良い話と悪い話がある。
「まったく、穏やかじゃないわね!」
悪い話とは、恐るべき騎士と美しき乙女から撤退してから一寸もしない内に、新たに事件が起きたことだ。
コンクリートジャングルを疾走する黒のハイラックスが、突如として銃弾の雨に晒されだしたのである。
無論、下手人はホムンクルスの少年兵達だ。この街からの離脱を阻もうとしているのだろう。その数も尋常ではない。
「未だに鉛玉と刃だけでどうにかなると思われてるとはねぇ……魔星の生まれ変わりもナメられたもんだ!」
良い話は、荷台にて燕青が八面六臂の大活躍を見せているおかげで、絶望的な状況にまでは陥っていないこと。
もう一つは、立香とケツァル・コアトルの席替えが無事に完了した後の襲撃であったことの二点だ。
良い話というよりは〝不幸中の幸い〟と表現するのが正しいだろうが、それは棚上げしておこう。
「どう思うよ、ダ・ヴィンチちゃん! これは〝決闘〟が終わったから刺客を放たれてるってことか!?」
『いや、違う。君達を逃がしたと見るや、彼らの組らしいホムンクルス達はライダーとランサーのもとへと集合している。
これは恐らく、先程しのぎを削った二人とは無関係の別働隊だ。この調子ならば、間違いなく来るぞ……サーヴァントが!』
「はっ、成程。じゃあヘルヴォルとかいうセイバーか、アドニスとかいうアーチャーか、それとも……」
『あの青黒い和服のアヴェンジャーか、それとも未だ目にしていないアサシンかキャスターか……!』
カルデアと通信をしている間にも、多数のホムンクルス達が迫ってくる。
それどころか法定速度をこれでもかという程に無視しているにも関わらず、彼らは荷台に立つ燕青へと飛びかかっていく。
さすがに心配になったのでバックミラー越しに後方を見ると、浪子は流麗な動きでもってそれらを薙ぎ倒していた。
一人、また一人、とホムンクルス達が脱落する度に車が揺れる。震源地は荷台。頻度は異常だ。
サーヴァントという身でありながら、車体はおろか荷台すらも壊さずに戦うという器用さを見せる燕青に、立香は感謝するばかりであった。
『先輩、十時方向からサーヴァント反応です! なんて速さ……!』
心の中で感謝の言葉を繰り返す立香の耳に、マシュの声が届く。
内容は最悪だった。予測出来ていた事態であれども、困ることには変わりない。
流れ弾に当たらないよう身体を丸めて伏せた立香は「どいつだ!?」と大声で訊ねた。
『各種機材はアーチャーであると示している! つまり!』
「アドニスとのリベンジマッチか!」
ダ・ヴィンチからの解答を聞いた立香は歯を食いしばる。
気合いを入れているわけではない。嫌悪感からくる、無意識下での行動だ。
続いて大きく舌打ちをかますと、顔だけを出してフロントガラス越しに前方を注視した。
現在自分達が進んでいるのは、車体をねじ込められぬ程に細い脇道が点々と存在するだけの直線道路だ。
しかもその果てに待ち構えているのは、三時方向と九時方向に分かれるシンプルな丁字路である。
まずい。右折をすれば背中を狙われ、左折をすれば敵に突っ込む羽目になるという最悪の状況が生まれている。
ならばUターンをすればいいのでは? という考えにも至ったが、それは甘々な思考だ。
何せ下手に進行方向を変えれば再びライダー達と接触する可能性もある。今は嫌でも前に進むしかないのだ。
「どうする、どうする……考えろ、考えろ、考えろ、俺……!」
伏せた状態で首だけ伸ばすという無理のある姿勢のまま、立香は呟き続ける。
するとケツァル・コアトルがぎょっと目を見開き、突然「マスター、ちゃんと伏せて!」と立香の頭を下に押し込めた。
そして彼女はそのまま運転席の背もたれを勢いよく倒し、そのまま仰向けに寝転がる。
「え……?」
その直後……甲高い音が車内に鳴り響くやいなや、一本の細長い物体が二人の真上を通り抜けていった。
