる苦悶に変形する。
「キ、ミ。……お、ま、え、ぇ――よ、くもぉぉぉっ」
「うかつだったね」
ひーちゃんは今。
きっと、何も特別なことはしていない。
多分、その筈だ。
けれど本来、ひーちゃんは絡新婦の糸をあんな風に破ることは出来なかっただろう。
でも、絡新婦はそう出来るようにしてしまった。
してしまったんだ。自分の、よく喋る口で。
「おかあさまとおとうさまのことも、ぼくのことも、はらはたつけど、たえられるんだ。でも」
ひーちゃんの声は。
冷たさと熱の、同居したものだった。
「あのこのことをいわれたらね、たえられない」
今度こそとどめを刺す。
ひーちゃんは槍を振り上げる。
蜘蛛は、酸の涎を飛ばしながら叫んだ。
「よく、も。よくもよくもよくも!
この私を! 俺を! 傷つけたな傷つけやがったな!
殺す殺す、殺してやるぞ蛭子神! この俺の完全な肉を、喰らってきた血肉の山をォ!!」
そこに、もうダ・ヴィンチちゃんの面影はない。
声すら、男のものに変わっていた。
絡新婦。女郎蜘蛛。
そんな名前自体が、この妖怪のカモフラージュだったのかもしれない。
「そうだ、もう遅い! お前は詰んだ!」
されど。
勝ちを確信したのは――絡新婦も同じ。
「っ」
ひーちゃんも一歩遅れて、その意味を悟る。
振り上げた槍を戻して身を護る構えに。
わたしはひーちゃんの視線の先に目を向けた。
そこに、あったのは。
不動を崩し、一歩を踏み出した――魔王天狗の姿。
歩く。
ただそれだけなのに、世界の終わりみたいな絶望感があった。
背中から、天使みたいに鴉の翼を噴き出させて。
魔王が、ひーちゃんへと歩んでいく。
絡新婦はどうしようもないやつだった。
でも――そんな絡新婦も、嘘はついていなかったんだ。
この魔王は、最強。
この町に、彼以上のものはいない。
瞬時にそう理解させる力が、神秘が。
翼を広げた姿から、ひしひしと伝わってくる。
「出来るなら原型くらいは残ったまま喰らいたかったが」
絡新婦が嗤う。
魔王が歩む。
「こうとなっては仕方ない。
俺は――私は、ゆっくりとキミの残骸を味わうとするさ。
キミの友人が見ている前で、この腹に収めてあげよう」
絡新婦が嗤う。
魔王が歩む。
ひーちゃんが、ぎりと奥歯を噛み締めた。
「さあ、終わりの時だ蛭子命!
その肉叢、今こそ私の腹を肥やす脂に――」
「邪魔だ」
大笑する絡新婦を、魔王の神通力が木端微塵に粉砕する。
本当にただ邪魔だったから、と言わんばかりに。
無造作に、感慨もなく。
ああ、いや、もしかすると。
最初から魔王にとっては、絡新婦など、それこそ視界の端で何か蠢いている程度の認識でしかなかったのかもしれない。
「……おまえが」
絡新婦は死んだ。
踏み潰されて死んだ。
でも、安心なんて出来ない。
「崇徳院・禍白峯大魔縁」
ここまでが前座。
ここからが、本番。
■
声がする。声がする。声がする。
声がする。声がする。声がする。
声がする。声がする。声がする。
私の、我の、行くべき処がある。
ならば、後は、為すべきことを、為すだけだ。
最終更新:2018年02月27日 01:56