恐る恐る左右の窓ガラスへと目を向けると、いつの間にか空いた大穴を中心にひび割れを起こしている。
一寸の間を置いてから、立香は理解した。未だ丁字路に差し掛かっていないにも関わらず、矢によって狙撃されたのだと。
『今しがた通り過ぎた脇道だ!』
ダ・ヴィンチが、主語諸々を抜いて叫ぶ。だが何を言いたいのかは自ずと解ってしまった。
「ケツァ姉、燕青! もう腹くくるしかないぞ!」
「ええ、パンクさせられては元も子もないし!」
「あいよぉ! なら、今だっ!」
急ブレーキをかけたケツァル・コアトルが得物を手に運転席から降りる。
続いて荷台から跳躍した燕青が舗装された地面を踏むと同時に、立香も周りを警戒しつつそろりと車を降りた。
一直線に進んできた道へと視線を向けると、ただの肉の塊となったホムンクルス達が倒れ伏している。
彼らは全員無言だ。まさしく〝死人に口なし〟と表現すべきだろうか。いや、少し違うか。
「昨日ぶりだね、お兄さん達」
そんな地獄絵図の様相を呈した道路へと、いよいよ本命が現れた。
鮮血を思わせる赤色の弓を携えたバルベルデのアーチャー〝アドニス〟が、細い脇道からお出ましである。
続いて現れたのは、マスター役のホムンクルスだ。だが片割れの少女は既に殺害されているので、二人組ではない。
アドニスの傍に立ったのは、少年一人だ。
「元気そうで何よりだなぁ……アドニスとやら」
アドニスだけでなく、ホムンクルスにも警戒しているからであろう。
ケツァル・コアトルと燕青は少し歩を進めると、立香の目前で並び立った。
とてつもなくありがたいことに、その身を盾としてくれているのだ。
しばし、睨み合いが続く。視線を用いた牽制の時間だ。
『気をつけろよ。堂々と現れたからには、余程の自信があると見ていい』
「解ってるさ、大将」
やがてダ・ヴィンチが言葉を発すると……燕青が数歩、また数歩と前に出た。
小石とコンクリートの欠片を踏み潰す音が微かに聞こえる。
続いてケツァル・コアトルもおもむろに歩を進める。やはり同じ音が聞こえた。
「随分、余裕そうだね。勝てるつもりなの?」
不意に、アドニスが口を開く。だが立香は無視した。
言葉を交わすことで集中力を削ぐ作戦に出たのだろう、と判断したからだ。
この手の策は立香も好んで用いるため、引っかかったときの恐ろしさは充分に理解しているつもりだ。
故に応えない。下手なことはせず、徹頭徹尾〝薄情なお兄さん〟を演じておく。
燕青達も同じ考えに至ったのだろう。立香と同じく沈黙を貫いていた。
こちらに背を向けているので表情こそ窺い知れないが、サーヴァントの中でも饒舌な部類の彼らが無言を通しているのだ。
つまりは、そういうことである。
「確かにぼくが差し向けた子達は、お兄さん達を倒せなかった。みぃんな返り討ちに遭っちゃった。
だから今のぼくは、昨日よりすっごくまずい感じだし……ぶっちゃけると、ちょっと怖いとも思ってるよ」
だが〝無関係だ〟とばかりにアドニスは喋り続ける。
しかしそんなことはこちらとしても無関係である。燕青達の前進は止まらない。
やがて燕青が両腕を上げた。構えをとったのだ。
遂に、屈辱を晴らすための戦いが始まる。
「でもね。ぼくは負けないよ!」
だというのに、一体どうしたというのだろう……突如両手を広げたアドニスが、破顔して勝ちを宣言した。
立香の口から「あ?」とガラの悪すぎる声が漏れる。あまりにも理解に苦しんだが故にだ。
燕青も同じ感覚を抱いたのだろう。即座に前進をやめた。だが構えは解かず、無言で殺気を帯びている。
警戒こそすれど怯えは見せない。今度こそは、という鋼の意志が作用しているのだろう。
「そう。こんな嫌な感じでも、ぼくは絶対に負けない。そういうことになってるんだ」
立香も困惑こそしたが、気を張り詰めたまま相手を見据えている。
ご機嫌そうにご高説を並べるアドニスが、こう見えて危険な相手だということは充分に理解しているつもりだからだ。
戦場ではビビってなんぼのときもある、と……これまでの特異点は自分にそう教えてくれた。
故に、今も警戒を怠らぬよう心がけ、普通の人間なりに神経を研ぎ澄ましている。
「理由は簡単だよ」
だがそんな自分達を前に、未だ満面の笑みを浮かべたままのアドニスは、更に言葉を続けた。
その様子から立香は、相手は別のサーヴァントを派遣させる為の時間稼ぎをしているのでは……と推察する。
素人考えだとは思うが、念のため確認しておくに越したことはないだろう。
立香はすぐさま、アドニスに聞こえないよう小声で通信を開こうとした。
すると、
『いかん、燕青! 危険だ!』
素人考えが的中してしまったのか、あちら側から通信が飛んできた。
だが声を張り上げたのは万能の人ダ・ヴィンチでも、英霊を見に宿す少女マシュでもない。
声の主は、侵略者の返り血を浴びて英霊となったシャーマン、ジェロニモであった。
ダ・ヴィンチ達もいきなりの叫びに驚愕したらしく、振り返って〝いきなりどうした〟といった旨の問いを投げかけている。
『いますぐマスターを担いで、あの小僧から……いや、違う! すぐに〝そこ〟から離れろ!』
「どういうことだ、シャーマンの旦那。さては別の敵さんが横槍でも……」
『違う! 注意すべきは後ろだ!』
首だけをこちらへと向けた燕青が「後ろぉ?」と呟く。
彼の背後にはケツァル・コアトルが控えていた。とても頼もしい、太陽の神だ。
「……姐さん?」
ふと燕青は、怪訝そうに問いを投げかける。
するとその瞬間……ケツァル・コアトルは盾を投げ捨てて左腕を伸ばし、燕青の右腕をがっしりと掴んだ。
一体全体何事かと思い、立香は「どうした!?」と月並みな問いを投げかけた。
しかし自身への質問を完全に無視した様子のケツァル・コアトルは、立香へと振り向きもせずに左腕を思い切り引っ張る。
燕青の身体が強制的に半回転し、義の一字が見えなくなった。それでもケツァル・コアトルは腕を引き続ける。
「だってぼくには、とってもとっても綺麗で格好いいお姉さんが出来たからねっ!」
そしてアドニスが意味不明なことを口走ったと同時に、ケツァル・コアトルの右腕が燕青の首に刺さった。
掴んでいた腕は既に離されており、そのためか燕青の身体がその場でぐるりと縦に回転する。
直後、えげつない衝撃音を伴って硬い道路へと脳天を打ち付けた彼は、そのままぐらりとうつぶせに倒れ込んだ。
信じがたいことに、しっかりと舗装されている道路には、半球状の凹みが出来上がっていた。
更に周囲には大小問わず幾多ものコンクリート片が散乱している。クッキーを拳で叩き潰せば、丁度こんな具合になるだろうか。
ラリアットをくらった結果です、と説明されただけでは決して納得出来ない惨状であった。
「おい、燕青! 聞こえるか!? 返事しろ、おい!」
襲い来る焦燥感を撥ね除けるために、立香は何度も燕青の名を呼んだ。
しかし饒舌なはずの彼は、全く反応してくれなかった。
「わっ! 凄いやお姉さん! もっと見せてよっ!」
振り抜いた腕を戻したケツァル・コアトルは、握ったままだったマカナを物言わぬ燕青へと向ける。
これはまずい。このまま見守っていては確実に恐ろしいことが起きる。そう確信した立香は血相を変えて彼女にかきついた。
だが相手は無言のままこちらを振り向きもせず、加えて何度も名を呼んでもまたもことごとく無視をする始末。まったくもって意味不明だ。
『遅かったか……!』
「おいジェロニモさん! こりゃどういうあれだ!? 解ってるんだろ!?」
仕方がないのでジェロニモへと説明を求めた。
『映像越しだが、彼女の動きに違和感を覚えたのだよ!』
「動きぃ!?」
『ああ! そして少ししてから理由に気付いた! 先程からの彼女は謂わば〝トランス状態〟に似た精神状態であったのだ!』
「トラン……ああ、ヤバいやつだろそれ!」
ケツァル・コアトルにあっさりと振りほどかれながら、立香は相づちを打つ。
すると今度はダ・ヴィンチが『彼の言う通りだ! 計器類の反応こそないけれどもね!』と声を上げた。
立香は再びケツァル・コアトルへとかきつくと、すぐに「はいはいはい!?」と返す。
アドニスへと視線を向けると、笑顔のままだったので腹が立った。
『早い話が、今の彼女は洗脳されているんだ! これは確実にアドニスの仕業と見ていい!』
「根拠は!?」
『彼の逸話だ! 言っただろう!? かつてアドニスは二柱の女神から寵愛を受けていたと!』
「こんなヤバい状況で〝惚れた〟ってのか!? ケツァ姉が! あいつに!」
『そういうことになる! これはもはや魅了スキルの域を超えた呪いと言って差し支えない!』
ダ・ヴィンチからの説明をも受けた立香は「でもなんだってこんなときに……!」と歯噛みする。
だがすぐに「あっ」と間抜けな声を上げた。思い当たる節があったのだ。
「あの宝具か……!」
そう。アドニスの宝具『血風を貴女に(セサス・アイマ・アネモス)』である。
あれをくらったケツァル・コアトルはしばしの間意識を失い、目が覚めると〝胸が痛い〟だの〝動悸が激しい〟だのと訴えていた。
ならば疑う余地もない。まず、あの赤い花弁で作り上げられた矢で射貫かれた者は、どんな性格であれアドニスに恋をするのだろう。
そしてアドニスの口ぶりからすると、恋をした者はもれなく保護者……否、傀儡へと変えられてしまう。
しかも再会するまではそれを全く自覚させない……そんな恐ろしい力が備わっているのだ。
そう考えれば、唐突にケツァル・コアトルが暴挙に出たことにも納得がいく。
「ケツァ姉! 待て! あぁもう! だったら令呪をもって……」
「無駄だよ、マスターのお兄さん。だよね、お姉さんっ?」
「ええ、そうよアドニス! あなたの言う通りデース!」
「んだとっ!?」
否、そう捉えなければ話が成り立たないのだ。
「ああ、アドニス……見れば見るほど素敵な子ですネー……私ったら、どうしてこの想いに無自覚だったのかしら……?」
アドニスの問いに答えたケツァル・コアトルは、再び立香を振りほどく。
先程よりも力を込められてしまったため、立香は硬い地面をしばらく転がる羽目になってしまった。
ようやく停止してから見上げると、ケツァル・コアトルがこちらを見下していた。
「念には念を込めて、燕青から仕留めるつもりだったけれど……そうね、あなたからの方が手早いわよね」
「ふざけて言ってるわけじゃなさそうだな……マジでぶっ殺す気か、俺を」
痛みをこらえて上半身を起こした立香は、ケツァル・コアトルの目をじっと見つめる。
「そうよ」
ああ、マジなやつだわ、これ。
相手を睨み続けつつ、立香は心中で呟いた。
「マスターは、俺だぞ。といっても別に〝俺の方が偉いんですけど〟って威張りたいわけじゃない。
俺が死んだらケツァ姉も消えるぞ、って言ってるんだ。いいのかよ、好きな子の目の前で消えちまっても」
「あの子のためなら悔いは無いわ。そう思えるほど、今の私は温かい気持ちで満たされているの……」
むせたように咳き込みながら問いかけるが、ケツァル・コアトルの様子に変化はない。
脅しでも何でもない〝純然たる事実〟を突きつけても、彼女の思考回路が元通りになる気配は一向に感じられなかった。
いや、むしろ悪化していると言っていい。
「アドニス……あなたの為なら、私は……」
「ケツァ姉」
「ふふ……誰かへの愛に殉ずる……それがこんなにも素敵なことだなんて知らなかったわ」
「ケツァ姉!」
「見ていてね、アドニス。お姉さんは、やってみせるわ。あなたのために。あなたのためだけに!」
「ケツァル・コアトル!」
頬を紅色に染めたケツァル・コアトルが、幸せそうに表情を緩めながら右腕を天に掲げる。
握られているマカナの刃が、チェーンソーよろしく音を立てて動き始めた。
痛む場所を片手で押さえながら立ち上がった立香は、大きく舌打ちをする。
自身の不甲斐なさに嫌気が差したのだ。
「やってくれたな……アドニス!」
だが諦めたわけではない。
踵を返して全速力で駆けた立香は、息の根を止められて久しいホムンクルスから軽機関銃を奪い取り、構えた。
狙いはケツァル・コアトル……ではない。銃口を向けた先にいるのは、当然アドニスである。
慣れない得物だ。撃ったが最後、まずは肩が外れるだろう。続いて狙いも外れるだろう。
万一そうでなかったとしても、避けられた挙句に致命的な反撃をくらうのが関の山だ。
だがそれでも、それを解っていてもなお〝何でもいいから動かなくては〟という一心で体を動かす。
見様見真似のずさんな構えをとった立香はアドニスを睨み付け、右の人差し指を引き金にかけた。
「ダメよ!」
直後、耳障りな音と共に銃の先端から火花が飛び散った。
発砲したのではない。一瞬で距離を詰めたケツァル・コアトルがマカナを振るい、銃を切断したのだ。
暴発への恐怖と切断時の激しい震動が混ざり合った結果、引き金から指が外れる。
当然だが……ケツァル・コアトルは、そんな隙を見逃す程〝やわ〟ではない。
引き締まった筋肉という名の鎧で覆われた左腕を勢いよく伸ばすと、立香の襟首を力任せに掴んだ。
マカナの音が、再び立香の鼓膜を揺らす。通信越しにマシュが何か叫んでいるようだが、上手く聞き取れない。
「ごめんなさいね、マスター」
弓でも引き絞るかのように、ケツァル・コアトルはマカナを持つ手を引く。
同時に左腕の力だけで身体を持ち上げられたので、さっさと心臓か何かを貫くつもりなのだろうと立香は推測した。
「これは興行ではなくて戦争。だから、手早く済ませるわ」
「らしくない……言葉だなぁ、おい……っ」
「だから、さようなら、マスター……いいえ、藤丸立香くん」
両手でケツァル・コアトルの左手首を掴むものの、未だ立香は反撃の糸口を掴めずにいる。
もはや敗北は必定と見ていい。立香は「カルデア制服の回復って……人には効くのかね……?」と、息も絶え絶えに呟いた。
「おい……」
そのときである。
「何やってんだ……太阳姐!」
群青色の籠手が視界に入った。
そして色鮮やかな入墨が彫られた腕までもが見えた瞬間、ケツァル・コアトルが真横に吹き飛んだ。
襟首から手が離されたため、立香は無様に尻餅をついてしまう。
見上げると、さっきまでケツァル・コアトルがいた場所に色男が立っていた。
いつになく眼光が鋭い。どんなに獰猛なマスティフでも、目が合った瞬間に尻尾を巻いて逃げ出すであろう。
「燕青……サンキュな」
「言ってる場合か!」
浪子燕青、復活である。
「いや、待て待て。それ、こっちのセリフでもあるぞ」
「あん!? 何がだ!」
「訊くなよ。どうせ解ってるくせに……」
「……ふん」
だが立香は、彼が本調子ではないことをすぐに見抜いた。
否。見抜いたも何も……あまりにもバレバレだったのだ。
何せ燕青の頭のてっぺんから、今も真っ赤な血が流れ出ていたのだから。
息も絶え絶えに会話している今この瞬間も、鮮血はわき水よろしく溢れ出し、彼の顔を赤く染め上げている。
滝のように汗が流れるならともかく、滝のように血が流れられてはたまったものではない。
「そりゃ地面がコンクリートならな……ちょっと待っててくれ、燕青。無いよりマシ、な程度だけども……」
立香は両眼を閉じて集中力を研ぎ澄ませると、純白のカルデア制服に秘められた力を行使した。
放たれたのは当然〝応急手当〟である。だが本人が言ったとおり、無いよりはマシな程度の効果しか与えられなかった。
燕青の頭頂部から出てくる赤い液体は、未だ自重せずに紅色の化粧を施している。
しかしそれでも彼は「感謝する、我が主」と構えをとった。
「燕青……やっぱりあなた、逸材ね!」
彼の視線の先には、ゆらりと立ち上がったケツァル・コアトルがいる。
「ついでに頼みがある。姐さんがどうなってるのか、端的に説明してくれるか?」
「アドニスがケツァ姉を操ってる。以上」
「謝謝」
燕青は短く謝辞を述べると、猛牛や猪を思わせる勢いで近付いてきたケツァル・コアトルに肉薄した。
マカナによる顔面への一撃をするりと躱すと、すかさず後の先を放つ。
彼が選んだのは、相手の腹部を狙った肘による一撃だ。果たしてそれは成功し、ケツァル・コアトルの身体がくの字に曲がる。
そしてそのまま蹴り飛ばすと、生まれた隙を突いて近場にいたホムンクルスのマチェットを拝借し、アドニスへと投げつけた。
迷いのない術者狙い。立香がやりたかったことを、燕青は軽く実現させてのけた。
「お姉さんっ!」
「解ってるわ!」
だが飛翔する刃は、アドニスの身体を貫かなかった。
愛する者のもとへと疾風の如き勢いで疾走したケツァル・コアトルが、アドニスの眼前でマチェットを弾き飛ばしたからだ。
空中で回転するそれが地面へと落下すると、ケツァル・コアトルはアドニスの身を案じるような言葉を放つ。
それに対し、相手は「大丈夫。お姉さんのおかげで、怖くなかったよっ」と柔らかな笑みを返した。
すっかり骨抜きにされたケツァル・コアトルは満面の笑みを浮かべ、彼の頭を優しく撫でる。
それを見て苛立たしく思ったのだろう。燕青は大きく溜息をついて姿勢を正した。
「ぐぅ……っ」
だが、正したばかりの姿勢はあっさりと崩れてしまった。
過度の流血がそうさせたのだろう。構えをとろうとしているが、足元がおぼつかないせいで〝ままならない〟ようだ。
彼が小声で「ちっくしょうが……」と言い放ったのを、立香はその耳で確かに聞いてしまった。
「援護します、アーチャー」
その瞬間を狙っていたのだろう。アドニスの後ろに控えていたマスター役のホムンクルスが銃口を向けた。
立香が燕青に「避けろ!」と叫んだと同時に、軽機関銃が酷く乾いた音を発する。
だが素直に受けてやるほど、燕青はお人好しではなかった。地面を踏みしめて立香を小脇に抱えると、真横に跳躍した。
果たして回避こそ成功したものの、燕青の呼吸は大きく乱れている。無理が祟っているのだろう。
「待って。援護はいらないよ。ぼくが言ったタイミングで令呪を切ることに集中して」
「了解しました」
「じゃあお姉さん……またあの入墨のお兄さんの相手をしてくれないかな?」
「いいわ。お姉さん、頑張っちゃう」
「その間にぼくは、白い服の方を狙うからさ。じゃあ、一緒に頑張ろうねっ!」
そんな状況下で、しばし戯れていたアドニスとケツァル・コアトルが遂に動き出す。
「残念ね、燕青。全力のあなたと戦いたかったのだけれど」
「奇襲をぶち込んだ奴が何を言ってる……矛盾してるぞ、姐さん」
「……あら、本当ね。ごめんなさい」
「アドニスとやらの猫撫で声で、脳みそ全部溶かされたか……笑えないぞ、太阳姐!」
燕青は立香を降ろすと、肩を上下させながら再び構えをとった。
だがやはり、ふらりふらりと身体が揺れる。まともに回復もさせてやれない自分の不甲斐なさを、立香は呪いに呪った。
しかしそれでもなお、静かに〝思考停止だけはごめんだ〟と呟く。
「おいノッブ、聞こえるか」
『なんじゃ』
「お前、謀反慣れしてるだろ。お前は味方だったのが敵に回ったとき……生前、どうしてた?」
出来ることはないかと、必死に考える。
『殺した。悉くを討ち滅ぼし、公にデメリットを晒してやったわ』
「そうか……なるほどな」
『役立ちそうか?』
「いや、悪いけど……この状況じゃ全然だな」
『じゃろうな。それに、そなたには似合わん処世術であろうよ』
だがどうにも名案は浮かばなかった。悔しいにも程がある。
こうなったら一旦車で逃げて、それから出直した方が良さそうだとすら思えた。
まぁ、その逃げる余裕自体が存在しないのだが。
「本っ当に、どうしようもないほど普通だなぁ……俺って……」
自身への苛立ちが、自傷行為を生む。
彼は爪が食い込むのも構わず、痛々しいほどに拳を握り締めた。
すると、
「ほう。目障りな敵は他に任せ、己は安全圏から好き放題とな」
突然、奇妙な出来事が発生した。
この危機的状況下には全くそぐわぬ柔らかい声が、辺りに響いたのだ。
「どこぞで見聞きしたような、もしくは自身がその渦中にいたような……とんと思い出せぬが、それでも一つだけ思うことがある」
その声色には、聞き覚えがあった。否、覚えがあるどころの話ではない。
ただ耳にするだけで、いつかの冬に彼が開いてくれた粋な茶会を思い出す。
「その兵法、些か雅さに欠けている。実に不愉快だ」
「……誰っ!?」
姿を見せぬ声の主に、アドニスは緊張の面持ちで問いかける。
それはアドニスが初めて見せた、真剣な表情であった。
焦りか怖れか……アドニスがどちらに襲われたかは知るよしもない。
ただ、声の主は「名を問うか。ならばこう答えるしかあるまい」と宣言すると、
「アサシンのサーヴァント、佐々木小次郎」
長い髪を高い位置でまとめた日本人が、突如アドニスの眼前に舞い降り……異様に長い〝お馴染みの得物〟を真横に振るった。
これには正体を知る立香すら面食らったが、すぐに〝彼は脇に建ついくつかのビルから飛び降りたのだ〟とすぐに理解した。
「堂々たる果たし合いを申し込む相手としては不足と見て、このようにさせてもらった。すまんな」
横一線に薙ぎ払われ、深手を負ったためだろう。アドニスの胸から凄まじい勢いで鮮血が吹き出る。
何か言おうと口を開くが、もはや余力は残っていなかったらしい。ぐるりと白目を剥いた彼は、あっさりと仰向けに倒れ伏した。
やがて金の粒子となってアドニスが綺麗さっぱり消え去ると、マスター役のホムンクルスに刻まれていた五画分の令呪も消滅する。
それでもなお一矢報わんとしたか、役目を失った彼はマチェットを抜こうとする。
「御免」
しかし刃が半分ほど姿を現したところで、持ち主の首は飛ばされた。
ホムンクルスだったものは、切断された箇所から間欠泉を思わせるほどに血を吹き出し、あっさりと地に伏す。
同時に、おもむろに歩を進めていたケツァル・コアトルも、突如として前のめりに倒れ込んだ。意識を失ったらしい。
宝具による洗脳が解かれた影響だろう。立香はそう判断した。
「演出ご苦労ぉ、侍大将。いい画だった……さすが、この俺に先んじて、暗殺者に当てはめられただけのことは……ある……」
「いやいや、褒められたものではないぞ。我ながら無粋な様を見せてしまい、申し訳が立たぬと思っている」
「……そうかい」
続いて、燕青の両脚から力が抜ける。
彼もまた、硬い地面に身を預けてしまった。
「無事……ではなかったようだな、主殿。遅れてしまい申し訳ない」
「……カルデアの、なのか?」
「おうさ。そなたが異界にて出会ったという〝かの剣聖殿〟を呼び寄せたとき、共に目を剥いたあの小次郎よ」
立香は通信を開き、ダ・ヴィンチに「どうなんだ」と訊ねる。
すると即座に『霊基情報が完全に一致している。驚いたが……正真正銘、我々と共に人理を修復した佐々木小次郎だよ』と答えられた。
念のため、もう一度「ノッブが〝いなくなった〟って言ってた小次郎なんだな?」と、強めの語気で問いかける。
今度はマシュが『そういう意味です』と断言した。
「この再会について詳しく話したいところだが、女神と侠客はお疲れのご様子……故に、ここから退散したのちに全てを語ろう」
「オッケー……そうしてくれると大助かりだ。そんじゃあ……運転は俺がするから……」
「承知した。二人は荷台に載せ、私が見張り役となろう」
思考が追いついていないせいで声こそ震えたものの、立香は粛々と街から立ち去る準備を始めた。
そして独特の青い羽織を纏う剣豪もまた、静かに追従するのであった。
「まさに驚愕の二文字、だな」
意識のない燕青とケツァル・コアトルの二名を回収して走り出した車をモニター越しに眺めながら、ダ・ヴィンチは呟く。
マシュも同意見らしく、こちらへと顔を向けると「ええ、ダ・ヴィンチちゃん。まさかの事態ばかりで、怖れすら感じています」と言った。
その後ろでは信長が「さすがに肝が冷えたわ……」と大きな溜息をつき、ジェロニモは「不可思議の極みだ……」と顎に手を当てている。
だがとにもかくにもアーチャー・アドニスが敗れ、立香達が命を拾ったのは事実。故にダ・ヴィンチはほっと胸を撫で下ろした。
「じゃがまぁ、なんだか知らんがとにかくよし! じゃな!」
「そればかりは同感だ、極東の魔王よ。ただ、今は剣豪本人が口を開くまで、余計な推理は避けておくべきだろう。
そしてダ・ヴィンチ、マシュ……君達も、ひとまず羽を休めたまえ。我々はあまりにも緊張感に襲われていた。全身が凝るぞ」
「いや、そうはいかない。目を離した隙に何かあっては遅いからね。ただ……先入観込みの推察が無益だというのは同意見だ、ジェロニモ」
「信長さんの前向きな考えもありがたいです。解らないことだらけではありますが、今はポジティブにいきましょう!」
張り詰めていた緊張の糸が切れ、いい意味でスタッフ全員が弛緩する。
じっとモニターを見つめていた信長とジェロニモの表情からも、陰りは消えている。
とにかくよし、と考えるのもあながち間違いではないかもしれない……ダ・ヴィンチはそう納得した。
「…………」
そんな中、一人だけ異質なオーラを纏う者がいた。
ロンディニウムの騎士、モードレッドその人である。
「……モードレッド?」
カルデアに存在する英霊の中でもテンションの高いグループに位置する彼女が、神妙な面持ちで黙りこくっていたのだ。
アーチャーに対し、思うところがあったのだろうか? ダ・ヴィンチは視線を向け、名を呼ぶ。
すると、
「おいダ・ヴィンチ、館内放送をしろ。今すぐにだ」
「何だい? 藪から棒に……」
「いいからさっさと父上を呼べ!」
この場にいる全員の鼓膜を破るつもりかと疑うほどの声量で、モードレッドは面妖なことを叫んだ。
彼女にとって地雷中のド地雷であるはずのアルトリア・ペンドラゴンをこの場に呼んでこいと、そう要求してきたのだ。
否、それだけに留まらなかった。彼女の要求は更に増える。
「それと、あのキザなライダー野郎の映像は残ってるな!? 消しちまったとは言わせねぇ! 再生の準備を始めろ!
空いている適当な機材で、なんていうみみっちい話も無しだ! デカいモニターでじっくり観察出来るようにしておけ!」
「待ちたまえ、モードレッド。一方的すぎる。理由を聞かねば要求には応えられない。一体何故だ?」
憮然とした表情を浮かべたダ・ヴィンチが、毅然とした態度で応じる。司令官代理として、当然の判断である。
それに対しモードレッドは「ったく! 言われなきゃ解んねぇのかよ!」と吐き捨てるように言うと、
「あのライダー野郎の剣筋にどこか見覚えがあった! 朧気にだがな! これでどうだ!? あぁ!?」
手札から、にわかには信じがたいカードを場に出してきた。
「緊急連絡だ。セイバー、アルトリア・ペンドラゴン。至急カルデア中央室に来るように!
繰り返す! セイバー、アルトリア・ペンドラゴン。至急カルデア中央室に来るように!
これはカルデア司令官代理としての権限を行使した上での放送である! 繰り返す、緊急連絡だ!」
「ダ・ヴィンチちゃん!?」
「さぁ、すぐに対ライダー戦の映像を用意するんだ! 焦ってデータ破損などさせるなよ!」
全てを悟ったダ・ヴィンチは、すぐさまモードレッドからの要求に応える。
中央室内部は、またもやただならぬ空気に包まれるのであった。
最終更新:2018年03月24日 00:09